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[一言]
◆霧崎の描写が面白かったです。というのも以前、去年の六月かその辺りだったと思うのですが、坂口安吾の短編小説集を読みまして、そのうちの一つ「姦淫に寄す」を思い出したからです。あの作品でも大学生が登場しますし、扱っている題材にも共通するものがあります。描写の方法にしても、これでもかと云うくらいに社会にそぐわない面のみを(幾分漫画チックに)描いており、その文章自体は全く笑っていませんから、読者の側が思い切り笑うことができるような仕組みになっている。本小説においてもそのような、読者に対するサービス精神的なものを随所に確認することができました。
◆本小説の第一分岐点とも云える今田教授との会話ですが、ここを読む前、読者である僕は、ある種の用心をしていました。はっきりこれだ、というものではないのですが、ドストエフスキーの話も本文で出てきますので、どの程度それに近いことをやっているのだろうか、という漠然とした用心です。サブタイトルにも「今田との議論1」と書かれています。ですので霧崎と今田がどういう会話をするのかということを気にしつつ読み進めました。その時のドキドキワクワク感は冒険小説みたいで楽しかった。
ですがいざ会話が進展してみると、僕はある種の安心感に駆られます。何故かと申すに、今田が霧崎の共犯者であるということが読み進めれば読み進むほど明確になるからです。立場の違う者同士のぶつかり合い、その噛み合わなさ、他者としての交通としての奇妙な異種性=調和性が見えなかったからです。調和はしています、確かに。ですが調和の調和たる「調和性」には至らなかった。ドストエフスキーの後期作品の登場人物は皆わりとバラバラですが、しかし調和を感ずる。その働きは和音に近いのかもしれませんが、本小説では一つの音階が響くのみで、他の音と調和するまでには至っていなかったのではないかと思います。あらゆる音を出すだけの装置は、この小説が小説である以上、所持することを許されており、ヤマダヒフミさんもそれは熟知しておられると信じているのですが、だからこそ用心と期待もあったのですが、ついに奏でられることはなかった。あるいはヘラクレイトス言うところの「逆向きに働く調和」を期待し、ついに垣間見られなかった安堵感であるかもしれません。
◆「思想の描写」がどういうものかはよくわかりませんが、読んでいて特に不自由なく読んでいくことができて気持ち良かったです。霧崎の見た悪夢を彼自身「非常に生々しいものとして感じた」という場面は、村上春樹のパロディ感が強くて楽しかったです。
◆霧崎の描写が面白かったです。というのも以前、去年の六月かその辺りだったと思うのですが、坂口安吾の短編小説集を読みまして、そのうちの一つ「姦淫に寄す」を思い出したからです。あの作品でも大学生が登場しますし、扱っている題材にも共通するものがあります。描写の方法にしても、これでもかと云うくらいに社会にそぐわない面のみを(幾分漫画チックに)描いており、その文章自体は全く笑っていませんから、読者の側が思い切り笑うことができるような仕組みになっている。本小説においてもそのような、読者に対するサービス精神的なものを随所に確認することができました。
◆本小説の第一分岐点とも云える今田教授との会話ですが、ここを読む前、読者である僕は、ある種の用心をしていました。はっきりこれだ、というものではないのですが、ドストエフスキーの話も本文で出てきますので、どの程度それに近いことをやっているのだろうか、という漠然とした用心です。サブタイトルにも「今田との議論1」と書かれています。ですので霧崎と今田がどういう会話をするのかということを気にしつつ読み進めました。その時のドキドキワクワク感は冒険小説みたいで楽しかった。
ですがいざ会話が進展してみると、僕はある種の安心感に駆られます。何故かと申すに、今田が霧崎の共犯者であるということが読み進めれば読み進むほど明確になるからです。立場の違う者同士のぶつかり合い、その噛み合わなさ、他者としての交通としての奇妙な異種性=調和性が見えなかったからです。調和はしています、確かに。ですが調和の調和たる「調和性」には至らなかった。ドストエフスキーの後期作品の登場人物は皆わりとバラバラですが、しかし調和を感ずる。その働きは和音に近いのかもしれませんが、本小説では一つの音階が響くのみで、他の音と調和するまでには至っていなかったのではないかと思います。あらゆる音を出すだけの装置は、この小説が小説である以上、所持することを許されており、ヤマダヒフミさんもそれは熟知しておられると信じているのですが、だからこそ用心と期待もあったのですが、ついに奏でられることはなかった。あるいはヘラクレイトス言うところの「逆向きに働く調和」を期待し、ついに垣間見られなかった安堵感であるかもしれません。
◆「思想の描写」がどういうものかはよくわかりませんが、読んでいて特に不自由なく読んでいくことができて気持ち良かったです。霧崎の見た悪夢を彼自身「非常に生々しいものとして感じた」という場面は、村上春樹のパロディ感が強くて楽しかったです。
[一言]
うーん。他の方の感想を読んで思ったんだけども――。
私はこの作品を表面的にしか読めなかったのは、単に、主人公が生理的にダメだったせいなのだけど、ただ、この作品においては、正しい読み方な気もするんです。
というのは、ヤマダ氏がこの作品に『危険思考』とタグを付けているのもそうだし、ヤマダ氏のこれまでのエッセイや作品を読んできた限りにおいて、この作品における作者の依代は『今田』であって、つまり、ヤマダ氏は読者が主人公に感情移入しないように、あえて構成しているように感じたから。
私がこの作品を読んでの第一印象は、主人公も含め、全ての若者が薄っぺらく描かれているというもの。
ただ、その中において、主人公は陰キャで非リアなだけで、思想や哲学に己を没入せざるえなかったんだろうな、と。 それは、下手くそな漫画や小説を書くようなもので、それが彼としての自己表現なのだろう、とは思った。
で、ほとんどの自己表現と言われるものは、コンプレックスが重要な役割をし、同時に承認欲求も含まれる。 表現するというのは、字の通り『表に現す』ものであって、外に向けられた感情であり、そして、内気な若者が、誰かに向かって表現するという事は、内側にある傷つきやすい部分を赤裸々にさらすという事。
なぜ、多くの作家が、批判を恐れるかというと、傷つくからです。 それが赤裸々な作品になるほど、とても深く傷つくリスクを負う。
そうした、自己表現が否定されるという事は、まさに、己自身を否定されるようなものであり、自己存在を否定されるようなものだ。
内気な人間が、内気なのは、己の内的世界を、とても大切にしているからであり、逆に、リア充といわれる人の場合、少なくとも、己の内面でない別のペルソナでもって、自己表現しているか、もしくは、己の内面をどうでもよく思っていうような、裏表のない態度ができる人であるか。
内気な人が自らを曝け出すというのは、大切な宝物を汚されたり壊されたりするリスクを負うという事。
そうした、内気な人の、内的世界は、その人自身の拠り所でもある。 自分を信じる為の拠り所、つまり内気な人が、自信が無いようにみえるのは、自信の拠り所を常に内側に秘めているから。
そうした、内気さ、繊細さ、というのは、ある意味において、その人自身の生きる力の弱さでもある。 たくましさがない。 図々しくない。 汚れや痛みを恐れる。 綺麗であろうとする。
ある意味、気位が高いように見えるし、ワガママにも見える。 が、余りにも繊細で弱いだけだったりする。
野生の繊細な生き物が、特定の環境の中でしか生きてゆけないように、そうした人々は、自分に合う空気や水の中でしか泳ぐことができない。
こうした人間性は、温室育ちというか、過保護な環境において形成されやすく、そうじゃない状況に置かれた場合、自分を見失い、又は自己否定に走り、生きることを辛く感じ、時に死を求める。
◆
でね、『女にモテないから死んでやる』ってのは、人を動物としてみた時、むしろ本質的だと思うわけ。
そうした、動物的な、つまり身体的な衝動と、自分が自分である為の観念としのて思想が、ごちゃまぜになる話も、別におかしなことでもなんでもなくて、割とよくある話だと思う。
ただね、自殺と他殺というのは、似ているようで全く違うと思う。何故かと言うと、他殺というのは生存の為に行われるからで、又は、自己肯定の為に行うか。
この作品の、ある意味憤死といえる承認欲求と羞恥の痛々しさは、世界に追い詰められたというより、自分で自分を追い込んだ姿でしかない。
それが、非常に滑稽であり、ドンキホーテのようでもある。
つまり、彼を殺したのは、薄情な動画視聴者でも、恩師である今田でも、フッた女でもなく、彼の思想、その世界観なんですよ。
タイトルにおける『ガラスの世界』というのは、おそらく彼自身の世界観もしくは世界における彼自身の有様であって、彼は、彼自身の世界と対峙して死ぬわけです。
一度しか読んでないのですが(正直、なんども読みたい話ではない)、たぶん、そうした話なのだろうと思った。
個人的には、今田を主人公とした話にしてほしかったですけど。
うーん。他の方の感想を読んで思ったんだけども――。
私はこの作品を表面的にしか読めなかったのは、単に、主人公が生理的にダメだったせいなのだけど、ただ、この作品においては、正しい読み方な気もするんです。
というのは、ヤマダ氏がこの作品に『危険思考』とタグを付けているのもそうだし、ヤマダ氏のこれまでのエッセイや作品を読んできた限りにおいて、この作品における作者の依代は『今田』であって、つまり、ヤマダ氏は読者が主人公に感情移入しないように、あえて構成しているように感じたから。
私がこの作品を読んでの第一印象は、主人公も含め、全ての若者が薄っぺらく描かれているというもの。
ただ、その中において、主人公は陰キャで非リアなだけで、思想や哲学に己を没入せざるえなかったんだろうな、と。 それは、下手くそな漫画や小説を書くようなもので、それが彼としての自己表現なのだろう、とは思った。
で、ほとんどの自己表現と言われるものは、コンプレックスが重要な役割をし、同時に承認欲求も含まれる。 表現するというのは、字の通り『表に現す』ものであって、外に向けられた感情であり、そして、内気な若者が、誰かに向かって表現するという事は、内側にある傷つきやすい部分を赤裸々にさらすという事。
なぜ、多くの作家が、批判を恐れるかというと、傷つくからです。 それが赤裸々な作品になるほど、とても深く傷つくリスクを負う。
そうした、自己表現が否定されるという事は、まさに、己自身を否定されるようなものであり、自己存在を否定されるようなものだ。
内気な人間が、内気なのは、己の内的世界を、とても大切にしているからであり、逆に、リア充といわれる人の場合、少なくとも、己の内面でない別のペルソナでもって、自己表現しているか、もしくは、己の内面をどうでもよく思っていうような、裏表のない態度ができる人であるか。
内気な人が自らを曝け出すというのは、大切な宝物を汚されたり壊されたりするリスクを負うという事。
そうした、内気な人の、内的世界は、その人自身の拠り所でもある。 自分を信じる為の拠り所、つまり内気な人が、自信が無いようにみえるのは、自信の拠り所を常に内側に秘めているから。
そうした、内気さ、繊細さ、というのは、ある意味において、その人自身の生きる力の弱さでもある。 たくましさがない。 図々しくない。 汚れや痛みを恐れる。 綺麗であろうとする。
ある意味、気位が高いように見えるし、ワガママにも見える。 が、余りにも繊細で弱いだけだったりする。
野生の繊細な生き物が、特定の環境の中でしか生きてゆけないように、そうした人々は、自分に合う空気や水の中でしか泳ぐことができない。
こうした人間性は、温室育ちというか、過保護な環境において形成されやすく、そうじゃない状況に置かれた場合、自分を見失い、又は自己否定に走り、生きることを辛く感じ、時に死を求める。
◆
でね、『女にモテないから死んでやる』ってのは、人を動物としてみた時、むしろ本質的だと思うわけ。
そうした、動物的な、つまり身体的な衝動と、自分が自分である為の観念としのて思想が、ごちゃまぜになる話も、別におかしなことでもなんでもなくて、割とよくある話だと思う。
ただね、自殺と他殺というのは、似ているようで全く違うと思う。何故かと言うと、他殺というのは生存の為に行われるからで、又は、自己肯定の為に行うか。
この作品の、ある意味憤死といえる承認欲求と羞恥の痛々しさは、世界に追い詰められたというより、自分で自分を追い込んだ姿でしかない。
それが、非常に滑稽であり、ドンキホーテのようでもある。
つまり、彼を殺したのは、薄情な動画視聴者でも、恩師である今田でも、フッた女でもなく、彼の思想、その世界観なんですよ。
タイトルにおける『ガラスの世界』というのは、おそらく彼自身の世界観もしくは世界における彼自身の有様であって、彼は、彼自身の世界と対峙して死ぬわけです。
一度しか読んでないのですが(正直、なんども読みたい話ではない)、たぶん、そうした話なのだろうと思った。
個人的には、今田を主人公とした話にしてほしかったですけど。
[気になる点]
結局、女にモテないから死んでやるって感想しか出てこないんですよね。
思想云々も後付けの理由みたいな感じがしてしまって、深く入り込むことができませんでした。
これが彼の現実との向き合い方だとしたら虚しいし、報われない。
私は死に対して動機づけするのが好きじゃないというか、自殺の動機づけ=他殺の動機づけになりうるので危ういと思いました。
結局、女にモテないから死んでやるって感想しか出てこないんですよね。
思想云々も後付けの理由みたいな感じがしてしまって、深く入り込むことができませんでした。
これが彼の現実との向き合い方だとしたら虚しいし、報われない。
私は死に対して動機づけするのが好きじゃないというか、自殺の動機づけ=他殺の動機づけになりうるので危ういと思いました。
[良い点]
小説家になろうにおいて、感想として、何を述べれば良いのか悩ませられる作品は初めてです。面白いと感じた部分部分や、全体を通した印象を述べるというのが、殆どの場合ですが、この作品でそうするのはあまり意味がない気がします。
或いは、この小説が小説ではなく、単に思想を叙するものであったなら、論の批判、修正、補強を行えば良かったとも思います。
ですがそうならないのは、この作品が小説だからで、思想によって肉付けがなされていながらも、決して思想そのものではないということ、かと言って生活や現実と言ったものでなく、はたまた単純な娯楽でも(単なる娯楽であれば、面白いかどうかの判断で良いと思います)ないからでしょう。
今の私には、この小説を評するのに適した言葉を持ち得ません。ですので、小説が娯楽性を少なからず保有していることに着目し、一言だけ述べさせていただこうと考えます。
[一言]
おもしろかった。
小説家になろうにおいて、感想として、何を述べれば良いのか悩ませられる作品は初めてです。面白いと感じた部分部分や、全体を通した印象を述べるというのが、殆どの場合ですが、この作品でそうするのはあまり意味がない気がします。
或いは、この小説が小説ではなく、単に思想を叙するものであったなら、論の批判、修正、補強を行えば良かったとも思います。
ですがそうならないのは、この作品が小説だからで、思想によって肉付けがなされていながらも、決して思想そのものではないということ、かと言って生活や現実と言ったものでなく、はたまた単純な娯楽でも(単なる娯楽であれば、面白いかどうかの判断で良いと思います)ないからでしょう。
今の私には、この小説を評するのに適した言葉を持ち得ません。ですので、小説が娯楽性を少なからず保有していることに着目し、一言だけ述べさせていただこうと考えます。
[一言]
おもしろかった。
[一言]
感想が書きにくい作品だと思う。
熟読はしてませんが、最後まで読みました。
◆
①今田との対話。
②両親が杓子定規的厳格さで育て後に放任主義になったという主人公の主張。 その対比として両親は両親なりに主人公を愛していたというナレーション。
③ラストにおける今田の主人公への評価。
ココらへんが、個人的に響きました。
主人公の思想とか行動には共感できないのですが、今田が言うように、その熱意は肯定したいものがあって、この作品に意味があるとしたら、若者の熱意が蔑まれ、貶められる所にあると思うし、そこにある『社会へ問い』は普遍的だと思った。 いわゆる若者の苦しみという意味で。
極端なキャラクターによって、若者の躁鬱、そのノイローゼの輪郭が、明確に浮き出ていた。
けど『現代という時代への問い』には疑問だった。 というのは、それは現代だけの問題ではないと思うから。
ただ、『主人公≒ドンキホーテ』とおそらくしている所に、現代という時代が反映されているとは思う。
しかしそれは、現代への疑問視というより、かつてあった思想的熱狂の無意味さを、むしろ印象づけていて、二重の意味で主人公を殺していたと思う。
◆
感覚的には、バルザックの『ゴリオ爺さん』に近い。
思想を受肉するというより、身体が思想(世間的価値観・哲学概念)に乗っ取られた姿がそこにあって、ただし今田においてはまさに思想的(理性的)存在だと思った。
感想が書きにくい作品だと思う。
熟読はしてませんが、最後まで読みました。
◆
①今田との対話。
②両親が杓子定規的厳格さで育て後に放任主義になったという主人公の主張。 その対比として両親は両親なりに主人公を愛していたというナレーション。
③ラストにおける今田の主人公への評価。
ココらへんが、個人的に響きました。
主人公の思想とか行動には共感できないのですが、今田が言うように、その熱意は肯定したいものがあって、この作品に意味があるとしたら、若者の熱意が蔑まれ、貶められる所にあると思うし、そこにある『社会へ問い』は普遍的だと思った。 いわゆる若者の苦しみという意味で。
極端なキャラクターによって、若者の躁鬱、そのノイローゼの輪郭が、明確に浮き出ていた。
けど『現代という時代への問い』には疑問だった。 というのは、それは現代だけの問題ではないと思うから。
ただ、『主人公≒ドンキホーテ』とおそらくしている所に、現代という時代が反映されているとは思う。
しかしそれは、現代への疑問視というより、かつてあった思想的熱狂の無意味さを、むしろ印象づけていて、二重の意味で主人公を殺していたと思う。
◆
感覚的には、バルザックの『ゴリオ爺さん』に近い。
思想を受肉するというより、身体が思想(世間的価値観・哲学概念)に乗っ取られた姿がそこにあって、ただし今田においてはまさに思想的(理性的)存在だと思った。
[一言]
迫力がある、勢いがある、体温がある。 雰囲気があると思いました。
迫力がある、勢いがある、体温がある。 雰囲気があると思いました。
どうもです。一週間くらいで全部アップし終わると思います。
- ヤマダヒフミ
- 2017年 03月28日 07時46分
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