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この事については前から興味があったので、面白く読ませて頂きました。
私は小林秀雄がベルグソン論を中断したのは、形而上学に踏み込まない為、極論すればオカルトに、ならない為だと思います。
小林はきっぱりと当麻でイデアを批判していますからね。
[一言]
これからも頑張って下さい。
この事については前から興味があったので、面白く読ませて頂きました。
私は小林秀雄がベルグソン論を中断したのは、形而上学に踏み込まない為、極論すればオカルトに、ならない為だと思います。
小林はきっぱりと当麻でイデアを批判していますからね。
[一言]
これからも頑張って下さい。
- 投稿者: 退会済み
- 30歳~39歳
- 2018年 01月07日 09時38分
管理
[一言]
>小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める
→これが全てじゃないかなぁとか、個人的には思っています。
◆
なんだろう……、思想と哲学は違う。思想は、個々の体験的価値観であり、哲学はそうした思想を体系的に秩序だって意味付けするもの。
思想は、個のリアリティ(実感)であり、哲学は、そうしたリアリティから、理性(客観)によって一般化した現実構造(リアリズム)。
ただ、私は、理性そのものを余り信頼してないんですよね……。
というのは、究極的な理性があるとすれば、おそらく、身体的衝動(つまり感情)に左右されない、かぎりなく客観された、秩序的視点だと思うのだけど、そうした感情を廃した時に、なにかを意味付けすることに意味があるのか?という所に突き当たるからです。
もちろん、これは理性の定義によるとも思うんですけど、例えば、理性が身体衝動の下位に在るものとしたならば、理性に多様性があり、そして、そこにおける究極の理性として、『悟り』的な無我の極地があるといえますけど。
その無我にしても、それは一般化できるものじゃなくて、己の感情、又は存在衝動を鎮める作業において、果てしなく落ち着いた心境であって、いわば欲望を消し去った視点という我がそこにある。
つまり身体性の下位に理性を置いた時、どこまでいったも身体性(つまり己という概念)がつきまとうわけで、そうした理性から導き出される哲学というものと、いわゆる思想というものの違いは、紙一重でしかないと思うんです。
つまり、身体性(感情)というものが、個々の背景に担保されてる限り、それを一般化するのは不可能で、結局の所、『一般的人間という虚構のモデル(つまり個々の背景をもたない人間)』を作った上で、普遍性を語るという、ペテンのようなことをするしかない。
◆
逆に、個という立場を明確にすることで、その立場から見た世界を語ることで、ある価値の位置づけを測ろうとする『文学(≒物語≒小説)』という存在は、中心のない相対性の中に存在する、身体性の価値という意味では、相対的な普遍性を、その裏側に常に帯びていると思うんですね。
私は、この相対的普遍性こそが、人々を感動させる大きな一つだと思うし、これが、文学が哲学を超えて存在すると思える理由にもなっています。
>小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める
→これが全てじゃないかなぁとか、個人的には思っています。
◆
なんだろう……、思想と哲学は違う。思想は、個々の体験的価値観であり、哲学はそうした思想を体系的に秩序だって意味付けするもの。
思想は、個のリアリティ(実感)であり、哲学は、そうしたリアリティから、理性(客観)によって一般化した現実構造(リアリズム)。
ただ、私は、理性そのものを余り信頼してないんですよね……。
というのは、究極的な理性があるとすれば、おそらく、身体的衝動(つまり感情)に左右されない、かぎりなく客観された、秩序的視点だと思うのだけど、そうした感情を廃した時に、なにかを意味付けすることに意味があるのか?という所に突き当たるからです。
もちろん、これは理性の定義によるとも思うんですけど、例えば、理性が身体衝動の下位に在るものとしたならば、理性に多様性があり、そして、そこにおける究極の理性として、『悟り』的な無我の極地があるといえますけど。
その無我にしても、それは一般化できるものじゃなくて、己の感情、又は存在衝動を鎮める作業において、果てしなく落ち着いた心境であって、いわば欲望を消し去った視点という我がそこにある。
つまり身体性の下位に理性を置いた時、どこまでいったも身体性(つまり己という概念)がつきまとうわけで、そうした理性から導き出される哲学というものと、いわゆる思想というものの違いは、紙一重でしかないと思うんです。
つまり、身体性(感情)というものが、個々の背景に担保されてる限り、それを一般化するのは不可能で、結局の所、『一般的人間という虚構のモデル(つまり個々の背景をもたない人間)』を作った上で、普遍性を語るという、ペテンのようなことをするしかない。
◆
逆に、個という立場を明確にすることで、その立場から見た世界を語ることで、ある価値の位置づけを測ろうとする『文学(≒物語≒小説)』という存在は、中心のない相対性の中に存在する、身体性の価値という意味では、相対的な普遍性を、その裏側に常に帯びていると思うんですね。
私は、この相対的普遍性こそが、人々を感動させる大きな一つだと思うし、これが、文学が哲学を超えて存在すると思える理由にもなっています。
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