感想一覧
▽感想を書く[良い点]
やはりヤマダヒフミさんの論は面白い。
理解しきれないところばかりだけれど、たまに読み返すと感じるところがあります。
私は先日、とある美大の学祭に行きましたが、このような展示を観ました。
名画というのは、たとえ複製物にせよ数回、数十回と見ることになる。たとえばダビンチのモナリザのような。
しかし、何十回と見ているうちに脳が勝手に見たと思っていて、実は別のものを脳に映し出しているのではないか?
そこで記憶だけで名画を再現してみる。デッサンとして。
それから画集などから名画のコピーをとり、重ねてみる。
すると脳が見たと思っている像と、実際との差異が現れる。
まあ、ちょっと違っているかもしれないけれどそういうような内容でした。
ヤマダヒフミさんがその展示をご覧になれれば私よりももっと面白い視点を持ち、論にまで書くことが出来たことでしょう。
エッセイはずっと掲載していてください。
たまに読み直したいので。
それでは。
やはりヤマダヒフミさんの論は面白い。
理解しきれないところばかりだけれど、たまに読み返すと感じるところがあります。
私は先日、とある美大の学祭に行きましたが、このような展示を観ました。
名画というのは、たとえ複製物にせよ数回、数十回と見ることになる。たとえばダビンチのモナリザのような。
しかし、何十回と見ているうちに脳が勝手に見たと思っていて、実は別のものを脳に映し出しているのではないか?
そこで記憶だけで名画を再現してみる。デッサンとして。
それから画集などから名画のコピーをとり、重ねてみる。
すると脳が見たと思っている像と、実際との差異が現れる。
まあ、ちょっと違っているかもしれないけれどそういうような内容でした。
ヤマダヒフミさんがその展示をご覧になれれば私よりももっと面白い視点を持ち、論にまで書くことが出来たことでしょう。
エッセイはずっと掲載していてください。
たまに読み直したいので。
それでは。
- 投稿者: 真樹 真也 (MAKI)
- 2019年 09月08日 21時24分
どうもです。
何を書いたのかおぼろげにしか覚えてなかったので、エッセイを読み返してみたら案外面白かったですね笑。でもまだ色々突っ込みきれていない気もしますけど。
何を書いたのかおぼろげにしか覚えてなかったので、エッセイを読み返してみたら案外面白かったですね笑。でもまだ色々突っ込みきれていない気もしますけど。
- ヤマダヒフミ
- 2019年 09月09日 14時55分
[良い点]
このエッセイを読んで、マグリットの絵が頭に浮かびました。
「構成されている現実をより深く認識し、それを形に表すのが芸術家の仕事」というのが、マグリットの絵のイメージとぴったりで、今まで漠然と好きだなと眺めていたものと言葉とが、ばしっと結びついた気がします。
それが嬉しくて、思わず感想を書きました。
短くて読み易い、興味深いお話でした。
このエッセイを読んで、マグリットの絵が頭に浮かびました。
「構成されている現実をより深く認識し、それを形に表すのが芸術家の仕事」というのが、マグリットの絵のイメージとぴったりで、今まで漠然と好きだなと眺めていたものと言葉とが、ばしっと結びついた気がします。
それが嬉しくて、思わず感想を書きました。
短くて読み易い、興味深いお話でした。
[一言]
世界認識と世界解釈、美意識の問題、なんだと思うのだけど、『芸術家は、現実をより深く認識している』というのは、当人にとっての美の追求という意味ではそうだとは思う。
ただそれが、普遍的かどうかは別だと思う。
たとえば、奇形的な精神性によって、美が象られている場合、観客は、その作家が見ている現実を、作品を通して、やっと理解できる。 この場合、深さというより、レイヤーそのものが違うことになります。
◆
なんだろう・・・、わたしはたまに「文芸における価値というものは、なんとも難しいなぁー」と思う事があります。
例えば、『泣かせるのストーリー』っていうのは、凄く簡単なんですね。
例えば、小さな子どもを主人公として、母親が死ぬシーンを、舌足らずなセリフで描写すれば、あっという間にできあがりです。 もちろん、この逆もあります。
可愛いものが死ぬ、大切なものが死ぬ、喪失の景色を描写する。泣かせようと思えば、簡単です。こんなの、誰でも書けます。
で、こうした感動というものは、別に作者が凄いわけじゃなくて、読者の習性を利用しているにすぎない。いわゆる『感動ポルノ』でしかない。 いわゆる感動を、性処理のように扱った消費物でしかない。
私は、いわゆる分かりやすい感動すべてを否定しませんが、それはある世界観やストーリーに付随した場合であって、このように、感動することを前提に組み立てられた、いわゆる『先付けの感動ストーリー』を嫌悪しますし、そうした『あざとさ』を『嘘泣きでごまかす女』程度には蔑視する。
私は、作品における感動というのは、むしろ、作者にしか理解できない感覚、もしくは作者の個人的な事柄を、普遍的なものとして昇華された時、もしくはある美(体験)として表現する所に、意義があると思っています。
それは、観客が無価値(もしくは、忘れていた事柄)だと思っていたある事柄に、意味をもたせる事でもあるし、観客の現実を、ある意味拡張する事だと思う。
こうした意味において、芸術家のもつ現実認識の価値というものは、あると思うし、そうした文脈で、このエッセイを解釈しました。
世界認識と世界解釈、美意識の問題、なんだと思うのだけど、『芸術家は、現実をより深く認識している』というのは、当人にとっての美の追求という意味ではそうだとは思う。
ただそれが、普遍的かどうかは別だと思う。
たとえば、奇形的な精神性によって、美が象られている場合、観客は、その作家が見ている現実を、作品を通して、やっと理解できる。 この場合、深さというより、レイヤーそのものが違うことになります。
◆
なんだろう・・・、わたしはたまに「文芸における価値というものは、なんとも難しいなぁー」と思う事があります。
例えば、『泣かせるのストーリー』っていうのは、凄く簡単なんですね。
例えば、小さな子どもを主人公として、母親が死ぬシーンを、舌足らずなセリフで描写すれば、あっという間にできあがりです。 もちろん、この逆もあります。
可愛いものが死ぬ、大切なものが死ぬ、喪失の景色を描写する。泣かせようと思えば、簡単です。こんなの、誰でも書けます。
で、こうした感動というものは、別に作者が凄いわけじゃなくて、読者の習性を利用しているにすぎない。いわゆる『感動ポルノ』でしかない。 いわゆる感動を、性処理のように扱った消費物でしかない。
私は、いわゆる分かりやすい感動すべてを否定しませんが、それはある世界観やストーリーに付随した場合であって、このように、感動することを前提に組み立てられた、いわゆる『先付けの感動ストーリー』を嫌悪しますし、そうした『あざとさ』を『嘘泣きでごまかす女』程度には蔑視する。
私は、作品における感動というのは、むしろ、作者にしか理解できない感覚、もしくは作者の個人的な事柄を、普遍的なものとして昇華された時、もしくはある美(体験)として表現する所に、意義があると思っています。
それは、観客が無価値(もしくは、忘れていた事柄)だと思っていたある事柄に、意味をもたせる事でもあるし、観客の現実を、ある意味拡張する事だと思う。
こうした意味において、芸術家のもつ現実認識の価値というものは、あると思うし、そうした文脈で、このエッセイを解釈しました。
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