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[一言]
なんとなく、ベルグソンの持続という観念が「私」という存在を完全に外部化すること、したがって「私」がなくなること、響きあう音。伊藤先生の「ハーモニー」みたいな感じなのかなと思いました。

そうすると、そうではない肉体の中に残された「私」を作者様は探そうとしているという、そんな作品なのかな。もうずいぶん昔にうっすらとしか聞いてないけど、メルロポンティの肉体みたいな。そんな連想をしつつ。

二元論なのか一元論なのかを思いはせつつ。

でも、それって言葉で語るうちには変質してしまう可能性があるのかもなどと考えつつ……。

まだモヤっとした感覚でしかないので、言語化できていませんが、そういう思考の足がかりにできました。

思考というよりは詩想かな。詩が湧いてくるんですが、これをわたしはデコードしたい。あえて劣化させたい。そんなことを思いました。
[一言]
>自分の外側の価値基準によってしか他人を計れない主観の脆弱さを感じるにとどまった

>現代では「私」というのは、外化され

>おそらく、現代における問題とは外化された「私」、「私」の集積としての社会幻想からもう一度、自分を作り上げる事にあるのだろう。


 カルトなどが特にそうだけれども、ただ、下手に思想をもっていると、その思想に囚われるというのは、よくある。
 煩悩の塊みたいな刹那的な人間の方が、その低俗さにおいて、むしろ、生きる事の本質を捉えている事が多い。
 それはおそらく、無力感、無能感からくる、どうしようもない不自由さや不条理性において、現実をより切実に感じているからかもしれない。

 ある意味、
理想や正義こそが現実を曇らせる。
 が、人々の現実を曇らせる事で、社会システムが潤滑に回わっている現実もある。

 だから、本音と建て前は両輪として必要で、社会の為の建前と、自身の為の本音という、2つの態度が必要なのだろう。


 それは、秩序(社会としての建前)と自由(個人としての本音)の関係があって、ただし、その自由は、秩序があって機能するのであって、そして秩序は、現実を土台としなければ正しく構築されない。

 これは理想や正義もそうで、現実を土台としない、理想や正義は、不幸を生み出す悪そのものとなる。

 あるべき自分という個を見つけるには、世界という現実を、直『観』する必要があると思う。
 そこにおいて、個の歴史という積み重ねられた時間の構造が、認識の視座になるのだと思う。

 個の内省を描く、文学の重要性の一つは、その視座の提示だと思う。つまり、世界とは何か、という認識への橋頭保として。 そしてそれは自己認識に繋がってもいる。

 とか、色々考えたりしました。
 



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