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クロスオーバー様
なるほど。ありがとうございます。ここまで注釈に注釈をつむいでもらってようやく少し理解したかもしれんなーという感じです。
クロスオーバー様
なるほど。ありがとうございます。ここまで注釈に注釈をつむいでもらってようやく少し理解したかもしれんなーという感じです。
[一言]
ベル子氏の意見、
『自分というフィルターをかましている以上は、絶対に完全無色透明な物語なんて書けないんじゃないのかな』
と、いうのは、その通りだと思います。
ただ、自分というフィルターを意識しているかどうかによって、その作品の『主観性』に対する自意識が違ってきて、これが結果的に、読者にとっての『客観性』になってゆくのだと思います。
これが重要で、ヤマダ氏のエッセイでも語られています。
『悪も善も飲み込んでというのは、つまりは『現実』を書きたいのが作者だよねという解釈。』については、
たとえば、『ご都合主義』と言われる物語がありますが、よくよく考えると、あらゆる物語は、作者のコントロール下で作られている訳で、つまり、あらゆる物語は、ご都合で出来ているハズなんです。
では、「何をもってご都合かそうじゃないか?」と言うと、「ストーリーの流れに必然性があるか」という所にあると思います。
たとえば、無数の選択肢がそこにあったとしても、主人公の性格や、周囲の状況から、「必然としてそうせざるえない」もしくは「自然としてそうなるであろう」と、なっていたなら、それは『ご都合主義』ではなく『運命的選択』もしくは『宿命的行動』になるハズです。
で、これは、周囲の、つまり、世界の、状況(運命)によって追い込まれたキャラクターの行動が収束された結果とも言えるのだけども、同時に、そのキャラクター自身の性能(宿命)によって、行動の選択が狭められている、でもあります。
たとえば、そのキャラクターが、人間ではなく、鳥ならば、空を飛ぶ選択があったかもしれない、虫やヤモリならば、壁を登れたかもしれない。
でも、そのキャラクターは、人間であったから、その選択をするしかなかった。
これは、そこまで大げさに取らなくとも、ある気質ゆえに、柔軟にその選択を取ることができなかった、という事は普通にあるし、又は、宗教上の理由で、とか、社会通念上の、とか、道徳的な、など、ある人間に対する縛りというものは、幾つもある。
つまり、ご都合主義でない物語において、世界の運命、もしくは、個としての宿命、としての、流れというのは、そうした両方の縛りによって、作られる。
重要なのは、
『現実』を、こうした『運命』と『宿命』によって意識する事で、『現実の意味(層)』が、浮かびあがるという事。
例えば、世界状況という運命のレイヤーがあり、個人の性質や気質などといった宿命のレイヤーがあり、もちろん、この2つのレイヤーの中でも綱引きがあって、もっとややこしいのだけども、それらを解きほぐす事が可能になる。つまり、より人間や社会というものを、露わにすることができる。
すると、複雑にみえた、その人間性が、ある一つの出来事を起点として、ゆがみが生じていただけだったり、又は、ある混沌した世界状況が、ある一つの出来事を起点とした象徴でしかなかったり、人や世の中の『弱さ』や『強さ』というものが、なんであるのかを提示することが可能になる。
高度な作家性をもつ場合、そうして物事を俯瞰し提示する。
が、そうした作家性を持ちえない場合、ストーリーというのは、極めて視野狭窄な範囲になり、むしろ、その狭さによって、作家自身の願望を紡いでゆく。
ようするに、その物語において、世界観というものは、極めて狭い範囲となり、作者の妄想によって継ぎはぎされたものになる。
もちろん、これも「思い込み」という一つの現実なんですが、当然、現実の解明までは辿りえず、ある現実に飲まれた状況でしかありません。
もちろん、読者もそうした酩酊感を楽しみますが、それは物語を読んでいる間だけで、読み終えた後は、さっと忘れて、読者自身の現実に戻る。
ヤマダ氏の思う、いわゆるカタルシスは、おそらく、読者の現実そのものに影響を与える存在としての、作品、なのだと思います。
ベル子氏の意見、
『自分というフィルターをかましている以上は、絶対に完全無色透明な物語なんて書けないんじゃないのかな』
と、いうのは、その通りだと思います。
ただ、自分というフィルターを意識しているかどうかによって、その作品の『主観性』に対する自意識が違ってきて、これが結果的に、読者にとっての『客観性』になってゆくのだと思います。
これが重要で、ヤマダ氏のエッセイでも語られています。
『悪も善も飲み込んでというのは、つまりは『現実』を書きたいのが作者だよねという解釈。』については、
たとえば、『ご都合主義』と言われる物語がありますが、よくよく考えると、あらゆる物語は、作者のコントロール下で作られている訳で、つまり、あらゆる物語は、ご都合で出来ているハズなんです。
では、「何をもってご都合かそうじゃないか?」と言うと、「ストーリーの流れに必然性があるか」という所にあると思います。
たとえば、無数の選択肢がそこにあったとしても、主人公の性格や、周囲の状況から、「必然としてそうせざるえない」もしくは「自然としてそうなるであろう」と、なっていたなら、それは『ご都合主義』ではなく『運命的選択』もしくは『宿命的行動』になるハズです。
で、これは、周囲の、つまり、世界の、状況(運命)によって追い込まれたキャラクターの行動が収束された結果とも言えるのだけども、同時に、そのキャラクター自身の性能(宿命)によって、行動の選択が狭められている、でもあります。
たとえば、そのキャラクターが、人間ではなく、鳥ならば、空を飛ぶ選択があったかもしれない、虫やヤモリならば、壁を登れたかもしれない。
でも、そのキャラクターは、人間であったから、その選択をするしかなかった。
これは、そこまで大げさに取らなくとも、ある気質ゆえに、柔軟にその選択を取ることができなかった、という事は普通にあるし、又は、宗教上の理由で、とか、社会通念上の、とか、道徳的な、など、ある人間に対する縛りというものは、幾つもある。
つまり、ご都合主義でない物語において、世界の運命、もしくは、個としての宿命、としての、流れというのは、そうした両方の縛りによって、作られる。
重要なのは、
『現実』を、こうした『運命』と『宿命』によって意識する事で、『現実の意味(層)』が、浮かびあがるという事。
例えば、世界状況という運命のレイヤーがあり、個人の性質や気質などといった宿命のレイヤーがあり、もちろん、この2つのレイヤーの中でも綱引きがあって、もっとややこしいのだけども、それらを解きほぐす事が可能になる。つまり、より人間や社会というものを、露わにすることができる。
すると、複雑にみえた、その人間性が、ある一つの出来事を起点として、ゆがみが生じていただけだったり、又は、ある混沌した世界状況が、ある一つの出来事を起点とした象徴でしかなかったり、人や世の中の『弱さ』や『強さ』というものが、なんであるのかを提示することが可能になる。
高度な作家性をもつ場合、そうして物事を俯瞰し提示する。
が、そうした作家性を持ちえない場合、ストーリーというのは、極めて視野狭窄な範囲になり、むしろ、その狭さによって、作家自身の願望を紡いでゆく。
ようするに、その物語において、世界観というものは、極めて狭い範囲となり、作者の妄想によって継ぎはぎされたものになる。
もちろん、これも「思い込み」という一つの現実なんですが、当然、現実の解明までは辿りえず、ある現実に飲まれた状況でしかありません。
もちろん、読者もそうした酩酊感を楽しみますが、それは物語を読んでいる間だけで、読み終えた後は、さっと忘れて、読者自身の現実に戻る。
ヤマダ氏の思う、いわゆるカタルシスは、おそらく、読者の現実そのものに影響を与える存在としての、作品、なのだと思います。
[一言]
でも、自分というフィルターをかましている以上は、絶対に完全無色透明な物語なんて書けないんじゃないのかなと思ったりもする。
悪も善も飲み込んでというのは、つまりは『現実』を書きたいのが作者だよねという解釈。
このサイトで語られているよくある物語の例として、突然異世界に転生したらモンスターに襲われている美少女がいて、助けたら惚れられてしまった。
的な話がありますけど、そういったお話もシェイクスピアの物語も、現実界に到達していないという点では変わりは無いと思います。
神のような知性をもって、ビッグバンというか、『現実』を再構築できるという傲慢力は、たぶんシェイクスピアのほうが強いのかなー。
単に中二病度の差にしか思えん(不謹慎)。
正直書いてる意味がところどころわかんなくてぐぐって、なんとなく自分なりの考えを定着させたところです。はい。
でも、自分というフィルターをかましている以上は、絶対に完全無色透明な物語なんて書けないんじゃないのかなと思ったりもする。
悪も善も飲み込んでというのは、つまりは『現実』を書きたいのが作者だよねという解釈。
このサイトで語られているよくある物語の例として、突然異世界に転生したらモンスターに襲われている美少女がいて、助けたら惚れられてしまった。
的な話がありますけど、そういったお話もシェイクスピアの物語も、現実界に到達していないという点では変わりは無いと思います。
神のような知性をもって、ビッグバンというか、『現実』を再構築できるという傲慢力は、たぶんシェイクスピアのほうが強いのかなー。
単に中二病度の差にしか思えん(不謹慎)。
正直書いてる意味がところどころわかんなくてぐぐって、なんとなく自分なりの考えを定着させたところです。はい。
[一言]
>何故ならば、ドストエフスキーの物語性、作品の構成は、生そのもの、あるいは現実そのものに対する認識から発生しているのに対し、村上春樹はドストエフスキーを形式的にのみ見ているからだ
>シェイクスピアにおいては、事実の連鎖は運命の現れだった。
>文学の本質について考える時、自分はもう一度、古代ギリシャやシェイクスピアに還る必要性を感じる。
ここら辺が、特に、ガツンときます。
◆
完全な創作論だと思いました。その語られた『核』が完全だと思いました。
>何故ならば、ドストエフスキーの物語性、作品の構成は、生そのもの、あるいは現実そのものに対する認識から発生しているのに対し、村上春樹はドストエフスキーを形式的にのみ見ているからだ
>シェイクスピアにおいては、事実の連鎖は運命の現れだった。
>文学の本質について考える時、自分はもう一度、古代ギリシャやシェイクスピアに還る必要性を感じる。
ここら辺が、特に、ガツンときます。
◆
完全な創作論だと思いました。その語られた『核』が完全だと思いました。
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