感想一覧
▽感想を書く[一言]
主体には斜線が引かれている。
よって、我々が「私」と捉えているものは主体そのものではなく、主体に代理表象物に過ぎない。
つまり記号であらわすと
S(に斜線)→S2
レベルの話なので、
この話に出てきている大衆小説家も大作家もS2レベルという意味ではいっしょなんだと思います。
(わたしは「わたし」を表現できない)
確かに、大作家のほうが主体に近づこうという軌跡はあるんでしょうが、
コレはいわば、鼻の右側が詰まっているので、左側に傾けたら、一瞬両方の鼻に空気が通りスッキリしたに過ぎない。アートとはこの一瞬のことなんだという意味ではわかるような気がするけれども、
ただ、文章をつむいでいく中で、偶然というか無意識に主体に近づくようなS2連鎖もありえそう。
そんなことはないのかな?と自問自答があるんですが、
いわゆる大衆小説は、S2の連鎖によってむしろ話を展開するので、
S2→S3→S100くらいになってるんじゃないかとか、思ったりはします。
なろう小説と呼ばれている作品でも『ステータスオープン!』とか『婚約破棄します!』とか、それ自体がまさにネタの縮小再生産の構図ですし、つまりはS2が拡散し、エコーのように響きあってるイメージ。
このネタに走っていると、どんどん拡散して、S1からははずれていくと思うんですけど、
ただ、物を書くときに、ネタだけでなくて、たまに古典を参照にするときもあって、例えば、それはわりと最近の20年くらい前の作品でも古典と呼ばれていたりして、そういった参照した作品は、S1に遡行するような作品もありうるのではないかと思います。そういった古典作品へぶら下がることによって、S100くらいの作品もS1に偶然接近遭遇することはありえそう。
つまり、わたしはシェイクスピアもドストエフスキーも、そこらにあふれているなろう小説も、この『私』へ接近するという芸術性のレベルでは同一であると思う。
S1には絶対なれないのだから、接近遭遇という意味では、S2レベルで同一のアート性は可能性としてはありえるんじゃないかな。
作家性としては、もちろん、がんばってS2になろうとしているほうが、高いのかもしれませんが。
努力、つまり作者の知性でもってS1に接近するかどうかというのはツールの問題に過ぎず、それは作者の無意識によって偶然達成されるのではないかと思います。
なんだか我ながらぼんやりとした文章だな・・・と思いつつ、ま、いっかと投げてみる。
主体には斜線が引かれている。
よって、我々が「私」と捉えているものは主体そのものではなく、主体に代理表象物に過ぎない。
つまり記号であらわすと
S(に斜線)→S2
レベルの話なので、
この話に出てきている大衆小説家も大作家もS2レベルという意味ではいっしょなんだと思います。
(わたしは「わたし」を表現できない)
確かに、大作家のほうが主体に近づこうという軌跡はあるんでしょうが、
コレはいわば、鼻の右側が詰まっているので、左側に傾けたら、一瞬両方の鼻に空気が通りスッキリしたに過ぎない。アートとはこの一瞬のことなんだという意味ではわかるような気がするけれども、
ただ、文章をつむいでいく中で、偶然というか無意識に主体に近づくようなS2連鎖もありえそう。
そんなことはないのかな?と自問自答があるんですが、
いわゆる大衆小説は、S2の連鎖によってむしろ話を展開するので、
S2→S3→S100くらいになってるんじゃないかとか、思ったりはします。
なろう小説と呼ばれている作品でも『ステータスオープン!』とか『婚約破棄します!』とか、それ自体がまさにネタの縮小再生産の構図ですし、つまりはS2が拡散し、エコーのように響きあってるイメージ。
このネタに走っていると、どんどん拡散して、S1からははずれていくと思うんですけど、
ただ、物を書くときに、ネタだけでなくて、たまに古典を参照にするときもあって、例えば、それはわりと最近の20年くらい前の作品でも古典と呼ばれていたりして、そういった参照した作品は、S1に遡行するような作品もありうるのではないかと思います。そういった古典作品へぶら下がることによって、S100くらいの作品もS1に偶然接近遭遇することはありえそう。
つまり、わたしはシェイクスピアもドストエフスキーも、そこらにあふれているなろう小説も、この『私』へ接近するという芸術性のレベルでは同一であると思う。
S1には絶対なれないのだから、接近遭遇という意味では、S2レベルで同一のアート性は可能性としてはありえるんじゃないかな。
作家性としては、もちろん、がんばってS2になろうとしているほうが、高いのかもしれませんが。
努力、つまり作者の知性でもってS1に接近するかどうかというのはツールの問題に過ぎず、それは作者の無意識によって偶然達成されるのではないかと思います。
なんだか我ながらぼんやりとした文章だな・・・と思いつつ、ま、いっかと投げてみる。
[一言]
>これは雑感レベルの話だが、芸術に深入りしない人、つまり「大衆」は絶えず物語を必要としている。物語性がある作品が受けるのは何故なのか。伊藤計劃流に言えば、我々そのものが物語だからという事になる。だが、普通の人は、そんな小難しい事は考えない。
⇒うーん、物語におけるストーリーは、世界観の流れを意味する。つまり、秩序(因果)を意味している。
人々は、社会に『あるべき秩序(因果)』を求める故に、いわゆる『大衆的』物語を求めるのだと思います。
故に、必然的な流れではなく、ご都合主義になる。その主役は、自意識をもっているように見えても、流された視点でしかない。
ヤマダ氏の作品は文学であり、大衆小説、つまり大衆的が求める願望ではない。 大衆が立つ現実を、露わに提示するステージにヤマダ氏はいると思う。
だから、それらを比べるのは意味がないと思う。
大衆小説は、時代に消費されるが、そうした文学は時代の現実を捉えるからです。
バルザックは、ゴリオ爺さんにて、現実の醜さを提示した上で、その醜さを飲んで決意する青年の姿を示した。 バルザックが発見した『一つの肯定』があったと思う。
ドストエフスキーも、カラマーゾフにおいて、現実の醜さを提示したが、現実の美しさも提示した。それは人生の肯定でもあったと思う。
この2つはどちらも通俗的社会を描きながら、同時に、啓蒙にあふれ、そして、リアリズムを捉え、超えようとした高い精神性があったと思う。
◆
いわゆる私と言うフィクションとは何か?
思うには、そもそも、世界をありのままに捉えることは、人間の身体おいて不可能な為、人は、その実感(リアリティ)を『解釈』する事によって、推し量るしかない。
それは『完全な正しさ』に至らないが、その人が感じる範囲においては、真実になる。
もちろん、この『主観≒真実』は、他人にとってはフィクションでしかない。 しかしながら、解釈する、ある秩序で再構成する、つまり、ある美を提示する、事によって、他人は、その相対として、ある現実認識を得る。ある美を知る。
これは変化する自我についてもそうです。
身体性によって、それが保たれているに過ぎない。
だから、記憶喪失や、又は、脳機能に障害が起きれば、別の人格になりえる。
でも、それは、どうしようもないことであり、故に、『不完全な存在としての私』として語るしかない。
しかし、不完全な私を語ることによって、私という自意識に触れる。相対として、私と言う他人を知る。
ヤマダ氏がいいたい事を考えた時、思うのは、その不完全さを自覚している人のみが、自身と、人々が、見逃している現実を捉える事ができる、という事なのだろう、と、思いました。
とはいえ、その求道的姿勢は、誰もが出来る事ではない、と思います。
◆
現代芸術の問題は、解体した後に、ある再構成を発見できなかった事にあると思います。
個人的な感覚だと、異化効果に溺れたとしか思えない。啓蒙主義からくる、理性を信じすぎた余り、自家中毒に陥ったのだと思う。
なんだろう、考えないというか、直観しないといけないのに、言葉の、その概念に絡まれるというか。
天真爛漫に走る子供のような、世界への実感、生きているだけでうれしいと感じられる感覚、みたいな、そのままの気持ち、そのままの美が、そもそも、美の抽象性、の、根っこのはずなのに。抽象性そのものに美を求める愚かしさ。
そうした新鮮さは、考えるほどに、失う。
そもそも、ゴッホの絵のすばらしさは、彼の主観であって、ピカソのキュビズムのすばらしさは、ある認識をテーマに、直観的に平面展開した所にあり・・・
つまり、現実認識を解体し、あるべき再構築を行ったからで、新進家きどりで粋がったエセ芸術家の、異化すれば芸術だなんていうのは、ペテンでしかないと思う。 ただ解体するなら、無意味でしかないからです。
もちろん、無意味さの提示として、それを行うなら、それは素晴らしい説得力をもつとは思いますが、でもそれは、美、ではない。美を放棄しただけの話だと思います。
>これは雑感レベルの話だが、芸術に深入りしない人、つまり「大衆」は絶えず物語を必要としている。物語性がある作品が受けるのは何故なのか。伊藤計劃流に言えば、我々そのものが物語だからという事になる。だが、普通の人は、そんな小難しい事は考えない。
⇒うーん、物語におけるストーリーは、世界観の流れを意味する。つまり、秩序(因果)を意味している。
人々は、社会に『あるべき秩序(因果)』を求める故に、いわゆる『大衆的』物語を求めるのだと思います。
故に、必然的な流れではなく、ご都合主義になる。その主役は、自意識をもっているように見えても、流された視点でしかない。
ヤマダ氏の作品は文学であり、大衆小説、つまり大衆的が求める願望ではない。 大衆が立つ現実を、露わに提示するステージにヤマダ氏はいると思う。
だから、それらを比べるのは意味がないと思う。
大衆小説は、時代に消費されるが、そうした文学は時代の現実を捉えるからです。
バルザックは、ゴリオ爺さんにて、現実の醜さを提示した上で、その醜さを飲んで決意する青年の姿を示した。 バルザックが発見した『一つの肯定』があったと思う。
ドストエフスキーも、カラマーゾフにおいて、現実の醜さを提示したが、現実の美しさも提示した。それは人生の肯定でもあったと思う。
この2つはどちらも通俗的社会を描きながら、同時に、啓蒙にあふれ、そして、リアリズムを捉え、超えようとした高い精神性があったと思う。
◆
いわゆる私と言うフィクションとは何か?
思うには、そもそも、世界をありのままに捉えることは、人間の身体おいて不可能な為、人は、その実感(リアリティ)を『解釈』する事によって、推し量るしかない。
それは『完全な正しさ』に至らないが、その人が感じる範囲においては、真実になる。
もちろん、この『主観≒真実』は、他人にとってはフィクションでしかない。 しかしながら、解釈する、ある秩序で再構成する、つまり、ある美を提示する、事によって、他人は、その相対として、ある現実認識を得る。ある美を知る。
これは変化する自我についてもそうです。
身体性によって、それが保たれているに過ぎない。
だから、記憶喪失や、又は、脳機能に障害が起きれば、別の人格になりえる。
でも、それは、どうしようもないことであり、故に、『不完全な存在としての私』として語るしかない。
しかし、不完全な私を語ることによって、私という自意識に触れる。相対として、私と言う他人を知る。
ヤマダ氏がいいたい事を考えた時、思うのは、その不完全さを自覚している人のみが、自身と、人々が、見逃している現実を捉える事ができる、という事なのだろう、と、思いました。
とはいえ、その求道的姿勢は、誰もが出来る事ではない、と思います。
◆
現代芸術の問題は、解体した後に、ある再構成を発見できなかった事にあると思います。
個人的な感覚だと、異化効果に溺れたとしか思えない。啓蒙主義からくる、理性を信じすぎた余り、自家中毒に陥ったのだと思う。
なんだろう、考えないというか、直観しないといけないのに、言葉の、その概念に絡まれるというか。
天真爛漫に走る子供のような、世界への実感、生きているだけでうれしいと感じられる感覚、みたいな、そのままの気持ち、そのままの美が、そもそも、美の抽象性、の、根っこのはずなのに。抽象性そのものに美を求める愚かしさ。
そうした新鮮さは、考えるほどに、失う。
そもそも、ゴッホの絵のすばらしさは、彼の主観であって、ピカソのキュビズムのすばらしさは、ある認識をテーマに、直観的に平面展開した所にあり・・・
つまり、現実認識を解体し、あるべき再構築を行ったからで、新進家きどりで粋がったエセ芸術家の、異化すれば芸術だなんていうのは、ペテンでしかないと思う。 ただ解体するなら、無意味でしかないからです。
もちろん、無意味さの提示として、それを行うなら、それは素晴らしい説得力をもつとは思いますが、でもそれは、美、ではない。美を放棄しただけの話だと思います。
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