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[一言]
三島由紀夫のエッセイから。
なんというか、個人的な琴線に響いたのもありますが、このエッセイにぴったしだなぁと思ったので。


私はやっと詩の実体がわかって来たような気がしていた。
少年時代にあれほど私をうきうきさせ、
そのあとではあれほど私を苦しめてきた詩は、
実はニセモノの詩で、抒情の悪酔だったこともわかって来た。
私はかくて、認識こそ詩実体だと考えるにいたった。
それと共に、何となく自分が甘えてきた感覚的才能にも愛想を尽かし、
感覚からは絶対的に訣別しようと決心した。

そうだ、そのためには、もっともっと鷗外を読もう。
鷗外のあの規矩の正しい文体で、冷たい理知で、
抑えて抑えて抑えぬいた情熱で、自分をきたえてみよう。

…『ユリシーズ』と『失われし時』は、
近代人の神経と感覚のみがよく享受し得
よく耐えうる内面生活の物語化であると同時に、
古代人やルネサンス人が敢えてしなかったところの
「自我への媚態」をどこかにひそめている。
自我は自我自身への媚態を必要とするまでに孤独に疲れてきたのであろうか。
そうは思えない。
私はそういう媚態が、
近代性そのものの一つの疾患だと思われるようになった。
近代性というものは一種の偏執狂的情熱で、
森羅万象から近代性を採集する。
こんなに自己自身に渇いた時代精神は他にはない、
近代性はいわば熟達史で、
あらゆる家具調度に「近代」という封印を貼っておかねば気がすまない。
つまり近代は近代の中にしか住めないのだ。
その結果、先入観と新しい観念との区別がつかなくなり、
果てしもない堂々めぐりがはじまるのである。
いわば近代とはナルシスの時代である。
所謂近代的神経と近代的感覚との己惚れを助長にすぎない詩作は、
この堂々めぐりの中に身を投ずることだった。
[一言]
私は経験によって人生を認識するのが大事というよりも、結局は手の仕事、考えて書くことが大事だと思っています。どうにかして常識から離れて、見ているものを頭の中で分解して、今まで見えていなかった意味を見つけ出すことが重要なのかな、と。つまり、新しい視点を得ることです。それによって読者の考えにも影響を与えてくれる(感動させる)のが文学なんだと思います。
  • 投稿者: 白穂舞
  • 18歳~22歳 男性
  • 2017年 11月10日 02時08分
[一言]
 刺激的なタイトルだからなー。
 でも、最初に『チャールズ・ブコウスキー』と答えが書いてある。

◆このエッセイに対する個人的な解釈

 「人生について思考することは誰でもできる」
 むしろ誰もがその当事者だから、むしろ思考せざる得ない。

 「人生について認識することが文学者の役割である」
 これ、芸術家にするともっと分かりやすい。そしてやはり、ゴッホ先生に頼るのが一番明確。
 ゴッホってのは、誰もが見ている景色、その世界を、ゴッホとしての観点で描いた。ゴッホとしての美として描いた。
 つまり、ある美、、ある認識を提示した。


 生まれつき大衆性をもつ作家の多くは、大衆の目線と変わらぬ現実認識を、自明(当然の事)として持つ。
 又それが、流行の匂いを嗅ぐ敏感なアンテナとなり、極めて需要(話題性)の高い作品を提示することができる。

 そうした読者の認識と変わらない作家の世界認識というのは、極めて無自覚に自明のモノとして広がっている。
 故に、その面白さにおいて、作家は悩むこともないし、己がもつ世界認識を、説明する為の表現の工夫、をする必要もない。
 その面白さというのは、仲間内で共有する空気みたいな、そこにあって当然のモノとしてある。
 嫌らしい言い方をすれば、いわゆるネタ、又は、ファッションとしての、物語。
 友達同士で、おもしろい話で盛り上がる感じの延長と考えてもいいかもしれない。


 で、これは文学か?
 あらゆる表現や主張を文学とするなら、文学だろう。

 でも例えば、
ただ友達同士でおしゃべりする時、文学としてしゃべるか?といえば、「んな事はかんがえない」と多くが答えるだろう。
 そこに『しゃべる事そのもの』への認識はない訳です。

 つまり……、文学を、言語によって表現する芸術とした時、これは、文学ではない。

 何故なら芸術とは、ある美の提示であり、そこにおいて、それを美醜として認識する意識が必要だからです。
 自意識。
 美意識。
 世界観。
 大衆作家が、無意識に語るソレには、その意識がない、もしくは希薄です。世界を改めて観る必要がないからです。読者と共有する世界の上で成り立っているからです。
 世界を改めて確認する必要もないし、すでに存在している認識の上に、あるべき美とあるべき醜において、出来事を紡げばいい。

 そこにおいてヤマダ氏は、これは文学ではない、と言いたかったのだと思う。

 うん、そうだと思う。
 でももちろん、それは誰しもが出来る事じゃないですし、だからこそ、文学を行う者が必要なんだろうとも思います。 同時に、大衆作品は大衆作品として、別にあるものだとは思う。
 ここら辺は、創作する者として、はっきりと線引きしたかったんだろう、と、感じました。
[一言]
ちょっと何をいってるのかわからないです。「人生」に対する「認識」が、人生に対する「思考」よりも、小説にとって文学的であるっていうことですか?

学問的な基準からすれば、認識=悟性よりも思考=理性のほうが、抽象度は上だと思うんですけど。

埴谷雄高的なものより中上健二的なもののほうが評価できるって
いうなら、賛成できるなあ。
今は、その辺の書き物は、小説よりもエスノグラフィとかのほうがよっぽど文学的だとおもうんですよねぇ。
[一言]
まあ傾向としてはライトノベルは単一的な読み方しかされないけれども、文学はシンボリックな読み方なのかなと思ったりもする。

ライトノベルだとツンデレだと、こういうキャラクターでというのが、オタク的なコンテクストの中で一瞬で溶解されるけども、文学ではそうはいかないからなー。

論理的に語っていた主人公が一瞬、象徴的な行為をしてみせて、この行為はいったいなんなのだろうと考える。それが文学なのだろうけれども、これって、風船が手から離れたときのような寂しさと心もとなさを感じる。こういう感覚って誰かに伝えてもあまり理解されるものではないけれど、たぶん文学とそうじゃない小説の違いって、これじゃないかな。

感覚主義的、つまり詩じゃんって言われそうですけどね……。
[一言]
こんばんは。

文学か否か、というと、ディランのスピーチ文を思い出します。
文学って……何なのでしょうね。
書く側としては、「文学」という言葉にこだわらない方が良いのかな……。

ちなみに私は、実態を離れたところから見ているという視点で好きなのが、アントン・チェーホフの戯曲『かもめ』です。人間っておもしろいなーと思えるんですよね。
そして彼の描く喜劇(悲劇)は、どうにかして解決するものでもなく、どうしたって付きまとってくるもので……というところも魅力。岸田國士の『紙風船』とかもそうかな……。
[一言]
正直、ここで書かれている内容は理解したくないです。
何故ならそういうのをきちんと受け止めると現在「純文学」のジャンルで自分が公開しているものが全く文学なんかじゃないことを認めることになるからです。

アーアーキコエナーイって耳をふさぐことに決めました。
くわばらくわばら。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2017年 11月07日 20時40分
管理
[良い点]
ブコウスキーかなり好きだから
なんかうれしい( 〃▽〃)


[一言]
田山花袋の蒲団
文学として通ってるが
ギャグですあれは…
ちょい笑える
例えば
チャップリン映画はコメディやけどかなり文学的
たまに泣けるし

視点を移動さすと変わるんかなあ…?!



  • 投稿者: 退会済み
  • 2017年 11月07日 18時58分
管理
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