感想一覧

[良い点]
幼女作家「大丈夫。オレが守ってやるよ」
[一言]
ある種の毒物だけど、二階堂奥歯の「八本脚の蝶」に通ずる感覚を現代社会に適用すると、こういう表現になるのかなと思いました。
すごく興味深いが、抽象化されていない分、『逆に』毒が薄い。

二階堂奥歯の抽出した毒は、ある意味、マジでヤバイので、ある種のコントとして聞き流してください。

以下引用はじめ
↓↓↓↓↓↓

児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた9歳頃、私は「少女」というものに出会った。
「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。
それはすぐにわかった。
それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。
「少女」は素敵なものだ。それは純粋で綺麗で観念的だ。

でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。
それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。
そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。

私は女の子だ。
私は「少女」ではない。
私は「少女」が素敵だと思う。

私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。

引用終了。

で、次のページでは、わたしは『女』になったと続きますね。
↓↓↓↓↓
その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。
女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。
出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後でなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学にでてくるのも。

私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。

そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。
能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。

私は「女」ではないのをはっきり知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている。
(なにしろ女だから。)
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。

自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰はひとつしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。

引用終了。


なんというか、ペルソナを被らないといけない苦しみなのだと思います。それは『わたし』ではないという苦しみというか。

もう少し抽象化すれば、もっと毒素が濃くなって、エッセイとしてはよくなるかもしれないけれど……、売れるとは魔逆なのかもしれません。
詳しくありがとうございます。
恥ずかしながら二階堂奥歯さんの著書は読んだことがなかったので
大変勉強になりました。
エッセイは初めて書いたのですが、これからも書いていきたいなと思っています。
「毒」は私も好きな要素なので、「毒」の入った、誰かに響くような作品を書けるよう尽力します。
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