感想一覧
▽感想を書く[良い点]
「古典的人間の悩みは道徳的問題であるが、
それに対し近代的人間の悩みは形而上学的問題だ。」
(アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』)
カントは理性や認識の限界を
信仰や形而上学だと規定した。
現象界などというオカルトを創り出し
人間理性に『奇跡』を起こす力を
与えようとしたのである。
そして物自体の世界を根拠とする
理想的な道徳なる幻視を説いた。
実践理性批判はオカルト本である。
カラマーゾフでも言及のあったように
人は神ではなく奇跡を求める。
奇跡だと思えばどんな屑の力にでも縋るのだ。
「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。
よく言い聞かせておくが、
しるしは今の時代には決して与えられない」
(新約聖書・マルコによる福音書8章11-13)
[気になる点]
キルケゴールは群衆という無内容な抽象物を軽蔑した。
しかしカントはその群衆を、
個体的人間に対する人類の優位という概念を
捏造するという形で賛美したのだ。
「思惟せよ、さすれば汝は全人類である!」
民主主義のようなカルトも
こうした原理で肯定されている。
(キルケゴールによれば
キリスト教はカントのような
思弁的な神の教説を許してしまう構造になっている。)
キルケゴール曰く
キリスト教の優れた点は
個体的人間の罪の規定を本質とするところにあると説く。
(罪の救済の規定を、ではなく)
そしてドストエフスキーの文学において罪は
神の死んだ世界を背景に、絶望的なまでに
自己を自己自身たらしめるものになっている。
ゲーテの言うように宗教は
(神ではなく)人間の作り出したものであり
人間の要求と理解力に合わせて作り上げられた
ものだったが、それが近代化と
合理的思考によって解体されてしまったのが
近代以降の人間の悩みの元である。
ラスコーリニコフは
まさに近代以降の人間の病を
その過激な行為や言動によって
極端な形で体現する存在だ。
彼が象徴する問題は
ある特定の地域や階級の問題ではなく
無神論の問題、
「無神論を現在実現しようという問題であり
また地上から天に達するためではなくて
天を地に引き下ろすために
神の力を借りずに建設しようとする
バベルの塔の問題である」。
[一言]
わたくし、まさにここで挙げられているような
信仰や神性や大衆の問題を題材に
小説を書こうとしてるんです!
それも『異世界もの』の皮を被って!
書いてる途中でこれ人に理解してもらえるのかな~
などと不安になるのですが
ヤマダヒフミ様のような詳しい人が
『なろう』にいると分かっただけでも
何かホッとする気分になります。
ウエルベックはフランスに
イスラム政権ができるやつだけ
読んだことがあります。
調べてみたら他にも面白そうな著作があるので
これを機に読んでみようかなと思います。
長文でかつ敬語でなくて失礼しました。
「古典的人間の悩みは道徳的問題であるが、
それに対し近代的人間の悩みは形而上学的問題だ。」
(アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』)
カントは理性や認識の限界を
信仰や形而上学だと規定した。
現象界などというオカルトを創り出し
人間理性に『奇跡』を起こす力を
与えようとしたのである。
そして物自体の世界を根拠とする
理想的な道徳なる幻視を説いた。
実践理性批判はオカルト本である。
カラマーゾフでも言及のあったように
人は神ではなく奇跡を求める。
奇跡だと思えばどんな屑の力にでも縋るのだ。
「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。
よく言い聞かせておくが、
しるしは今の時代には決して与えられない」
(新約聖書・マルコによる福音書8章11-13)
[気になる点]
キルケゴールは群衆という無内容な抽象物を軽蔑した。
しかしカントはその群衆を、
個体的人間に対する人類の優位という概念を
捏造するという形で賛美したのだ。
「思惟せよ、さすれば汝は全人類である!」
民主主義のようなカルトも
こうした原理で肯定されている。
(キルケゴールによれば
キリスト教はカントのような
思弁的な神の教説を許してしまう構造になっている。)
キルケゴール曰く
キリスト教の優れた点は
個体的人間の罪の規定を本質とするところにあると説く。
(罪の救済の規定を、ではなく)
そしてドストエフスキーの文学において罪は
神の死んだ世界を背景に、絶望的なまでに
自己を自己自身たらしめるものになっている。
ゲーテの言うように宗教は
(神ではなく)人間の作り出したものであり
人間の要求と理解力に合わせて作り上げられた
ものだったが、それが近代化と
合理的思考によって解体されてしまったのが
近代以降の人間の悩みの元である。
ラスコーリニコフは
まさに近代以降の人間の病を
その過激な行為や言動によって
極端な形で体現する存在だ。
彼が象徴する問題は
ある特定の地域や階級の問題ではなく
無神論の問題、
「無神論を現在実現しようという問題であり
また地上から天に達するためではなくて
天を地に引き下ろすために
神の力を借りずに建設しようとする
バベルの塔の問題である」。
[一言]
わたくし、まさにここで挙げられているような
信仰や神性や大衆の問題を題材に
小説を書こうとしてるんです!
それも『異世界もの』の皮を被って!
書いてる途中でこれ人に理解してもらえるのかな~
などと不安になるのですが
ヤマダヒフミ様のような詳しい人が
『なろう』にいると分かっただけでも
何かホッとする気分になります。
ウエルベックはフランスに
イスラム政権ができるやつだけ
読んだことがあります。
調べてみたら他にも面白そうな著作があるので
これを機に読んでみようかなと思います。
長文でかつ敬語でなくて失礼しました。
[一言]
……自己中心主義者であるからこそ、自己の存在の根源を自らの手で突き詰める必要が生じ、結果的に自己を超えた存在を意識せざるを得ないのではないか…… と、自己中心主義者である私も常々感じています。
そして、もしも「自己を超えた存在」が「神」であるとするなら、それは神の国を司る神ばかりではなく、自己を超えたところにあって自己を形成したもの、例えば、生まれ育った大地や自然、民族の言葉や記憶、父祖たちが連綿として大切に伝え続けてきたもの、父祖から受け継いだ大切なもの……なども「神に匹敵する存在」なのではないか……と思っています。
これは、ヤマダヒフミ様の《一億年》という詩の中に流れている、『 二上山を眺めた巫女の目になって 僕は今日を生きる 「今日」は千三百年前と繋がっている 』 という感覚に似ているように感じられました。
1300年前に詠まれて万葉集に収録された挽歌 『うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む』 を、その関連する歌や解説と共に読み終えたとき、私の心に深く埋もれていた「何か」に、柔らかく温かい「何か」が触れ、思わずハッとして感情とは別の不思議な涙が頬を伝いました。私たちの祖先が1300年前に残した言葉が、時空を超えて私と直結したような ――時空が消滅して、1300年前の巫女の脳と私の脳がダイレクトに繋がったような―― 感覚。
そのときの私は、おそらく「神に匹敵する存在」と一体となっていたのでしょう。もしかすると、現代に生きる私たちの言葉も1300年後(あるいは1億年後)の誰かと、時空を超えて直結することがあるかもしれません。
《カラマーゾフの兄弟》のエピローグで、アリョーシャが12人の少年たちに、
『――――たとえ僕達がどんな大切な用事で忙しくても、どんなに名誉を手に入れたとしても、あるいはどれほど大きな不幸におちこんだとしても、やはり決して忘れないようにしましょう。僕達にはかってこの地で一度心を通わせ、美しい善良な感情に結ばれてすばらしい時があったことを…… 何かすばらしい思い出、それもとりわけ、まだ子供時代に親の家で作られたすばらしい思い出以上に、これからの人生にとって、尊く、力強く、健康で、有益なものは何一つないのです…… 子供時代から大切に保たれた何かそのような美しい神聖な思い出こそ、おそらく最良の教育なのです。一生の間にそういう自分の思い出をたくさん集めることが出来るなら、その人は生涯救われるでしょう――――』
と語りかける場面は、ロシア人たるドストエフスキーが心から愛したロシアの民衆の、「善性の根源」を浮き彫りにするにとどまらず、全人類に共通する「善性の根源」を劇的に表しており、《カラマーゾフの兄弟》を読み解く上で最も重要だと考える読者も多いと聞きます。
ユダヤ民族だけの民族神を、全人類が崇めるべき神へと転換したイエスとその12人の使徒のように、アリョーシャたちはこの「善性の根源」をロシアのみならず世界に広めて人類を救済しようとしていたのではないか…… と思うこともあります。
ドストエフスキーは、言葉には神と人を結ぶ力があると信じ、生涯を賭けた作品群でそれを証明しようとしたのかもしれません。彼の言葉は時空を超え、これからもより多くの人々と繋がるに違いありません。
――あの時代のロシアのような状況でも、文学によってまともに前進しようとする、ドストエフスキーのような人物がいた――
その事実は、文学において何かをしようとする人間にとって、とても意味深いことだと、私も思います。
とりとめもない手前勝手な感想になってしまいました。失礼をお許しください。
このエッセイを読ませていただき、様々なことを考えさせていただきました。ありがとうございました。
……自己中心主義者であるからこそ、自己の存在の根源を自らの手で突き詰める必要が生じ、結果的に自己を超えた存在を意識せざるを得ないのではないか…… と、自己中心主義者である私も常々感じています。
そして、もしも「自己を超えた存在」が「神」であるとするなら、それは神の国を司る神ばかりではなく、自己を超えたところにあって自己を形成したもの、例えば、生まれ育った大地や自然、民族の言葉や記憶、父祖たちが連綿として大切に伝え続けてきたもの、父祖から受け継いだ大切なもの……なども「神に匹敵する存在」なのではないか……と思っています。
これは、ヤマダヒフミ様の《一億年》という詩の中に流れている、『 二上山を眺めた巫女の目になって 僕は今日を生きる 「今日」は千三百年前と繋がっている 』 という感覚に似ているように感じられました。
1300年前に詠まれて万葉集に収録された挽歌 『うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む』 を、その関連する歌や解説と共に読み終えたとき、私の心に深く埋もれていた「何か」に、柔らかく温かい「何か」が触れ、思わずハッとして感情とは別の不思議な涙が頬を伝いました。私たちの祖先が1300年前に残した言葉が、時空を超えて私と直結したような ――時空が消滅して、1300年前の巫女の脳と私の脳がダイレクトに繋がったような―― 感覚。
そのときの私は、おそらく「神に匹敵する存在」と一体となっていたのでしょう。もしかすると、現代に生きる私たちの言葉も1300年後(あるいは1億年後)の誰かと、時空を超えて直結することがあるかもしれません。
《カラマーゾフの兄弟》のエピローグで、アリョーシャが12人の少年たちに、
『――――たとえ僕達がどんな大切な用事で忙しくても、どんなに名誉を手に入れたとしても、あるいはどれほど大きな不幸におちこんだとしても、やはり決して忘れないようにしましょう。僕達にはかってこの地で一度心を通わせ、美しい善良な感情に結ばれてすばらしい時があったことを…… 何かすばらしい思い出、それもとりわけ、まだ子供時代に親の家で作られたすばらしい思い出以上に、これからの人生にとって、尊く、力強く、健康で、有益なものは何一つないのです…… 子供時代から大切に保たれた何かそのような美しい神聖な思い出こそ、おそらく最良の教育なのです。一生の間にそういう自分の思い出をたくさん集めることが出来るなら、その人は生涯救われるでしょう――――』
と語りかける場面は、ロシア人たるドストエフスキーが心から愛したロシアの民衆の、「善性の根源」を浮き彫りにするにとどまらず、全人類に共通する「善性の根源」を劇的に表しており、《カラマーゾフの兄弟》を読み解く上で最も重要だと考える読者も多いと聞きます。
ユダヤ民族だけの民族神を、全人類が崇めるべき神へと転換したイエスとその12人の使徒のように、アリョーシャたちはこの「善性の根源」をロシアのみならず世界に広めて人類を救済しようとしていたのではないか…… と思うこともあります。
ドストエフスキーは、言葉には神と人を結ぶ力があると信じ、生涯を賭けた作品群でそれを証明しようとしたのかもしれません。彼の言葉は時空を超え、これからもより多くの人々と繋がるに違いありません。
――あの時代のロシアのような状況でも、文学によってまともに前進しようとする、ドストエフスキーのような人物がいた――
その事実は、文学において何かをしようとする人間にとって、とても意味深いことだと、私も思います。
とりとめもない手前勝手な感想になってしまいました。失礼をお許しください。
このエッセイを読ませていただき、様々なことを考えさせていただきました。ありがとうございました。
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