感想一覧
▽感想を書く[良い点]
小林秀雄、そんなに難解ですか?
『美を求める心』はお読みになりましたか?
[気になる点]
「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。」
(小林秀雄 『美を求める心』より)
小林秀雄の言葉に価値があるのは、彼がお喋りをやめる術を心得ているから、目や耳を働かせる人間だからです。
[一言]
小説の形式を取っていてもゴミな作品はあるし、評論の形式でも立派なものとそうでないものがある。難解なものにも、難解にならざるを得ないものと虚勢のために難解にしているものとがある。
「(凡庸な著者に限って)はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして懸命である。
(……)彼がもっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないことであろう。」
(ショウペンハウエル 『読書について』より)
ジャンルが何であれ、そもそも文章には二種類しかありません。
「天才というのは、神や自然の前でも恥しくない行為、まさにそれでこそ影響力をもち永続性のある行為を生む生産力に他ならないのだ。」
「大切なことは、ただその思想、その着想、その行為に、生命があるか、後々まで生命を持ちつづけられるかどうかだ。」
(ゲーテ、
エッカーマン『ゲーテとの対話』1828年3月11日火曜日より)
長文失礼いたしました。
小林秀雄、そんなに難解ですか?
『美を求める心』はお読みになりましたか?
[気になる点]
「言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。」
(小林秀雄 『美を求める心』より)
小林秀雄の言葉に価値があるのは、彼がお喋りをやめる術を心得ているから、目や耳を働かせる人間だからです。
[一言]
小説の形式を取っていてもゴミな作品はあるし、評論の形式でも立派なものとそうでないものがある。難解なものにも、難解にならざるを得ないものと虚勢のために難解にしているものとがある。
「(凡庸な著者に限って)はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして懸命である。
(……)彼がもっとも心すべきは、自分に備わっている以上の精神を示そうとして、見えすいた努力をしないことであろう。」
(ショウペンハウエル 『読書について』より)
ジャンルが何であれ、そもそも文章には二種類しかありません。
「天才というのは、神や自然の前でも恥しくない行為、まさにそれでこそ影響力をもち永続性のある行為を生む生産力に他ならないのだ。」
「大切なことは、ただその思想、その着想、その行為に、生命があるか、後々まで生命を持ちつづけられるかどうかだ。」
(ゲーテ、
エッカーマン『ゲーテとの対話』1828年3月11日火曜日より)
長文失礼いたしました。
感想ありがとうございます。
拙作を読んでいただいている方がいることを知り、大変励みになりました。
拙作を読んでいただいている方がいることを知り、大変励みになりました。
- カキヒト・シラズ
- 2019年 11月02日 06時17分
[一言]
小林秀雄はダメな人だと私は思ってます。そして、プロアマ問わず、世の大概の評論家は……。
『批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である』(アシルと亀の子 小林秀雄)
つまり、虚栄心、利己心がたっぷりなんです。
パスカルが著作:パンセで『批判を書いている当人も、批判がが的確だと褒められたいがため(中略)誉れがほしいのである。そして、これを書いている私ですら、おそらくはそうした願望を持っているだろう』
こういう自己の肥大意識、虚栄心が有ることを恐縮しながら書いているなら、頷けますし、楽しめることもあるでしょう。
しかし、虚栄心全開で悪びれもしない。己の醜さに後ろめたさを感じない評論なんて、価値を見いだせません。
それにしても、こうやって『私はアイツラとは違う』と言ってる私もまた、救いようがなく醜い……。
小林秀雄はダメな人だと私は思ってます。そして、プロアマ問わず、世の大概の評論家は……。
『批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である』(アシルと亀の子 小林秀雄)
つまり、虚栄心、利己心がたっぷりなんです。
パスカルが著作:パンセで『批判を書いている当人も、批判がが的確だと褒められたいがため(中略)誉れがほしいのである。そして、これを書いている私ですら、おそらくはそうした願望を持っているだろう』
こういう自己の肥大意識、虚栄心が有ることを恐縮しながら書いているなら、頷けますし、楽しめることもあるでしょう。
しかし、虚栄心全開で悪びれもしない。己の醜さに後ろめたさを感じない評論なんて、価値を見いだせません。
それにしても、こうやって『私はアイツラとは違う』と言ってる私もまた、救いようがなく醜い……。
感想ありがとうございます。
「批判が的確だと褒められたい」という気持ちを少しでも持って批判を書いている人がみんな堕落しているとしたら......
私もご多分に漏れず堕落しているでしょう。
小林秀雄やパスカルが越えられなかった壁を、私ごときが越えられるはずもありませんが。
「批判が的確だと褒められたい」という気持ちを少しでも持って批判を書いている人がみんな堕落しているとしたら......
私もご多分に漏れず堕落しているでしょう。
小林秀雄やパスカルが越えられなかった壁を、私ごときが越えられるはずもありませんが。
- カキヒト・シラズ
- 2018年 05月21日 15時44分
[一言]
これは「どこまでを評論・評論家と呼ぶか?」を確定させないと論じることができないように思います。「評論は作品か?」も含めたもっと大きな枠組みで。
自分の考え方の根底に「読者は全員評論家」というのがあります。
作品を読めば、誰かしらなにかしら感じる。
その感情を豊富な語彙で言い表して金もらってるのがプロの評論家、「面白かったです」しか言えない貧弱な語彙だから金もらえないのが素人読者。
前者はプロの読者で、後者はアマチュアの評論家、と言い換えることができてしまえるんですよね。
言葉や職業としては別枠扱いですけど、実情は評論家か否かに明確な垣根なんか存在しない、と。
ついでに言うと、プロかアマかも金銭面で垣根ありますけど、スキル面では存在しないんですよね。だからプロレベルのアマチュアもいれば、素人レベルのプロもいてしまう。
加えて「評論は作品か?」に関わる話ですが。
「評論は分かりやすく」というのは間違いないし、自分も思いますが、あくまで理想論止まりなんです。
要するに読者を意識した文章を、ということですから、作家の心得であって、評論と作品、作家と評論家を切り分けて考えると、矛盾するんですよね。
で。作家がみんな読者を意識して作品書いてるかっていうと、ぶっちゃけ否で。
小難しい文芸文学と一般大衆向け娯楽小説は、作家も読書層も違って住み分けてるのに、評論だけは一般大衆向け文章で統一って、そりゃ無理だと考えてしまうのです。
うーん、なんだかまとまりのない感想になってしまった……
これは「どこまでを評論・評論家と呼ぶか?」を確定させないと論じることができないように思います。「評論は作品か?」も含めたもっと大きな枠組みで。
自分の考え方の根底に「読者は全員評論家」というのがあります。
作品を読めば、誰かしらなにかしら感じる。
その感情を豊富な語彙で言い表して金もらってるのがプロの評論家、「面白かったです」しか言えない貧弱な語彙だから金もらえないのが素人読者。
前者はプロの読者で、後者はアマチュアの評論家、と言い換えることができてしまえるんですよね。
言葉や職業としては別枠扱いですけど、実情は評論家か否かに明確な垣根なんか存在しない、と。
ついでに言うと、プロかアマかも金銭面で垣根ありますけど、スキル面では存在しないんですよね。だからプロレベルのアマチュアもいれば、素人レベルのプロもいてしまう。
加えて「評論は作品か?」に関わる話ですが。
「評論は分かりやすく」というのは間違いないし、自分も思いますが、あくまで理想論止まりなんです。
要するに読者を意識した文章を、ということですから、作家の心得であって、評論と作品、作家と評論家を切り分けて考えると、矛盾するんですよね。
で。作家がみんな読者を意識して作品書いてるかっていうと、ぶっちゃけ否で。
小難しい文芸文学と一般大衆向け娯楽小説は、作家も読書層も違って住み分けてるのに、評論だけは一般大衆向け文章で統一って、そりゃ無理だと考えてしまうのです。
うーん、なんだかまとまりのない感想になってしまった……
感想ありがとうございます。
- カキヒト・シラズ
- 2018年 04月06日 11時01分
[一言]
面白い題だと思いました。文芸と哲学に精通する友人に上記の評論についての是非と旅先中、話し合ったことがありました。結論としては、作品が存在することイコールそれを評価する多様な評論もまた作品であるとまとまりました。
個人的に、評論本が売れない理由は頷けますが、自分と同じ価値観の人が評論本を買わないのは面白くないではなくて、単に値段が張るからです。そのアマチュア、玄人とプロ評論家の専門性には格差はございますが、それを埋めるほどの魅力が少ないということでしょうか・・。
長々と失礼しました。
面白い題だと思いました。文芸と哲学に精通する友人に上記の評論についての是非と旅先中、話し合ったことがありました。結論としては、作品が存在することイコールそれを評価する多様な評論もまた作品であるとまとまりました。
個人的に、評論本が売れない理由は頷けますが、自分と同じ価値観の人が評論本を買わないのは面白くないではなくて、単に値段が張るからです。そのアマチュア、玄人とプロ評論家の専門性には格差はございますが、それを埋めるほどの魅力が少ないということでしょうか・・。
長々と失礼しました。
感想ありがとうございます。
文学通の蓮井遼さんから意見をいただき、うれしいです。
このテーマでエッセーを書くと、いろいろ物議を醸し出すと予想していました。
文学通の蓮井遼さんから意見をいただき、うれしいです。
このテーマでエッセーを書くと、いろいろ物議を醸し出すと予想していました。
- カキヒト・シラズ
- 2018年 04月05日 22時19分
[気になる点]
・ 小林秀夫の評論は難解かなぁ、むしろ平易な言葉をつかった③のカテゴリーだと思いますが。とはいっても私は小林秀夫の評論をそこまで読みこんでいる訳ではありませんが。
・
うーん、エッセイ全体として、ちょっと断言調というか、言い切りが多すぎるように感じますね。
[一言]
文芸評論は、作品紹介というより、その作品をもちいた自己表現の部分があって、その意味では、作品ですよね。
◆
後、「自分で作品を書かない人は、文芸評論家足り得ない」というのは、単なる読者軽視の傲慢であって、もっとも評論家足り得ない態度だと思いますよ(苦笑)。
たとえば、作品を書く楽しみと、作品を読む楽しみの違いを考えれば明快で、前者は自分の世界を築いてゆく事であり、後者は他人の世界を探索する事であります。
エッセイで油絵の話がありましたが、油絵を描く能力がなくとも、油絵を鑑賞することは可能であるように、創作と評論の能力は別にあります。
◆
とはいっても、創作する事における楽しみや苦しみを知っているか、という部分において、評論における態度の真摯さが違ってくるのもあるから、その意味において言っているなら、同意ですが。
ただし、それはかつて創作した経験があるか、という話であって、今現在リアルタイムで作品を発表している人は、むしろ、評論家としては完全じゃないと思います。
結局、その場合、中立的な鑑賞者というより、どうしても作家側の立場に寄り添って評論しがちですから。つまり、手心を加えてるわけですよ。正直じゃないどころか、率直ですらない。
それならば、創作した事の無い人のほうが、率直ですよね。残酷ですけども。
◆
個人的には、古典を読み込んでいる人が、その作品を評価するならば、その評論そのものは、非常に価値がある思いますね。
実際、文学作品の学術的な評価って、かなり難しいと思います。
というのは、基本的に、その時代時代における文化の問題を含めた、思想的もしくは哲学的な部分も含んだ問題を、文学というのは抱えているからです。
結局、ストーリーにしても、世界観にしても、キャラクターにしても、言葉の観念もしくは概念によって作り出されたものですから。
人々と物語の関係性というのは、言葉、思想、文化、価値観みたいな部分とどうしても隣接したものですし。
で、作家というのは、特に、大衆作家においては、そこまで考えてないですね。作家の直感において、大衆を捉えているというのが、実際なので、それを、客観的に置き換える人、というのが、いわゆる文芸評論の役割じゃないかなとは思います。
で、今の日本の、特に、アカデミックな世界おいては、そういう風に、文芸評論できている人は、殆どいないと思います。
いわゆる文壇もそうですけど、極左というか、エセリベラルというか、理想主義的もしくは性善説的なストーリーが、無意識にあって、もっといえば、建前論が大好きですよね。 現実や今と言う地面が、おもしろい位に、浮遊している。これだと、評論たりえないです。
彼らの評論とかよりは、まだいわゆる一般人の率直な感想とかのほうが、鋭いと思います。
おそらく、これからの時代において、本物の文芸評論は、アカデミックな世界からではなく、アマチュア研究家みたいな人たちが担ってゆくんじゃないかなぁと思いますし、もうそうなっているかもしれないですね。
それは、無料で小説を書くように、無料で評論展開する中で、本物がでてくるんじゃないか? と。そうした若者たちが現れる事を個人的に期待しています。
・ 小林秀夫の評論は難解かなぁ、むしろ平易な言葉をつかった③のカテゴリーだと思いますが。とはいっても私は小林秀夫の評論をそこまで読みこんでいる訳ではありませんが。
・
うーん、エッセイ全体として、ちょっと断言調というか、言い切りが多すぎるように感じますね。
[一言]
文芸評論は、作品紹介というより、その作品をもちいた自己表現の部分があって、その意味では、作品ですよね。
◆
後、「自分で作品を書かない人は、文芸評論家足り得ない」というのは、単なる読者軽視の傲慢であって、もっとも評論家足り得ない態度だと思いますよ(苦笑)。
たとえば、作品を書く楽しみと、作品を読む楽しみの違いを考えれば明快で、前者は自分の世界を築いてゆく事であり、後者は他人の世界を探索する事であります。
エッセイで油絵の話がありましたが、油絵を描く能力がなくとも、油絵を鑑賞することは可能であるように、創作と評論の能力は別にあります。
◆
とはいっても、創作する事における楽しみや苦しみを知っているか、という部分において、評論における態度の真摯さが違ってくるのもあるから、その意味において言っているなら、同意ですが。
ただし、それはかつて創作した経験があるか、という話であって、今現在リアルタイムで作品を発表している人は、むしろ、評論家としては完全じゃないと思います。
結局、その場合、中立的な鑑賞者というより、どうしても作家側の立場に寄り添って評論しがちですから。つまり、手心を加えてるわけですよ。正直じゃないどころか、率直ですらない。
それならば、創作した事の無い人のほうが、率直ですよね。残酷ですけども。
◆
個人的には、古典を読み込んでいる人が、その作品を評価するならば、その評論そのものは、非常に価値がある思いますね。
実際、文学作品の学術的な評価って、かなり難しいと思います。
というのは、基本的に、その時代時代における文化の問題を含めた、思想的もしくは哲学的な部分も含んだ問題を、文学というのは抱えているからです。
結局、ストーリーにしても、世界観にしても、キャラクターにしても、言葉の観念もしくは概念によって作り出されたものですから。
人々と物語の関係性というのは、言葉、思想、文化、価値観みたいな部分とどうしても隣接したものですし。
で、作家というのは、特に、大衆作家においては、そこまで考えてないですね。作家の直感において、大衆を捉えているというのが、実際なので、それを、客観的に置き換える人、というのが、いわゆる文芸評論の役割じゃないかなとは思います。
で、今の日本の、特に、アカデミックな世界おいては、そういう風に、文芸評論できている人は、殆どいないと思います。
いわゆる文壇もそうですけど、極左というか、エセリベラルというか、理想主義的もしくは性善説的なストーリーが、無意識にあって、もっといえば、建前論が大好きですよね。 現実や今と言う地面が、おもしろい位に、浮遊している。これだと、評論たりえないです。
彼らの評論とかよりは、まだいわゆる一般人の率直な感想とかのほうが、鋭いと思います。
おそらく、これからの時代において、本物の文芸評論は、アカデミックな世界からではなく、アマチュア研究家みたいな人たちが担ってゆくんじゃないかなぁと思いますし、もうそうなっているかもしれないですね。
それは、無料で小説を書くように、無料で評論展開する中で、本物がでてくるんじゃないか? と。そうした若者たちが現れる事を個人的に期待しています。
感想ありがとうございます。
自分でも言いたいことがうまく表現できず、もどかしい思いをしながら舌足らずな表現で本文をまとめた感があります。
あらゆる文芸評論が悪いのではなく、よくない文芸評論を文芸雑誌で目にする、といった論調で当初は書こうと思ったのですが、どういう根拠でどういう文芸評論がよくないと思うのかうまく説明できません。
自分が理解できなかった文芸評論をすべて悪いと断じるのは微妙。
評論自体はよい評論で、ただ自分の不勉強から理解していないだけかもしれないからです。
いずれにしましても、これだけ長い感想をありがどうございました。
自分でも言いたいことがうまく表現できず、もどかしい思いをしながら舌足らずな表現で本文をまとめた感があります。
あらゆる文芸評論が悪いのではなく、よくない文芸評論を文芸雑誌で目にする、といった論調で当初は書こうと思ったのですが、どういう根拠でどういう文芸評論がよくないと思うのかうまく説明できません。
自分が理解できなかった文芸評論をすべて悪いと断じるのは微妙。
評論自体はよい評論で、ただ自分の不勉強から理解していないだけかもしれないからです。
いずれにしましても、これだけ長い感想をありがどうございました。
- カキヒト・シラズ
- 2018年 04月05日 16時42分
[一言]
評論はあくまで参考意見。自分の読みたいものを読むのが一番。
評論はあくまで参考意見。自分の読みたいものを読むのが一番。
- 投稿者: 退会済み
- 2018年 04月05日 13時32分
管理
感想ありがとうございます。
- カキヒト・シラズ
- 2018年 04月05日 19時41分
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