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返信ありがとうございます。
◆
おそらく、海南無頼凡人氏(以後、海南氏と略させてもらいますね)は、人間の非合理性について、脳科学からアプローチし、『人間の非合理性」を『人間の非合理的思考』と捉え、そこにおいておそらく、
・脳の思考プロセスにおける統計因果において、
・特に、直観とされるもの、いわゆる非合理的思考といわれるものであってさえ、
・それは過去の統計因果における合理的結末である可能性が高い為、
・『社会的合理』に対抗する存在として、『人間の非合理性』を掲げる事そのものが、妥当でないと考えているのだと思います。
・つまり、海南氏の考える『人間の非合理性』、つまり『非合理的思考』そのものが、人間存在を正しく担保したものでなく、単に、脳における合理的な判断における間違い(エラー)にすぎないから、という事なんだと思いますが、。
◆
私のいう人間の非合理性とは、もっと単純に、肉体衝動や5感なのです。もっと単純に言えば、そうした感覚から得られる『感情』こそが、人間の非合理性における本質だと考えます。
おそらく、海南氏は理性を人間にとってかなり大きな要素だと考えていると思うのですが、私は、理性をそこまで信用していないんですよね。
というのは、結局の所、理性といわれるものの土台は、人間の本能衝動としての情熱、5感から広がる喜怒哀楽の感情、そうしたものの中において、美意識、つまり秩序的判断が生まれる事により、より言えば、人間がもつ心作用によって、理性は形成される、と、私は考えるからです。
◆
> 現代においては、求められる役割を遂行できない人間は社会から排除されてしまうと考えられるため、
>この運動(ヒューマニズム)が現実の我々の思考を変えるに足りた物であったかということがあります。
うーん、この2つのうちの前段は、いわゆる社会的合理性ですよね。
後段は、社会的合理性に、いわゆる人間性がのまれてゆく状況を、いわゆるヒューマニズムドラマによって否定したという意味で、見事に人々の現実認識を変えた、と、言えると思いますし、それだけでなく、それは社会政策として現実に反映していますよね。
◆
ただ、社会的合理性の本質とは、より大きな視野で見たとき、多くの人々を『救う』という観点であるので、単に一部の資本家が、労働者から搾取するような、わかりやすい悪には、まぁ、なりにくいですが。
ここにおいて、『救う』とは何を意味するのか、というのが重要な問いになります。これは、もっと単純にいえば、人間の幸福とは何か? という最終的な問いになるのだと思います。
で、チャップリンにおいては、金でも地位でも豊かさでもなく、もちろん、最低限度のソレは必要だけれども、しかし愛があれば幸せである、みたいな文脈があるわけです。
◆
現代日本における、いわゆる少子化問題、結婚問題というのは(やっと話が戻りました)、直接的には、バブル崩壊後の、長引く不況と、バブル後遺症ともいえるべき、成り上がり思考、そして、高望み風潮ですね。 女性でいえば3高、男性でいえば外見重視の傾向、です。
正社員問題というのも、その一つであって、男が女に求めるもの、女が男に求めるもの、社会が男女に求めるもの、が、バブル崩壊後の日本の現状とは、まったくのミスマッチの状態で、放置されていった。
たとえば、恋愛重視の結婚観において、結婚はゴールでしかなく、結婚後において、共に苦労しながら愛情を深め合うなんて物語は、神話になりさがりました。
むしろ、結婚後に苦労する事は悪のような風潮さえあり、つまり、『幸せな結婚』というのは物質的な豊かさを前提にのみ存在する、といった見方です。
子供においても、スペック重視になり、心の健全さは余り重視されないですね。家族の絆は、軽視されがちな部分ではあります。
◆
まぁ、正直って、家族というものは、どうしようもないしがらみなんですよ。
で、それを、どうポジティブに考えるかしないと、どうしても、生まれてくる子供は不幸になります。
たとえば、なろうにおいても、家族をちゃんと扱った作品は少ないですよね。父親が父親として、母親が母親として、存在する物語は少ないですね。
で、一昔前までは、父親になるという事は、責任を伴うことだけれども、人として一人前になる、立派になる事だという社会的な意味があったんですけど、それが何故かなくなった。 男性は一家の柱ではなくなった。
そうなると、結婚をいやがる男性は増えますよね。
まぁ、男性という生き物は、子供を残せないですから、自らの存在を、誰かに認めてもらわないと、その尊厳が成立しにくい部分があります。
結局、一夫一妻制が世界的に常識になったのは、男性が社会の為に戦う意味で、もっと言えば、社会の一員として存在する上で、守るべき存在としての妻や子供がいる、というのが、大きな意味をもっていたからだと思います。
その意味で、お父さんの尊厳をどう担保してゆくか、というのも、結婚観においては、重要な問題だとは思います。
ここにおいて、性的自尊心の問題も含めて、ジェンダー(性文化)をどう形成してゆくか?という問いがでてきます。
結局、人間を動物として考えたとき、どういった環境が、もっとも彼らが自然に生きていけるのか、みたいな視点が、重要であって、なんだろう、人間の動物的な部分を無視した価値提示をしても、そこに解決はないと思う訳です。
――そこにおいて、やはり、物語が大きな役割をになっていると思います。
――物語は、単純に言えば、ある価値の提示ですから。
もちろん、「理性的存在としての人間とは何か?」を問い続ける事も、大事な事だと思いますけれども。
返信ありがとうございます。
◆
おそらく、海南無頼凡人氏(以後、海南氏と略させてもらいますね)は、人間の非合理性について、脳科学からアプローチし、『人間の非合理性」を『人間の非合理的思考』と捉え、そこにおいておそらく、
・脳の思考プロセスにおける統計因果において、
・特に、直観とされるもの、いわゆる非合理的思考といわれるものであってさえ、
・それは過去の統計因果における合理的結末である可能性が高い為、
・『社会的合理』に対抗する存在として、『人間の非合理性』を掲げる事そのものが、妥当でないと考えているのだと思います。
・つまり、海南氏の考える『人間の非合理性』、つまり『非合理的思考』そのものが、人間存在を正しく担保したものでなく、単に、脳における合理的な判断における間違い(エラー)にすぎないから、という事なんだと思いますが、。
◆
私のいう人間の非合理性とは、もっと単純に、肉体衝動や5感なのです。もっと単純に言えば、そうした感覚から得られる『感情』こそが、人間の非合理性における本質だと考えます。
おそらく、海南氏は理性を人間にとってかなり大きな要素だと考えていると思うのですが、私は、理性をそこまで信用していないんですよね。
というのは、結局の所、理性といわれるものの土台は、人間の本能衝動としての情熱、5感から広がる喜怒哀楽の感情、そうしたものの中において、美意識、つまり秩序的判断が生まれる事により、より言えば、人間がもつ心作用によって、理性は形成される、と、私は考えるからです。
◆
> 現代においては、求められる役割を遂行できない人間は社会から排除されてしまうと考えられるため、
>この運動(ヒューマニズム)が現実の我々の思考を変えるに足りた物であったかということがあります。
うーん、この2つのうちの前段は、いわゆる社会的合理性ですよね。
後段は、社会的合理性に、いわゆる人間性がのまれてゆく状況を、いわゆるヒューマニズムドラマによって否定したという意味で、見事に人々の現実認識を変えた、と、言えると思いますし、それだけでなく、それは社会政策として現実に反映していますよね。
◆
ただ、社会的合理性の本質とは、より大きな視野で見たとき、多くの人々を『救う』という観点であるので、単に一部の資本家が、労働者から搾取するような、わかりやすい悪には、まぁ、なりにくいですが。
ここにおいて、『救う』とは何を意味するのか、というのが重要な問いになります。これは、もっと単純にいえば、人間の幸福とは何か? という最終的な問いになるのだと思います。
で、チャップリンにおいては、金でも地位でも豊かさでもなく、もちろん、最低限度のソレは必要だけれども、しかし愛があれば幸せである、みたいな文脈があるわけです。
◆
現代日本における、いわゆる少子化問題、結婚問題というのは(やっと話が戻りました)、直接的には、バブル崩壊後の、長引く不況と、バブル後遺症ともいえるべき、成り上がり思考、そして、高望み風潮ですね。 女性でいえば3高、男性でいえば外見重視の傾向、です。
正社員問題というのも、その一つであって、男が女に求めるもの、女が男に求めるもの、社会が男女に求めるもの、が、バブル崩壊後の日本の現状とは、まったくのミスマッチの状態で、放置されていった。
たとえば、恋愛重視の結婚観において、結婚はゴールでしかなく、結婚後において、共に苦労しながら愛情を深め合うなんて物語は、神話になりさがりました。
むしろ、結婚後に苦労する事は悪のような風潮さえあり、つまり、『幸せな結婚』というのは物質的な豊かさを前提にのみ存在する、といった見方です。
子供においても、スペック重視になり、心の健全さは余り重視されないですね。家族の絆は、軽視されがちな部分ではあります。
◆
まぁ、正直って、家族というものは、どうしようもないしがらみなんですよ。
で、それを、どうポジティブに考えるかしないと、どうしても、生まれてくる子供は不幸になります。
たとえば、なろうにおいても、家族をちゃんと扱った作品は少ないですよね。父親が父親として、母親が母親として、存在する物語は少ないですね。
で、一昔前までは、父親になるという事は、責任を伴うことだけれども、人として一人前になる、立派になる事だという社会的な意味があったんですけど、それが何故かなくなった。 男性は一家の柱ではなくなった。
そうなると、結婚をいやがる男性は増えますよね。
まぁ、男性という生き物は、子供を残せないですから、自らの存在を、誰かに認めてもらわないと、その尊厳が成立しにくい部分があります。
結局、一夫一妻制が世界的に常識になったのは、男性が社会の為に戦う意味で、もっと言えば、社会の一員として存在する上で、守るべき存在としての妻や子供がいる、というのが、大きな意味をもっていたからだと思います。
その意味で、お父さんの尊厳をどう担保してゆくか、というのも、結婚観においては、重要な問題だとは思います。
ここにおいて、性的自尊心の問題も含めて、ジェンダー(性文化)をどう形成してゆくか?という問いがでてきます。
結局、人間を動物として考えたとき、どういった環境が、もっとも彼らが自然に生きていけるのか、みたいな視点が、重要であって、なんだろう、人間の動物的な部分を無視した価値提示をしても、そこに解決はないと思う訳です。
――そこにおいて、やはり、物語が大きな役割をになっていると思います。
――物語は、単純に言えば、ある価値の提示ですから。
もちろん、「理性的存在としての人間とは何か?」を問い続ける事も、大事な事だと思いますけれども。
・つまり、海南氏の考える『人間の非合理性』、つまり『非合理的思考』そのものが、人間存在を正しく担保したものでなく、単に、脳における合理的な判断における間違い(エラー)にすぎないから、という事なんだと思いますが、。
>わかりやすく言い換えていただいてありがとうございます。ご指摘の通りで、少なくともこの種の議論で、その様な文脈で語られることが多いという認識があります。
私のいう人間の非合理性とは、もっと単純に、肉体衝動や5感なのです。もっと単純に言えば、そうした感覚から得られる『感情』こそが、人間の非合理性における本質だと考えます。
>五感から得られるものが重要であると言うことには、もちろん賛成なのですが、例えばカーネマン教授のピーク・エンドの法則などのように、時間経過した後の経験は書き換えられてしまうリスクがあり、効果持続性は疑問です(とりわけ、理性的なものより、感性的なものにおいて)。
うーん、この2つのうちの前段は、いわゆる社会的合理性ですよね。
後段は、社会的合理性に、いわゆる人間性がのまれてゆく状況を、いわゆるヒューマニズムドラマによって否定したという意味で、見事に人々の現実認識を変えた、と、言えると思いますし、それだけでなく、それは社会政策として現実に反映していますよね。
>社会的合理性と、非合理的思考の違いに関して指摘していただきありがとうございます。
たとえば、恋愛重視の結婚観において、結婚はゴールでしかなく、結婚後において、共に苦労しながら愛情を深め合うなんて物語は、神話になりさがりました。
むしろ、結婚後に苦労する事は悪のような風潮さえあり、つまり、『幸せな結婚』というのは物質的な豊かさを前提にのみ存在する、といった見方です。
子供においても、スペック重視になり、心の健全さは余り重視されないですね。家族の絆は、軽視されがちな部分ではあります。
>現代の結婚、家庭のあり方に関して、このような問題は、取り組む必要がありますね。また、役割理論としてお互いが期待する夫婦の役割を、人工知能により補うことが出来た時こそ、より感情的な、たとえば愛情などを、もっと大切にするようになるのかもしれませんね。
結局、人間を動物として考えたとき、どういった環境が、もっとも彼らが自然に生きていけるのか、みたいな視点が、重要であって、なんだろう、人間の動物的な部分を無視した価値提示をしても、そこに解決はないと思う訳です。
>個人的には、日本人は動物的な部分が、さらに少ないような印象です(あくまで印象ですが)。
>わかりやすく言い換えていただいてありがとうございます。ご指摘の通りで、少なくともこの種の議論で、その様な文脈で語られることが多いという認識があります。
私のいう人間の非合理性とは、もっと単純に、肉体衝動や5感なのです。もっと単純に言えば、そうした感覚から得られる『感情』こそが、人間の非合理性における本質だと考えます。
>五感から得られるものが重要であると言うことには、もちろん賛成なのですが、例えばカーネマン教授のピーク・エンドの法則などのように、時間経過した後の経験は書き換えられてしまうリスクがあり、効果持続性は疑問です(とりわけ、理性的なものより、感性的なものにおいて)。
うーん、この2つのうちの前段は、いわゆる社会的合理性ですよね。
後段は、社会的合理性に、いわゆる人間性がのまれてゆく状況を、いわゆるヒューマニズムドラマによって否定したという意味で、見事に人々の現実認識を変えた、と、言えると思いますし、それだけでなく、それは社会政策として現実に反映していますよね。
>社会的合理性と、非合理的思考の違いに関して指摘していただきありがとうございます。
たとえば、恋愛重視の結婚観において、結婚はゴールでしかなく、結婚後において、共に苦労しながら愛情を深め合うなんて物語は、神話になりさがりました。
むしろ、結婚後に苦労する事は悪のような風潮さえあり、つまり、『幸せな結婚』というのは物質的な豊かさを前提にのみ存在する、といった見方です。
子供においても、スペック重視になり、心の健全さは余り重視されないですね。家族の絆は、軽視されがちな部分ではあります。
>現代の結婚、家庭のあり方に関して、このような問題は、取り組む必要がありますね。また、役割理論としてお互いが期待する夫婦の役割を、人工知能により補うことが出来た時こそ、より感情的な、たとえば愛情などを、もっと大切にするようになるのかもしれませんね。
結局、人間を動物として考えたとき、どういった環境が、もっとも彼らが自然に生きていけるのか、みたいな視点が、重要であって、なんだろう、人間の動物的な部分を無視した価値提示をしても、そこに解決はないと思う訳です。
>個人的には、日本人は動物的な部分が、さらに少ないような印象です(あくまで印象ですが)。
- 海南無頼凡人
- 2018年 05月14日 18時30分
[気になる点]
うーん、近代的人間観について述べられていないですが、、、、おそらく作者の中で前提としてあるんでしょう。
とはいえ、定義の問題もあるから、それは、イチイチ説明した方がいいとは思います。
[一言]
役割論ですね。
いわゆる構造主義的、な、文脈を感じました。つまり、ある構造が前提に物事が決定される、というもの。
しかしながら、人間も含めて動物は、ある構造に収まるように作られている訳ではなく、いわゆる、非合理的存在なんですよね。
産業革命の時代、モダンといわれた時代において、社会的合理性としてのパーツ、つまり、役割、部品、として、人間が扱われた。
かの有名なチャーリー・チャップリンの映画『モダン・タイムス』において、そうした人間の悲哀が描かれていた。
ここにおいて、ヒューマニズムが再登場する。
ヒューマニズム、つまり、人間主義、とは、人がもつ感情における美しさ、大衆情緒、つなわちロマン、それをテーマにしている。
つまり、『モダニズム≒合理主義』に対抗する存在して『ヒューマニズム≒ロマン』が登場した。
さて、家族の問題、その役割論を越えるには、家族という物語の再構築、つまり、家族というロマン、そうしたストーリーをどう人々が共有するか、という問題だと、考えた方が、おそらく正しい。
もしも、現代における家族の問題を、合理的な方法で処理した時、また新たな非人間的な問題、が、現れるでしょう。
人間の非合理的な部分を、どう考えてゆくか、人間存在の肯定とは、おそらく、そこに本質があると思います。
うーん、近代的人間観について述べられていないですが、、、、おそらく作者の中で前提としてあるんでしょう。
とはいえ、定義の問題もあるから、それは、イチイチ説明した方がいいとは思います。
[一言]
役割論ですね。
いわゆる構造主義的、な、文脈を感じました。つまり、ある構造が前提に物事が決定される、というもの。
しかしながら、人間も含めて動物は、ある構造に収まるように作られている訳ではなく、いわゆる、非合理的存在なんですよね。
産業革命の時代、モダンといわれた時代において、社会的合理性としてのパーツ、つまり、役割、部品、として、人間が扱われた。
かの有名なチャーリー・チャップリンの映画『モダン・タイムス』において、そうした人間の悲哀が描かれていた。
ここにおいて、ヒューマニズムが再登場する。
ヒューマニズム、つまり、人間主義、とは、人がもつ感情における美しさ、大衆情緒、つなわちロマン、それをテーマにしている。
つまり、『モダニズム≒合理主義』に対抗する存在して『ヒューマニズム≒ロマン』が登場した。
さて、家族の問題、その役割論を越えるには、家族という物語の再構築、つまり、家族というロマン、そうしたストーリーをどう人々が共有するか、という問題だと、考えた方が、おそらく正しい。
もしも、現代における家族の問題を、合理的な方法で処理した時、また新たな非人間的な問題、が、現れるでしょう。
人間の非合理的な部分を、どう考えてゆくか、人間存在の肯定とは、おそらく、そこに本質があると思います。
返事が遅くなってしまい申し訳ありません。専門的なことも含めた、素晴らしい意見をいただいたので、追加で文献を調べることに時間がかかってしまいました。
まず、私の意図した近代的人間観は、まさしくご指摘の通り、「産業革命以降の社会の歯車としての人間」のことです。その前提で考えると、個人的に疑問なのは、ヒューマニズムが人間らしさを取り戻そうという潮流として起こったことは、歴史の流れとして自然と思われますが、現代においては、求められる役割を遂行できない人間は社会から排除されてしまうと考えられるため、この運動が現実の我々の思考を変えるに足りた物であったかということがあります。
添付の文章で述べられているような、ベイズの統計因果推論が、産業革命以降の人間の思考を支配しているのではないかという懸念があります。
http://www.skeptics.jp/column/75-human-irrationality.html
まず、私の意図した近代的人間観は、まさしくご指摘の通り、「産業革命以降の社会の歯車としての人間」のことです。その前提で考えると、個人的に疑問なのは、ヒューマニズムが人間らしさを取り戻そうという潮流として起こったことは、歴史の流れとして自然と思われますが、現代においては、求められる役割を遂行できない人間は社会から排除されてしまうと考えられるため、この運動が現実の我々の思考を変えるに足りた物であったかということがあります。
添付の文章で述べられているような、ベイズの統計因果推論が、産業革命以降の人間の思考を支配しているのではないかという懸念があります。
http://www.skeptics.jp/column/75-human-irrationality.html
- 海南無頼凡人
- 2018年 04月19日 15時28分
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