感想一覧

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[良い点]
鈴木様の人柄の良さが文面から感じられました。
[気になる点]
人格と能力は不可分だと思います。
人格が能力を育て、能力が人格を育てると思いますね。

個人的体験ですが、掛け算も全て言えずに土木系作業で生計を立てていた知識量の低い時と、気まぐれに学問を齧り国立大を卒業して、高度な専門職に就いた後では言動や思考が最早別人でした。

理由は獲得した知識・技能や、高難度の国家試験に取り組み成果をだした経験などが人格に影響したとしか考えられません。

故に知識や能力が人格に多大な影響を与える事は確かかと。何せ判断や経験が人格を育てるならば、その個体の能力がどうしても影響しますよ。
[一言]
後、社会的には求められる水準の能力を有する歯車で良いとおもいます。皆が求められる水準を満たさずに機能不全を起こせば国やコミュニティは崩壊しますから。

水準を満たさなくても別にいいじゃないと考える個性を持つ人を支えるにも一定の役割をこなす人が必要で、それが累進課税などの形で多くの人々のセーフティネットを支えていますからね。

個性や人格は身内や仲間に認められていれば十分かと……

逆に仕事などで個性を求められると辛いですよ?
そう言う場合は個性=能力と直結しますので(笑)
 shiba様、ご感想ありがとうございます。

> 人柄の良さが文面から

 この作品だけ大サービスで。うへへ。
 (直後に最低なタイトルの作品を投稿した模様。)

> 人格と能力は不可分

 ですね! いやまったく。ご指摘の通りです。
 本文での「人格」と「能力」という言葉の使い方は、結局、非常に特殊なんですよ。独自というか。独自定義。
 別の方が以前に感想を書いてくださって、それへの返信で次のように書いたのを引用いたします。

〜〜〜〜〜自分引用開始!〜〜〜〜〜
 個人を認知する情報量の程度、抽象化の程度として考えました。
 関係データベースのテーブルで例えてみると、個人を各行に表現した表があって、宇宙の真値は100億列あって、現在の素粒子物理学で観測可能なところはそのうち100万列あって、個人や家族が認知可能なのが1万列で、他人が履歴書ちらっと眺めたら10列かなって。(桁は適当ですが、そんな順序のイメージでした。)
 具体的な方向を「キャラクター」と呼ぶのはまあいいかなー、と思ったけど、抽象的な方向を呼ぶ言葉は自明には定まらず。偏差値・所得・美貌を一語で言うには何かなあと、美貌は違和感あるけれど、まあ「能力」かなと、結論しました!
 一般論としては変ですね。まあ、本文の文脈限定の定義ということで、文脈で一応意味は補ったつもりです。
〜〜〜〜〜自分引用終了!〜〜〜〜〜

 「抽象化の程度」をデータベース云々と例えたこの説明は、わたし的には的確なのですが、受け取るほうからしたら的確でもなんでもないかも……。
 「個性」と「スペック」とかのほうが良かったかもしれません。
 でも「個性」って言うと、すっごく平均的な子は個性が少ないみたいな意味に誤解されそう。「スペック」て言うと、スペック主義みたいな低俗な実力主義もどきをすでに受け入れてる文脈だと誤解されそう。
 まあ、「人格」と言ったら確かに、「人格者」みたいな言葉があるように、人間性の美徳の意味が主ですね。しかし「人格障害」はプラスの意味じゃないですね。いや、それは特殊か。それは「パーソナリティ」の訳語ですが、本文で使った「キャラクター」は、私のイメージに近いかもしれません。横文字増やすのは好きでないので、(人格という)日本語を使いました。だったら普通、「性格」とするのが自然かも。でも「人格」のほうが深みがありますよね。性格なんて、「明るい性格/暗い性格」程度の区分けで満足されることもある。

> 掛け算も全て言えず

 あはは。私は、シチロクシジュウハチ、シチハゴジュウシって覚えていますよ。語呂を優先してます。

> 気まぐれに学問を齧り国立大を卒業して、

 すごい……。尊いですね。能動的に学ぶのは尊い。しかも優秀でらっしゃる!

> などが人格に影響したとしか

 全くその通りなのでしょうけど、わたし的に人間観察してて思うのは、職場環境への「適応」って半端ないですよね。
 なのでその点について少し書きます。「適応」について。
 環境って色々ありますよ。
 ヤンキーみたいな人間は疎まれて排斥される社会もあれば、ヤンキーみたいな性格でいなければ、いじめ殺されるレベルの環境もあります。両方を経験した人は、改めてそれぞれの職務に従事する時、性格を思いきり切り替えます。(個人的に聞いた話です。外国の軍隊まわり。)
 ある人が生きる職場って普通、あまり転職とかなくて、変わらない。
 だから結局、ほとんどの人って、すごく小さな世界で一生を過ごし、終えるのですよ。
 その世界における彼や彼女の立場には利害関係があり、その業界の立場としての利害関係もある。その(半ば)固定的な利害関係は、倫理とか正義とかモラルといった感覚を強固に形成します。
 こういうことを言われて受け入れると、自分のしている仕事の自尊心が傷つくから拒絶しようとか、こういう立場の人をないがしろにしても自分の利益が損なわれることはないから、ないがしろにしてしまおうとか、自分を肯定するための反応パターンが形成されて、集団としては倫理尺度が形成される。
 教師とか教習所の教官なら生徒より権力があって傲慢になるし、しかし生徒には教師は一時的な対象でしかない残酷さがある。どこにだって権力の構造があって、例えばナースなら上に医師、下に患者があって、その構造はどう望んだって一生変わらない。俯瞰的に見れば、人間の価値判断にオリジナリティなんてありません。それぞれの立場の利害に適応してるだけです。
 客を騙さなきゃ生きられない仕事につけば多くの人が客を騙します。ごまかさなきゃ評価されなきゃごまかします。一方で、ある程度ちゃんとした人間性じゃないと信用されない仕事で、ちゃんとやってりゃ、頑張ってズルしなくてもそれなりにお金もらえたりすれば、人間、まともになっていくでしょう。
 (人間性という意味での)人格については、私はそんな切り口を、主要な決定要因だと感じています。
 「これまでこういう処世術でうまくやれてきた」って思うと人間は、その価値観に死ぬまで執着する。それで利益が維持される限りは、どんな異物も平然と否定したり無視します。「適応」してしまった猿の脳味噌は、誰にも決して救えない。(「成長」として自覚するので。) そんな職場適応の集合体が現代社会だと思っております。自己愛から生じる倫理は全て偽物だってことです。

 というわけで私は人間の「知性」に期待してます。独善的主観を突破する知性。
 しかし誰もに無限大の知性を期待しても仕方ないですね。歳取って気づきました。
 世の中のほとんどは凡才です。
 女性の人間性なんて観察すると、結局、主要な決定要因は、「家柄」だと思います。ある程度裕福な、両親の揃った家で、ちゃんと教育を受けて育ち、ある程度の学校にも通った子。要するに、親族の男性陣に守られて生きてきた子が性格が美しいかなと。
 救いのない話です。絶望しました。

> 判断や経験が人格を育てるならば、その個体の能力がどうしても影響します

 要するに(突き詰めれば)「知性」ですよね。
 私には次の持論があります。
「知性と良心とは本質的に同一である」
 あと私、部分最適性と全体最適性って概念もよく使います。「囚人のジレンマ」ってありますけど、倫理って全て数理的合理性で説明できると思います。その視点からすると、社会的な因果関係のギブアンドテイクを理解できない馬鹿がどうしたってクズのままでいるのは物理的な必然です。
 要するに、私は大いに、知性主義者であり人格主義者です。
 しかし本文の議論の意味は、それと矛盾するものではありません。

> 後、社会的には求められる水準の能力を有する歯車で良いとおもいます。皆が求められる水準を満たさずに機能不全を起こせば国やコミュニティは崩壊しますから。

 私もまあ、そう思います。

「社会において遠い人からは、そう評価するしかない。ならば逆に、それぞれの人の細かい部分を見る、つまり人格を見るのは、近い人の役目だと言える。」

 と本文で書きました。遠くにいる他人が無数の他者の内面的に固有な魅力に自覚的になるなんて無理なことです。
 人間の脳はコンピュータで言えばプロセッサ(CPU)であって、個人についてもその集合たる社会についても計算力は有限なので。なので、有限の計算量の計算しか実行できません。
 逆に言えば、プロセッサの性能が上がったら、AIが理想的なマッチングをして効率化できます。各個人に固有の性質を深く把握してです。
 例えばリンゴの流通も変わります。リンゴx個っていう発想が消えます。それぞれに固有なので。どのリンゴの味や見た目がどの人に最も好みで、流通経路や到達時間、仕事の疲労や体調や食欲を計算してお届けいたします。
 なので、偏差値の実用性を私は全否定はしてません。偏差値教育の「弊害」を議論したのが本文です。

『「不遇に生まれた凡人もまた、充実した自己肯定感を持って生きられる」、それが「豊かさ」です。豊かな社会を目指しましょう。』

 と本文で書きました。つまり、「脇役感」ではなく「主人公感」を感じて誰もが生きられる社会を目指します。
 偏差値の実用性を過大に見て、偏差値教育を素朴に実行すると、上の意味での「豊かさ」をもたらすことが「教育」の重要な機能であることもわからないような知力の人々が権力を持ちます。そして悪循環する。
 (なぜなら、記憶力や数理的計算力と、社会的因果関係や集団心理に関する推論の力は別ですが、既存の偏差値は経済合理的に前者を測るから。)
 だから、「偏差値教育の最大の弊害は、偏差値教育」です(と本文に書いた)。

 正直、普通に健全なメンタルを持って、日常に苦しみを感じずに生きている人はいいのですよ。
 しかしいわゆる「毒親」とかがいて、メンタルをボロボロにされる環境もたくさんあります。
 しばしばその結果、主観的な価値観を持てずに、社会の価値観に翻弄されて、喜びのない歯車として人生を終える。
 頭おかしい人間でも子供作れちゃうので、虐待された子も、教育の段階である程度救ってください、というのが本文の主旨の一つです。
 社会的な救済がなきゃ、「親ガチャ(生まれる家)に失敗したらリセマラ(自殺)がベスト」ってことになります。それは、人類が目指す「豊か」な社会ではない、ということです。

> 水準を満たさなくても別にいいじゃないと考える個性を持つ人を支えるにも

 別に、支えないと、って話はしてないつもりです。
 まあ、ある種の教師が「個性は大切」という主義を主張していて、(道徳や学力を軽視してて)無責任極まりないですが、そのパターンと私はすごく別の何かです。(偏差値20と80より遠い。)
 例えばの話、実力主義で、死人が道端にゴロゴロでもいいです。
 でも、「偏差値が低いから、君は価値の低い人だよ」って子供に語りかけるのは違うことです。
 それは、価値観の押しつけです。安易な偏差値教育は実質的にそのように作用します。
 その結果として、現代世界に満ちているのは、拝金主義への同調圧力です。

「偏差値がんばろう。
 偏差値に絶対的に価値があるかって言ったら、偏差値なんて鼻糞みたいなものだけど。
 偏差値よくないと将来お金あまり貰えないし。
 将来貰えるお金の多寡が絶対的価値かって言ったら、お金なんて鼻糞みたいなものだけど。
 お金ないと生きていけないし。
 生きる死ぬが絶対的価値かって言ったら、生きのびるなんて鼻糞みたいなものだけど。
 やっぱ死んじゃうのは普通苦しいので、そこらへんは君の自由な判断で価値判断してくらさい!」

 というのが、教育が言える上限であり、教育が言うべき下限です。
 価値は本質的に多様なのです。
 眼前の経済的に表面的な利益のための合理化を優先してそこをごまかすから、拝金主義の同調圧力で社会正義が画一化される。その愚かさが全ての害悪の根源です。

> 累進課税などの形で多くの人々のセーフティネットを支えています

 法定の税金を支払って社会を支える側に加わったつもりになったら、それは的外れですよ。
 クズでも金持ちにはなれます。クズのほうがなれます。で、クズでも税金は払えます。
 というか、払わなきゃ罰則あるので、みんな税金は払います。基本的には、好意で払ってる人はいません。
 社会を支える側を自認していいのは、言ってみれば、法定以上の税金を進んで納める人だけです。
 じゃなきゃ、拝金主義に汚染された脳味噌が独善吐いてる以上ではないです。

 持論なのですが、社会に貢献するのは利他心だけです。
 法的制度+個人的利己心では、社会幸福は維持できません。
 (アダム・スミスの)「神の見えざる手」は、拝金主義者が願望した共同幻想であって実在しないので。
 お金儲けに邁進して税金たくさん払ってるから社会貢献もたくさんしたぞー、って発想、実効性は最悪です。
 逆に、私は利他心でこういった議論を研究し把握してますが、こういったことは普通、金にならん……。市場原理とか、民主主義+法律じゃ、どうにもならない論点なのです。だから、利他心でしか解決できない問題があるので、利己心で暮らしてる人はみんなセーフティーネットに支えられてる側だと思ってます。
 支えられてる人達ほど支えていると思ってる。それが近代主義。

> 仕事などで個性を求められると辛い

 そうでもないのではと思います。
 逆に家庭だったら、互いを深く知って愛し合いますよね。君の気持ちなんてどうでもいい、結果のパフォーマンスだけで評価します、とは家族には言えない。家庭では好まれない。それは愛ではないので。
 仕事は仕事、家庭は家庭って、切り替えるモデルは、完全に失敗だと思います。
 ビジネスは利害関係でさっぱりしていて、個人の立場からは好ましく見えますが、それがもたらす集団的な結果がやばすぎます。企業行動に主体的な利他性が生じる余地が消滅するので。
 大袈裟な話、現代のモデルって、人間が、家庭では天使、仕事では悪魔になるのですよ。
 それはそれでいい、っていう割り切りが、上記の職場適応から生じてしまってます。
 個人の立場からは当面、楽になりますが、社会的な因果関係を通して、大損することになります。
 家庭と仕事は、もっと連続的なものであることが自然なのだろうと思います。
 家内制手工業というか、国家や世界が一つの家族のようにあることを目指すほかない。
 誰かが誰かに残酷であってよい、とする発想は、常に独善にすぎないのです。
 有能なクズよりも善良な無能を贔屓するような方向性のネチネチ感が必要になります。ビジネスライク全否定です。
 日本人が成長だと自覚してきた仕事観の実態は、世界に侮蔑される通りのものです。だから国が沈んでく。
[一言]
感想への感想で申し訳ないです

> わざと処理しきれ無い仕事をやらせて、叱って、歯車化させる会社が普通に有るから怖い((((;゜Д゜))))

昔何度か本気で言ってるの? という場面を経験した事が有りましたが、今これ読んで初めて『なるほどそういう事だったのか』と気が付きました。

気が付いたら『クスリッ』としてしまいましたけど。

  • 投稿者: 退会済み
  • 2018年 08月03日 18時44分
管理
 MoonLight様、ご感想ありがとうございます。

 たちのわるい嫌がらせが、普通にまかり通ってる世の中ですね。
 まあ、少しずつ良くなってるのかな?
 「悪質タックル」に続けて、日本ボクシング連盟とかなんとか話題になってますね。
「悪しき古き人間達、もうそういう時代じゃありません」
 名言ですねー。笑 パチパチパチ
 私はメンタル弱いので、意地悪されると、けっこうフラストレーションになってしまう。
 クスッ、で済ませたいな。
[良い点]
ー「客観的」ってたいていは、単に「社会的」の言い換えであって、「客観的な人間の価値」とは、その時代がその人に指図したものにすぎない。

この文章は素晴らしい。上の一行は要らないが、下の文章は納得します。「その時代」を「とある時代」とするなら、いつ読んでも大丈夫になると思う。
この文章の先にある考えは、僕とは、少し違うと思いますけどね。
[気になる点]
能力と人格を、離した所。能力をマシンとするなら、人格はパイロットだろうと考えます。合わさっているのだと、途中から表現した方が良かったかもしれない。その点に、少しだけ違和感が残る。
[一言]
僕は、両親の笑顔を望んでいた子供、ではありませんでした。
裕福というよりは、普通の家庭でした。親から与えられる欲しい物は、年二回。必要な物は好きな時にという形です。勿論、自らお金を貯めて欲しい物は買っていましたが、そんなに多くは買えませんでした。ある程度、好き勝手やっていました。太々しい子供だったかもしれません。
僕は、概念として、人間が人間を殺しても構わない、という考えを持っています。その太々しさが、そういう考えに至った原因かもしれないですね。太々しいとは、ある意味、それほど自由なのです。

人には、一定値の枠組みが必要です。倫理観や道徳観とは、全く別の物だと思います。その枠組みの中で、どれほどの能力を持ち、どれくらい通用するのかは、大きな集団を形成するには必要な事です。そして、予想し易くしています。集団的目標を作り易くしているのです。それが無いと、集団は崩壊していきます。出来ていた事すら全く出来なくなります。

そこから溢れた人は、居なくなる事はありません。人格であろうと能力であろうと、自己肯定感であろうと、溢れた人を止める理由にはなりません。周りの人間関係も同じであり、理由にはならないのです。
どうすれば良いのかですが、どうにもなりません。一定値の犠牲はゼロには出来ないのです。
可能性があるとするなら、AIから本格的に飼われる事です。管理という意味では、効率的だろうと考えます。
後は、収入を750万くらいにする事ですかね。それ以上、収入が増えても、人間は幸福を感じません。それくらいの収入があれば、人に施した方が幸福感があるようです。唯一出来るだろう事だと思います。

 袋小路めいろ様、ご感想ありがとうございます。

> この文章は素晴らしい。

 ありがとうございます!

> 上の一行は要らないが、

 まじですか。精進します……。

> 下の文章は納得します。

 よかったです!

> 「その時代」を「とある時代」とするなら、

 なるほど。

> 能力と人格を、離した所。

 確かに。
 個人を認知する情報量の程度、抽象化の程度として考えました。
 関係データベースのテーブルで例えてみると、個人を各行に表現した表があって、宇宙の真値は100億列あって、現在の素粒子物理学で観測可能なところはそのうち100万列あって、個人や家族が認知可能なのが1万列で、他人が履歴書ちらっと眺めたら10列かなって。(桁は適当ですが、そんな順序のイメージでした。)
 具体的な方向を「キャラクター」と呼ぶのはまあいいかなー、と思ったけど、抽象的な方向を呼ぶ言葉は自明には定まらず。偏差値・所得・美貌を一語で言うには何かなあと、美貌は違和感あるけれど、まあ「能力」かなと、結論しました!
 一般論としては変ですね。まあ、本文の文脈限定の定義ということで、文脈で一応意味は補ったつもりです。

> 僕は、両親の笑顔を望んでいた子供、ではありませんでした。

 なるほど。色々ですね。
 本文は、毒親に主体的価値観が破壊された子供が客観的価値観に翻弄されてしまう不幸に言及して、それを例示として全体の構造を証明しようとしているので、全体の論点とは別に、毒親云々は重視した論点でした。
 毒親に翻弄されてしまう子供において、不合理に親を肯定しつづけてしまうというのは、一つの典型的な論点かなと思って、類推の補助として押さえておきました。
 しかし過度に一般的な言及になったかもしれません。
 様々な方がいますよね。なかなか難しい。

> 太々しい子供だったかもしれません。

 素晴らしい〜。

> 概念として、人間が人間を殺しても構わない、という考えを持っています。

 私も思います!
 しかしグロテスクは苦手だし、痛そうなのも苦手だし、闘争は怖いし、仲良しが好きなので、「興味本位に殺してみたいなあ、でも犯罪で捕まるからやめとこっと」、みたいな気持ちはありません。ただ、法律で犯罪だから悪!、周囲が悪と言うから悪!、みたいな考えはゼロだし、人間が人間を殺すことがどのように否定されてきたか、歴史的な倫理?の集団心理は完備に記述できるつもりです。
 それと、殺人が絶対悪だと思っている人は、あまりいないんじゃないかなと思います。多少賢い人は規範を相対化する気がするし、庶民だって、長い人生、こいつぶっ○してえ!って思ったことあると思います。ま、社会秩序は大事ですよね。
 戦争ゲームの中などでの殺人は、娯楽として定着している感すらある。

> 人には、一定値の枠組みが必要です。倫理観や道徳観とは、全く別の物だと思います。

 私は混ぜて考えちゃってます。まずいのかな。

> その枠組みの中で、どれほどの能力を持ち、どれくらい通用するのかは、大きな集団を形成するには必要な事です。そして、予想し易くしています。集団的目標を作り易くしているのです。それが無いと、集団は崩壊していきます。出来ていた事すら全く出来なくなります。

 確かに、他者が相互にコミュニケーションするためには(いろんな意味で)「言語」が必要ですし、集団が効率的に機械化されるためには、個人の能力は画一化して計測される必要があります。国家や世界が一応動作してるってすごいですよね。

> そこから溢れた人は、居なくなる事はありません。人格であろうと能力であろうと、自己肯定感であろうと、溢れた人を止める理由にはなりません。

 確かにそうですね。
 例えば、
「どんな立場や才能の人であれ、自分に自信を持って人生を楽しむことができる。」
 と本文に書いたことは、安易だったかもしれません。
 例えば異端が「人生を楽しむ」ことは、いかなる「自己肯定感」があろうが時に不可能かもしれない。

 しかし、本文に例示したように、毒親が自己肯定感を破壊してしまう場合はあるし、既存の教育のあり方は、そのような家庭環境の不遇を十分に救済していない気がします。もっとできることはあろうだろう、最大限やるべきだ、みたいのが、本文の一つの論点です。
 もう一つの論点は、偏差値云々は名ばかりで、価値とは本質的に主体的だ、という気づきを語るものです。

 なので、全員を幸福にできる論点ではなくとも、一部の人のある種の苦しみを和らげることはできる論点ではあるだろうと、そうは思います。
 既存社会はさほど合理的ではないので、否定されたからといって、その否定を真に受ける必要はない、というメッセージです。

> 周りの人間関係も同じであり、理由にはならないのです。

 『AIは最適な恋人を探せるか』という下らない番組が先日ありましたけれども、内容はともかく題名ですけども、AIが恋人や友人を探してくれたら、けっこうよいのでは、って思います。(私はそれは技術的に100%不可能だと信じていますが、思考実験としてです。)
 マイナーな趣味を持つ人々がネットで知り合って集まるなんてありますよね。歴史的には各地に埋没していた人も、マイナーな趣向で集まって幸福を増進してると思います。
 ある種の特殊性は解決不可能かもしれませんが、ある種のものは、やはり同質の特殊性の最適なマッチングによって、幸福の増進が得られるのではないかな、と私は安易に感じます。
 (むしろお見合いとかって強引な気がしてすごい。)

> 一定値の犠牲はゼロには出来ないのです。

 確かに、ゼロにはできないかもしれません。
 まあ、例えばの話ですけど、ある日無人島に送られて、とりあえずは精力的に生きていける人はよいのではないかなと思います。
 機械的な勉強や仕事のパターンで生きてて、指示や規範が消失した途端に、自分の中も空っぽ、上陸した地点から動かず鬱病のまますみやかに倒れてしまう人は、ある意味病的かなと。
 そんな、内面に喜びのない人を、可能な範囲で減らす手助けができてる社会がいいかなって、そんな本文の論点です。ちょっと極論かもしれません。
 (メインストリームから外れたとしてもたくましく生きられる生命力を、メインストリームの教育は可及的に与えられているか、みたいな。)

> AIから本格的に飼われる事です。

 人間を管理するAIって、人間より賢いのかもしれません。
 私個人的には、AIが人間以上に賢くなることは、人類の幸福の非常なリスクだと思っていて、びびってます。(上で「100%不可能」と考えた理由はこれ。) その時まで自分が長生きするつもりはないですけど。
 まあ確かに、現在の社会の「枠組み」は一般人の知的限界に制約されてますからね。どんな想定か具体的にはわかりませんけど、AIには様々な可能性があることでしょう。

> 後は、収入を750万くらいにする事ですかね。

 私もそのくらいいただけると元気になります!
[一言]
社会的模範を自己肯定の手段としていたら、過去の自分に指を指される可能性が有るので、「自分も間違えるのだからみんなも許そう」を広めて行きたい。
わざと処理しきれ無い仕事をやらせて、叱って、歯車化させる会社が普通に有るから怖い((((;゜Д゜))))
  • 投稿者: 猫鍋EX
  • 2018年 07月15日 06時21分
 猫鍋EX様、ご感想ありがとうございます。

> 社会的模範を自己肯定の手段としていたら、過去の自分に指を指される可能性が有るので、

 ですね。
 形式的な価値観でプライドを持っていても、そこから外れたら自分が空っぽになってしまうかもしれません。
 自己愛や自己満足、言葉は悪いですけど、大切でしょうね。それと身近な人達、隣人愛。

> 「自分も間違えるのだからみんなも許そう」を広めて行きたい。

 いいですね!
 自分に甘く人には厳しい、ついやってしまいそうなことです。人間の認知バイアスですね。
 かつて未熟でありやがて衰える自分を知って、互いに認め合う心の余裕を持つ社会でありたいです。

> わざと処理しきれ無い仕事をやらせて、叱って、歯車化させる会社が普通に有るから怖い((((;゜Д゜))))

 まずプライドを挫いて、上下関係に従順にする。
 そのためなら、理不尽、ダブルスタンダード、モラルの矛盾をあえてする。
 そんな風に、悪い意味で体育会系みたいなこと、しばしば行われるようです。
 罰のないところでは、人間っていくらでも悪魔になります。
 本当に怖いですね。

 会社に従っていれば、それなりの暮らしぶりを与えてはくれた。成長期の日本で形成された、悪癖なのではないでしょうか。
 老いて衰えていく人々がパワハラに頼って、部下の人格を尊重しないようなことをしていれば、もうそんな時代ではないから、競争にもやがて負けていく。
 人それぞれの人柄を尊重する社会であってほしいものですね。
 すぐにどうなることではないでしょうけど、教育や政治には正しいビジョンがあってほしい。それを訴えるためにも、庶民において、自分達自身の人格が尊重に値すると、自覚されてなければならない。
 パワハラしすぎて鬱病にまでなっちゃったらポイ捨てして新しい歯車に交換。良い人ほど悲しい思いをするようなそんな社会は、決して許してはならないのだろうと思います。
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