エピソード238の感想一覧
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[一言]
先刻の追伸
荏開津典夫氏によるとアジアにおいて慢性的栄養不良の境界値は1日摂取カロリー1760kcalです(荏開津典夫著岩波書店発行『農業経済学』p116-117)。
で、今白米の重さにその境界値のカロリーを治してみます。
白米100g当たり米のカロリーは356kcalです。1gなら3.56kcalです。ということは1人1日に必要な米の量は1760kcal÷3.56kcal=494.382022471gとなります。これを18日分ですから8.89887640447kgの食料を背負って山越えして前線に補給しなければなりません。しかも輜重兵の食べ物も前線の食べ物もどちらもひつようだから結局その2倍の17.7977528089㎏もの荷物、否、これに矢も加えると更に重い荷物を背負って山越えを繰り返し、食料を運ばねばなりません。
そんなこと不可能だ。不可能なら略奪か現地での協力を乞うしかありませんが、現地での協力は不可能なので古の都長安で「漢復興」を叫ぶ交戦団体=蜀が略奪するという無茶苦茶な絵面になってしまいます。
なので魏延が頭が悪いかさもなくば余程軽量で高カロリーな軍隊食が蜀で発明されていたと考えました。
孔明が却下したのを見ると、恐らく魏延が無教養であるということになるんでしょうね。
先刻の追伸
荏開津典夫氏によるとアジアにおいて慢性的栄養不良の境界値は1日摂取カロリー1760kcalです(荏開津典夫著岩波書店発行『農業経済学』p116-117)。
で、今白米の重さにその境界値のカロリーを治してみます。
白米100g当たり米のカロリーは356kcalです。1gなら3.56kcalです。ということは1人1日に必要な米の量は1760kcal÷3.56kcal=494.382022471gとなります。これを18日分ですから8.89887640447kgの食料を背負って山越えして前線に補給しなければなりません。しかも輜重兵の食べ物も前線の食べ物もどちらもひつようだから結局その2倍の17.7977528089㎏もの荷物、否、これに矢も加えると更に重い荷物を背負って山越えを繰り返し、食料を運ばねばなりません。
そんなこと不可能だ。不可能なら略奪か現地での協力を乞うしかありませんが、現地での協力は不可能なので古の都長安で「漢復興」を叫ぶ交戦団体=蜀が略奪するという無茶苦茶な絵面になってしまいます。
なので魏延が頭が悪いかさもなくば余程軽量で高カロリーな軍隊食が蜀で発明されていたと考えました。
孔明が却下したのを見ると、恐らく魏延が無教養であるということになるんでしょうね。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月19日 20時30分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
先のご感想、ご質問も踏まえてここで答えさせていただきます。
魏延の作戦について、私も明らかに無茶ではあると思います。ただ無茶であっても悪くない提案だと思います。明らかに国力差のある魏相手にぶつかっていく上で無茶な作戦も行っていかなければならない虚を突くほどの行動をしていく必要性があるのではないかというのが魏延の提案だと思ってます。しかし諸葛亮としては安全策、最善策を行っていくそれを行っていけば勝てる。もしくは蜀の領地拡大して未来に繋いでいくことができると考えていたのでしょう。まあ馬謖が台無しにするんですけどね。
略奪云々に関してはその通りだと思いますね。まあ私は記録に無いだけにやりまくっているとは思いますけどね。
あと諸葛亮と魏延はプロレスしていたのではないかという考えもあります。魏延が無茶な作戦を真っ先に主張し、諸葛亮が却下し安全策を通しやすくする。特に諸葛亮は軍事面では劉備時代はなく、南方討伐は異民族討伐で実績としては弱い可能性もある。そのため自分の考えを通しやすいように魏延とプロレスすることで、作戦実行をやりやすくしたのではないか。
また、作戦への不満を魏延が真っ先に主張することで不満のガス抜きを行う。このプロレスを行っていくことで北伐をやりやすくなったと考えたことはあります。だからこそ李厳から後ろから刺されるが如き、行為に厳しい処置で対処し、息子を用いることで活用する道を完全に閉ざすほどの厳しさを示しながら北伐中は魏延に対しては甘いところがありましたからね。
そしてそのプロレスは自分だからこそ魏延とできるという考えで、楊儀では無理という判断で自分の死後は始末させたのではないか。まあこれも私の妄想に違いません。
農業経済学のカロリーの部分に関してはなるほど、そこまでの量が必要なのですね。そう考えると蜀から魏を攻め込むのは難しいと言わざる負えませんね。諸葛亮はそれでも実行して何回も行いながらあそこまで奮闘したのだからやはり彼の才覚は本物だったのでしょうね。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
先のご感想、ご質問も踏まえてここで答えさせていただきます。
魏延の作戦について、私も明らかに無茶ではあると思います。ただ無茶であっても悪くない提案だと思います。明らかに国力差のある魏相手にぶつかっていく上で無茶な作戦も行っていかなければならない虚を突くほどの行動をしていく必要性があるのではないかというのが魏延の提案だと思ってます。しかし諸葛亮としては安全策、最善策を行っていくそれを行っていけば勝てる。もしくは蜀の領地拡大して未来に繋いでいくことができると考えていたのでしょう。まあ馬謖が台無しにするんですけどね。
略奪云々に関してはその通りだと思いますね。まあ私は記録に無いだけにやりまくっているとは思いますけどね。
あと諸葛亮と魏延はプロレスしていたのではないかという考えもあります。魏延が無茶な作戦を真っ先に主張し、諸葛亮が却下し安全策を通しやすくする。特に諸葛亮は軍事面では劉備時代はなく、南方討伐は異民族討伐で実績としては弱い可能性もある。そのため自分の考えを通しやすいように魏延とプロレスすることで、作戦実行をやりやすくしたのではないか。
また、作戦への不満を魏延が真っ先に主張することで不満のガス抜きを行う。このプロレスを行っていくことで北伐をやりやすくなったと考えたことはあります。だからこそ李厳から後ろから刺されるが如き、行為に厳しい処置で対処し、息子を用いることで活用する道を完全に閉ざすほどの厳しさを示しながら北伐中は魏延に対しては甘いところがありましたからね。
そしてそのプロレスは自分だからこそ魏延とできるという考えで、楊儀では無理という判断で自分の死後は始末させたのではないか。まあこれも私の妄想に違いません。
農業経済学のカロリーの部分に関してはなるほど、そこまでの量が必要なのですね。そう考えると蜀から魏を攻め込むのは難しいと言わざる負えませんね。諸葛亮はそれでも実行して何回も行いながらあそこまで奮闘したのだからやはり彼の才覚は本物だったのでしょうね。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月20日 22時41分
[一言]
「聞くところによると、長安に駐屯している夏侯楙かこうぼうは魏主の壻であり、臆病なうえ謀がありません。今、私に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます。私が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ずや城を棄てて逃走することでしょう。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです。横門邸閣と散民の食糧があれば、食糧をやりくりするに足ります。敵が東方で集結するまで、尚二十余日が必要であり、公が斜谷から来れば、長安に達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます」という魏延の意見具申はどうも褒められたものでないように思えますね。
GoogleMAPで蜀の都成都から長安(現在の陝西省西安市)までのルートはアップダウンが極めて激しく、例え魏延が山越えできても兵站部隊が滞りなく食料、武器、弾薬を輸送する等不可能です。狭い山道では馬車も使えないですので、一輪車かさもなくばリュックのようなもので運ぶしかありませんが、そんなもの山を越える300㎞の間に輜重兵の胃袋に収まってしまうでしょう。300㎞となると1日の行進8時間、時速4㎞として9.375日分です。往復を考えれば18.75日分です。18.75日分の自分が食べる食料に輸送先の前線部隊の食料や矢を一輪車に積み、或いはリュックサックに詰め込んで、山を越える自信は少なくとも私にはありません。
そうなると長安の民衆に魏の暴虐を訴えて協力を乞うしかありませんが、管見の限り魏の領内で不満が溜まっていたという記載はほとんどありません。恐らくよく治まっていたんでしょう。そうなると強硬手段、つまり略奪しかないのですが、「漢王室を復興するための私達は正義の軍隊だ」と宣言して古の都長安で略奪放火をすれば蜀のその「正義」が疑われかねないことになります。以上総合すると、魏延の意見具申を孔明が却下したのは当然でしょう。
そういうことが判らないところを見ると、魏延は大佐くらいしか任せられないですね。
もし魏延が右を考慮してなお意見具申していたとしたら、余程軽量で高カロリーな軍隊食が発明されていたんでしょうな。
「聞くところによると、長安に駐屯している夏侯楙かこうぼうは魏主の壻であり、臆病なうえ謀がありません。今、私に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます。私が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ずや城を棄てて逃走することでしょう。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです。横門邸閣と散民の食糧があれば、食糧をやりくりするに足ります。敵が東方で集結するまで、尚二十余日が必要であり、公が斜谷から来れば、長安に達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます」という魏延の意見具申はどうも褒められたものでないように思えますね。
GoogleMAPで蜀の都成都から長安(現在の陝西省西安市)までのルートはアップダウンが極めて激しく、例え魏延が山越えできても兵站部隊が滞りなく食料、武器、弾薬を輸送する等不可能です。狭い山道では馬車も使えないですので、一輪車かさもなくばリュックのようなもので運ぶしかありませんが、そんなもの山を越える300㎞の間に輜重兵の胃袋に収まってしまうでしょう。300㎞となると1日の行進8時間、時速4㎞として9.375日分です。往復を考えれば18.75日分です。18.75日分の自分が食べる食料に輸送先の前線部隊の食料や矢を一輪車に積み、或いはリュックサックに詰め込んで、山を越える自信は少なくとも私にはありません。
そうなると長安の民衆に魏の暴虐を訴えて協力を乞うしかありませんが、管見の限り魏の領内で不満が溜まっていたという記載はほとんどありません。恐らくよく治まっていたんでしょう。そうなると強硬手段、つまり略奪しかないのですが、「漢王室を復興するための私達は正義の軍隊だ」と宣言して古の都長安で略奪放火をすれば蜀のその「正義」が疑われかねないことになります。以上総合すると、魏延の意見具申を孔明が却下したのは当然でしょう。
そういうことが判らないところを見ると、魏延は大佐くらいしか任せられないですね。
もし魏延が右を考慮してなお意見具申していたとしたら、余程軽量で高カロリーな軍隊食が発明されていたんでしょうな。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月19日 20時08分
エピソード238
[一言]
「謖、違亮節度、舉動失宜」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)と馬謖が諸葛亮の命令に違反したことは三国志に書かれていますが、横山光輝版みたいな「山登りするな」というのは書いていませんね。
そこで、「山登りするな」という命令が有った前提で話を進めると凡そこういうことになりますね。
諸葛亮孔明は馬謖に対し魏軍が隴西方面に抜けるのを防ぐよう命じる際、次のように厳命した。「良いか。現地では絶対山に登るなよ。」と。すると馬謖は「畏れながら、『孫子』「地形篇」だと「險形者、我先居之、必居高陽以待敵」と、高所に拠る有利さを強調しています。高所の有利を捨てよとは如何なる故でございましょう。」と反問した。孔明は「あの界隈の山には水源がないからだ。人間は水が無ければ3日ともたず行動不能に陥る。魏軍が麓の水源を押さえにかかったら一巻の終わりだ。だから絶対に山上に陣を張るな。」と答えた。
かくして馬謖は軍を率いて街亭に至り、王平の進言も先刻の孔明の命令も無視して山上に陣を張り、結果水源を絶たれ惨敗した。
…
無茶苦茶ですね。
横山三国志に代表される「孔明が馬謖に登山禁止令を出した説」だと最早馬謖がわざと敗れたとしか思えないストーリーになってしまいます。まあ、王平の忠告聞かなかったという正史の記述もとどのつまり王平に「この山水出ませんよ。水源絶たれたら3日で将兵は戦闘不能になります。」と言われたのに馬謖がそれを無視して登山を強行したことになり(「謖、舍水上山、舉措煩擾。平、連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/43_kouri.html 三國志卷四十三/蜀書十三/黃李呂馬王張傳第十三)、馬謖が常識では測れない程の愚か者ということになってしまいますよね。
この辺の真相がどうも私には判然としないんですよね。
同じことは石亭での曹休にも言えますね。
常識的に考えれば賈逵に助けてもらったのだから「救援ご苦労」の一言を発するはずで、皇族で大司馬にもなって「全部賈逵が悪いんだ。」等と己を救援してくれた人間を讒謗すれば朝廷でどんな目で見られるかくらい想像できるのにそういう想像ができないという不可解なことをしていますね。
こういうのは心理学者の格好の研究材料になるんですかね。
馬謖と言い、曹休と言い、行動が不可解です。
「謖、違亮節度、舉動失宜」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)と馬謖が諸葛亮の命令に違反したことは三国志に書かれていますが、横山光輝版みたいな「山登りするな」というのは書いていませんね。
そこで、「山登りするな」という命令が有った前提で話を進めると凡そこういうことになりますね。
諸葛亮孔明は馬謖に対し魏軍が隴西方面に抜けるのを防ぐよう命じる際、次のように厳命した。「良いか。現地では絶対山に登るなよ。」と。すると馬謖は「畏れながら、『孫子』「地形篇」だと「險形者、我先居之、必居高陽以待敵」と、高所に拠る有利さを強調しています。高所の有利を捨てよとは如何なる故でございましょう。」と反問した。孔明は「あの界隈の山には水源がないからだ。人間は水が無ければ3日ともたず行動不能に陥る。魏軍が麓の水源を押さえにかかったら一巻の終わりだ。だから絶対に山上に陣を張るな。」と答えた。
かくして馬謖は軍を率いて街亭に至り、王平の進言も先刻の孔明の命令も無視して山上に陣を張り、結果水源を絶たれ惨敗した。
…
無茶苦茶ですね。
横山三国志に代表される「孔明が馬謖に登山禁止令を出した説」だと最早馬謖がわざと敗れたとしか思えないストーリーになってしまいます。まあ、王平の忠告聞かなかったという正史の記述もとどのつまり王平に「この山水出ませんよ。水源絶たれたら3日で将兵は戦闘不能になります。」と言われたのに馬謖がそれを無視して登山を強行したことになり(「謖、舍水上山、舉措煩擾。平、連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/43_kouri.html 三國志卷四十三/蜀書十三/黃李呂馬王張傳第十三)、馬謖が常識では測れない程の愚か者ということになってしまいますよね。
この辺の真相がどうも私には判然としないんですよね。
同じことは石亭での曹休にも言えますね。
常識的に考えれば賈逵に助けてもらったのだから「救援ご苦労」の一言を発するはずで、皇族で大司馬にもなって「全部賈逵が悪いんだ。」等と己を救援してくれた人間を讒謗すれば朝廷でどんな目で見られるかくらい想像できるのにそういう想像ができないという不可解なことをしていますね。
こういうのは心理学者の格好の研究材料になるんですかね。
馬謖と言い、曹休と言い、行動が不可解です。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 09月10日 15時00分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
人は理屈に当てはまらない行動をすることもあるということなのかもしれませんね。
今後もご感想お待ちしております。
人は理屈に当てはまらない行動をすることもあるということなのかもしれませんね。
今後もご感想お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 09月10日 23時43分
[一言]
確かに馬謖が蜀を裏切ろうとしていたとしたら誰も庇い建てするはずないですよね。
ということは、馬謖配下の将校が調略を受けたというのが妥当なんですかね。
「馬謖閣下、この山の反対側斜面に、ちょっと掘れば出現する地下水脈があります。」と馬謖配下の将校が進言する。馬謖は「おう、そうか。確か貴官はこの界隈出身だったな。敵は恐らく山に陣を張った我らを見て水源を絶とうとするだろう。だが、奴らにこの隠れた水源は判るまい。王平は5000人の兵で街道遮断。残るは全員山の上へ。魏軍が水源絶つまでは山を下りて水汲みするんだぞ。そしたら奴ら、山に水源がないと思うだろう。そして、脱水が起こる4日目くらいに攻撃を仕掛けるだろう。もし山の上に攻撃を仕掛けてきたら上から矢玉で殲滅、もし王平に攻撃を仕掛けたら一気に山を下りて敵の背後を急襲する。」かくして、街亭近辺出身の将校(敵の調略済み)をすっかり信じた馬謖は兵士に食料、鶴嘴、スコップを持たせ、意気揚々と山登りを始めた。だが、水源等最初からないので、結果は見るも無残な敗戦だった。
これなら山登りの理由も説明できそうです。
確かに馬謖が蜀を裏切ろうとしていたとしたら誰も庇い建てするはずないですよね。
ということは、馬謖配下の将校が調略を受けたというのが妥当なんですかね。
「馬謖閣下、この山の反対側斜面に、ちょっと掘れば出現する地下水脈があります。」と馬謖配下の将校が進言する。馬謖は「おう、そうか。確か貴官はこの界隈出身だったな。敵は恐らく山に陣を張った我らを見て水源を絶とうとするだろう。だが、奴らにこの隠れた水源は判るまい。王平は5000人の兵で街道遮断。残るは全員山の上へ。魏軍が水源絶つまでは山を下りて水汲みするんだぞ。そしたら奴ら、山に水源がないと思うだろう。そして、脱水が起こる4日目くらいに攻撃を仕掛けるだろう。もし山の上に攻撃を仕掛けてきたら上から矢玉で殲滅、もし王平に攻撃を仕掛けたら一気に山を下りて敵の背後を急襲する。」かくして、街亭近辺出身の将校(敵の調略済み)をすっかり信じた馬謖は兵士に食料、鶴嘴、スコップを持たせ、意気揚々と山登りを始めた。だが、水源等最初からないので、結果は見るも無残な敗戦だった。
これなら山登りの理由も説明できそうです。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月17日 10時28分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
馬謖の配下が調略を受けていたと仮定すると次に問題になるのはどのタイミングで魏がその調略を行っていたのかという話になるのですが、正直、魏は蜀の侵攻にびっくりしている部分のが強く、どちらかと言えば後手側なんですよね。その魏軍が話して調略をすぐさま行えるのかということに疑問を覚えます。馬謖が街亭に派遣された段階では蜀側のが勢いがあるので、このタイミングで調略を仕掛けられてそれに乗るのかという疑問もあります。そうなるともっと前からという話になるのですが、それも首を傾げたくなるので、この配下が調略を受けていたというのは現実的ではあるものの、実際にそうだとは言えないんですよね。
個人的には街亭の戦いの重要性は馬謖の突っ込みどころの大きい判断によってもたらされた大きすぎる被害によってもたらされた歴史への影響力と馬謖に対して諸葛亮が下した処罰への当時の人々の考え、後世の者のそれに対しての批評が残っていることのが興味深いですね。
今後もご感想お待ちしております。
馬謖の配下が調略を受けていたと仮定すると次に問題になるのはどのタイミングで魏がその調略を行っていたのかという話になるのですが、正直、魏は蜀の侵攻にびっくりしている部分のが強く、どちらかと言えば後手側なんですよね。その魏軍が話して調略をすぐさま行えるのかということに疑問を覚えます。馬謖が街亭に派遣された段階では蜀側のが勢いがあるので、このタイミングで調略を仕掛けられてそれに乗るのかという疑問もあります。そうなるともっと前からという話になるのですが、それも首を傾げたくなるので、この配下が調略を受けていたというのは現実的ではあるものの、実際にそうだとは言えないんですよね。
個人的には街亭の戦いの重要性は馬謖の突っ込みどころの大きい判断によってもたらされた大きすぎる被害によってもたらされた歴史への影響力と馬謖に対して諸葛亮が下した処罰への当時の人々の考え、後世の者のそれに対しての批評が残っていることのが興味深いですね。
今後もご感想お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 08月17日 21時13分
[一言]
こういうのはどうですかね。馬謖は街亭付近に到着した魏軍の調略を受け、内通する気満々だった。だからわざと負けるように水源が無い山の上に陣を張った。そして、水不足に兵が苦しみだしたころ、魏軍へ投降したが、「お前は孔明に散々可愛がられていながら簡単に蜀を裏切ろうとしている。そのような人間を我々が信じると思うか。命が惜しくばとっとと失せろ。」と魏軍に言われ、すたこら逃走し、後に蜀に捕まって斬首された。
孔明が「泣いて馬謖を斬った」のは信頼していた馬謖が自分を裏切ろうとしていたことから己の眼力を恥じたからであり、また丞相を降任してほしいと願ったのも簡単に裏切るような人間を信用してしまったという丞相職に必要な人を見る目に欠けるところがあると思ったからである。
というのはどうでしょう。
そうでないと、わざわざ危険を冒して水源を放棄して山上に陣を張る軍事上の理由を見出せないように思えます。
こういうのはどうですかね。馬謖は街亭付近に到着した魏軍の調略を受け、内通する気満々だった。だからわざと負けるように水源が無い山の上に陣を張った。そして、水不足に兵が苦しみだしたころ、魏軍へ投降したが、「お前は孔明に散々可愛がられていながら簡単に蜀を裏切ろうとしている。そのような人間を我々が信じると思うか。命が惜しくばとっとと失せろ。」と魏軍に言われ、すたこら逃走し、後に蜀に捕まって斬首された。
孔明が「泣いて馬謖を斬った」のは信頼していた馬謖が自分を裏切ろうとしていたことから己の眼力を恥じたからであり、また丞相を降任してほしいと願ったのも簡単に裏切るような人間を信用してしまったという丞相職に必要な人を見る目に欠けるところがあると思ったからである。
というのはどうでしょう。
そうでないと、わざわざ危険を冒して水源を放棄して山上に陣を張る軍事上の理由を見出せないように思えます。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月15日 17時41分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
それは流石に無いと思います。馬謖は街亭での敗戦の後、真っすぐ諸葛亮へ謝罪しに行かずに向朗のところに逃げ込むようなだらしないところのある人物ではありますが、魏軍の調略に乗るような人では無いと思います。もしそのような事実があるのであれば、諸葛亮は処罰するまでにあそこまで悩まなかったでしょうし、向朗が馬謖を見逃そうとしたり、蒋琬が処罰に待ったをかけたり、馬謖の寵愛を擁護されたり、彼への処罰を後世で批難されるようなことはなかったと思います。
もしそのような事実があるとすれば、馬謖ではなく、その配下が調略を受けており、山上で陣を張ることを提案し、させたというものはあるかもしれませんね。事実、馬謖の下にいた者たちは王平以外ほとんど処罰されてますからね。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
それは流石に無いと思います。馬謖は街亭での敗戦の後、真っすぐ諸葛亮へ謝罪しに行かずに向朗のところに逃げ込むようなだらしないところのある人物ではありますが、魏軍の調略に乗るような人では無いと思います。もしそのような事実があるのであれば、諸葛亮は処罰するまでにあそこまで悩まなかったでしょうし、向朗が馬謖を見逃そうとしたり、蒋琬が処罰に待ったをかけたり、馬謖の寵愛を擁護されたり、彼への処罰を後世で批難されるようなことはなかったと思います。
もしそのような事実があるとすれば、馬謖ではなく、その配下が調略を受けており、山上で陣を張ることを提案し、させたというものはあるかもしれませんね。事実、馬謖の下にいた者たちは王平以外ほとんど処罰されてますからね。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 08月15日 20時04分
[一言]
素朴な疑問としてもう一つあります。
街亭古戦場をGoogleマップで確認すると、付近の山は山脈になっていて、いくら魏軍が大軍と雖も、下山ルートを全て塞ぐのは不可能だと思うのです。だからどこか魏軍がいない、若しくは備えが薄い場所を通って下山し、王平と合流するという選択肢が水の手を絶たれた後の馬謖にもあったと思われます。それができなかったのは何故なんでしょうか。
素朴な疑問としてもう一つあります。
街亭古戦場をGoogleマップで確認すると、付近の山は山脈になっていて、いくら魏軍が大軍と雖も、下山ルートを全て塞ぐのは不可能だと思うのです。だからどこか魏軍がいない、若しくは備えが薄い場所を通って下山し、王平と合流するという選択肢が水の手を絶たれた後の馬謖にもあったと思われます。それができなかったのは何故なんでしょうか。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月11日 19時01分
エピソード238
ご感想、ご疑問ありがとうごじあます。ご返信が遅れてしまい申し訳ございません。
先の疑問点と合わせてここで私の想像という形の私見をお伝えします。
一つ目の山の上に陣地を構築したのかについてですが、この時の馬謖は迫りつつある魏軍を早期に打ち破ろうとしたのではないでしょうか。諸葛亮からの指示は街亭で魏軍相手に防衛してほしいというものであったのに、馬謖は防衛ではなく、迎撃して魏軍を打ち破るという作戦を取るため高地から魏軍と決戦する。そのために決戦時に有利になることが多い高地に位置する山上に陣地を構えるという形を取ったのではないでしょうか。
しかしながら馬謖の下の諸将は王平を始め、諸葛亮のオーダー通り防衛のみすべきという考えで反発した。その意見のすり合わせをすることなく、司令官として馬謖は強行して山上に陣地を作り、王平は少数の兵を率いて山下で陣地を構えることになった。もしかしたらこの作戦行動を起こすまでが私たちが考えていた以上に時間をかけた可能性もあります。その行動を行う上で水を大量に持ち込む、または山においての水の捜索を行う時間がなかったか。そのようなものを用意するまでもなく、早々に相手を打ち破れると考えたのかもしれません。
それで二つ目の疑問なのですが、馬謖はあくまで高地を先に取って決戦する上で有利を取りましたが、ここで馬謖が大きなミスとして、魏軍と決戦しようとしているのに、待ちの姿勢になった部分があります。魏軍が挑んできて、こちらが高地から逆落としのような勢いをもって迎え撃ちそのまま魏軍を破る形を考えていたのではないでしょうか。それに対して魏軍の将軍・張郃はすぐに挑むことは無く、包囲して持久戦を取ろうとした。何せ相手はわざわざ水の補給がしづらそうな山の上に陣取っているのだからそのまま干せば良いと考えたのでしょう。
その動きに馬謖は驚き、慌てたことでしょう。しかし経験の浅い彼はすぐに動けなかった。ここは経験の差でしょう。ここで張郃の指揮能力を必要以上に強めることになるのですが、張郃は相手の布陣を見てすぐに水場を捜索させて、馬謖よりも発見して敢えて相手に教えるという手を取ったらどうでしょうか。経験の浅い、馬謖はそれを知るとその水場の確保に動いたところで張郃は伏兵を持って打ち破った。
この敗戦により兵を減らし、馬謖の陣営は混乱してしまった。そのまま張郃は馬謖の陣地を攻撃し、破ったという流れがこの街亭の戦いだったのはないかと想像しております。まあこれは馬謖の思考が戦場で必要以上に結果を出そうとし過ぎですし、王平以外の諸将は何をやっているんだという思いがあるので、なんとも言えませんけどね。
今後も疑問点あればご指摘頂ければと思います。お待ちしております。
先の疑問点と合わせてここで私の想像という形の私見をお伝えします。
一つ目の山の上に陣地を構築したのかについてですが、この時の馬謖は迫りつつある魏軍を早期に打ち破ろうとしたのではないでしょうか。諸葛亮からの指示は街亭で魏軍相手に防衛してほしいというものであったのに、馬謖は防衛ではなく、迎撃して魏軍を打ち破るという作戦を取るため高地から魏軍と決戦する。そのために決戦時に有利になることが多い高地に位置する山上に陣地を構えるという形を取ったのではないでしょうか。
しかしながら馬謖の下の諸将は王平を始め、諸葛亮のオーダー通り防衛のみすべきという考えで反発した。その意見のすり合わせをすることなく、司令官として馬謖は強行して山上に陣地を作り、王平は少数の兵を率いて山下で陣地を構えることになった。もしかしたらこの作戦行動を起こすまでが私たちが考えていた以上に時間をかけた可能性もあります。その行動を行う上で水を大量に持ち込む、または山においての水の捜索を行う時間がなかったか。そのようなものを用意するまでもなく、早々に相手を打ち破れると考えたのかもしれません。
それで二つ目の疑問なのですが、馬謖はあくまで高地を先に取って決戦する上で有利を取りましたが、ここで馬謖が大きなミスとして、魏軍と決戦しようとしているのに、待ちの姿勢になった部分があります。魏軍が挑んできて、こちらが高地から逆落としのような勢いをもって迎え撃ちそのまま魏軍を破る形を考えていたのではないでしょうか。それに対して魏軍の将軍・張郃はすぐに挑むことは無く、包囲して持久戦を取ろうとした。何せ相手はわざわざ水の補給がしづらそうな山の上に陣取っているのだからそのまま干せば良いと考えたのでしょう。
その動きに馬謖は驚き、慌てたことでしょう。しかし経験の浅い彼はすぐに動けなかった。ここは経験の差でしょう。ここで張郃の指揮能力を必要以上に強めることになるのですが、張郃は相手の布陣を見てすぐに水場を捜索させて、馬謖よりも発見して敢えて相手に教えるという手を取ったらどうでしょうか。経験の浅い、馬謖はそれを知るとその水場の確保に動いたところで張郃は伏兵を持って打ち破った。
この敗戦により兵を減らし、馬謖の陣営は混乱してしまった。そのまま張郃は馬謖の陣地を攻撃し、破ったという流れがこの街亭の戦いだったのはないかと想像しております。まあこれは馬謖の思考が戦場で必要以上に結果を出そうとし過ぎですし、王平以外の諸将は何をやっているんだという思いがあるので、なんとも言えませんけどね。
今後も疑問点あればご指摘頂ければと思います。お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 08月11日 22時33分
[一言]
素朴な疑問です。
馬謖は何故水がでない山上に陣地構築したんですかね。
水がないことは山に登ればすぐ判るからすぐ山を下りて麓の街道を塞ぐ方針に切り替えれば充分間に合いますよね。
ところが馬謖は山に登ってそのまま陣地構築してしまっている。
もしどうしても山登りしたければ必要な量の水を予め大量に汲んで、それを担いで山上に運び込む等の対策をすると思うんです。無論、水が腐らぬよう全部煮沸する等して。
そういったこともせず山登りする馬謖の言動が正史を見てもまたどれだけ推測を巡らせても私には何が何やら。
何ぞ右について合理的な推測はできませんかね。
素朴な疑問です。
馬謖は何故水がでない山上に陣地構築したんですかね。
水がないことは山に登ればすぐ判るからすぐ山を下りて麓の街道を塞ぐ方針に切り替えれば充分間に合いますよね。
ところが馬謖は山に登ってそのまま陣地構築してしまっている。
もしどうしても山登りしたければ必要な量の水を予め大量に汲んで、それを担いで山上に運び込む等の対策をすると思うんです。無論、水が腐らぬよう全部煮沸する等して。
そういったこともせず山登りする馬謖の言動が正史を見てもまたどれだけ推測を巡らせても私には何が何やら。
何ぞ右について合理的な推測はできませんかね。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月10日 13時26分
エピソード238
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