エピソード242の感想一覧
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[一言]
なるほど。私としては、そもそも孫家は管見の限り天子になったことがないのだし、別に魏や蜀が滅茶苦茶しているわけではないのだからどっちかの王朝を支持して例えば江南侯とか呉侯とかいう位を貰って「私は蜀の(又は魏の)臣下でございます。」という顔していた方が安全かなと。
蜀の劉備、劉禅が皇帝を名乗ったのは「私は漢の皇族だ。漢王室に何の血脈もない曹家に王朝を取られてたまるか」というプライドから、曹丕や曹叡が皇帝を名乗ったのは「私は400年続いた漢王室の献帝が「汝になら中華を任せられる。」と仰って堯や舜等の古の名君の禅譲の例を挙げて皇位をお譲り下さった。私こそ正統な皇帝だ。」ということからですよね。
孫権には血筋も禅譲もないから「魏や蜀が無茶苦茶しているから皆を暴政から解放するために立ち上がるんだ。」という放伐しか理由付けができません。
ところが、孫権が周の武王の真似して大演説をぶって最後に「故今予権惟共行天罰勉哉夫子不可再不可三」(史記巻四周本紀第四の武王の牧野の戦いの演説の最後のフレーズを文字っています)と言ったって恐らく呉の実効支配地域の人以外ついてこないと思うんです。何しろ前述の通り魏も蜀もよく治まっていますので。
そうなると、孫権が「私は皇帝だ」と名乗っても意味がないどころか害しかないように思えるんです。
例えばこれが蜀で孔明が死んで劉禅が暗君化してからとか魏が度重なる対蜀戦争や対呉戦争で疲弊して魏の領内に不満が溜まっているときに「放伐」宣言して皇帝になれば文字通りの「皇帝」になれると思うんです。
なるほど。私としては、そもそも孫家は管見の限り天子になったことがないのだし、別に魏や蜀が滅茶苦茶しているわけではないのだからどっちかの王朝を支持して例えば江南侯とか呉侯とかいう位を貰って「私は蜀の(又は魏の)臣下でございます。」という顔していた方が安全かなと。
蜀の劉備、劉禅が皇帝を名乗ったのは「私は漢の皇族だ。漢王室に何の血脈もない曹家に王朝を取られてたまるか」というプライドから、曹丕や曹叡が皇帝を名乗ったのは「私は400年続いた漢王室の献帝が「汝になら中華を任せられる。」と仰って堯や舜等の古の名君の禅譲の例を挙げて皇位をお譲り下さった。私こそ正統な皇帝だ。」ということからですよね。
孫権には血筋も禅譲もないから「魏や蜀が無茶苦茶しているから皆を暴政から解放するために立ち上がるんだ。」という放伐しか理由付けができません。
ところが、孫権が周の武王の真似して大演説をぶって最後に「故今予権惟共行天罰勉哉夫子不可再不可三」(史記巻四周本紀第四の武王の牧野の戦いの演説の最後のフレーズを文字っています)と言ったって恐らく呉の実効支配地域の人以外ついてこないと思うんです。何しろ前述の通り魏も蜀もよく治まっていますので。
そうなると、孫権が「私は皇帝だ」と名乗っても意味がないどころか害しかないように思えるんです。
例えばこれが蜀で孔明が死んで劉禅が暗君化してからとか魏が度重なる対蜀戦争や対呉戦争で疲弊して魏の領内に不満が溜まっているときに「放伐」宣言して皇帝になれば文字通りの「皇帝」になれると思うんです。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月19日 19時40分
エピソード242
ご感想ありがとうございます。
孫権が魏と蜀の臣下として振る舞うというのは、難しいと思います。特に蜀の臣下という形になるのは難しいと思います。劉備が荊州と益州を有した段階では、荊州を貸しているという認識の強い孫権からすれば屈辱的でしょうし、荊州を奪還した段階では荊州を取り戻した立場でそれを言うのは性格上も踏まえて無理だと思います。それに孫権からすれば自分よりも弱い国だと思っている蜀の下につくのはありえないでしょう。
魏に関しては曹操が生きている間であれば、彼としては下についてもいいと考えていた可能性は無いわけではないと思いますが、孫権の性格上、同年代の曹丕、その年下の曹叡の下につこうとは思わないと思います。また、荊州と揚州を擁している状態で更に領地を拡大しようとするのであれば、魏の方面に進みたいでしょう。蜀は益州を荊州の方向だけで落とすのは難しいと思いますしね。
また、孫権が皇帝になったら支配地域の人しかついてこないという部分においては私はそのために皇帝を称する必要があると思います。呉の地域を治め、運営していく必要のある格が必要なのだと思います。これが魏と蜀が皇帝を称していないなら問題は無いでしょうが、両国が称している状態で彼らと関係を持つ上での格がないのは問題があると思います。まあこの頃にどこまで愛国心という考え方が成熟してはいないと思いますが、自分の住む国が他国よりも下の立場というのは面白くないという意識も出てくるかもしれませんね。まあこれは現代的な考え方でしょうが。
また、赤壁の戦い前に魯粛が自分たちは降伏しても上の地位になれるが、孫権は上の地位にはいけないというのがありましたが、孫権が皇帝にならないと臣下たちはもっと上の地位に行くのは難しい。もしかすれば、孫権から離れて魏、蜀についた方がもっと良い地位を手にすることもできる可能性が生まれてしまう。それを防ぐ意味もあるとは思います。
仮に江南侯とか呉侯として立ち回るとすると魏からも蜀からもその称しているものよりも明らかに領地と国力が大きすぎますし、呉王という立場ならとなるともし魏と蜀どちらかがつぶれた場合、劉氏か曹氏ではないものが王を称してはならないで、潰していく動きになるでしょう。そうならないように両国が潰し切らないように立ち回る。それを行っていくやり方は理想であっても実行は難しいと思います。
魏と蜀の弱体化を待つ。確かにそれは理想です。その時の、天命を待ち続けた周の文王、武王親子。天命が来るまで呉を滅ぼすのに待ったをかけ続けた越の范蠡の凄さはそこにあると思いますが、孫権の性格上それはできないでしょう。そうでなければ小手先の手で魏にちょっかいをかけ続けることはなかったでしょうしね。我慢できるような人ではないのでしょう。
今後もご質問お待ちしております。
孫権が魏と蜀の臣下として振る舞うというのは、難しいと思います。特に蜀の臣下という形になるのは難しいと思います。劉備が荊州と益州を有した段階では、荊州を貸しているという認識の強い孫権からすれば屈辱的でしょうし、荊州を奪還した段階では荊州を取り戻した立場でそれを言うのは性格上も踏まえて無理だと思います。それに孫権からすれば自分よりも弱い国だと思っている蜀の下につくのはありえないでしょう。
魏に関しては曹操が生きている間であれば、彼としては下についてもいいと考えていた可能性は無いわけではないと思いますが、孫権の性格上、同年代の曹丕、その年下の曹叡の下につこうとは思わないと思います。また、荊州と揚州を擁している状態で更に領地を拡大しようとするのであれば、魏の方面に進みたいでしょう。蜀は益州を荊州の方向だけで落とすのは難しいと思いますしね。
また、孫権が皇帝になったら支配地域の人しかついてこないという部分においては私はそのために皇帝を称する必要があると思います。呉の地域を治め、運営していく必要のある格が必要なのだと思います。これが魏と蜀が皇帝を称していないなら問題は無いでしょうが、両国が称している状態で彼らと関係を持つ上での格がないのは問題があると思います。まあこの頃にどこまで愛国心という考え方が成熟してはいないと思いますが、自分の住む国が他国よりも下の立場というのは面白くないという意識も出てくるかもしれませんね。まあこれは現代的な考え方でしょうが。
また、赤壁の戦い前に魯粛が自分たちは降伏しても上の地位になれるが、孫権は上の地位にはいけないというのがありましたが、孫権が皇帝にならないと臣下たちはもっと上の地位に行くのは難しい。もしかすれば、孫権から離れて魏、蜀についた方がもっと良い地位を手にすることもできる可能性が生まれてしまう。それを防ぐ意味もあるとは思います。
仮に江南侯とか呉侯として立ち回るとすると魏からも蜀からもその称しているものよりも明らかに領地と国力が大きすぎますし、呉王という立場ならとなるともし魏と蜀どちらかがつぶれた場合、劉氏か曹氏ではないものが王を称してはならないで、潰していく動きになるでしょう。そうならないように両国が潰し切らないように立ち回る。それを行っていくやり方は理想であっても実行は難しいと思います。
魏と蜀の弱体化を待つ。確かにそれは理想です。その時の、天命を待ち続けた周の文王、武王親子。天命が来るまで呉を滅ぼすのに待ったをかけ続けた越の范蠡の凄さはそこにあると思いますが、孫権の性格上それはできないでしょう。そうでなければ小手先の手で魏にちょっかいをかけ続けることはなかったでしょうしね。我慢できるような人ではないのでしょう。
今後もご質問お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月20日 22時13分
[一言]
「孫権が皇帝になったのである。」
このことがよく判らないですね。中国で皇帝になるには先代皇帝の長子又は最近親者として帝位を受け継ぐか禅譲により、つまり元の皇帝から「お前にならこの国を任せられる」と言って譲られる(曹丕)か徳を失って失政や暴政を行う皇帝を力ずくで玉座から引きずり下ろす放伐しかありません。
まず、1番目ですが、孫権は漢の皇室の出でないので、これは無理です。次に、禅譲については「禪位、冊曰「咨爾魏王。昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不于常、惟歸有德。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大亂茲昏、羣兇肆逆、宇內顛覆。賴武王神武、拯茲難於四方、惟清區夏、以保綏我宗廟、豈予一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光于乃德、恢文武之大業、昭爾考之弘烈。皇靈降瑞、人神告徵、誕惟亮采、師錫朕命、僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之曆數在爾躬、允執其中、天祿永終。君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。」」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/02_buntei.html 三國志卷二/魏書二/文帝紀第二)とあるように漢最後の皇帝が曹丕に舜や禹といった伝説上の名君まで持ち出して禅譲を宣告していますので、孫権が禅譲を受けることはあり得ませんし、また現に受けていません。
では3番目の放伐ではどうか。
劉禅は名君とは言えませんが、蜀軍については「賞罰肅而號令明」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)るまりは「賞罰が厳粛で号令も明快」と賞され、非常によく治まっていて、殷の紂王が「好酒淫楽」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958 史記巻三殷本紀第三(当該デジタルコレクションのコマ56))とか「厚賦税以実鹿臺之銭」(出典同じ)等、己の快楽のためにやりたい放題しているのをぼろくそ書かれているのと大違いです。
で、魏はというと、こちらも管見の限りぼろくそ書かれている件は見当たりませんでした。
そうすると、孫権が皇帝を名乗っても、中国の人々が靡くとは到底思えません。
しかも皇帝=天子は中国に一人なので、これは魏、蜀どちらに対しても反逆(少なくとも分断国家)を宣言したのと同じなので、両側から攻められる恐れがあります。或いは呉、蜀の関係がこじれ、そこを魏に攻められる恐れもあります。魏が呉を攻める大義名分としては帝位を勝手に名乗った逆賊内乱罪と言ったところでしょう。
「王」であれば魏か蜀のどちらかに臣従し、呉の地域の統治を安堵してもらうという体裁が整いますから、確実にどちらかの庇護は受けられます。
以上総合すると、孫権が皇帝を名乗ることは有害無益でしかないでしょう。
孫権は何故この時期に皇帝を名乗ったのでしょう。
「孫権が皇帝になったのである。」
このことがよく判らないですね。中国で皇帝になるには先代皇帝の長子又は最近親者として帝位を受け継ぐか禅譲により、つまり元の皇帝から「お前にならこの国を任せられる」と言って譲られる(曹丕)か徳を失って失政や暴政を行う皇帝を力ずくで玉座から引きずり下ろす放伐しかありません。
まず、1番目ですが、孫権は漢の皇室の出でないので、これは無理です。次に、禅譲については「禪位、冊曰「咨爾魏王。昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不于常、惟歸有德。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大亂茲昏、羣兇肆逆、宇內顛覆。賴武王神武、拯茲難於四方、惟清區夏、以保綏我宗廟、豈予一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光于乃德、恢文武之大業、昭爾考之弘烈。皇靈降瑞、人神告徵、誕惟亮采、師錫朕命、僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之曆數在爾躬、允執其中、天祿永終。君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。」」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/02_buntei.html 三國志卷二/魏書二/文帝紀第二)とあるように漢最後の皇帝が曹丕に舜や禹といった伝説上の名君まで持ち出して禅譲を宣告していますので、孫権が禅譲を受けることはあり得ませんし、また現に受けていません。
では3番目の放伐ではどうか。
劉禅は名君とは言えませんが、蜀軍については「賞罰肅而號令明」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)るまりは「賞罰が厳粛で号令も明快」と賞され、非常によく治まっていて、殷の紂王が「好酒淫楽」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958 史記巻三殷本紀第三(当該デジタルコレクションのコマ56))とか「厚賦税以実鹿臺之銭」(出典同じ)等、己の快楽のためにやりたい放題しているのをぼろくそ書かれているのと大違いです。
で、魏はというと、こちらも管見の限りぼろくそ書かれている件は見当たりませんでした。
そうすると、孫権が皇帝を名乗っても、中国の人々が靡くとは到底思えません。
しかも皇帝=天子は中国に一人なので、これは魏、蜀どちらに対しても反逆(少なくとも分断国家)を宣言したのと同じなので、両側から攻められる恐れがあります。或いは呉、蜀の関係がこじれ、そこを魏に攻められる恐れもあります。魏が呉を攻める大義名分としては帝位を勝手に名乗った逆賊内乱罪と言ったところでしょう。
「王」であれば魏か蜀のどちらかに臣従し、呉の地域の統治を安堵してもらうという体裁が整いますから、確実にどちらかの庇護は受けられます。
以上総合すると、孫権が皇帝を名乗ることは有害無益でしかないでしょう。
孫権は何故この時期に皇帝を名乗ったのでしょう。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月17日 19時31分
エピソード242
ご質問ありがとうございます。
孫権が皇帝を名乗ったのはまあ本人の性格もあるでしょうが、蜀と魏が戦っている中で、どちらも皇帝がいる状態の中、自分だけが皇帝と称していないことにより、対等の外交を展開することができないのではないかという考え方や
両国がばちばちにやりあっている中、自分が皇帝になっても蜀は呉との同盟を解消しようとはしないだろうし、魏は批難はしても蜀から攻撃を受けており、いきなり大規模に呉へ侵攻しないだろうという打算もあって称したのではないでしょうか。また、天下を争うという意思を皇帝になることで称していないと、呉の国家方針がよくわからないものになってしまうというのもある気がします。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
孫権が皇帝を名乗ったのはまあ本人の性格もあるでしょうが、蜀と魏が戦っている中で、どちらも皇帝がいる状態の中、自分だけが皇帝と称していないことにより、対等の外交を展開することができないのではないかという考え方や
両国がばちばちにやりあっている中、自分が皇帝になっても蜀は呉との同盟を解消しようとはしないだろうし、魏は批難はしても蜀から攻撃を受けており、いきなり大規模に呉へ侵攻しないだろうという打算もあって称したのではないでしょうか。また、天下を争うという意思を皇帝になることで称していないと、呉の国家方針がよくわからないものになってしまうというのもある気がします。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月18日 22時45分
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