エピソード257の感想一覧

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[一言]
「どうして千里も離れているのに魏帝に戦うことを請う必要があろうか」(玉著)(正史三國志原文で言う「豈千里而請戰邪!」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu35.html三國志卷三十五/蜀書五/裴松之注釈 註10-03))ですが、これは当然ですよね。魏の都洛陽から戦場である五丈原まで道程にして494㎞有ります(グーグルマップ)。そして、2017年4月30日に天皇賞(春)において打ち立てられた3200mのタイムが3分12.5秒である(https://keiba.yahoo.co.jp/records/?kd=3&place=8)ことを思えば、馬が人間を乗せて走る速度は59.8441558438km/hが限度ということになります。そうすると、昼夜を分かたず駆けて五丈原から都に伝令がたどり着くまで8.2547747743056時間、往復で16.5095486112時間もかかってしまい、これだけのタイムラグがあれば報告も命令も最早死んだものになってしまいます。
ただ、そうすると、石亭の戦いで曹休が「内通者がさらなる深入りを請うて来ています。」と曹叡に伺いを立てた(「休更表、賊有請降者求深入應之」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/15_ryushiba.html 三國志卷十五/魏書十五/劉司馬梁張溫賈傳第十五))のが判りませんね。方面軍司令官が逐一皇帝に伺いを立て、しかしながら返ってくる勅命に反し単独進軍している。
もし曹休が伺いを立てていなければ単なる現場指揮官たる曹休の判断ミス、よくある失敗ということで済んだのに対し、伺いを立てたことにより、当然曹叡はそれに対する命令を下すことになるから、これに反すれば勅命違反の被疑者になってしまう。そうなると、命令違反による敗戦は単なる敗戦では済まなくなってしまう。
常識的に考えれば曹叡かた「賈逵と共に進むよう命じたはずが何故貴官は単独で進軍したのか。朕の命令を受けることができぬような状況変化でも有ったのか。この点詳しく釈明せよ。」と言われてしまいますし、記録を見る限りそんな状況変化は見出せないからとどのつまり「命令違反の上多数の将兵を死なせた罪は重く、死罪。」ということになってしまいますね。
だからあの時曹休は散々賈逵を罵倒して上奏文を何度も送付して賈逵を罪に問おうとした(「魏略曰。休怨逵進遲、乃呵責逵、遂使主者敕豫州刺史往拾棄仗。逵恃心直、謂休曰「本爲國家作豫州刺史、不來相爲拾棄仗也。」乃引軍還。遂與休更相表奏、朝廷雖知逵直、猶以休爲宗室任重、兩無所非也。
魏書云。休猶挾前意、欲以後期罪逵」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu15.html#1701 三國志卷十五/魏書十五/裴松之注釈 註17-01)んですね。
誰かに罪を擦り付けないと曹休の生首が飛ぶから。ただの負けなら曹叡も「勝敗は兵家の常と言うし、周魴の罠にかかったのも呉軍が一枚上だっただけだ。」と言うでしょう(もし敗戦のみを理由に将校の生首を斬っていれば戦争の指揮官等幾らいても足りない)が、伺いを立てておきながら返ってくる命令に違反し、しかも正当な違反理由もないとなると、私が曹叡なら怒り狂っていますよ。「貴官はわざわざ伝令を飛ばしてしなくても朕の勅を求めておきながらその勅に反して単独進軍した。それでも何事か緊急事態が起きたのであろうと考え、勅命違反の理由を尋ねたら貴官は「何もない」と答える。朕を愚弄する気か。勅命に反し、単独進軍した挙句多数の将兵を死に至らしめた貴官の罪は重い。貴官は死罪。」となる情景を曹休は思い浮かべたから賈逵に罪を擦り付けようとしたんでしょうね。
そう考えると、曹休の見苦しさが一層際立ちます。
  • 投稿者: 山城守
  • 2022年 03月27日 17時29分
 ご感想ありがとうございます。

 曹休に関しては戦の最中に賈逵を批難しても勝てば批難されないだろうと思っていたところはあると思います。皇族の一員ですし、曹叡は処罰に関して甘い人なのでこの戦の結果で死刑まではなかったのではないでしょうか。まあ戦に負けて曹休は憤死しましたけどね。

 今後もご感想お待ちしております。
  • 大田牛二
  • 2022年 03月28日 21時29分
[一言]
昨日の補足として申し上げます。
前漢文帝が右丞相周勃に刑事裁判の年間の数を質問した際(「天下一歳決獄幾何」(『史記』巻五十六 陳丞相世家(広済堂出版『史記読本. 巻53−60』(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776186/8?tocOpened=1)コマ番号38に収録))と歳入歳出を同帝が問うた(「天下一歳銭穀出入幾何」(出典同じ))際周勃が恐縮しながら「存じません。」と答弁した(前者質問に対する答弁については史記では「勃謝曰不知」(出典同じ)、後者については「勃又謝不知」(出典同じ)と記載)のに対し左丞相陳平は「それには担当者がおります。」と答弁し(「亦問左丞相平平曰有主者」(出典同じ))、皇帝が「担当者は誰だ」と質問すると(「上曰主者謂誰」(出典同じ))、左丞相陳平は「刑事裁判の数ならば廷尉に、歳入歳出ならば治粟内吏にお聞き下さい。」と答弁し(「平曰陛下即問決獄責廷尉問銭穀責治粟内吏」(出典同じ))、これに対し皇帝が「それぞれに担当者がいるのであれば、貴官の担当は何だ。」と質問し(「上曰苟各有主者而君所主者何事也」(出典同じ))、これに対し陳平は「群臣を指揮監督することです。(中略)宰相は上は天子様を補佐し、陰陽を整え、四季を管理し、下は万物を育て、外においては蛮族や諸侯を鎮撫し、百姓を皇帝陛下になつかせ、公卿百官にその職責を全うさせることが職責でございます。」と答弁しました(「平謝曰主臣陛下不知其駑下使待罪宰相宰相者上佐天子理陰陽順四時下育萬物之宜外鎮撫四夷諸侯内親附百姓使卿大夫各得任其職爲」(出典同じ))。これに対し皇帝は満足しました(「孝文帝乃穪善」(出典同じ)。
こういった歴史から、真っ当な国家であれば丞相である諸葛亮が鞭打ち20回如きの刑罰まで自分で決裁しているのが異常であることは誰でも判ると思われます。加えて先述の通り諸葛亮の健康状態が思わしくないことを併せれば程なくして蜀が国家としても軍としても著しく弱体化するであろうことが如何なる凡庸な軍人や官吏にも容易想像できるであろうこと、先述の通りです。
そうすると、魏軍将校が「程なく到来する諸葛亮の死を待って弱体化した蜀軍を徹底的に攻撃することが最善である。その時まで充分な休養を取り、いざという時に最大限の攻撃力が発揮できるようにする。」という共通の認識を持つことはそう難しくなく、わざわざガス抜きに曹叡にするつもりのない攻撃許可申請をする必要はないのではないかと疑問に思っております。
  • 投稿者: 山城守
  • 2022年 03月25日 19時29分
 ご感想ありがとうございます。

 陳平と周勃のその話は正直、宰相の職務とは何かという文官の理屈だと思ってます。逆に軍人のこの頃の思考はどちらかと言えば、『孫子』の影響もある現場判断が大事と、上層部で行われていた戦略的勝利の絵を現場で覆そうとするところがあるのを司馬懿と曹叡は危惧しており、司馬懿が曹叡に攻撃を求める詔を求めて、曹叡が防衛に徹するように詔をもってガス抜きをする。この流れは当初、司馬懿と曹叡の間で事前に打ち合わせしていた流れなのかもしれませんね。

 あと、諸葛亮に関してはあの辺鄙なところにある蜀を支えている姿は敬意と同時に化け物に見えており、どのようにこの化け物を倒すのかが魏軍の若手将校の想いだったかもしれませんね。

 今後もご感想お待ちしております。
  • 大田牛二
  • 2022年 03月28日 21時18分
[一言]
「彼は元々、戦おうという気持ちがないのだ。頑なに戦うことを請うたのは、兵に武を示しただけである。将が軍にいたら、君命を受けないこともあるものだ。もしも実際に戦って我々を制すことができるのならば、どうして千里も離れているのに魏帝に戦うことを請う必要があろうか」(玉著)(正史三國志原文で言う「彼本無戰情、所以固請戰者、以示武於其衆耳。將在軍、君命有所不受、苟能制吾、豈千里而請戰邪!」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu35.html三國志卷三十五/蜀書五/裴松之注釈 註10-03))ですが、司馬懿の行為は部下の暴走を止めるための芝居(そのような見解のユーチューバー有り(https://www.youtube.com/watch?v=LN4sEsp7DJU))でしょうか。しかし、諸葛亮は些細な規律違反についても自ら裁く(「亮使至、問其寢食及其事之煩簡、不問戎事。使對曰「諸葛公夙興夜寐、罰二十以上、皆親擥焉。所噉食不至數升。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu35.html? 三國志卷三十五/蜀書五/裴松之注釈 註10-03)という有様で、これは蜀に人材が育っていないことを意味し、諸葛亮が死ねば蜀は軍としても国としても著しく衰退するであろうことは容易に想像できます。
さらに、その頃の諸葛亮の健康状態は思わしくなく、年齢も54歳といつ死んでもおかしくなく、三國志にも「亮疾病、卒于軍、時年五十四」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)と記載され、しかも喀血乃至吐血までしています(「魏書曰。亮糧盡勢窮、憂恚歐血」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu35.html三國志卷三十五/蜀書五/裴松之注釈 註10-04)。
そして、これらの情報は魏軍の諜報活動により把握されていたはずです。何しろ「愛爵祿百金、不知敵之情者、不仁之至也」と孫子用間篇で言いますので。
そうすると、わざわざガス抜きしなくても、将官クラスなら、諸葛亮が死ねば蜀は軍として統率が困難になるからそこを待って総攻撃をかければ良いことくらいは容易に理解できるはずで、総攻撃しない理由説明も「間諜からの諸報告によれば諸葛亮は喀血を度々するようになったし、今諸将も聞いた通り、鞭打ち20回如きを丞相自ら裁くほどに蜀は人材が不足している。したがって、ほどなくやって来る諸葛亮の死を待って総攻撃を加え、蜀軍を再起不能に陥れる。その時まで各隊は英気を養っておけ。」とでも言えば納得すると思うのですよ。
だからわざわざ曹叡にするつもりのない総攻撃許可申請を出す三文芝居する意味が何処に有ったのか、それとも当時の将官というのは戦略戦術を心得なくてもできるものなのかというのが疑問ですよね。
  • 投稿者: 山城守
  • 2022年 03月25日 00時00分
 ご感想ありがとうございます。

 司馬懿と曹叡はその認識に関しては共有できていると思います。そう言う主従だとは思っています。しかしながらこの時の司馬懿の下にいる将軍や兵たちがその認識を共有できているかと言えば、難しいでしょう。

 この時の司馬懿は守っていれば、勝てる戦で、諸葛亮はそんな司馬懿をどうにかして決戦に引きずり出したいという中で、司馬懿は念には念を入れていたのではないかと思いますね。

 今後もご感想お待ちしております。
  • 大田牛二
  • 2022年 03月28日 21時05分
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