感想一覧

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[良い点]
 稚拙な言い方になってしまいますが、とても面白かったです。気分への迫害は、もし甚しければ、殺人にも等しい悪徳なのだ、とはまさしくその通りだと思います。
 モラルは内発的でなければならない、というところにも大いに賛成します。まぁそこが最も難しいところの一つなのかもしれませんが。
 人の幸せは気分であり物質的な豊かさではないのだから、極端に言うと「今の日本はこれだけ物が溢れてるんだから君たちは日本に生まれて幸せなんだぞ!」と啓蒙する大人たちの論理は、極めてイデオロギー的というか、政治色の強い理屈ということになりますよね。
 なんとなく違和感を抱いていたところでございましたので、頭がすっきりしてとても気持ちがいいです。
 物質的な価値基準はあくまで精神的な幸福の手段でしかないですもんね。
[気になる点]
 理解力不足の私には、どうにも鈴木美脳様のおっしゃる「公共性」という概念がイメージしきれません。ごめんなさい。
 例えば、世の中には相手の気分を害して自分の気分をよくしようとする人たちが一定の割合でいます。仮にそこまで悪徳でなかったとしても、小学生の男の子が好きな女の子にちょっかいを出すような行為は、本当はその男の子は相手の気分を尊重したいと思っているはずですが、それでも相手の気分を害してしまっている行為の一例と考えられます。
 このような状況に対しても社会は「君の行為は悪徳な行為だ」と咎め、社会から放逐するのでしょうか? 放逐とまでは行かなくても社会はそのような人たちの行為をどのように扱うのでしょうか?
 また、社会という共同体は世界にいくつもあると思うのです。今のところ世界単位の統治機構は出来上がっていませんから、仮に複数の社会が気分本位制を実施したとしても一つくらいは気分本位制を尊重しない人たちからなる社会が出てきてしまうような気がします。というか人間は社会的動物ですから、気分本位なんて知らねーぜという人たちは勝手に社会を作ると思います。
 もしそうだとすると、社会単位で気分を尊重するというのは、今個人単位で起きている諸問題が社会単位で起きることになると思ってしまいます(全く的外れなことを言っていたら大変申し訳ございません)。だとすると公共性という概念は、あくまで相対的なものになってしまい、世界自体が倫理の絶対的基準を否定する相対主義を支持しているという構図になってしまうのではないでしょうか? また、その場合の公共性は他の公共性と上手く付き合っていけるのでしょうか?
[一言]
 全く的外れな疑問を投げかけていたら本当に申し訳ございません。ただ、とても気になってしまうのです……。
 もし僕の感想に対して「こんなバカでも説明すれば理解できるかな」と思っていただければ、是非ともご教授くださいませ。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2018年 12月12日 17時25分
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 痛い人様、ご感想ありがとうございます。


> とても面白かったです。

 よかったです。ありがとうございます。


> 小学生の男の子が好きな女の子にちょっかいを出すような行為は、

 関係ないですけど、女性って少し被虐的な快楽がある気がします。という表現はやや変態的ですが、時にはちょっと強引に手を引いていってほしい、みたいな気分というか。なので男女平等や女性の権利というモデルでは、女性の幸福ひいては人間の幸福は記述しきれないものと思ってます。
 なので反論ではないのですが、少しちょっかい出されるくらいが良い思い出になることもあるかなと、少し思いました。


> このような状況に対しても社会は「君の行為は悪徳な行為だ」と咎め、社会から放逐するのでしょうか? 放逐とまでは行かなくても社会はそのような人たちの行為をどのように扱うのでしょうか?

 ですよね。
 既存の物質的経済合理性以外の価値尺度を導入するとしても、具体的にどうやって、みたいな。
 実際、色々な難しさはありますね。

 社会を、富の再分配のシステムとして捉えることが有効な気がします。
 単なる自由市場主義だと貧乏人や病人に救いがなくなり、行政が信任されないそれらの部分で強盗殺人とか起きますから、単に人道上の理由のみならず、中間層以上の幸福のためにすら再分配は有効だということで、既存社会では社会福祉が行われているのかなと思います。生活保護とかですね。
 富の分配を少し広げて考えると、「資源の」分配とも考えられる気がします。僻地の道路の利便性とか、個人的な富というより、利用可能な資源ですし。社会的な地位は結局は権限だと考えられると思いますが、権限を資源の一種と見なすなら、「権限の」分配という見方も有用でしょう。
 お金あると色々買えますから、お金もある意味「権限」ですね。でも高位な役人特有の権限などもあって、お金でたやすく買えるものではない。でも高位な役人になるにはどうしたらいいかなって、よく勉強して難しい試験に合格したりだと思いますけど、勉強だって世帯や家系で考えたら経済力と結構関係ある。お金あるほうが高学歴と結婚して賢い血統になるかもしれませんし。
 まあ要するに、既存社会は、経済合理性の尺度がかなりのところ、権限の再分配を決定している。

 「小学生の男の子」みたいな、言わば、気分本位制においては否定される構成員をどう扱うか、という論点ですよね。
 社会的な尊厳を低下させることが、基本的な方法になります。
 尊厳を操作することの目的は、権限の再分配に圧力をかけようということです。

 江戸時代には士農工商なる考え方があったと聞きます。
 武士は商人よりも偉いということです。
 すごい貧乏な武士でも大金持ちな商人より偉いってことです。
 その考え方は、非常に意義深いものを含んでいると私は思います。

 そこには、商業によって大金を稼ぐということが、人間個人の社会的な尊厳としてはその程度のものだという世界観があります。
 それって、現代社会の民衆の価値観とは、結構なところ異なります。
 商人は差別されてたんですね。金儲けという行いが、卑しいものとして、恥の烙印を押されてたと言えます。

 現実には、クズな武士はたくさんいて、善良な商人も多かったかもしれない。
 士農工商の建て前の一方で庶民は金銭に拝跪し、武士は借金を滞納して商人にペコペコする毎日だったかもしれません。
 でもそういうことじゃないんですよ。建て前ってのは大事なんです。
 利己ではなく社会全体を考えた態度、つまり善良な態度を尊重しようとすること、善良な性質を備えた人を、社会でなるべく報いようとすること。つまり資源の再分配で善良な人々を贔屓することで、権限の再分配において邪悪な人々が地位を得ることを妨げること。
 それが昔の社会がしてたことです。

 商業を差別する発想は世界中の歴史に見られると思います。
 コーランは利子を禁じていると聞きますし。
 聖書にもあった気がする。黙示録に次の文章があるようです。

『また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、各種の香木、各種の象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、肉桂、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。おまえの心の喜びであったくだものはなくなり、あらゆるはでな、はなやかな物はおまえから消え去った。それらのものはもはや見られない。』

 いや、これはいまいち意味不明な引用ですね。
 しかし、メソポタミア文明くらいの時代にもう、現代の問題は全て見通されていたと私は感じてます。
 動物を処理する人々が色々な文化で差別されたのも、動物への愛情の裏返しとして有効性があったろうと思う。
 平等が美徳で平等の否定が悪徳ってわけじゃないと思うのですよ。

 権限の分配と言えば、学校のテストがあります。学歴社会には功罪がありますが、合理性もありますね。生まれた環境が悪ければ才能があっても学歴が得られないかもしれませんが、偶然はともかく平均で考えれば、名門学校出身者の優秀性てのは確かにあります。名門出てる子に投資するのは、企業戦略として的外れではない。
 歴史的にはあらゆる人事評価がコネだらけだったのですが、科挙などが整理され、次第に平等で客観的になりました。でもそれには功罪があって、人間性や良心が問われなくなってしまった。
 従来のコネだって良心ではなく各々の利益追求の側面は大きかったでしょう。仮に本心から良心を測ろうとしても、有限な知性を持つ自分の主観ですから、本当は国のためにならない人材を、受け狙いを気に入って高い地位に導いてしまうかもしれない。
 でも建て前が大事なんですよ。

 というわけで信用システム。
 中国は社会信用システムというディストピア感たっぷりのコンピュータシステムによって全国民を格付けしてるようです。人類の技術レベルはそういうところに達してきてます。
 有用じゃないか、と私は思います。
 既存の民主主義の選挙って、人気主義ですよね。それぞれの候補が、人間としてどんな人かなんてたいして知らない。
 でも人間には五感がありますから、一週間とか一ヶ月とか一緒に過ごせば、良心の程度をいくらか感じる。
 それは主観ですから真理じゃないけど、いくらか妥当だってのは、既存の民主主義と同じです。
 なので一週間ともに過ごしたら「良心スコア」で他者を(匿名で)評価できたらいいんですよ。で、評価結果は公表する。
 いわゆる「拡張現実」で、人間の上にデータ表示すればいい。
 人間をいじめて消費してお金稼いでる会社の上長は、どクズです、って顔にぶら下げてラーメン屋行くことになります。
 そうすると、自然とまずいラーメンが出てくるというか。
 つまり社会的尊厳を通じて、経済合理性の力学以外で権限や資源の再分配が起こる。
 一歩間違えばディストピアな発想ですが、どうせ信用システムやるならそういう利用もあるわけです。

 こういう管理社会っぽいアイデアは、世間には受けは悪いだろうと思います。
 別に私の気持ちも、そういうことがやりたいというわけではない。そこが目的の中心ではない。
 具体論をロジカルにやれば、そういう一例は提出できるという意味で書きました。

 でも実際には当面そこまで必要ない。
 単に、やるべき道徳教育をやるべきだ、というのが私の基本的な気持ちです。
 子供や大衆は良かれ悪しかれ単純ですから、教育は価値観の根底に一生涯響きます。
 戦争の功罪がトラウマになって、変な個人主義に傾いたのが日本の教育だろうと思う。愛国の美徳や倫理の美徳を普通に教えてる中国や米国のほうが経済に勢いあるのって、そういうのが深刻に作用してると私は思います。日本で教育だけ変な個人主義に傾いたって、集団主義から倫理主義が抜けて、利己主義の集まりとしての集団主義が強化されただけな気が。日本特有の長所はあると思いますが、短所も確かにある気がします。
 どんな金持ちだってクズなら社会的尊厳は最下位、ひどい貧乏人や、極端には社会のために死ぬ人も、人々の幸福を願う美しい良心を備えていたら、どんな長生きな金持ちより偉い、って子供の時に、社会という権力から一度ばしっと言っておくことが、大事だし効果的です。戦後教育がそれをしなかったことは、私には狂気にしか見えません。集団自殺民族かな?って。
 拝金主義が極まった先の秩序で子供達がどれほど苦しむことになるかなんて、どんな愚かな人でもわかるでしょう、って私は感じるけど、実際わからないみたい。

 なので、
「社会的な尊厳を低下させることが、基本的な方法になります。」
 が私からの答えになります。

 なお、「モラルは内発的でなければならない」という点についても、言わば尊厳についての論点だと思っていて、「難しい」という認識はありません。内発的なモラルを持ちましょう、と言っているつもりはないのです。内発的なものをモラルと捉え、それに尊厳を見ることを重視しましょう、と言っているつもりです。西洋近代思想が流入する以前に、徳治主義や道徳主義として平然と庶民が行っていたこと以上を求めていません。モラルについてはどちらかと言うと、生まれつきの性格だと思っていると言うと、意図がわかりやすいかもしれません。悪く言えば、才能による階級主義というか。

 あと、武士にクズがいたろうと述べたように、道徳教育や信用システムによっても、権限の分布と良心の分布が一致するとまで思ってません。どうやったって、本当に優れていて飾らない正義感を持つ子供は、評価されにくく報われにくいと思います。でもその存在を知っていることが大違いであり、「建て前」の価値です。優秀な者ほど栄えるという発想が物質主義です。善良に優秀な者ほど栄えさせるために努力はするが、究極的にはそれは果たせてない、というのが(非近代的な)倫理主義です。優秀なゆえに乞食になる者や、善良であるがゆえに早死にする者が珍しくないという世界観であり、現代の世界観とは異なります。結局、誰がすごい人かわからないので、どの他者もとりあえずは尊重するしかありません。見えない恩に感謝して暮らすのです。
 モラルに尊厳を置けば、権限の再分配によって悪徳を圧迫するまでしなくても、誰に見られずとも人の心には自分を恥じる向上心が生じます。「小学生」程度の失敗は、その後の向上の糧となるかなとも思います。私も幼い時につい嘘をついて後悔したことがあって、正直にあろうという生き方の糧になりました。


> 今のところ世界単位の統治機構は出来上がっていませんから、

 ですよね。結局そういう議論になる。

 私の感覚からすると、「公共性」はちょっとピンと来ないので、相対的な実力から考えたい。
 要するに、軍隊とか核兵器を捨てても、他の国がやめないからダメじゃん、みたいな点を考えたい。
 要するに、もし、国力の増大について、気分本位制よりも「金本位制」(つまり物質的経済合理主義)が効率的なら、気分本位制を採用した集団や国家があったとしてもジリ貧で消滅しておしまい。
 つまり、世界政府が全体を規制するのでなければ成立しない。

 しかし、将来については、世界政府の誕生は楽観視できる気もします。
 歴史を大雑把に見れば、戦国時代が統一されて江戸時代になった感じで、次第に大きく統合されてきた気がします。言語的にも、良かれ悪しかれ、世界中の方言や言語が標準語や英語(など)に標準化されてきた。
 国際的な排ガス規制などの議論が行われているのは、世界政府が半分は、あるいは一割は、すでに完成したとも受け取れる気がします。
 だから、排ガス規制を現代で論じることが有意義であると見なすのと同じ程度の意味で、気分本位制を論じることも妥当だと考えます。
 しかしそれも、ロジカルにやればそういう一例は提出できるという意味合いがあります。

 仮に日本が最大限に気分本位制を重視していて、対外的な競争において、ああここが競争に負けるー、って思って妥協して、当面の国民幸福を犠牲に経済合理性や技術合理性を追求するなら、それを私は全く否定しません。
 でも実際、そうじゃないですよね。
 まるっきりあたまパーで、何も考えず、各々の物質的利己主義で国を滅ぼしているだけでしょう。米国にしろ中国にしろ、そこまで頼んじゃいないって感じですよ。
 理想を直ちに追求したら絶対的に国が滅びます。でも自国の民度を磨き上げて、理解されないところは色々と妥協して、世界の民度の向上を待つと、それは合理だと思います。要するに、気分本位制が実現できないにしろ、気分本位制を実現すべきことを知っていると知っていないとでは、実益において大違いだと、私は思います。

 おっしゃる「公共性」の概念が十分に捉えられていないので、これで答えになっているかどうか。

 あと、私が考える気分本位制は、最終的な、人々の幸福に合理的な社会思想を持つ社会体制を建設しようとするものですので、手段において、相手の気分を無制限に尊重するものではありません。経済制裁したり爆弾落としたり、どんなひどい行いも絶対悪とは見なしません。

 人殺ししないと死ぬより苦しいっていう生まれつきの変人がいたとして、彼が暴力を振るうことは悪徳かっていう論点はありますよね。嘘をつくとかの悪意はそこにはない。でも社会には迷惑ですから、罰する。かわいそうだけど邪魔だから死刑ね、みたいな。生まれつき意地悪な性格の人もたくさんいるわけで、気分本位制は、彼らを野放しにしようとするものではない。むしろある意味いじめる。(邪悪な人が現代ほど邪悪に振る舞えないことは実質的に彼らへのいじめである。) 追求する「気分」とは、全体の総和ですから。
 全体の総和とはいい加減な表現ですが、現代の法学の基礎にある功利主義において議論が尽くされ、形式的には定義できなかったものなので、これもしょせん理屈では表現しきれないことだろうと思います。

 「公共」という言葉は私は使ってないと思うのですが、いや、使いましたね。
 私が思うのは、言葉というのは、プライベートを主語として言うことも、パブリックを主語として言うこともできるということです。つまり自分(やせいぜい家族)の気分を向上させようという動機で言っているのか、広く社会の人々の気分を向上させようという動機で言っているのか、ということです。
 私の日常感覚で言うと、公的な意図で何を言っても、我欲によると邪推されて否定されて終わります。悲しい。笑
 例えば、お金持ちな男性よりも心の真面目な男性を女性は評価すべきだ!って主張したら、負け組男性がモテたがって愚痴ってるように聞こえますよね。(私がモテたがっている負け組男性であることは否定しませんが。) 議論一般についてそういう認知バイアスは働きます。ほとんどの人の感情はほとんどプライベートが主体なので、理屈を眺める認知も歪む。
「自分の気分を尊重しようという話ではなく、人々誰もの気分を尊重しようという話です。」
 と(別の)感想返信に書いた通りなわけです。それ以上の含みを持たせて「公共」と言ってないとは、とりあえず言いたい。


> 一つくらいは気分本位制を尊重しない人たちからなる社会が出てきてしまう
> ...
> 社会単位で気分を尊重するというのは、今個人単位で起きている諸問題が社会単位で起きることになると思ってしまいます

 上で「相対的な実力から考えた」ことで、一応、答えになっているかな、と思います。


> だとすると公共性という概念は、あくまで相対的なものになってしまい、世界自体が倫理の絶対的基準を否定する相対主義を支持しているという構図になってしまうのではないでしょうか?

 「公共性」という概念それ自体は、私としては絶対的に言えるつもりなのですよ。
 何を利益と見なすにせよ、部分を主語とするか全体を主語とするか、という区別は普遍的だと思うので。
 気分本位制があるべき社会思想だと思っている国と、別の矛盾する思想をあるべきものとして掲げてる国々とは、もちろん同時に存在しえますね。それは「相対的」かもしれない。
 気分本位制を掲げる国の立場からは、それを掲げない外国の国民の気分も尊重すべきものです。パブリックな観点から人類全体の幸福を目指しますから。
 でもそれはゴールであって、手段は縛られないつもりです。経済制裁や爆弾を用いてもいい。放置すれば自国の側が屈服させられるなあ、と思ったら、相手の国民を完全に皆殺しにすることがあってもいい。私の考える気分本位制は、それを許容するのです。本当に本当に、パブリックな観点から必要ならね。
 つまり、気分本位制は、自らが「金本位制」に対して絶対的に優越する(比較的に確かに人類幸福合理的である)と考えます。なので、気分本位制も金本位制も、色々な思想体制の国々があってみんないい、という相対主義では確かにない。
 それが私の認識です。


> また、その場合の公共性は他の公共性と上手く付き合っていけるのでしょうか?

 ここまでで一応答えられた気がします。
 「上手く付き合っていく」の定義によるかもしれませんが、いくらかの緊張感を含みつつも、忍耐強く柔軟に妥協するのが、合理的なあり方だと思います。そして、気分本位制のよさを諸外国に説得することですね。説得の何よりの論拠は、互いの気分を尊重し幸福に暮らす自国民の実在でしょう。
 理想を一足に達成しようとすれば理解されずに滅びます。でも、理想を忘れないことはできる。
 建て前が大事なんですよ〜。


> 「今の日本はこれだけ物が溢れてるんだから君たちは日本に生まれて幸せなんだぞ!」と啓蒙する大人たちの論理

 典型的なだめ大人の理屈ですね。でもまあ仕方ない。
 日本の様々な富は戦後に築いたものではないのですが、敗戦で若干の歴史の改変が生じて、高度成長期周辺の自尊心は水膨れしました。
 その成長は歪んだものだったので、失速しました。
 そして若者の貧困化、晩婚化、少子化、少子高齢化。高齢化すれば民主主義では高齢者の発言力が高まる。持続的でない社会福祉。医療や介護の既得権益化、国家財政の逼迫。
 でも彼ら(年配者)の立場からすれば、自分達が不当に若者を搾取して安寧を貪っているだなんて考えたくないわけです。
 すごく言い訳がほしい。そんな時にそんなパターンな言い訳がどこかから聞こえる。だから自分の言葉として採用する。
 実際、貧しさは苦しい。飢えはありましたし、食事の味も悪かった。勉強の競争も厳しく、仕事の労働時間も長かった。どれだけの汗と涙とに支えられて、今のこの国の地位が築かれたか、若者が過小評価しがちだという側面はあるでしょう。
 でも、「苦しい」とこぼす人に対して、「いやいやそんなのたいしたことない」って言うのは狂気ですよ。「気分本位」じゃない。
 学校や仕事で様々な悩みを抱えて自殺する若者はいる。呑気に笑って暮らしている大人達が同等の苦しみを経たわけではない。
 現代の(日本の)若者には現代の若者特有の悩みや苦しみがあり、大人達は理解できないまでも理解しようと努めねばならない。「苦しい」という言葉は、「ああ苦しいんだな」と尊重してそのまま受け取ればいい。
 今の時代に生まれてくる若者には、今の時代の喜びに浴する資格があります。世界中の経済が成長し待遇も改善されている。日本の大人達だけ自分達と同じ苦労を子供に強いる資格などもちろんない。
 国家ってのは若者のためにあるんですよ。今の日本の政策は、老人のために若者を絞っている。シワシワの老人がご馳走を食べるためにツヤツヤの美しい若者に質の低い食事を強いている。そこに正義はない。
 子供達の笑顔のために戦えない人、死ねない人を私は大人だと思ったことがありません。金本位制が、私の祖国を子供しかいない国にしてしまったのだと思ってます。
 だから気分本位制! 日本の人々は思いやりがあって繊細なので、気分本位制の才能はあると思います。経済第一主義の失敗から学びましょう。
[一言]
失礼しました。
『公共の利益』というのをどうやら、私は読み切れていなかったようです。
  • 投稿者: 無機名
  • 男性
  • 2018年 12月04日 22時27分
 一歩間違えば危ういというのは確かにご指摘の通りですね。
 その点は気をつけていこうと思います。ご教示感謝します。
[一言]
気分本位……なるほど、頷けます。『主観で生きている』正にだと思います。
まぁ……上記のように書けば、わかると思います。反対意見とまでは言いませんが、私は懐疑的です。

その主観が問題だと思うのです。
主観で自分が正義・聖人・義人などと善の側と認識してしまうと、人は暴走を始めます。

『人はやましいところがないと信じて行う時ほど、存分に、また楽しんで、悪を行うことはない』【パスカル:パンセより】

というように、物騒なことになると思うのです。歴史を紐解けば戊辰戦争など、ひどいものです。

尤も、私の言う懐疑というのも、私の気分本位となるかも知れませんが、私自身に懐疑なのに、気分を本位としているのかな?気分本位……とてもとても……恐ろしいばかりです。

あえて言うなら、狭く小さく、無力ですが、『何か絶対的な基準は作らない。盲信をしない。』それが"私"の本位です。

結論も何もありませんね。失礼しました。
  • 投稿者: 無機名
  • 男性
  • 2018年 12月02日 23時03分
 無機名様、ご感想ありがとうございます。


> 『主観で生きている』

 それそのものの言葉は本文にはないですね。同様の趣旨があるとは言えます。


> まぁ……上記のように書けば、わかると思います。

 わかりません。
 嫌味っぽい物言いは控えてください。


> その主観が問題だと思うのです。
> 主観で自分が正義・聖人・義人などと善の側と認識してしまうと、人は暴走を始めます。

 まあそういった話題は私は別の機会で尽くしました。
 いくつかの投稿についてはまさに無機名様にご感想をいただいた気もいたしますが。

 しかし、
「善の側と認識してしまうと、人は暴走を始めます。」
 は逆に暴論ですね。
 (確かに多くの悪徳は明らかにそうですが。)
 裁判官が犯罪者を裁くにあたっては正義と自認されて行われる正義もあるわけで。
 過度な演繹は稚拙な相対主義だと指摘されかねません。
 まあ、裁判官の正当性は「客観」だと言ってみることはできますが、既存体制に無限大の正義の論拠があるわけでなし。
 一方で私は論拠を添えて本文を書きましたが、一行とてご理解いただいた形跡がないとも感じます。
 「気分本位」という言葉のみを端緒に若干の自分語りを展開したものと受け止めます。

 なのであえて論難すべきこともないのですが、あえて批判的に少し書きます。


> 『何か絶対的な基準は作らない。盲信をしない。』それが"私"の本位です。

 それには危険性があるだろうと思います。
 それは結局、「気分本位」だと思う。無機名様が言った意味での「気分本位」です。
 一方で、私が述べた「気分本位」は、それとは真逆の意味なのです。

「統制は潜在的に強化され、自由はおびやかされやすくなる。」
「一例は、高齢化社会における尊厳なき終末医療」
「他者を幸福にすることは、社会通念上価値のあるプレゼントを手渡して終わりではない。」
「現代の邪悪は気分への悪徳としてこそ行われる。」
「他者の人生から笑顔を奪うことは、本来、その人を殺すことに劣らない罪である。」
「イジメの実態を隠蔽しようとする学校がある。」
「自身の気分を尊重できない弱者達は苦しみのうちに虐げられる。」
「他者も気分であり、それを尊重しない気分を私達社会は好まないと。」

 などと説明を尽くしましたように、私の視点は公共にあります。
 自分の気分を尊重しようという話ではなく、人々誰もの気分を尊重しようという話です。
 別の方が引用してくれた箇所ですが、それが「知性的」であり「倫理的」だと考えました。

 既存の形式的な人権によっては救済されていない苦しみがある。
 形式ではなく、心の内面を尊重する人権意識が必要とされている。
 それは従来の人権概念とは異なり、内発的で主体的なモラルとしてしかありえない。
 そこにおいて、気分本位制という概念は、鍵になりうる。
 そんな意図の本文でした。
 単に、私達が『主観で生きている』ということが、本文の趣旨ではなかったつもりです。

 倫理の絶対的基準を否定する相対主義は、何も言っていないのと同じです。
 それは、近代が作り上げてしまった、最悪のモラルだとすら言えます。
 他者は実在し、他者の心つまり気分は実在します。ゆえに、現実社会には制約があり、そこで有用な倫理の構造も実在します。
 邪悪な残酷はまだ横行している。それは、相対主義の曖昧性が拝金主義の利己性、つまり金本位制の世界観に転落することの結果です。
[良い点]
> ゆえに、「私」が気分であるように、「他者」も気分だ。
> 私達は、各々の主観において、異なる世界を生きている。
> その違いを認識することが知性的である。
> その違いを尊重することが倫理的である。

 この事をもっと多くの方に知ってもらいたいと私も思います。
[一言]
 私は基本的に政治・思想・宗教で他人と論争をしないようにと心掛けております。
 失礼な事を書いたとしてもお許しくださると幸いです。
 数多く納得の行く考え方にいつも感服しております。
 良い点で示しました4行から始まる2つの段落(と言ったら良いのか表現が分かりませんが2つ目の空白行まで)、全く考えを同じとする為、感想を送らせて頂きました。
 この度も素晴らしいエッセイをありがとうございました。
 何遊亭万年様、ご感想ありがとうございます。

 返信遅れてしまいごめんなさいね。

 そうですね、ご指摘の箇所。
 やはりそこに思いを込めましたので、そう言っていただけてとても嬉しいです。

 ところで「段落」という言葉、ちょっと使いにくいですよね。うーんと自分も思うことがあるので、万年様の的確な丁寧な表現を、少し面白く読みました。

 もとい。
 古代に比べ物質的には繁栄した現代ですが、人々の心はどうだろうかとよく思います。
 救われない立場に生まれた子の人生にはかえって救いがない気もする。
 特別に不運な人がそうであるように、多くの心の痛みが隠されてしまう時代という気がいたします。
 その時代の構造を私はうまく理解したかったし、うまく表現してみたいと思いました。
 「心の痛み」と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、「心」とはやや曖昧です。
 なので、医学的には脳内麻薬の状態でしかないかもしれない、「気分」を切り口に構成してみました。
 気分は確かな結果なわけですから、その思いの正しさがどうかという以前に、その思いそれ自体が尊重されるべきだろうと考えたのでした。
 赤子がわめいたらアラアラアラみたいな、耳を貸す態度というか。

 ともあれ、こういった需要のなかろう文章を投稿していますので。
 今回のようなご感想をいただきましたこと、大いに嬉しいことでした。
 感謝です。ではでは。
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