感想一覧
▽感想を書く[良い点]
今回、ギトギト油彩タッチじゃないんですね。珍しいもの読みました。
[気になる点]
ツイッターでちょっと呟いた時に『僕はそれはしない』と夢さんに言われたことを敢えて、もう一度言うスタイル。
わかりやすさに振ろうと思ったら振れるはずの夢さんなので、めっちゃわかりやすい話、書くとかどうでしょう。(断られるところまでが様式美
[一言]
真冬っていう課題に、あえての「真夏」を出してくる。
その極端から極端への振りは、子宮と死の間を行ったり来たりするのに似ている。
視覚の情報に香りが混じったところで出てきた魚が、生き生きとして。それでも死に向かって行くのが止められない。夏が死ぬのか。冬が死ぬのか。
最後に残ったひとさしのくれなゐがなくなった後の生が見たい。
今回、ギトギト油彩タッチじゃないんですね。珍しいもの読みました。
[気になる点]
ツイッターでちょっと呟いた時に『僕はそれはしない』と夢さんに言われたことを敢えて、もう一度言うスタイル。
わかりやすさに振ろうと思ったら振れるはずの夢さんなので、めっちゃわかりやすい話、書くとかどうでしょう。(断られるところまでが様式美
[一言]
真冬っていう課題に、あえての「真夏」を出してくる。
その極端から極端への振りは、子宮と死の間を行ったり来たりするのに似ている。
視覚の情報に香りが混じったところで出てきた魚が、生き生きとして。それでも死に向かって行くのが止められない。夏が死ぬのか。冬が死ぬのか。
最後に残ったひとさしのくれなゐがなくなった後の生が見たい。
佐倉さん感想ありがとうございます!
とてもよい「企画」になりましたよね、関わらせていただけてとても幸運でした。
良い点 自分ではいつもどおり油彩のつもりで塗っていたのですが、確かに全体へと陽炎のような儚さが漂っていますね、気づきませんでした笑
とは言え文体はいつもの感じだったと思います。それよりも今回「視点」で得るものがあって、そこが何よりの収穫だったように感じています。
まぐろさんへの返信にもあるのですが、今回は自意識過剰さが減っていて、そこがいつものカオスとは違う感じでまとわれていき、その結果そういうふうに届いたということかも知れないです。今までは全力でわいわいやってる自分に酔ってたりするんですが、今作に向けては、何となく冷めてる自分がいたというか、単に仕事で疲弊して脂分足りなかっただけかも知れないですけどね笑
脱皮ってありますよね、クールといってしまうほどには明晰じゃないですけど、もう少しドライな感じで、私欲を抑えていきたいぞ、となぜだかそんな感じでしたね。今年の一発目はこういうモードでした。しばらくはこういう力加減でいくかもしれません。
気になる点 そうですね、「今年」への割烹で赤瀬さんに仰っていただいたんですけど、今年の連載はどういうバランスで書こうかと、それは試行錯誤しながらの一歩一歩になっていきます。おそらく賞レースに向けた創作がようやく皮切りになるのかなと認識します。下手すると「ブクマしといてね、非公開や削除もあるから」みたいな、出来しだいでは本気の温存もあり得るかもと思ってます、口だけに終わらずそこまでいきたいですけどね笑
なので、短編にやってきた塗り方をいかに別様のものへと操っていけるかなのかな、と想像中です、「マジな普通」はぜったい無理ですけど、どのあたりまで寄っていくか、みたいな部分を見守ってくれればと。そこに「熱」がなければ打ち捨てて、やりませんので、どの距離感でいくんだろうな、と自分でも楽しみなのです。
一言 夏はどうして飛び出してきたんでしょうかね?着想段階では雪景色だった気が……
緑と赤の対比が綺麗ですよね。死んでいく情景には、蝉や風にそよぐ草木の騒がしさがミックスされているほうが、何となく情感があっていいよなあ、なんて思います。
幻想の羅列みたいな筋なんですが、そこに「リアル」を汲み取っていく佐倉さんが、らしいなあと感心しました。
とてもよい「企画」になりましたよね、関わらせていただけてとても幸運でした。
良い点 自分ではいつもどおり油彩のつもりで塗っていたのですが、確かに全体へと陽炎のような儚さが漂っていますね、気づきませんでした笑
とは言え文体はいつもの感じだったと思います。それよりも今回「視点」で得るものがあって、そこが何よりの収穫だったように感じています。
まぐろさんへの返信にもあるのですが、今回は自意識過剰さが減っていて、そこがいつものカオスとは違う感じでまとわれていき、その結果そういうふうに届いたということかも知れないです。今までは全力でわいわいやってる自分に酔ってたりするんですが、今作に向けては、何となく冷めてる自分がいたというか、単に仕事で疲弊して脂分足りなかっただけかも知れないですけどね笑
脱皮ってありますよね、クールといってしまうほどには明晰じゃないですけど、もう少しドライな感じで、私欲を抑えていきたいぞ、となぜだかそんな感じでしたね。今年の一発目はこういうモードでした。しばらくはこういう力加減でいくかもしれません。
気になる点 そうですね、「今年」への割烹で赤瀬さんに仰っていただいたんですけど、今年の連載はどういうバランスで書こうかと、それは試行錯誤しながらの一歩一歩になっていきます。おそらく賞レースに向けた創作がようやく皮切りになるのかなと認識します。下手すると「ブクマしといてね、非公開や削除もあるから」みたいな、出来しだいでは本気の温存もあり得るかもと思ってます、口だけに終わらずそこまでいきたいですけどね笑
なので、短編にやってきた塗り方をいかに別様のものへと操っていけるかなのかな、と想像中です、「マジな普通」はぜったい無理ですけど、どのあたりまで寄っていくか、みたいな部分を見守ってくれればと。そこに「熱」がなければ打ち捨てて、やりませんので、どの距離感でいくんだろうな、と自分でも楽しみなのです。
一言 夏はどうして飛び出してきたんでしょうかね?着想段階では雪景色だった気が……
緑と赤の対比が綺麗ですよね。死んでいく情景には、蝉や風にそよぐ草木の騒がしさがミックスされているほうが、何となく情感があっていいよなあ、なんて思います。
幻想の羅列みたいな筋なんですが、そこに「リアル」を汲み取っていく佐倉さんが、らしいなあと感心しました。
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月23日 14時21分
[良い点]
絵画の連作を見ているようでした。
もしくは、バレエのコンテンポラリーを見ているような。
よく分からないままに映像が流れ、色彩が流れ、回帰がまた何かが戻ってきたという安心を呼び込み、とても心地よかったです。
文字から見える映像に容赦なく翻弄されているのがとても、楽しかったです。
あとがきの考えるより感じろ、を見て、ああ、この読み方でよかったんだなぁと安心しました。
ありがとうございました。
絵画の連作を見ているようでした。
もしくは、バレエのコンテンポラリーを見ているような。
よく分からないままに映像が流れ、色彩が流れ、回帰がまた何かが戻ってきたという安心を呼び込み、とても心地よかったです。
文字から見える映像に容赦なく翻弄されているのがとても、楽しかったです。
あとがきの考えるより感じろ、を見て、ああ、この読み方でよかったんだなぁと安心しました。
ありがとうございました。
なななんさん感想ありがとうございます!
文学は「芸術」として見なされないコンテンツなのかな、と薄々感じています。その中で「芸術」を標榜していかねば、というのがボクの活動方針ですね。
絵画や現代アートを想起していただけたのは嬉しいことで、ちょっぴりむず痒いです笑 大江健三郎がそういった「異化」というものを表現する道こそ文学だ、という主張をしていて、そこから影響を受けて十数年、今でも変わらずに、むしろ深化してしまっているのがボクという作家です。
映像や色彩、それは非常にリアルなものであったり、でもそれが一度に押し寄せてみれば抽象的になったりする。そういうビジュアルを受けとっていただけてる状況がとても喜ばしいです。
「容赦ない」「翻弄」という言葉もすごくイマジネーションが高いものなので、そう評していただけてとても光栄です。
「感覚」を「喚起」するようなエネルギッシュな創作を成し遂げたいとずっと思って活動しています、今回もきっちりエネルギーを注ぐことができたからこそそのような反応を頂けていると考えています。自分としてはそれを続けていかねばと思うし、それに反応していただけることがとても幸せです。
これからも頑張っていきますので、ぜひよろしくです。
文学は「芸術」として見なされないコンテンツなのかな、と薄々感じています。その中で「芸術」を標榜していかねば、というのがボクの活動方針ですね。
絵画や現代アートを想起していただけたのは嬉しいことで、ちょっぴりむず痒いです笑 大江健三郎がそういった「異化」というものを表現する道こそ文学だ、という主張をしていて、そこから影響を受けて十数年、今でも変わらずに、むしろ深化してしまっているのがボクという作家です。
映像や色彩、それは非常にリアルなものであったり、でもそれが一度に押し寄せてみれば抽象的になったりする。そういうビジュアルを受けとっていただけてる状況がとても喜ばしいです。
「容赦ない」「翻弄」という言葉もすごくイマジネーションが高いものなので、そう評していただけてとても光栄です。
「感覚」を「喚起」するようなエネルギッシュな創作を成し遂げたいとずっと思って活動しています、今回もきっちりエネルギーを注ぐことができたからこそそのような反応を頂けていると考えています。自分としてはそれを続けていかねばと思うし、それに反応していただけることがとても幸せです。
これからも頑張っていきますので、ぜひよろしくです。
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月23日 12時13分
[一言]
お久しぶりです、チャーコです。
>考えるな、感じろ
と後書きにあったように、私も拝読して感じたままを。
昔の初潮のときと、出産のときを思い出しました。初潮のときの鮮やかな赤は記憶に埋もれることなく覚えています。身体の仕組みは不思議でままならなくて。それは出産時に感じた脳裏の赤にもつながりました。
白と赤を明確に表し、また脳内の画や五感に訴えかけてくる作品を読ませていただき、ありがとうございました。
お久しぶりです、チャーコです。
>考えるな、感じろ
と後書きにあったように、私も拝読して感じたままを。
昔の初潮のときと、出産のときを思い出しました。初潮のときの鮮やかな赤は記憶に埋もれることなく覚えています。身体の仕組みは不思議でままならなくて。それは出産時に感じた脳裏の赤にもつながりました。
白と赤を明確に表し、また脳内の画や五感に訴えかけてくる作品を読ませていただき、ありがとうございました。
チャーコさん感想ありがとうございます!
思い返すと今回の企画のお題に立ち会ったとき、真っ先に浮かんだ着想は「闇にうごめく真っ赤な線虫」でした。それから「会話」が浮かび、染みていく雪の地面の赤が同時に関連づけられたのかなと思っています。
この作品、書いているときは当然のこと、書き上げ、何度か読んだ後にも、「闇に揺らめくばかりの夢の赤」という、浮き世離れした感触の作品である、とばかり実感していました。筋として、その解を、少年の死と妄想の霧散というものに押し込めたもの、そういう出来だったのかなと考えていたんです。
しかし、いつものパターンを回避するために増やした着想からの構成によって、また、別の広がりをもってくれたものだったな、と気づいていきました。チャーコさんの感じていただいたように、「命」自体の主張が強く現れていた、というふうに受け取ることができる類の作品だったんだな、と。
どのタイミングかは覚えていませんが、死を待ちつつ横たわる少年の側には、「くれなゐ」とコントラストをなしているように眩しい「緑」の生き生きとした光景の広がりがありました。途中から変貌したギャップへの整合性を得るため、「真冬」というキーワードを「体温の完全なる喪失」というものへと転換させてしまったのですが、結果としてそのワンアイデアが、「命」の熱と冷たさを鮮明にしてくれたのかなと考えます。
それから、夢オチを重層的なものへと昇華するためのアイデアで、様々なシーンを足していくことで筋の豊かさを作り上げていったのですが、「初潮」、あるいは「子宮」のイメージを設定したことで、ダイレクトに「命」を想起させる読み味を生むことになったんだな、とのちのち実感していきました。
「初潮」については、経験がないもので、「こういう感じかな?」とあくまで想像で書いたにすぎなかったのですが、チャーコさんから、自身の経験への一瞬間の回帰を引き出せたのは、何とも言えない強い手応えとなりました。とても嬉しいです。
この作品の面白いところは、それぞれの情景が「誰」の所有物なのか明確ではないところで、「空行がない」という独特の書き方がそれをより助長させています。
これは、昨年読んで感銘を受けていた山尾悠子さんの『飛ぶ孔雀』という作品の、「飛ぶ孔雀、火を運ぶ女Ⅱ」というパートにもらったアイデアでした。それは場面転換の連続を、「空行」を使わずに並列させる、という手法をとっているものでして、そのパートでは、ボクの今作に比べればもう少しはっきりと描かれてはいるものの、その手法における本来の主眼としては、「神視点」をこれほど膝を打つ形で回収するものかと驚くような、そういった効果を生み出すため施されたものでした。衝動的に書評をなろうへ上げようかと考えたくらいですが、それは不調時の昨年にはなし得なかった、という余談があります笑
ただ、そこで見いだしたアイデアを、自作に転換したという経験は、むしろ自分に取り入れたものを、さらに一段高めることだったのかも知れません。
山尾さんのその語り口と構成力には衝撃を受けるほどのものがありましたが、今回のボクの作品への親和性を考えれば、むしろ元ネタを凌駕するものがあったのでは、といった失礼な発言によって、「パクリ疑惑」を「オマージュ」へと昇華させていただきます笑
この件に関連して、最後にもう一つネタバレしながら締めくくろうと思います。
--サックリと裂かれ発露せしは煽情なる、甘美の肉襞からはねとねとと、零れ落ちいていく……はらはらと。散りゆくは透明なる花弁の数多で。妄執のその愛液の緩やかに、粘りついては離れず、死生の今際を擽る舞踊。--
この場面は、作意としては少年の傷からあふれ出していく血液を意図して書きました。しかし、読み方しだいでは、というよりもむしろ、少女の性器から伝っていく初潮のイメージに読み取るほうが自然に思われるんですよね笑 それは、この場面から、明確な表現、(例えば「血液」と書かれていたものを別の比喩で代用したりして)をなくしていった結果生まれた曖昧な語り口となっていて、「誰が何をしているのか」という明確なものは、読者や読書回数によりいかようにも生まれていくようになされた表現自体、それがためである、と思います。
作中にはこのような箇所がいくつもあって、いくつもの情景情景を、どこそこへとひそんだ所有者が多方面よりひっぱりあっているような、「いす取りゲーム」をやっているような作品である、とまで言ってしまえば大げさすぎますが、大なり小なりそういう作品でした。その結果もあってか、「命」という主題がより増幅されたのであれば、作品にとってはよかったことなのでは、と考えています。
思い返すと今回の企画のお題に立ち会ったとき、真っ先に浮かんだ着想は「闇にうごめく真っ赤な線虫」でした。それから「会話」が浮かび、染みていく雪の地面の赤が同時に関連づけられたのかなと思っています。
この作品、書いているときは当然のこと、書き上げ、何度か読んだ後にも、「闇に揺らめくばかりの夢の赤」という、浮き世離れした感触の作品である、とばかり実感していました。筋として、その解を、少年の死と妄想の霧散というものに押し込めたもの、そういう出来だったのかなと考えていたんです。
しかし、いつものパターンを回避するために増やした着想からの構成によって、また、別の広がりをもってくれたものだったな、と気づいていきました。チャーコさんの感じていただいたように、「命」自体の主張が強く現れていた、というふうに受け取ることができる類の作品だったんだな、と。
どのタイミングかは覚えていませんが、死を待ちつつ横たわる少年の側には、「くれなゐ」とコントラストをなしているように眩しい「緑」の生き生きとした光景の広がりがありました。途中から変貌したギャップへの整合性を得るため、「真冬」というキーワードを「体温の完全なる喪失」というものへと転換させてしまったのですが、結果としてそのワンアイデアが、「命」の熱と冷たさを鮮明にしてくれたのかなと考えます。
それから、夢オチを重層的なものへと昇華するためのアイデアで、様々なシーンを足していくことで筋の豊かさを作り上げていったのですが、「初潮」、あるいは「子宮」のイメージを設定したことで、ダイレクトに「命」を想起させる読み味を生むことになったんだな、とのちのち実感していきました。
「初潮」については、経験がないもので、「こういう感じかな?」とあくまで想像で書いたにすぎなかったのですが、チャーコさんから、自身の経験への一瞬間の回帰を引き出せたのは、何とも言えない強い手応えとなりました。とても嬉しいです。
この作品の面白いところは、それぞれの情景が「誰」の所有物なのか明確ではないところで、「空行がない」という独特の書き方がそれをより助長させています。
これは、昨年読んで感銘を受けていた山尾悠子さんの『飛ぶ孔雀』という作品の、「飛ぶ孔雀、火を運ぶ女Ⅱ」というパートにもらったアイデアでした。それは場面転換の連続を、「空行」を使わずに並列させる、という手法をとっているものでして、そのパートでは、ボクの今作に比べればもう少しはっきりと描かれてはいるものの、その手法における本来の主眼としては、「神視点」をこれほど膝を打つ形で回収するものかと驚くような、そういった効果を生み出すため施されたものでした。衝動的に書評をなろうへ上げようかと考えたくらいですが、それは不調時の昨年にはなし得なかった、という余談があります笑
ただ、そこで見いだしたアイデアを、自作に転換したという経験は、むしろ自分に取り入れたものを、さらに一段高めることだったのかも知れません。
山尾さんのその語り口と構成力には衝撃を受けるほどのものがありましたが、今回のボクの作品への親和性を考えれば、むしろ元ネタを凌駕するものがあったのでは、といった失礼な発言によって、「パクリ疑惑」を「オマージュ」へと昇華させていただきます笑
この件に関連して、最後にもう一つネタバレしながら締めくくろうと思います。
--サックリと裂かれ発露せしは煽情なる、甘美の肉襞からはねとねとと、零れ落ちいていく……はらはらと。散りゆくは透明なる花弁の数多で。妄執のその愛液の緩やかに、粘りついては離れず、死生の今際を擽る舞踊。--
この場面は、作意としては少年の傷からあふれ出していく血液を意図して書きました。しかし、読み方しだいでは、というよりもむしろ、少女の性器から伝っていく初潮のイメージに読み取るほうが自然に思われるんですよね笑 それは、この場面から、明確な表現、(例えば「血液」と書かれていたものを別の比喩で代用したりして)をなくしていった結果生まれた曖昧な語り口となっていて、「誰が何をしているのか」という明確なものは、読者や読書回数によりいかようにも生まれていくようになされた表現自体、それがためである、と思います。
作中にはこのような箇所がいくつもあって、いくつもの情景情景を、どこそこへとひそんだ所有者が多方面よりひっぱりあっているような、「いす取りゲーム」をやっているような作品である、とまで言ってしまえば大げさすぎますが、大なり小なりそういう作品でした。その結果もあってか、「命」という主題がより増幅されたのであれば、作品にとってはよかったことなのでは、と考えています。
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月15日 13時20分
[一言]
初めましてYUMEZさん。佐倉さんの企画から参りました。「考えるな感じろ」を手引きに何度か読み直しさせていただきました。言葉の選び方が右に進めば左に戻されというか濃密で酩酊感を覚えました。描かれる情景はくれなゐを感じましたし、その上でサッと新たな場面が差し込まれてその結果、何だか不思議な体験をした気がします。何度か読んでいるとその度に、不思議な旅に誘われるような不思議な作品でした。脳内にイメージが浮かぶ、それに漂うことが心地よくちょっと酔っ払いました。
まとまりのない感想になりすいません。新しい作家さんの世界に触れられて良かったです。ありがとうございます。
初めましてYUMEZさん。佐倉さんの企画から参りました。「考えるな感じろ」を手引きに何度か読み直しさせていただきました。言葉の選び方が右に進めば左に戻されというか濃密で酩酊感を覚えました。描かれる情景はくれなゐを感じましたし、その上でサッと新たな場面が差し込まれてその結果、何だか不思議な体験をした気がします。何度か読んでいるとその度に、不思議な旅に誘われるような不思議な作品でした。脳内にイメージが浮かぶ、それに漂うことが心地よくちょっと酔っ払いました。
まとまりのない感想になりすいません。新しい作家さんの世界に触れられて良かったです。ありがとうございます。
綿花さんはじめましてになりました!感想ありがとうございます!
今回の企画は、ドメスティックな雰囲気に相当するものだと思いますが、それぞれの横のつながりで新たな出会いをたくさん頂けたことは、とても嬉しいことでした。
おそらくは「小説」の世界において、異形を追究しているボク自身の語り口を抑えず解放させたものへ、果敢に対峙していただけている参加者の方々には大きな感謝の念を抱くことになりました。とくに、ボクの期待値以上に作品へと詰め寄っていただけた気がしていて、思惑通りの接近戦が生まれてくれたのでは、と意外な反応にほころんでおります笑
ボクのこだわりは、なんといっても比喩でして、自分は比喩中毒者じゃないのか?と日を追うごとに認識を深くしている近ごろなんですよね笑 でも、執筆を続けていった結果、そういった個性や信念を得ることができている現在には、感慨深いものがあるんです。ましてやそれに反応を頂けるなんて最上級の喜びです。
「考えるな、感じろ」というカンフー映画の有名な言葉を、デイヴィッド・リンチも興味深いことに過去、(おそらくは何度も)発言しているんですね。小説の書き方がだいぶ板に付くにつれて、リンチの作風や表現方法に共感したり、ふいに想起して同調している自分自身を見いだす瞬間が増えています。この先にはますます、この方向へと道を見いだし、迷いなく進んでいく自分がいるのでは、と考えています。そんな頃合いでの今回の企画でした。
言葉の選択肢、右や左やの曖昧さ。これもリンチを引き合いに出すと、彼は十数年前まではフィルム主義でした。フィルム表現の淡い質感を彼は愛していたんですね。しかしその後、デジタル技術の熟成を迎え、デジタルカメラにて映画作品を一作品と、一昨年のドラマシリーズを撮りました。その新たなツールにおいて、(ドラマシリーズでは違っていたかもしれませんが)彼は「家庭用における」最上機種を使うことをしました。それはあくまで、プロの使う水準より鮮明さにおいては一等劣る機種でした。しかし彼は、それをあえて使用していて、第一義として「ザラザラ」とした質感を生み出すように注力していて、ピントにおいてもぼやけるような撮り方を好んで多用しました。
そうすることで映像における「闇」を広げ、輪郭の幅を増し、そこへ観客のインスピレーションをより投影させられるように仕向けている、というわけなんです。
「曖昧」という表現法について、このようにボクは学び、それを作品へと込めています。
先ほど言ったように、比喩中毒者であるボクは、「誰が、どのように動いた」というようなことを、「誰」を語らず、あるいは次々と上塗りしていくことで、いかようにも視点が分散していくように仕向けます、「どのように」という比喩も、極力直接的な形容はせずに、イメージにより語る傾向が高く占めています、「動いた」という現象も、複数の曖昧な現象で空洞を取り囲むように文章を複合させていき、イメージの総体を中央へとホログラムのように浮かび上がらせる方法を意図しているんです。
このような、ややひねくれた表現へと偏執することで、映像表現に可能であるところの顔料の曖昧さ、を文体において実現しよう、ということですね笑
どちらかと言えば、詩人が好んでやっているようなことを、小説へと積極的に取り込んでいるのが、ボクの作風のわかりやすい解説になるかなあと思います。
仰るとおり、今回は情景のジャンプカットやインサートを次々と並べ立て、シュールな画作りをしてみました。比喩の時点でいかようにもとれる曖昧さがある上に、場面転換さえ忙しくしてしまうと、それぞれの印象を薄めてしまいそうで、若干迷い迷い仕上げていったような気がしています。最終的にはそれなりのいいバランスに収まったかなと思っています。酩酊感を受けていただけたことは一つの手応えとなりました、ありがとうございます!
綿花さんの「何度か読み直してみた」という感想を頂いたことは正直ガッツポーズ級に嬉しいことでした。ボク自身が常々意識し意図しているスタイルで浸透してるぞ、と感じることができたんですね。「読み流せることが文章力」とされているよくわからない現在のなろうの主流にあって、「何度も読んでいただけるように書いてこそじゃないか」という気持ちが膨らんでいるのが今の今、だったりします。
今回の企画での制作や、反応とご縁はボクにとってとても大きいものとなりました。なろうのマイページ紹介文にもある「なろうマイノリティが未来の文学界の核になる」、この現象への兆しが見えたような気がしているんですよ笑
今回の企画は、ドメスティックな雰囲気に相当するものだと思いますが、それぞれの横のつながりで新たな出会いをたくさん頂けたことは、とても嬉しいことでした。
おそらくは「小説」の世界において、異形を追究しているボク自身の語り口を抑えず解放させたものへ、果敢に対峙していただけている参加者の方々には大きな感謝の念を抱くことになりました。とくに、ボクの期待値以上に作品へと詰め寄っていただけた気がしていて、思惑通りの接近戦が生まれてくれたのでは、と意外な反応にほころんでおります笑
ボクのこだわりは、なんといっても比喩でして、自分は比喩中毒者じゃないのか?と日を追うごとに認識を深くしている近ごろなんですよね笑 でも、執筆を続けていった結果、そういった個性や信念を得ることができている現在には、感慨深いものがあるんです。ましてやそれに反応を頂けるなんて最上級の喜びです。
「考えるな、感じろ」というカンフー映画の有名な言葉を、デイヴィッド・リンチも興味深いことに過去、(おそらくは何度も)発言しているんですね。小説の書き方がだいぶ板に付くにつれて、リンチの作風や表現方法に共感したり、ふいに想起して同調している自分自身を見いだす瞬間が増えています。この先にはますます、この方向へと道を見いだし、迷いなく進んでいく自分がいるのでは、と考えています。そんな頃合いでの今回の企画でした。
言葉の選択肢、右や左やの曖昧さ。これもリンチを引き合いに出すと、彼は十数年前まではフィルム主義でした。フィルム表現の淡い質感を彼は愛していたんですね。しかしその後、デジタル技術の熟成を迎え、デジタルカメラにて映画作品を一作品と、一昨年のドラマシリーズを撮りました。その新たなツールにおいて、(ドラマシリーズでは違っていたかもしれませんが)彼は「家庭用における」最上機種を使うことをしました。それはあくまで、プロの使う水準より鮮明さにおいては一等劣る機種でした。しかし彼は、それをあえて使用していて、第一義として「ザラザラ」とした質感を生み出すように注力していて、ピントにおいてもぼやけるような撮り方を好んで多用しました。
そうすることで映像における「闇」を広げ、輪郭の幅を増し、そこへ観客のインスピレーションをより投影させられるように仕向けている、というわけなんです。
「曖昧」という表現法について、このようにボクは学び、それを作品へと込めています。
先ほど言ったように、比喩中毒者であるボクは、「誰が、どのように動いた」というようなことを、「誰」を語らず、あるいは次々と上塗りしていくことで、いかようにも視点が分散していくように仕向けます、「どのように」という比喩も、極力直接的な形容はせずに、イメージにより語る傾向が高く占めています、「動いた」という現象も、複数の曖昧な現象で空洞を取り囲むように文章を複合させていき、イメージの総体を中央へとホログラムのように浮かび上がらせる方法を意図しているんです。
このような、ややひねくれた表現へと偏執することで、映像表現に可能であるところの顔料の曖昧さ、を文体において実現しよう、ということですね笑
どちらかと言えば、詩人が好んでやっているようなことを、小説へと積極的に取り込んでいるのが、ボクの作風のわかりやすい解説になるかなあと思います。
仰るとおり、今回は情景のジャンプカットやインサートを次々と並べ立て、シュールな画作りをしてみました。比喩の時点でいかようにもとれる曖昧さがある上に、場面転換さえ忙しくしてしまうと、それぞれの印象を薄めてしまいそうで、若干迷い迷い仕上げていったような気がしています。最終的にはそれなりのいいバランスに収まったかなと思っています。酩酊感を受けていただけたことは一つの手応えとなりました、ありがとうございます!
綿花さんの「何度か読み直してみた」という感想を頂いたことは正直ガッツポーズ級に嬉しいことでした。ボク自身が常々意識し意図しているスタイルで浸透してるぞ、と感じることができたんですね。「読み流せることが文章力」とされているよくわからない現在のなろうの主流にあって、「何度も読んでいただけるように書いてこそじゃないか」という気持ちが膨らんでいるのが今の今、だったりします。
今回の企画での制作や、反応とご縁はボクにとってとても大きいものとなりました。なろうのマイページ紹介文にもある「なろうマイノリティが未来の文学界の核になる」、この現象への兆しが見えたような気がしているんですよ笑
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月14日 15時31分
[一言]
読み始めから、ただワケもわからず文章の奔流に飲み込まれました。そうして流されていくうちに、段々と情景、心情のようなものが見えてきます。そして、最後に自身の解答のようなものへ至る。
これだけ色々と想像させられ、しかもそれらに意味があったかを考えさせられるっていうのは、中々無い体験でした。思わず、画面を前にしてウームと唸るほどに^^
文章で読者に感情を伝える方法にも、色々あるのだなぁと。
勉強になりました。
読み始めから、ただワケもわからず文章の奔流に飲み込まれました。そうして流されていくうちに、段々と情景、心情のようなものが見えてきます。そして、最後に自身の解答のようなものへ至る。
これだけ色々と想像させられ、しかもそれらに意味があったかを考えさせられるっていうのは、中々無い体験でした。思わず、画面を前にしてウームと唸るほどに^^
文章で読者に感情を伝える方法にも、色々あるのだなぁと。
勉強になりました。
九傷さん感想ありがとうございます!
冒頭からの奔流、そうですね!いろんな赤をモチーフにしていますが、例えば砂漠の、マーブルに閉塞された壁面の赤、にしても、血液状の顔料が「ギザギザ」という奇妙な形容により溶け出していたり、「夢」、これは夢の主が誰であるのか、いかようにも捉えようがありそうなのであえて作意は伏せますが、その夢においても、線虫とくれなゐの粘綢を二重写しに語りつつも、やはり横溢という言葉の喚起するイメージからは、勢いづく奔流へと回帰しているのだと思っています。
九傷さんがそう感じていただけたように、作為的に赤い奔流へと読者を引きずりこもう、そういった速度に押し込めんと働きかけよう、そんな意図が読書時間内に広がってくれれば読者を乗せることができるのかなあ、と表現に注力した結果なんですね。幸運なことにそこを共有していただけたのかなと手応えとして感じることができました、感謝です。
ボク自身は、描写の速力が、遅ければ遅いほどに得手としていて、それは幻想などの、時間の喪失とまで極まってしまえば、最大限に力を発揮することができるのだと自任しているんですよ。逆を言うと、アクションなどの速い展開や動力への表現には不得手があるので、今回の奔流は、自分のできる範囲でのアトラクションを設置してみた結果でした。
アトラクションと言えば、文学において、今や主流は、考えもせずに「読み流す」という行為を最上のものとし、ボクからすればよくわからない崇拝という信仰にて、ちまたにはあふれているなあと、正直な感覚ではとても不満に思っている現状があります。本来、文学は文学であって、どれほどに「ライト」な読み物であっても、学問としての意義は、本質的には失ってはいけないものではないのかな、という考えがボクには根づいていて、それは、むしろ反文学的なものが逆転して横溢している時代だからこそ、それをあえて「反面教師的に」意識せざるを得ない自分自身がいる結果なのかなと認識しています。
ただし、そういったリアクションに関わらず、ボク自身の志向する文学活動やその形態は、そもそも「文学」以外に照準するものはなくて、むしろそれを引き出してくれたこの時代にこそ、逆説的な感謝の念を抱いているような節があるんですね笑
実を言うと、ボクがなろうに所属したきっかけも『魔法科』というムーブメントであったし、それからの一年間は、ラノベ路線でデビューのきっかけを得たい、と思っていた過去に自分の文学活動への黎明があったりするんです。今では、その初期の反動から、「やはりそもそも自身が欲していた文学という道を遠慮なしに真っすぐ進んでいくんだ」というイデオロギーに至ることになったものです、そして今回の企画作品も、その途上に咲いた一輪の花、というわけなんですね笑
この路線を続け、作品制作を重ねていくなかで、だいぶ形として見えてきたボクなりの「語り口」を使い、今回は創作することとなりました。
日に日に拡大していくボクの想いというものがあって、それは、意図としては、今の時流の逆説、つまり「読み流し史上主義」への打破、という強い自己主張が今回の作品には底流しています。
ボクの紹介文にもあるように、「デイヴィッド・リンチ」のような、噛み応えのある芸術作品、をモットーにボクの文学活動は流れてあって、それは、リンチ嗜好家よろしく、読者に二度読み、三度読みを強いるような、あるいは今回九傷さんに頂いた、画面を眺め放心している現状、こういったムーブメントへの引き金として、ボクの作風並びに諸作品が機能できているのなら、ましてやリアクションをいただけるのなら、ボク自身としては、この上なく自尊心を満たす経験となるんですよ!
ボクは今回遠慮なしに自分の投げたい球だけを投げさせていただき、主催者の佐倉さんからの後押しも噛み合って、様々な受け手の方々へ、同調していただけたように感じています。
ボクは現在の主流からは「窓際」になってしまってはいますが、後々のムーブメントへ向けて、このような地道な布教活動を今後も続けていくつもりです。大仰な言い回しになりますが、諸作品の立ち回りがその「聖書」の一ページ、となっているようなイメージですね笑 そして歴史的に俯瞰するならば、これこそ文学本来の、引いては諸芸術本来のあり方であって、うまく機能し多くの作者~読者を巨大に巻き込んでいくことになるなら、このあり方こそ、歴史上何度目かの、「ルネッサンス」になるはずで、それがボクとしての大きな野望となっています。そして今回共感していただけた経験こそが、その巨大への「萌芽」に当たるのでは、そういった手応えを感じています。
ボクが敬愛し、芸術の師と崇めているデイヴィッド・リンチは、今で言うミニシアターに長編処女作である5年もの歳月をかけたカルト映画作品を上映することからそのプロとしての長いキャリアが始まっていきました。その作品はとても奇妙な作品で、一般的な流行とは明らかに袂を分かつ、難解な作品だったのです。しかし、深夜上映されていた2週間という期間に、気づけば毎日満員御礼状態が続いた、という逸話があります。……さらに、奇妙かつ興味深いエピソードの白眉として、「その観客は……驚くべきことに毎夜、毎夜、同じメンツが繰り返し訪れているんだ!」。締めくくりに、この伝説的な挿話を教示させていただきますね!笑
冒頭からの奔流、そうですね!いろんな赤をモチーフにしていますが、例えば砂漠の、マーブルに閉塞された壁面の赤、にしても、血液状の顔料が「ギザギザ」という奇妙な形容により溶け出していたり、「夢」、これは夢の主が誰であるのか、いかようにも捉えようがありそうなのであえて作意は伏せますが、その夢においても、線虫とくれなゐの粘綢を二重写しに語りつつも、やはり横溢という言葉の喚起するイメージからは、勢いづく奔流へと回帰しているのだと思っています。
九傷さんがそう感じていただけたように、作為的に赤い奔流へと読者を引きずりこもう、そういった速度に押し込めんと働きかけよう、そんな意図が読書時間内に広がってくれれば読者を乗せることができるのかなあ、と表現に注力した結果なんですね。幸運なことにそこを共有していただけたのかなと手応えとして感じることができました、感謝です。
ボク自身は、描写の速力が、遅ければ遅いほどに得手としていて、それは幻想などの、時間の喪失とまで極まってしまえば、最大限に力を発揮することができるのだと自任しているんですよ。逆を言うと、アクションなどの速い展開や動力への表現には不得手があるので、今回の奔流は、自分のできる範囲でのアトラクションを設置してみた結果でした。
アトラクションと言えば、文学において、今や主流は、考えもせずに「読み流す」という行為を最上のものとし、ボクからすればよくわからない崇拝という信仰にて、ちまたにはあふれているなあと、正直な感覚ではとても不満に思っている現状があります。本来、文学は文学であって、どれほどに「ライト」な読み物であっても、学問としての意義は、本質的には失ってはいけないものではないのかな、という考えがボクには根づいていて、それは、むしろ反文学的なものが逆転して横溢している時代だからこそ、それをあえて「反面教師的に」意識せざるを得ない自分自身がいる結果なのかなと認識しています。
ただし、そういったリアクションに関わらず、ボク自身の志向する文学活動やその形態は、そもそも「文学」以外に照準するものはなくて、むしろそれを引き出してくれたこの時代にこそ、逆説的な感謝の念を抱いているような節があるんですね笑
実を言うと、ボクがなろうに所属したきっかけも『魔法科』というムーブメントであったし、それからの一年間は、ラノベ路線でデビューのきっかけを得たい、と思っていた過去に自分の文学活動への黎明があったりするんです。今では、その初期の反動から、「やはりそもそも自身が欲していた文学という道を遠慮なしに真っすぐ進んでいくんだ」というイデオロギーに至ることになったものです、そして今回の企画作品も、その途上に咲いた一輪の花、というわけなんですね笑
この路線を続け、作品制作を重ねていくなかで、だいぶ形として見えてきたボクなりの「語り口」を使い、今回は創作することとなりました。
日に日に拡大していくボクの想いというものがあって、それは、意図としては、今の時流の逆説、つまり「読み流し史上主義」への打破、という強い自己主張が今回の作品には底流しています。
ボクの紹介文にもあるように、「デイヴィッド・リンチ」のような、噛み応えのある芸術作品、をモットーにボクの文学活動は流れてあって、それは、リンチ嗜好家よろしく、読者に二度読み、三度読みを強いるような、あるいは今回九傷さんに頂いた、画面を眺め放心している現状、こういったムーブメントへの引き金として、ボクの作風並びに諸作品が機能できているのなら、ましてやリアクションをいただけるのなら、ボク自身としては、この上なく自尊心を満たす経験となるんですよ!
ボクは今回遠慮なしに自分の投げたい球だけを投げさせていただき、主催者の佐倉さんからの後押しも噛み合って、様々な受け手の方々へ、同調していただけたように感じています。
ボクは現在の主流からは「窓際」になってしまってはいますが、後々のムーブメントへ向けて、このような地道な布教活動を今後も続けていくつもりです。大仰な言い回しになりますが、諸作品の立ち回りがその「聖書」の一ページ、となっているようなイメージですね笑 そして歴史的に俯瞰するならば、これこそ文学本来の、引いては諸芸術本来のあり方であって、うまく機能し多くの作者~読者を巨大に巻き込んでいくことになるなら、このあり方こそ、歴史上何度目かの、「ルネッサンス」になるはずで、それがボクとしての大きな野望となっています。そして今回共感していただけた経験こそが、その巨大への「萌芽」に当たるのでは、そういった手応えを感じています。
ボクが敬愛し、芸術の師と崇めているデイヴィッド・リンチは、今で言うミニシアターに長編処女作である5年もの歳月をかけたカルト映画作品を上映することからそのプロとしての長いキャリアが始まっていきました。その作品はとても奇妙な作品で、一般的な流行とは明らかに袂を分かつ、難解な作品だったのです。しかし、深夜上映されていた2週間という期間に、気づけば毎日満員御礼状態が続いた、という逸話があります。……さらに、奇妙かつ興味深いエピソードの白眉として、「その観客は……驚くべきことに毎夜、毎夜、同じメンツが繰り返し訪れているんだ!」。締めくくりに、この伝説的な挿話を教示させていただきますね!笑
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月14日 01時05分
[良い点]
面白かったです。
なんとなくですが、いつものゆめぜっとさんの作品とは少し毛色が違うような気がしました。夢野久作テイストからもう一歩出た感じのような。
主人公は亡くなっていこうとしている少年なのだろう、と思いつつ、他を注目するとまた捉え方は変わるなと思いました。
面白かったです。
なんとなくですが、いつものゆめぜっとさんの作品とは少し毛色が違うような気がしました。夢野久作テイストからもう一歩出た感じのような。
主人公は亡くなっていこうとしている少年なのだろう、と思いつつ、他を注目するとまた捉え方は変わるなと思いました。
- 投稿者: 退会済み
- 2019年 01月11日 16時29分
管理
まぐろさん感想ありがとうございます!
「面白い」「夢久から一歩出ていた」、このふたつがとっても嬉しかったです! 反応や感想はありがたいことに頂く機会に恵まれてはいますが、あまり「面白い」と言われることがないので。いつも自分の作品は、純粋に、「面白ろいな~」という感覚が一番に占めているようなナルシストなんですけど、そこへの希有となる共感は、正直ボクてきにとても快挙です笑
加えて、夢久、ドグマグへの脱却は今回自己的テーマだったような気がしているので、その部分をご指摘いただけたのはかなり嬉しいことでした。書き上げて、そういう部分は忘れてしまってましたけど正直?笑
対象に対してドライでありたい、とは実はいつも思っているんです。でも狂気に迷い込み、酔ってしまう癖がどうしても顔を出してしまうんです。
今回はキッチリ距離をとって、冷淡に対処できたんじゃないかとご指摘によって自認できました。もしかすると夢久からの脱却はリンチへの覚醒なのでは?なんて若干有頂天気味です笑
浮かれずこの道をキッチリ進んでいこうと襟を正すことができます、とても光栄なことです。
単なる夢オチを昇華させた部分に加えて、佐倉さんからも感触を受けてもらったように、ハッキリ語るところはハッキリした上でぼやかしている、みたいな「エンタメ」成分を融合させていた面もあって(これは図らずもでしたが。)そこが作中へ迷い込まずに済んだというバイアスと働いたのかも知れないな、と、結果論ですがそう思ったりします。
今回の視点の距離感は、自分の中でひとつの理想としているバランスだったりもしているので、偶発的なきっかけから、今度は瓢箪からきっちり駒を出していけるよう、今後の舵取りの役に立てていきたいです。今回制作してよかったですし、何よりまぐろさんのこの感想がボクにとっての大きな追い風になってくれたような気がしています。
「面白い」「夢久から一歩出ていた」、このふたつがとっても嬉しかったです! 反応や感想はありがたいことに頂く機会に恵まれてはいますが、あまり「面白い」と言われることがないので。いつも自分の作品は、純粋に、「面白ろいな~」という感覚が一番に占めているようなナルシストなんですけど、そこへの希有となる共感は、正直ボクてきにとても快挙です笑
加えて、夢久、ドグマグへの脱却は今回自己的テーマだったような気がしているので、その部分をご指摘いただけたのはかなり嬉しいことでした。書き上げて、そういう部分は忘れてしまってましたけど正直?笑
対象に対してドライでありたい、とは実はいつも思っているんです。でも狂気に迷い込み、酔ってしまう癖がどうしても顔を出してしまうんです。
今回はキッチリ距離をとって、冷淡に対処できたんじゃないかとご指摘によって自認できました。もしかすると夢久からの脱却はリンチへの覚醒なのでは?なんて若干有頂天気味です笑
浮かれずこの道をキッチリ進んでいこうと襟を正すことができます、とても光栄なことです。
単なる夢オチを昇華させた部分に加えて、佐倉さんからも感触を受けてもらったように、ハッキリ語るところはハッキリした上でぼやかしている、みたいな「エンタメ」成分を融合させていた面もあって(これは図らずもでしたが。)そこが作中へ迷い込まずに済んだというバイアスと働いたのかも知れないな、と、結果論ですがそう思ったりします。
今回の視点の距離感は、自分の中でひとつの理想としているバランスだったりもしているので、偶発的なきっかけから、今度は瓢箪からきっちり駒を出していけるよう、今後の舵取りの役に立てていきたいです。今回制作してよかったですし、何よりまぐろさんのこの感想がボクにとっての大きな追い風になってくれたような気がしています。
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月12日 03時43分
[一言]
YUMEZ(ゆめぜっと)さんの作品は、いつもこそっと読んでいるのです。感想欄にトンチンカンなことを書くのが恥ずかしくて……。とはいえ、「デイヴィッド・リンチ監督のような作品へと仕上げた」ということでしたので、私が変なことを言っても許されるかなと思い参上しました。(デイヴィッド・リンチ監督の映画は私には難しすぎるのです)
誰が主役かと言うのならば、「怪我をして死にかけている少年」なのでしょう。ただ、この作品はウロボロス的なものとおっしゃっていましたので、文字通り始まりも終わりもないという風に捉えるならば、誰が主役かと考えること自体がもしかしら意味のないことなのかなとも感じました。
状況を伺い知ることのできる情報は断片的で、とても不安感を煽られます。モノクロや赤だけが印象的な映像、一瞬で切り替わる画像を文章化すると、このような形になるのかもしれませんね。
どこまでが誰の夢で、どこからが現実なのか。見ているものの夢と現実の境目がなくなり、どんどんと視点が変わっていくようなあやふやさ。読者である自分の立ち位置をどこに置けばよいのかわからなくなるような、足元の心許なさがYUMEZ(ゆめぜっと)さんの作品らしい。
傷から滴り落ちる赤、子宮の内側の赤、初潮の赤。生まれ、育み、死に、また生まれる。生きることは熱い血潮のような喜びだけではなく、同等の苦しみもまた引き起こす。その繰り返しなのだということを示唆する物語だと思いました。
なんだかとっ散らかった感想で申し訳ありません。
YUMEZ(ゆめぜっと)さんの作品は、いつもこそっと読んでいるのです。感想欄にトンチンカンなことを書くのが恥ずかしくて……。とはいえ、「デイヴィッド・リンチ監督のような作品へと仕上げた」ということでしたので、私が変なことを言っても許されるかなと思い参上しました。(デイヴィッド・リンチ監督の映画は私には難しすぎるのです)
誰が主役かと言うのならば、「怪我をして死にかけている少年」なのでしょう。ただ、この作品はウロボロス的なものとおっしゃっていましたので、文字通り始まりも終わりもないという風に捉えるならば、誰が主役かと考えること自体がもしかしら意味のないことなのかなとも感じました。
状況を伺い知ることのできる情報は断片的で、とても不安感を煽られます。モノクロや赤だけが印象的な映像、一瞬で切り替わる画像を文章化すると、このような形になるのかもしれませんね。
どこまでが誰の夢で、どこからが現実なのか。見ているものの夢と現実の境目がなくなり、どんどんと視点が変わっていくようなあやふやさ。読者である自分の立ち位置をどこに置けばよいのかわからなくなるような、足元の心許なさがYUMEZ(ゆめぜっと)さんの作品らしい。
傷から滴り落ちる赤、子宮の内側の赤、初潮の赤。生まれ、育み、死に、また生まれる。生きることは熱い血潮のような喜びだけではなく、同等の苦しみもまた引き起こす。その繰り返しなのだということを示唆する物語だと思いました。
なんだかとっ散らかった感想で申し訳ありません。
- 投稿者: 石河 翠@4/29「運命の番を嫌う訳あり娘は拒めない」配信開始
- 2019年 01月11日 15時42分
石河さん感想ありがとうございます!
翠さんにこそっと読んでいただけていただなんてとっても光栄です、うれしい笑
思いつくままに思うことをダイレクトに仰っていただけたのかなあと思うので、とても伝わるいい感想ですー。
リンチ監督ってああいう人だから、めちゃくちゃ敷居を高くマウントを取る人間性で、だからこそ受け手としては「なら遠慮なく意味不明なもんは意味不明のままで好きなように解釈していいんだよね?」。リンチが布教し一昨年の『リターン』にて世界的なブレークスルーを果たしたこの大掛かりな一連の現象は、彼を師と崇める極東の未デビュー作家の掌編作品にまで前向きな影響を与えてくれたものかと感動しています笑
みなさんやはり「人間」を読まれるというか、小説には人物を見いだされるものだなあと思うものでした。
情報は小出しに、といった感じで少しずつネタバレをさせていただこうと思います。筋の途中に透明な筐体が出てきます、1メートル四方の柱だったり、奥の奥まで視野を広げんと無理をしている「見切れ」物体だったり。
作中に登場する存在の中で、作者が自己投影をいちばんおこなっているものは、実はあの空気感だったりします。村上龍が若かりしころにこだわっていた「家具化」あるいは「カメラアイ」。ボクも文学のスタート時にそのあたりに影響を受けた部分もあって、未だにそういった純粋な視点というものに重きを置いている節があります。
毎度のことになりますが、ボクは人物ではなく世界観のほうに身を寄せ、語らんとしている部分があるので、ひょっとすると今作においては、やはり人物というより世界を映す能楽でいう「シテ」のようなこの世ならぬものへの鏡の存在、「夢」に向かおうと息も絶え絶え逡巡している透明な夢の主、夢の器とでも命名できるようなイタコみたいな存在者こそが主人公に当たっているのかも知れません。
まあこれはかなり穿った考えなので、作者の思考の一例くらいにとっていただけたらばと思います。翠さんの「」のように、人物のない小説もまた一興だということを、ボク自身の個性、ひいては布教たる使命にしていけたらと思う次第です。
カラスウリさんも同じくですが、翠さんも九州在住だったと存じていますので、ゆめぜっとも同じ九州勢、こぞって楽しく、パワフルに文学を発信していきたいものですね! 今回がいいご縁になりまして、今後も交流していただければとても嬉しく思います。
翠さんにこそっと読んでいただけていただなんてとっても光栄です、うれしい笑
思いつくままに思うことをダイレクトに仰っていただけたのかなあと思うので、とても伝わるいい感想ですー。
リンチ監督ってああいう人だから、めちゃくちゃ敷居を高くマウントを取る人間性で、だからこそ受け手としては「なら遠慮なく意味不明なもんは意味不明のままで好きなように解釈していいんだよね?」。リンチが布教し一昨年の『リターン』にて世界的なブレークスルーを果たしたこの大掛かりな一連の現象は、彼を師と崇める極東の未デビュー作家の掌編作品にまで前向きな影響を与えてくれたものかと感動しています笑
みなさんやはり「人間」を読まれるというか、小説には人物を見いだされるものだなあと思うものでした。
情報は小出しに、といった感じで少しずつネタバレをさせていただこうと思います。筋の途中に透明な筐体が出てきます、1メートル四方の柱だったり、奥の奥まで視野を広げんと無理をしている「見切れ」物体だったり。
作中に登場する存在の中で、作者が自己投影をいちばんおこなっているものは、実はあの空気感だったりします。村上龍が若かりしころにこだわっていた「家具化」あるいは「カメラアイ」。ボクも文学のスタート時にそのあたりに影響を受けた部分もあって、未だにそういった純粋な視点というものに重きを置いている節があります。
毎度のことになりますが、ボクは人物ではなく世界観のほうに身を寄せ、語らんとしている部分があるので、ひょっとすると今作においては、やはり人物というより世界を映す能楽でいう「シテ」のようなこの世ならぬものへの鏡の存在、「夢」に向かおうと息も絶え絶え逡巡している透明な夢の主、夢の器とでも命名できるようなイタコみたいな存在者こそが主人公に当たっているのかも知れません。
まあこれはかなり穿った考えなので、作者の思考の一例くらいにとっていただけたらばと思います。翠さんの「」のように、人物のない小説もまた一興だということを、ボク自身の個性、ひいては布教たる使命にしていけたらと思う次第です。
カラスウリさんも同じくですが、翠さんも九州在住だったと存じていますので、ゆめぜっとも同じ九州勢、こぞって楽しく、パワフルに文学を発信していきたいものですね! 今回がいいご縁になりまして、今後も交流していただければとても嬉しく思います。
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月12日 03時17分
[一言]
文体からイメージするのはできるのですが。
イメージの断片をストーリーとして繋げていく作業が難しかったです。それともストーリーとしてまとめあげ様とするのが、野暮ってものなのかな? とりあえず子宮や失われた女性のイメージは強く感じました。
その女性が、妻なのか。姉なのか。はたまた両者イコールでつながる存在なのか。気になります。
文体からイメージするのはできるのですが。
イメージの断片をストーリーとして繋げていく作業が難しかったです。それともストーリーとしてまとめあげ様とするのが、野暮ってものなのかな? とりあえず子宮や失われた女性のイメージは強く感じました。
その女性が、妻なのか。姉なのか。はたまた両者イコールでつながる存在なのか。気になります。
カラスウリさん感想ありがとうございます!
こちらであけましておめでとうございます。
今回は今まででいちばん遠慮なく自分を出させていただいた感じで、主催者が佐倉さんっていう懐の深さに飛び込んだ感じになります笑
ボクの場合遠慮なし=リンチイズム解放ってことなんですが、リンチは自作の解説を大方ぼやかす感じなんですけど、これについてはイズムを継承しないでおこうと思います笑
これから読んで感想を書いてくれる方もいるかも知れないので、ネタバレ直前くらいにします?ね。
「ストーリーとしてまとめる」ことは半々くらいで頂ければいい案配でしょうか?自分でもまだ計りかねています。
はじめの着想は、事故で死んでいく少年の今際の夢というもので、奥さんは妄想にすぎないというアイデアでした。
これは完成状態でも主軸の筋になっています。
ただ、それだけだといつもの「ドグマグ」パターンになってしまうので、何かないかなあ、ということでこういう複雑な構成へと発展させていきました。
初潮や冒頭の砂漠はプロット段階で足していった脇役みたいなものです。
なにがやりたかったのかというと、幻想が幻想を互いに見ているという状態、それを作り上げたかったんですね。なのでどこが始まりなのかはよくわかりません。主軸である少年の死も、対となる妄想の女性の霧散も、脇役の情景たちも、読者や読書回数により変幻していくような、そういったストーリー、と言えば正解になりますか笑
それだけならばまだ理解の範疇だったのかなと客観的には思っているんですけど、仰るとおりイメージの断片をコラージュとして所々にインサートしてしまったがゆえ、さらなる混乱をきたしているのかなあとボク自身考えています。
ただし。読者を混乱させるという行為は、リンチ師匠がいつも好意としてやっていることなのでボクもその手癖だけは生涯持ち続けていくことなのかなあと認識しているんですよ笑
比喩自体もかなり振り切っているものが多く、過去作を読んでいただいているカラスウリさんならばまだ耐性があるはずなのですが、初めての読者にはどのように強烈に写るんだろうとニンマリしています(をい)
テーマとしては雪の白、と見せかけての死への接近と恐怖、という意味合いでの白に染みていく「くれなゐ」。これがお題へのボクの回答となりました。お題を頂いたとき思った「和歌」のような鮮烈、その色彩感は作品全体へ漂わせることができたのでは、と自負しています。
こちらであけましておめでとうございます。
今回は今まででいちばん遠慮なく自分を出させていただいた感じで、主催者が佐倉さんっていう懐の深さに飛び込んだ感じになります笑
ボクの場合遠慮なし=リンチイズム解放ってことなんですが、リンチは自作の解説を大方ぼやかす感じなんですけど、これについてはイズムを継承しないでおこうと思います笑
これから読んで感想を書いてくれる方もいるかも知れないので、ネタバレ直前くらいにします?ね。
「ストーリーとしてまとめる」ことは半々くらいで頂ければいい案配でしょうか?自分でもまだ計りかねています。
はじめの着想は、事故で死んでいく少年の今際の夢というもので、奥さんは妄想にすぎないというアイデアでした。
これは完成状態でも主軸の筋になっています。
ただ、それだけだといつもの「ドグマグ」パターンになってしまうので、何かないかなあ、ということでこういう複雑な構成へと発展させていきました。
初潮や冒頭の砂漠はプロット段階で足していった脇役みたいなものです。
なにがやりたかったのかというと、幻想が幻想を互いに見ているという状態、それを作り上げたかったんですね。なのでどこが始まりなのかはよくわかりません。主軸である少年の死も、対となる妄想の女性の霧散も、脇役の情景たちも、読者や読書回数により変幻していくような、そういったストーリー、と言えば正解になりますか笑
それだけならばまだ理解の範疇だったのかなと客観的には思っているんですけど、仰るとおりイメージの断片をコラージュとして所々にインサートしてしまったがゆえ、さらなる混乱をきたしているのかなあとボク自身考えています。
ただし。読者を混乱させるという行為は、リンチ師匠がいつも好意としてやっていることなのでボクもその手癖だけは生涯持ち続けていくことなのかなあと認識しているんですよ笑
比喩自体もかなり振り切っているものが多く、過去作を読んでいただいているカラスウリさんならばまだ耐性があるはずなのですが、初めての読者にはどのように強烈に写るんだろうとニンマリしています(をい)
テーマとしては雪の白、と見せかけての死への接近と恐怖、という意味合いでの白に染みていく「くれなゐ」。これがお題へのボクの回答となりました。お題を頂いたとき思った「和歌」のような鮮烈、その色彩感は作品全体へ漂わせることができたのでは、と自負しています。
- 夢之ゆめぜっと
- 2019年 01月10日 15時46分
感想を書く場合はログインしてください。