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[気になる点]
 まず無意味な引用が無駄に多い点が気になります。引用とは、その言葉だけを単にぽんと置けば、それで意味を成すというものではないはずです。あまりに説明不足が過ぎ、なぜそこでその言葉が引用されたのか、大変分かりにくい書き方です。もっと、引用された言葉の意味を本文とリンクさせるよう、説明を尽くすべきです。
 また論理も破綻しています。国書由来が欺瞞と言うなら、そもそも伝統破り自体が成立しません。また国書を由来にしたからと言って、それがどうして古代中国文化の否定に繋がるというのでしょうか?単に選ばれなかったというだけで否定されたように感じるというのは、『選ばれて当然』という驕りによる意識過剰に過ぎません。なにせ、他に素晴らしい文献はいくらでもあるのですからね。
 加えて、伝統が失われたと主張されていますが、そもそも日本の元号は、歴史的に見て日本の独自色を強めていった『伝統』があります(当然ご存知でしょうね?)。ですから国書由来という新しい流れがそこに加わったからとて、特に騒ぐことでもないのです。我々は何一つ失ってなどいませんし、それを問題視することこそ、『悪意からの詐欺』です。
[一言]
>>何故危険なのか説明できますか? 
あなた自身が何一つ具体例を挙げておらず、説明できていないというのは、大変な皮肉です。


  • 投稿者: tubuyaki
  • 2019年 04月06日 15時41分
コメントお寄せいただきありがとうございます。
説明不足についてのご意見ということですので
一つずつ順を追って説明させていただきます。





>>まず無意味な引用が無駄に多い点が気になります。

まず、私が引用を多用するのは
私自身が言うべきことなど一言もないからです。
私がだらだら書いてあるのは注釈に過ぎません。
むしろ引用が主役であり
本文は引用を紹介するものであります。

最初の引用、ゲーテについては
先に投稿した短編エッセイ作品
『新年号発表! 新年号は『令和(れいわ)』!!』
で詳細を語っていたので
ついつい説明を省いてしまいました。
先の作品も読まないと分かりにくい欠陥ですね。
反省しております。

第二の引用、ベルクソンについて
これも説明不足でしょうか? 
「人間は時間を捉えておくことはできない」ことの
「具体例」を挙げる必要がありますか? 
過去というものは再現はできるが
そのことは過去そのものを保存しておけることを意味しない。
昨日の夕食を思い出したり
アルバム写真を残したりすることは可能であるが
それらのものは『夕食を食べていた時間』や
『写真を撮った時間』そのものではない。
だから過去、または歴史は意識や解釈の中にしか
存在しないとしか言いようがない。
だからこそ解釈の健全さが、伝統や習慣、文化の質が問題になる。

第三の引用、キルケゴール、
確かに説明不足ですね。
完全に説明しようと思うと215ページ
(岩波文庫版『死に至る病』全頁、案外短い)
書かないといけない。
しかしどうせ215ページ丸写ししたところで
誰も読まないでしょうから
ここに三行にまとめておきましょう。
・絶望とは罪の本質である。
・罪の本質とは罪を続けるその根性を指す。
・罪人根性は最悪の絶望である。
ついでに「具体例」も一つ挙げておきましょう。
現代は罪深い時代です。良き文化は隅へ隅へ追いやられ
(あるいは祭り上げられてかえって実像がぼやける)
くだらないものが蔓延している。
くだらない本、くだらない音楽、くだらない広告宣伝の類、
くだらない刺激物全般、くだらない中毒物全般、
くだらない人間、
そうしたものとどもと過ごす一日の連続を
「まあいいか」で済ます私の意識、それは『絶望』です。
個人個人の意識は打たれ弱く、流されやすく、堪え性がない。
「今日にあっては、意志薄弱ほど時代的なものはない。」
(ニーチェ『善悪の彼岸』)
故にこそ伝統や制度や法の維持徹底が求められる。
「私はいつも厳格に法律をまもるということに
賛成しているのだが、今日のような柔弱さと
過度な自由のためにいたるところ
だらけきっている時代には、
とくにそう思わずにいられないな。」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』
1831年2月19日土曜日)

この引用も無意味でしょうか? 









>>国書由来が欺瞞と言うなら、そもそも伝統破り自体が成立しません。
また国書を由来にしたからと言って、
それがどうして古代中国文化の否定に繋がるというのでしょうか?

中国の影響下にない国書など存在しない。
だから私は政府の国書『由来』という表現は欺瞞だと言っている。
そして政府は漢籍から選ばなかったので
漢籍から選ぶという伝統をも破ったことになる。
これが論理破綻ですか? 
恐らく、私が国書の存在も否定していると誤解なさっているから
混乱してしまわれているのではないでしょうか。
私は国書が由来だという表現を欺瞞だと言っているのです。
万葉集が日本の書物、国書であることを否定しているのではない。
万葉集が漢籍だと主張したい訳ではない。
そうではなくて
万葉集は原理上由来にはなり得ないと言っている。

何故「令」と「和」という漢籍にもあるような字を
国書から取ってきたなどと主張する必要があるのでしょう? 
万葉集に「令」と「和」の字がある、
漢籍にも「令」と「和」の字が当然ある、
(例えば話題になっている張衡の「帰田賦」)
伝統に倣えば漢籍から取る(と公表す)べきだが
その伝統を無視して万葉集から取ることにした……
伝統を無視したのだから伝統を破っていると言えるし
古代中国文化の否定でもあるでしょう。
『わざわざ』国書である万葉集から「令和」の字を取った動機は、
中国からの影響を否定したいから以外にないでしょう。

日本は1400年、漢籍にちなんで年号を名付けてきたのに
安倍政権は保守アピールのつもりなのかなんなのか知りませんが
漢籍ではなく『わざわざ』国書から選んだ。
そして「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」が
典拠だと表現した。
中国の影響下から脱却したいという動機から
伝統破りをやらかした。
このように、
国書由来という欺瞞によってこそ伝統破りが成立しています。

この部分で私が間違っているとすれば
「令」「和」という字の作者帰属(アトリビューション)が
万葉集にあるとする場合ですが、
たった二文字の字の帰属なんて断定できる訳がない。
元号の制定は文字の作者帰属を決定するものではないし、
書の作品とかならまだしも、
たった二文字の、ばらばらの歌の字が
特定の作品に帰属するものと主張することは
不可能ではないでしょうか? 
「小説家になろう」でもご存知の通り
200文字以下の作品は投稿できないのです。
200文字以下の作品は作品として見なされない。
「令」と「和」はたった二文字です。2文字。
「令」と「和」に著作者の権利が生ずるとは思えないし
また、「令」と「和」から万葉集という作品の性格や特徴を
見出すのは極めて難しい。
「令和」から「初春の令月にして、気淑く風和ぎ……」
のフレーズを言い当てることができた人間が
どれほどいたのでしょう? 
1フレーズですらない、一個ずつの字ですから
引用なんていくらでも遡れますし、
遡るのを恣意的にやめることもできてしまう。
究極的には
広辞苑やワード変換機能だって典拠に成り得る。
そんなの滅茶苦茶でしょう。
それが駄目だから、
最初から素直に漢籍縛りに従って
漢籍の方を選ぶべきだったのです。
やはり国書由来は欺瞞であり
その欺瞞は中国古典を排除することによってこそ
成り立っていると言えます。

万葉集が我が国の文化の象徴なのははっきりしていますが
我が国の文化は、特に万葉集の時代の文化は
そんなにはっきりしたものではない。
元号の典拠を漢籍に限定する伝統は一つの線引きであったと
考えられます。
線引きを軽んずるなら漢籍も万葉集もワード変換機能も
ごっちゃになる。
ごっちゃでもいいと考えているから欺瞞を犯すのです。

私にはこれ以上この部分について
詳しく語る能力がありません。









>>単に選ばれなかったというだけで否定されたように感じるというのは、
『選ばれて当然』という驕りによる意識過剰に過ぎません。

実に驕りに満ちた文章ですね。
伝統を自分の息子か何かだと思っていらっしゃるのでしょうか。
元号の典拠を漢籍から選ぶ理由はそれが日本の伝統だからです。
小学校の運動会の伝統じゃないんですよ。
『選べて当然』『もっと自由で当然』
だとでも思っているのでしょうか? 
「リレーには出たくない、綱引きがいい!」
みたいな感覚なのでしょうか? 
「雨が降って中止になればいいのに!」みたいな? 
安倍政権の行いはまさしく日本の伝統の否定以外の何者でもない。
「(中国の影響のような)古いものを脱ぎ捨てて
明るい未来へ進む」みたいないつものポエムを
新元号を介して主張したかったのでしょう。
「古いもの」への否定じゃありませんか。
運動会をやる理由が理解できないのはどうでもいいことですが、
日本人が日本の歴史の一部であるものを理解できないのは
日本の破滅に繋がる。









>>そもそも日本の元号は、
歴史的に見て日本の独自色を強めていった
『伝統』があります(当然ご存知でしょうね?)。

うん? これは何の話でしょう? 
元号(年号)は『大化』から『平成』まで
ずっと漢籍が典拠です。
年号が時の政権に政治利用されてきた経緯のことを
おっしゃっているのですか? 
それは『独自色』と言うべきものなのでしょうか? 
もしかして同じ字を繰り返し使うことが多いことを
『独自色』と呼んでいるのでしょうか? 
それなら確かに独自と言えるかもしれませんね。
ひょっとすると私が寡聞にして存じ上げない
『独自色』が他にあるのかもしれませんが、
しかし私が問題としているのは「漢籍から元号の典拠を選ぶ伝統」が
失われたことです。
本来中国の習慣である元号に日本の独自性が備わったことと、
漢籍縛りという最初からある伝統が破られたこととは
全く関係がない。
元号の概念に日本の独自性が備わったからと言って
漢籍縛りという最初からある伝統を破っていいことにはならない。
「伝統を破ってはならない」、
現代人は意識的にも無意識的にも
伝統を悪習や迷信という風に考えるので
この言葉の意味が掴めないのでしょうね。










>>なにせ、他に素晴らしい文献はいくらでもあるのですからね。

引用元が素晴らしい本かどうかを問題にしているのではない。
先人が素晴らしいものとして残してきた古典が
素晴らしくない訳がないということを、
私が理解していないと思っていらっしゃるなら、
それは誤解です。
古典の価値を疑うには私が先人より優れた頭脳の持ち主である
必要があるが、そのような事実は微塵も存在しない。
繰り返すようですが私が問題としているのは
それぞれの書籍自体の価値ではなく
「伝統では漢籍から選ぶのに現政府はその伝統に従わなかった」
という点です。
万葉集も古今和歌集も私は尊敬している。
短歌も自分で作る程度には好きです。
だが問題はそこではない。





>>あなた自身が何一つ具体例を挙げておらず、
説明できていないというのは、大変な皮肉です。

具体例を挙げるのはこの本文の目的ではありませんが、
一つくらいは挙げるべきだったかもしれません。
そうですね、決まりごとが軽々しく変えられることの恐怖は
意識しないと案外見落としやすい。
小学生みたいだと言われるだけではピンとこない可能性もある。
例を挙げるとするならば……
私は高校生の頃からずっと日記やメモをつけています。
日記をつけるという習慣は言うなれば『個人的な伝統』、
その『伝統』は小説という拙いながらも一個の文化として結実したのですが
もし日記をみんな燃やされれば作家志望者としての私も、
私の学生時代も滅びるであろう。
アルバムを燃やされる時や
家族と一緒に夕食を取る習慣をやめる時にも
似たようなことが起きるはずです。
「グローバル化だぁ」とか言って
日本から日本の伝統を取ったら日本はバラバラになると
私は確信しています。
だから伝統を一つでも多く残していこう
守っていこう、
今回一つ壊れたから残念だと言っているのです。

私のこの文章に皮肉があるとすれば
漢籍がグローバル化の賜物だという点でしょうか? 








>>我々は何一つ失ってなどいませんし、
それを問題視することこそ、『悪意からの詐欺』です。

海外にお住まいなのでしょうか? 
私は今この文章をあなたが現在日本国内にお住まいの方だと
前提した上で書いています。
日本から何が失われているかを知るには
外を歩くだけで目の当たりにすることができる。
行儀の悪いサル、スマホをいじるサル、
サルが車を走らせ、サルが青春を謳歌する。
土地の開発に次ぐ開発、植民地政策的英語教育、
利便主義、功利主義、多数派主義の合理主義、
マンガだらけの図書館、テレビ漬けの家、
新興宗教だらけの街角、
指示し、命令し、詮索し、同情し、同調し、煽動する騒音と光。
「夢だよ!」「希望だよ!」「ほら明るいよ!」
「新しい流れだよ!」
歌でも映画館でもネットの中でもそう繰り返している。
いい年した人間がみんなロマンをこじらせている。
親も教師も社訓も新曲も街頭演説もポエマー。

私は知っている。
人々はこれからまるで外国人のような目つきをして
万葉集を読むであろうことを。私はそれを予知する。
物珍し気に、ため息をつくふりなんかしながら、
ちょっと手を出していじくりまわして……という風に、
彼らは日本の古典にしばらく注目するであろう。
そして「万葉集ってすごいよね!」とか言う。
「こんな昔の言葉なのに全然古くない!」みたいなことを言う。
「こんなに昔の人たちなのに現代にも通ずる感性を持っていた」とか。
「こんな古いものにも素晴らしいところがある」とか。
いい加減にしていただきたい。
どこまで馬鹿にすれば気が済むのでしょう。
何故未来に生まれたというだけで上から目線なのか。
「昔の人なのにすごい」ではなく
「昔の人だからすごい」んでしょう。
人々のこのような態度は悪意から故ではなく
頭がボケていることにちなんでいる。
これが伝統から切り離されて育った現代都市文明人の末路です。
恐ろしいのは、この人種がまだマシな部類の人種だということです。

私は現代のこうした浅薄な人間たちが人の親になったり
政治権力を振るったりすることに恐怖を覚える。
伝統が減れば減るほど
線引きは減って、
薄っぺらい人間の暴走を抑制する力も減っていきますから、
だから私は危険なのだと言っています。

「それを問題視することこそ、『悪意からの詐欺』」だの、
「特に騒ぐこともない」だの、よく言えたものです。
余程のんびりとした常夏の南国かどこかにお住まいなのでしょう。
羨ましい限りです。
私は本日とある選挙に行かなければならない。
どこに票を投じても絶望です。
選挙なんかで世の中を変えてきたからおかしくなったのでは
ないかと思う。









これで最後になりますが、
どのような理屈をつけようと
1400年の伝統が断絶した事実は永遠に変わりません。
それがすでに危機であることに気付かないのは
普段余程くだらない生活習慣を送っているからに
違いありません。
腐った習慣を続けると人間は腐敗します。
今ここで自分が間違っているかどうかを考えるのではなく、
普段罪に堕していないかどうかを考えなさい。
  • 住友
  • 2019年 04月07日 09時15分
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