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[良い点]
こういう内容を敢えて言葉で表現するという発想!
[一言]
何回も読んで、もやもやしていました。違和感があるけど、どこが震源か分からずに。映画や漫画なら、どうということはないのですが、文章でくると正直ヘビー級ですね。普段素通りしている場所で犯罪が行われていたと後から知らされたような、嫌な感じに似ています。

この作品における鈴木さんの意図はよく分かりませんが、実際に局所的であれ、正にこの通りの状況に置かれている人たちがいると私は思うのです。それに対して、善悪や正否を唱えることの虚しさは、内部の人間にとっても外部の人間にとっても、非常に消耗させられるものです。

恐らく私たちの間違いは、自由と隷属を両極に見るとことではないでしょうか。単純化して、資本を至上の価値に置いた場合、資産を自由、負債を隷属のものさしと仮定してみます。お金がないからという理由で何かを諦める必要がない人と、ただ必要なものを買うためにしたくもない仕事をしなくてはならない人の間には、一見、大きな溝があります。

しかし、資本の原理に支配されているという点からすれば、両者に違いはありません。そして、今日の社会に生きている人間の大多数は、この原理に支配されています。資本主義社会に限られたことでもなく。私から見れば、人間は、拘束と不自由を受け入れた上での服従の報酬を何に使うかという選択肢の多寡に人生の全てをつぎ込んで、支配を継続できる次世代を再生産することばかりに命を注いでいるとしか言いようがないです。

社会は私たちの価値を教えてはくれない。それどころか、私たちが何者であるかについて、かなりの嘘を教えてくる。そういう前提を持つところから人生を始めることが、どうしても必要なのではないかと思います。でなければ、私は別の人間といつでも差し替え可能なただの部品ではないかという誤謬を、いつまでたっても乗り越えられないままですから。結構な歪んだシステムに支配されてると思いますね、人間界は。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2019年 04月21日 15時12分
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 Minnow様、ご感想ありがとうございます。


> 私は別の人間といつでも差し替え可能なただの部品ではないかという誤謬

 自分の交換可能性についての否定的な感覚という論点はあると思います。
 しかし交換可能性そのものについては人間の本能は受け入れていると思います。
 つまり完全に特別な存在でありたいという感情は人間には無いと思います。

 なろう小説などでしばしば、自分に交換可能性がないことが快楽として描かれていると思います。
 つまり能力評価や人格への好意を集めるものとしての主人公。無視される存在ではなく友人ある存在としての主人公。
 安楽な人がいるのに底辺として尊厳なく酷使され、必死に考えたアイデアも、すぐ隣の労働者と同じ発想だったらお話になりませんよね。主人公が「こうすればいい!」って戦略を思いついて、他の人が「俺もそれ思いついてたんだ」って言ったら、主人公のキャラが立たない。感情移入したキャラが努力しても他の恵まれたキャラに知的に負けるのではつまらない。
 でも別に、宇宙の果てに地球そっくりの星があって、自分そっくりの人がいて、自分の家族そっくりの家族といて、自分の恋人とそっくりの恋人といたりして、それってつまり全体として交換可能ですけど、それにほとんどの人は不満はないでしょう。
 つまり愛し合える人々との幸せな日常があれば、それ自体がいくら交換可能でも人間は構わない。
 人間が実際に望んでいる幸福は、なろう小説などで誇張されるほど特別なものではない。
 勇者になんてそんななりたかない。家族との幸せがつづけばそれでいい。
 愛してくれる人が少数でもいて、自分が尊厳をもって扱われていると感じられればそれでいい。

 でも交換可能性への否定的な感覚という論点は、実に一般的にありますね。
 それは例えば、自分が特別であった実家から、労働者として会社に評価される社会人になる過程での葛藤かもしれない。
 あるいは例えば、会社に誠実に尽くしたとしても、倫理的な意味でそれが報われることはないことへの倫理的な葛藤かもしれない。
 一般的に言えば、自分が相手を思っていたほど、相手は自分を思ってなかったな、などと。
 例えば、唯一の親友と思っていた人に、実は友人がたくさんいたり。孤独そうな恋人いなそうな異性に、じつは恋人がいて楽しそうにしていたり。そんなときのさみしさというか。
 人間愛とか、倫理的な傾向を持つ若者が、今の企業のあり方に触れれば、どこか倫理的不満をいだくことも自然かと思います。そんな意味では、交換可能性への否定的な感覚は、現代文明への批判を含んでもいる。
 つまり、人間や権力者が、自らの打算のために、立場の弱い人々を物のように消費している現代社会の一面は、間違っていると、そういう直感的な憤怒。しかし多くの人は、加齢とともに適応していく。

 だから私は、人間が部品であること自体には、否定的認識はありません。
 私は運命論を嫌わない立場です。水が高きから低きに流れるように、宇宙の全ては必然だろうと思って不満はないし、宇宙と砂粒のスケールは反復的に繰り返されていると思う。この宇宙や地球や人類や故郷や自分や自意識が、特別なものであってほしいとは別に思わない。人類のような存在は広い宇宙に何億や何兆と存在すると思います。観測可能な宇宙の外に限りなくです。
 でも資本の論理において部品にされるとは、私にとって、それとは別のことです。


> お金がないからという理由で何かを諦める必要がない人と、ただ必要なものを買うためにしたくもない仕事をしなくてはならない人の間には、一見、大きな溝があります。
> しかし、資本の原理に支配されているという点からすれば、両者に違いはありません。


「法律そのものによって人々を本当に支配することはできません。
 なぜなら、人々を本当に支配するためには、その心を支配せねばならない。」
 などと本文で触れたように、外力によって支配することと内面から支配することをよく区別したい。
 外力によって支配することは危ういと思います。鬱憤が蓄積し、いつか革命が起こるかもしれない。
 しかし内面から支配したなら、必要な秩序を自ら形成していきますからね。墓穴を掘らせるというか。合理的です。

 富裕であっても、そうでなくても、もしその人に、小さな者への深い愛情や優しさ、思いやりといった感情が自然な形で備わっていたなら、私の言う文脈では、その人は、資本の論理には支配されていないと考えます。
 特に、もしも限りなく裕福な人がいたなら、私が論じる問題は消滅すると思います。無限大の金銭さらには権力を持っていたら、資本や法律は論点として消滅しますからね。意識すべきは、自分がしたいかしたくないかだけでしょう。でも限りなく裕福な人は実際には一人もいません。
 もしも全員が限りなく裕福だったなら、私が論じる論点は消滅します。経済的に脅迫することで実質的な洗脳へと促していくことは不可能になりますから。でも実際にはそうでないので、それはできる。


> 資本主義社会に限られたことでもなく。私から見れば、人間は、拘束と不自由を受け入れた上での服従の報酬を何に使うかという選択肢の多寡に人生の全てをつぎ込んで、支配を継続できる次世代を再生産することばかりに命を注いでいるとしか言いようがないです。

 人間が社会や都市を形成する以前から、自然界には制約がある。生命一般にとってそうでしょう。
 個体がやっているのは、その制約の中での利益の最大化です。本能的欲求の充足です。
 遺伝子の立場からすれば、種の保存のために最適な本能を個体それぞれに設定しています。
 もし痛みを感じたくないと言う者がいても痛みを感じさせるというのが、遺伝子がした選択です。
 その意味では生命はみな地獄に産み落とされる。制約や拘束や隷属の中に。
 生かされる。死んでいくのは苦しいから。再生産させられる。そうしないのは苦しいから。
 その自然界の原理を私は非難しません。それは前提として、しかも健全な前提だと感じます。
 資本の論理には別の要素があると思うのです。


> 社会は私たちの価値を教えてはくれない。それどころか、私たちが何者であるかについて、かなりの嘘を教えてくる。

 社会は人々に十分に、自分の見方を教えていると思います。
 つまり、個人主義と平等主義と民主主義だと思います。それらが資本の論理だと思うのです。
 つまり、幸福とは物質的に利己的なものですから、誰もと同じく、根本的には私利私欲で自由に生きなさいと。
 そして、誰もそう生きているのですから、人格や人間性に貴賎があるなどという思想を強いられても否定しなさいと。
 しかし、各々の望みは等しくはありませんから、その功利主義的な総和を民主主義手続きで計算し、法律の正しさは正義としなさいと。それが個人主義と平等主義と民主主義だと言いました。
 すると、世界とは競争ですから、苦しみは敗者の属性であり、倒れる者を憐れむ必要はない。
 成功者とは経済的な成功者であり、古典的に言う、道を極めたような人ではない。
 そのように、強いられることなく、人々は進んで秩序を形成していく。経済人仮説は嘘から出たまことになる。
 それは自由精神の安楽死のようなものですが、主観的には幸せだと言えます。
 それが、知性を持ってしまった生命体である人類を、永劫の苦しみから救う処方箋だということです。


> この作品における鈴木さんの意図はよく分かりませんが、

 昔、キリスト教はカルトの如く否定され、かつて、商業も理工学も蔑まれていた面があります。そして人類は、退歩を自覚しながら生きていた。
 近代に臨んで人類の思想は次第に転換されました。倫理的な徳性の定義が変形していった。
 近代思想の内側からでは、正義の観念のその変化をうまく説明できません。単に、階級闘争史観のようなものに全て押し込め、商業蔑視も科学蔑視も(ある種の)宗教蔑視も、悪しき権力による弾圧として済ませるくらいです。しかし現実の古代人はアホではない。
 近代思想を相対化して否定的に論じる立場は、既存のものが色々とあります。私が昔、勉強になったのは、西部邁という評論家の書く論稿でした。彼らはつまり、近代化には深刻な不合理が含まれていると言います。
 一方で、近代化のそんな陰の面すら、深い意図に基づくのだという陰謀論も存在しました。『シオン賢者の議定書』など。不合理な変化が起こっているとするよりは、合理的な変化が起こっていると考えるほうが自然です。最も権力ある人々が愚者であると断言する根拠は誰にもありえませんからね。
 なので、現代世界の様々な面を総合して、最も整合的に説明すると思われるモデルを考え、本文としました。
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