エピソード1の感想一覧
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[一言]
……物語が書けなくなって、交流も出来なくなって、……唯一書けるもの(エッセイもどき)を書き散らして、幻滅して……結局、物語が書けないまま……なんて、笑い話に見えますか……?いくら書く方法や批判に対する言葉に対して書き綴ったとしても、書けなくなった問題が解決するわけではないのに馬鹿みたいですよね……。
……どうやったら、書けるようになるのでしょう……。やっぱり筆を折るべきでしょうか……。
……物語が書けなくなって、交流も出来なくなって、……唯一書けるもの(エッセイもどき)を書き散らして、幻滅して……結局、物語が書けないまま……なんて、笑い話に見えますか……?いくら書く方法や批判に対する言葉に対して書き綴ったとしても、書けなくなった問題が解決するわけではないのに馬鹿みたいですよね……。
……どうやったら、書けるようになるのでしょう……。やっぱり筆を折るべきでしょうか……。
エピソード1
さて、どうなのでしょうね。私も今現在、絶賛スランプ中で小説が書けない状態なのですが。まあ、一応ちょくちょくと文章を入力してはいるのですけどね。なかなか形になってくれないと、そんな感じです。
……私にとって、創作というのはどこまでも趣味でして。趣味としてのこだわりはありますが、だからと言って執筆を特別なものだなんて思っていないし、「物書きはこうあるべき」みたいなものを強く説くつもりも無かったりします。
このエッセイも、「私はこう考えています」というのを書いてそれが誰かの参考になれば良いなと、その程度の気持ちで書いています。……そうですね、このエッセイもそろそろ更新しないといけないと思っているのですが。スランプというのは厄介です(笑)
正直、ここは誰かに頼まれて書く場所ではないと思います。まあ、いろんな方と交流をする内に自然に相手の作品を楽しみにしたりする部分もありますが。でも、自分は相手に何かを強制することはないし、相手も自分に対して何かを強制してこない。あくまで自分の意思で好きに書いて、その上で面白い何かが生まれたらそれを喜び合う、ここはそういった「緩いつながり」でも活動できる場所だと思います。
で、そういった自分の理由、自分のペースで活動できる人の方が、色々と無理なく活動できるのかなと。
……ネットでも現実でもいい、「他人の趣味を完全否定する人」というのを見たことがあるでしょうか? 例えばそうですね、「そんなお金/時間があるのならもっと有意義なことに使った方が良い」とか言い出すような人ですね。――私は、そういった人から往々にして、言葉では表現し難い微妙さを感じることがあるのですが。
どんな理由でも良い、誰かにわかってもらえなくてもいい、ただ「誰かのためになる」とは言えないような、生きる上での「遊び」は持った方が良いと思います。自分や他人の行動全てに「社会的な正しさ」を求める人というのはむしろ微妙で、「遊び」があった方が健全なのかなと。
で、その「遊び」のことを「趣味」というのだと、私は思っている訳ですが。
もし、文章を書くことが趣味でなくなったのであれば、それはもうどうしようもないと思います。他に趣味があるのであればそちらを優先して、その上で自身の気が向くのであればダメ元で続ける位にした方が良いのかなと。
より良い趣味があるのに、上手くいかない趣味に固執して、最終的にどちらも楽しめなくなっては本末転倒かなと。
ただ、一度でもいいので、執筆が自分自身にとってどのような「遊び」だったのか、振り返ってみても良いとも思います。
――例えば作品を書籍化してお金を受け取ってしまったのなら、そのお金の分だけ責任が発生してしまいます。でもここは、自由に投稿していいし読んだり読まなかったりしていい、そんな場所です。
自分の思うまま、自由な形で活動してもいいし、その活動を受け入れてくれる人がいるのであれば、たとえ言葉を交わさなくても、それは交流なのだと思います。……実際、私が毎週上げている言い訳満載な活動報告、コメントは無くても、読んでくれている人はいますし。
だから、自分にとっての「遊び」がどのようなものか、少し幅を広げて考えてみてもいいのかな、とも思います。良い作品を創り上げようと努力することが遊びになる人もいるだろうし、より多くの人に読まれようとすることが遊びになる人もいる。ひらめきを形にする、感情を形にする、思索を深めるために形にする、試行錯誤が楽しい、とにかく形にするのが楽しい、いろんな遊び方があるかと思います。
一時創作的なものが難しいのなら、読書感想文や旅行記みたいなものを書いてみたりしてもいい。旅行記なんかは、プライベートなことを色々とぼかして私小説風に仕上げるなんてどうでしょう? 面白いものができるかもしれません。まあ、できない可能性も十分にありますが(笑)
そのために読書や映画視聴、旅行をしてみたりとか。気分転換にもなるし、風景に刺激を受けて文章を考えたくなったりするかも知れません。書けるものを探したり刺激を求めたりするのも一つの手かなと。
どんな形でも、自身が楽しめればそれは遊びだし、それは生きる上での遊びでもあると思います。同時に、その遊びを受け入れてくれる人がいる限り、それは交流なのかなと。で、そういった型破りを受け入れてくれる人も案外いると思うのです。
――何よりね、どんな理由であれ、人がいなくなるのは寂しいのですよ。だから、たとえ書けなくなったとしても、一月に一度くらいでもいいので「まだいるよ」とだけでもいいから伝えてほしいかなと。それだけでも交流は続きますから。で、書けるようになったらまた書けば良いのかなと。いままでずっと何かを書き続けて誰かと交流してきたのなら、その位の手間を割く価値はあると思うのですが、どうでしょう?
……と、思ったことを書いてみたのですが。うん、長くなってしまいごめんなさいです。まあ、気に入ったところだけかいつまんでくれればいいなと、そんな風に思います。
……私にとって、創作というのはどこまでも趣味でして。趣味としてのこだわりはありますが、だからと言って執筆を特別なものだなんて思っていないし、「物書きはこうあるべき」みたいなものを強く説くつもりも無かったりします。
このエッセイも、「私はこう考えています」というのを書いてそれが誰かの参考になれば良いなと、その程度の気持ちで書いています。……そうですね、このエッセイもそろそろ更新しないといけないと思っているのですが。スランプというのは厄介です(笑)
正直、ここは誰かに頼まれて書く場所ではないと思います。まあ、いろんな方と交流をする内に自然に相手の作品を楽しみにしたりする部分もありますが。でも、自分は相手に何かを強制することはないし、相手も自分に対して何かを強制してこない。あくまで自分の意思で好きに書いて、その上で面白い何かが生まれたらそれを喜び合う、ここはそういった「緩いつながり」でも活動できる場所だと思います。
で、そういった自分の理由、自分のペースで活動できる人の方が、色々と無理なく活動できるのかなと。
……ネットでも現実でもいい、「他人の趣味を完全否定する人」というのを見たことがあるでしょうか? 例えばそうですね、「そんなお金/時間があるのならもっと有意義なことに使った方が良い」とか言い出すような人ですね。――私は、そういった人から往々にして、言葉では表現し難い微妙さを感じることがあるのですが。
どんな理由でも良い、誰かにわかってもらえなくてもいい、ただ「誰かのためになる」とは言えないような、生きる上での「遊び」は持った方が良いと思います。自分や他人の行動全てに「社会的な正しさ」を求める人というのはむしろ微妙で、「遊び」があった方が健全なのかなと。
で、その「遊び」のことを「趣味」というのだと、私は思っている訳ですが。
もし、文章を書くことが趣味でなくなったのであれば、それはもうどうしようもないと思います。他に趣味があるのであればそちらを優先して、その上で自身の気が向くのであればダメ元で続ける位にした方が良いのかなと。
より良い趣味があるのに、上手くいかない趣味に固執して、最終的にどちらも楽しめなくなっては本末転倒かなと。
ただ、一度でもいいので、執筆が自分自身にとってどのような「遊び」だったのか、振り返ってみても良いとも思います。
――例えば作品を書籍化してお金を受け取ってしまったのなら、そのお金の分だけ責任が発生してしまいます。でもここは、自由に投稿していいし読んだり読まなかったりしていい、そんな場所です。
自分の思うまま、自由な形で活動してもいいし、その活動を受け入れてくれる人がいるのであれば、たとえ言葉を交わさなくても、それは交流なのだと思います。……実際、私が毎週上げている言い訳満載な活動報告、コメントは無くても、読んでくれている人はいますし。
だから、自分にとっての「遊び」がどのようなものか、少し幅を広げて考えてみてもいいのかな、とも思います。良い作品を創り上げようと努力することが遊びになる人もいるだろうし、より多くの人に読まれようとすることが遊びになる人もいる。ひらめきを形にする、感情を形にする、思索を深めるために形にする、試行錯誤が楽しい、とにかく形にするのが楽しい、いろんな遊び方があるかと思います。
一時創作的なものが難しいのなら、読書感想文や旅行記みたいなものを書いてみたりしてもいい。旅行記なんかは、プライベートなことを色々とぼかして私小説風に仕上げるなんてどうでしょう? 面白いものができるかもしれません。まあ、できない可能性も十分にありますが(笑)
そのために読書や映画視聴、旅行をしてみたりとか。気分転換にもなるし、風景に刺激を受けて文章を考えたくなったりするかも知れません。書けるものを探したり刺激を求めたりするのも一つの手かなと。
どんな形でも、自身が楽しめればそれは遊びだし、それは生きる上での遊びでもあると思います。同時に、その遊びを受け入れてくれる人がいる限り、それは交流なのかなと。で、そういった型破りを受け入れてくれる人も案外いると思うのです。
――何よりね、どんな理由であれ、人がいなくなるのは寂しいのですよ。だから、たとえ書けなくなったとしても、一月に一度くらいでもいいので「まだいるよ」とだけでもいいから伝えてほしいかなと。それだけでも交流は続きますから。で、書けるようになったらまた書けば良いのかなと。いままでずっと何かを書き続けて誰かと交流してきたのなら、その位の手間を割く価値はあると思うのですが、どうでしょう?
……と、思ったことを書いてみたのですが。うん、長くなってしまいごめんなさいです。まあ、気に入ったところだけかいつまんでくれればいいなと、そんな風に思います。
- 市境前12アール
- 2020年 08月25日 02時22分
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