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[良い点]
ほぼ
ぼっけんさま
と、同意見なので、
私の感想は止めます。

興味深いです。
[気になる点]
テロリスト?
ことばを変えればレジスタンスですね。
それにいまどき破壊殺戮は時代遅れ。
[一言]
世界を壊したいのなら、ひとつ呪文が。

「○○○○氏、あなたこそ世界帝国初代皇帝にふさわしい」

↑を正確に唱え、炎上させれば……


もちろんフィクションですからね(;´▽`A``
 酒のつまみに苦取ぅるー様、ご感想ありがとうございます。

 Wikipediaによると、

「テロリズムとは、政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いることを言う」
「レジスタンス運動は、権力者や占領軍に対する抵抗運動を指す用語である」

 つまり、本文の文脈で言うと、既存秩序に対する違法行為については倫理的論拠なしに悪徳と見なしたがる公正世界仮説がテロという言葉自体に否定的世評を構成し、また、権力対大衆というモチーフにおいて大衆の側に正義を前提したいという自尊心がレジスタンスという言葉自体に肯定的世評を構成します。
 一方で、自己愛に埋没することのない真性の倫理は、違法性つまり武力的威圧を恐れることがないからテロを否定しないし、大衆という権威に頼る態度を軽蔑するからレジスタンスを肯定することがありません。
 そして時代遅れとは進歩主義の発想であり、進歩主義も公正世界仮説から来る意味のない直感だとは言えます。

> 「○○○○氏、あなたこそ世界帝国初代皇帝にふさわしい」

 意味が分かりませんでした。
[良い点]
 この世は公正に出来てはいない、誰もが利己的であるから社会が良くならない、という考えには同意致します。
[気になる点]
 文中で「愛による正義」を否定し、憎悪による正義を再定義することで良心ある世界を取り戻そう、と主張する趣旨であると解釈しましたが、その一方で「後の人々の幸福のために。笑顔のために」と文章を締めていますね。この言葉はむしろ「愛による正義」を前提として出てきた言葉に思えます。
 また、「個人的な幸福観」を超越すべきであるとも主張なさっている以上、筆者様が考えている「後の人々の幸福」とは我々「ゴキブリ」がそうであると捉えている「個人的な幸福」とは異なるものということになります。筆者様は、実際にはどのようなことが幸福であるかということに対して何か具体的な意見がおありでしょうか。そうであれば是非教えて下さい。
[一言]
 興味深く拝読しました。正直、私はゴキブリなので、内容の全てには賛同できません。むしろ「人々が利己的である分、尚更人にやさしくあろう」と思っていて、その思想の根底は筆者様が散々否定なさった「愛」の側にあるでしょう。つまり、利己的なのです。
 しかしながら、利己心というのは我々が生物であるからには逃れられないものではありませんか。「自分の身が滅ぶ結果になろうとも、一矢報いてやりたいという復讐心」を「個人としての合理的な利害を超越している」とお考えのようですが、それを抱く人物は「一矢報いたい」という欲望があり、それが実現することを願っているのですから、「自分の思い通りに事を運びたい」と思っているわけで、やはりそれは利己心なしには生まれ得ない感情ではないかと思うのです。
 筆者様はどうお考えですか。
 どのような意見でもお待ちしております。
 こまどり乳酸菌様、ご感想ありがとうございます。


> その一方で「後の人々の幸福のために。笑顔のために」と文章を締めていますね。この言葉はむしろ「愛による正義」を前提として出てきた言葉に思えます。

 本文で、「愛による正義」と言っているものは、ある特殊な「愛」についてのある特殊な「正義」を言っていると読んでいただければと思います。
 と言いますのも、近代における「正義」や「愛」は、西洋近代の社会思想の枠組みで定義されたそれらであり、よく見れば、例えば東洋における歴史的なそれらとは違います。
 つまり、人間は平等で、誰が誰を蔑む権利もなく、利己的に生きることは人間の本性であって蔑まれる謂れはなく、他者に害をもたらさない限りにおいて個人の自由は最大限許されることが幸福を意味する。それがキリスト教道徳です。その平等主義には、倫理的に誇り高い人々へのルサンチマン(≒嫉妬)があります。
 それは、愛の顔をした自己愛であり、マネーの権力による世界支配を実際には助長してしまう。よって倫理的な力の源ではありません。
 その逆に、本文は、止揚された憎悪を求めます。誰もを肯定することを倫理と呼ぶのではなく、否定すべきことを否定することを倫理と呼びます。痛みの記憶から来る復讐心は、しかし西洋的個人主義さえ逸脱するなら、まだ助かる者の痛みを許さない本当の愛情へと繋がる。
 近代は、社会思想としては大衆主義思想が支配する世界であり、単に「愛」と言ったならば、人を肯定し許す平等主義としてしか受け取られません。大衆はもう、自分が肯定されることしか求めていないのです。しかしそれを許容すると、建前上当面の自尊心が満たされるだけで、実際には弱者を救う者はいない。どの権力者も何よりもまず自分自身に優しいからです。


> また、「個人的な幸福観」を超越すべきであるとも主張なさっている以上、筆者様が考えている「後の人々の幸福」とは我々「ゴキブリ」がそうであると捉えている「個人的な幸福」とは異なるものということになります。筆者様は、実際にはどのようなことが幸福であるかということに対して何か具体的な意見がおありでしょうか。そうであれば是非教えて下さい。

 本文が主張しているのは、「個人主義的な幸福観」を超越することです。ここで、「個人主義的」であるとは、上記のキリスト教道徳云々に強く関連して、歴史的な文化的な経緯に関する深く心理的な洞察に基づいています。それは一つの価値観ではありますが、私のオリジナルではまったくありません。西洋の研究者にも、西洋文明を個人主義思想によって特徴づける人々はいます。
 「個人主義的な幸福観」を前提にした人間像は、経済人仮説と呼ばれます。それは、近代経済学の基礎になっています。またさらに、近代経済学は、合理的選択仮説も基礎としてきました。

「経済人とは、もっぱら経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する、と想定した人間像のこと」(Wikipedia)
「合理的選択理論とは、行為者の合理性を大前提とする社会理論のことである」(Wikipedia)

 これらの仮定のもとでは、個人の人生の幸福とは私占した物質的財産の量であり、いかなる庶民も民主主義制度などを通して、自身に合理的な判断を誤りなく行うことができます。
 すなわち、自身の権力を最大つまりN人ならN分の1にすることが、自身の幸福に最高に合理的だというのが、歴史的な個人主義から必然的にもたさられた、西洋近代思想のアイデアです。彼らは、権力者やエリートへの信任を棄却したのです。
 なぜなら、個人主義つまり経済人仮説を前提に考える以上、個人の幸福とはどこまでも個人的なものであって、他人の幸せを真剣に考える人というのは結局はありえないと思われるからです。
 現実の権力者が信任に値しなかったのは歴史的な事実でしょう。しかしだからといって、人間に平等な尊厳があるとまで理性を単純化したのは、ゴキブリならではの邪心です。いくらかは実在する利他的な心理の尊厳を彼らが棄却してしまったとき、それら利他的な心理が報われる将来は失われ、人間に自然にあった利他的な喜びは、十分に活かされる道を失いました。

 それに対し、例えば東洋の徳治主義は違います。個人主義や経済人仮説を前提にしてはいないのです。
 そこでは、個人の本質的な価値は、経済的な競争力よりもずっと、利他的な良心の尊厳で測られます。少なくとも建前の理想でそれを言っただけで、非常に異なる結果になります。
 人間は、利己的なだけの動物ではありません。種の保存の本能もあるからです。例えば男性ならば、女性達や子供達の笑顔が、何か見返りの手段としてではなくそれ自体で嬉しかったりすると思います。物語の中では、共同体のための自己犠牲的な振る舞いや、その尊厳への感動も描かれることが少なくない。近代西洋の社会思想は、人間観および社会観において、非常に無理のある単純化をして始まったのです。
 このように申し上げてくると、私が言う、個人主義を超克した幸福観の姿も次第に明らかでしょう。

・死んだ者よりも生き残った者のほうが幸福である。
・貧しい者よりも裕福な者のほうが幸福である。
・蔑まれる者よりも讃えられる者のほうが幸福である。

 そういった個人主義的な枠組みを外したところに、私が求める幸福観はあります。
 すなわち、人間とは、義のために損をしても誇り高く笑っていられる動物なのです。
 かつて人は、ゴキブリではなかったのです。


> しかしながら、利己心というのは我々が生物であるからには逃れられないものではありませんか。「自分の身が滅ぶ結果になろうとも、一矢報いてやりたいという復讐心」を「個人としての合理的な利害を超越している」とお考えのようですが、それを抱く人物は「一矢報いたい」という欲望があり、それが実現することを願っているのですから、「自分の思い通りに事を運びたい」と思っているわけで、やはりそれは利己心なしには生まれ得ない感情ではないかと思うのです。

 私達人間は、複雑な動物です。私達の本能には、個人としての生存欲求や、子孫を守ろうとする繁殖欲求、身近な人々を優先して守ろうとする心もあれば、人類すら愛せる種の保存の本能もある。私達は、子供の頃から誰に教わらずとも、苦しむ動物を自然と憐れむことができる。
 それを、利己的な個人の集まりとして捉えようとした西洋近代思想のほうが、現実離れして恣意的です。私は、私欲や性欲を超越した聖人君子であることを庶民に求めているのではありません。例えば東洋思想もまたそんな理性的なものを求めたことはなかった。
 ですから、愛すら利己です。人類や動物を愛することすら、地球生命に閉じたエゴにすぎない。しかしそういった話は結局、程度の高くない言葉遊びにすぎない。利己の範囲には程度があって、事実、憐れみ深い良心を備えた人と、人の苦しみを喜びすらする残忍な人とは分布するからです。
 「自分の身が滅ぶ結果になろうとも、一矢報いてやりたいという復讐心」は、「個人としての合理的な利害を超越」しています。しかしそれ自体は、個人主義を必ずしも超越するほど止揚されてはまだいません。しかし、自分と同じ不運を背負った子供が、同じ苦しみを味わわずに済む世界を作るためにはどうするか、世の倫理的矛盾を見つめるとき、個人としての死を超越することと、個人主義を超越することとはすぐ近くにあります。そのとき人は初めて、我欲と自尊心を優先することなく、真実を見るために思考し始める。近代が自殺しゆく狂気だという真実を見ることになる。
 逆に言えば、いくら知的才能に恵まれた遺伝子であっても、自分自身で理不尽な苦しみを味わわないなら、近代の社会思想の客観的現実を見るにはどうしたって至らないということです。残念ながら、人の公正世界仮説バイアスは、それほどに強力なので。

 ですからもちろん、義に止揚されるものであれ憎悪は利己心ですよ。私は偽善は求めない。本心から湧き上がる感情しか本当ではない。しかし人という動物は本来、公共のための意志を腹の底からいだけます。ゴキブリという多数者の欺瞞的な社会思想で脳にロックがかかっているだけですよ。経済人なんて実在しません。
[良い点]
熱のこもった文章だと思います。
[気になる点]
テロリストにはならないでくださいね。
[一言]
このエッセイを読んで自分はFate/Zeroというアニメの
騎士王を思い浮かべました。作中ではバカにされるのですが、
彼女の考え方が好きです。
世の中がおかしいと思っている人はかなりいると思います。
「小説家になろう」のエッセイでは、
坂崎文明さんのエッセイがオススメです。
youtubeでは、オリーブの木の黒川さんなども
経済面での動画配信されていて世の中を変えたいと
政治家になるため立候補するそうです。

 白と黒のギア様、ご感想ありがとうございます。

・Fate/Zeroの騎士王さん
・小説家になろうの坂崎文明さん
・オリーブの木の黒川敦彦さん

 どれも知りませんでした。教えてくれてありがとうございます。

> 世の中がおかしいと思っている人はかなりいると思います。

 不満のエネルギーを正しい方向に統合することは非常に困難に見えます。
 各々の立場で色々な不満がありますし。

> テロリストにはならないでくださいね。

 なったとしてチンケな犯罪者でしょうね。ですがはい、ならないように努めます。ありがとうございます。
 自分は法律がすなわち倫理ではないという考えを強く持っていて、ですが法律と倫理の相関は深く尊重しています。民主主義も好きではありませんが、民主主義の力も深く尊重しているし、一定の信頼や楽観もあります。しかし限界も知っています。
 私は常に、倫理的な正しさで行動を選択したいと思っています。保身の恐怖を顧みないことが尊敬すべき価値だと思っています。その結果がまったく仮にテロ行為であったなら、それを選択することが正義なのだろうとは思います。しかし現実には、私の立場においては、そのような行為が倫理的に正義である場面は、突き詰めると実際には存在しないと思うのです。例えばの話、善人が殺された世界にあっても、生き残った悪人の子供達の幸せのために力を尽くすことが正義だと思うのです。憎しみの衝動は止揚されるのでなければそれそのものは倫理ではないということです。
 何かを破壊するとして、より良い再建の戦略まで備えておくことは、実際には難しい。破壊そのものが目的となってはならない。しかし、もし本当に正しい出口戦略が整っているなら、任意の破壊が正義たりうるとは言っておくべきでしょう。
[良い点]
現代の問題点に関してざっくり斬り捨てる感じが、勇ましいなと思いました。
[気になる点]
侍ですね、侍や武士の必要があるとなると、どこか先祖返りな感じがしてしまうので、いきなり侍のような戦士階級というのには、ちょっとなれない気がします。 体格としては昔の侍よりも今の人が大きいのは確かですが、侍精神っぽいものでどうにかできるかはやはり考えてしまいます。
[一言]
ゴキブリはそんなに悪い生き物でもないんですけどね、最終分解者に近い役割を果たしているわけで、それが巨大化して繁栄してるとしたら、この世界にあるあらゆるものはスカベンジャーにとっての栄養だったって具合になりそうで、おっと論点が違ったか。
 ぼっけんさん様、ご感想ありがとうございます。

> 勇ましい

 勇ましさはいらないと思います。価値があるのは事実性で、そのために有用なのは知的優劣でしょう。大衆に手が届かないのは勇気ではなく知性だと思います。事実がもし明確に見えたならば、自己欺瞞の余地は極小になります。
 しかし実際には、知的能力は人を真実へは導きません。人間という生き物の脳は常に、事実性よりも利益を優先して認知してしまうものだからです。自分の自尊心や利益を第一に優先してしか外界を考えることはできず、それは事実を認知できないことを意味します。
 だから私は、不運によって苦しみしかない生涯を生きた者達だけが、倫理的矛盾に対する真剣な憎悪によって、初めて世界の事実を見るのだと知りました。近代個人主義という狂気の外側には普遍的な博愛すなわち義の思想があって、それは愛というよりも憎しみを由来として到達するものらしかった。

> 先祖返り

 近代は主観的には進歩しているとされますが、それは迷信だと思います。過去の人の思想的な属性で、現代人類が実は必要としている部分はあります。

> いきなり侍のような戦士階級というのには、ちょっとなれない気がします。

 重要なのは、自己犠牲的な道徳心と、その尊厳に基づく社会階級が、建前上は一致していることです。それを思想として戦士であると呼んでいるのであり、江戸時代の平和の中ですでに武力的実力としての意義は大いに喪失していました。そして、義の半分は先天的な性質であるから、誰もが努力して至るべきというものではない。社会の根本にある哲学を、個人主義を超克したものへ改変したいというだけです。

> 侍精神っぽいものでどうにかできるかは

 キリスト教思想はかつてローマ帝国ですら異物であり、西洋近代思想はかつて世界中にとって異物でした。だからその拡大には、軍事的または経済的な実力による強制が必要だった。時には核兵器を一般市街地に用いることすら必要でした。自分の利益を最優先に考えることは天に与えられたかのような権利であると見なす個人主義思想は、本来は非常に特殊なカルト宗教だったのです。
 そのカルト思想の本質が心理的に解明されるのは、1844年生まれのニーチェを待ってです。しかしその時点で完全に解明されました。大衆主義に発展した個人主義は、癌細胞のようなもので、正常な細胞へと治すことはできません。だから新しく作られるべき秩序にあっては、そのカルトは哲学の段階で否定され封じ込められるべきだと思います。つまり、自分の利益を最優先に考えることは天に与えられたかのような権利であると見なす思想と、自己犠牲的な道徳心が何よりの人の貴賎だと見なす思想を二分法的に対置して、前者に汚染されていない後者の代表的な例の一つとして侍達の思想を挙げました。論語を挙げることも可能です。
 ですからそれが一応有効なことは、一定の論拠としては言えています。聖人君子になることを望んでいるのではなく、過去に同じ遺伝子でできていた程度のことをまずは望んでいるだけです。

> ゴキブリ

 大多数者に最も平然と蔑まれ忌み嫌われているから、表現のために用いただけです。私自身にとっては、すべての人の幸せもすべての動物の幸せもすべての虫達の幸せも同等にかけがえなく大切なものです。虫に魂があるといった素朴な思想は過去のものとなり、虫や動物を実験などのために殺すことは、経済的な合理主義のもとに正当化されるようになりました。その悪しき秩序を正すための努力ですから、彼らにもし知性があれば、許してくれるものと考えます。どんなに弱い相手であっても、理性で他者と区切った相手を単なる道具と見なす態度は、それが社会思想となってしまえば、民衆自身の不幸となって跳ね返ってくると思うのです。ブラック企業とかはもろにそうです。
 自分の利益を最優先に考えることは天に与えられたかのような権利であると見なす現代人は、自分達の姿がいかに邪悪で卑しいか、客観的に鏡を見るという発想を持たない。ですから、倫理主義を備えない彼らにもわかる嫌悪すべき醜悪のイメージをもって呼び表すことは、事実を書くためには必要です。例えば卑怯者だと罵っても、現代人はもう痛痒を感じません。
 つまり本文は現代人がみなゴキブリだという事実を言ったまでのことで、虫のいわゆるゴキブリが悪い生き物だとは主張していません。本文で丁寧に論じた内容のとおりでございます。
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