感想一覧
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飢餓云々は思考問題としたもので、ヴィーガンの主張を突き詰めていくとそのような問題に行き詰まる点を指摘したかったのです
自らに不自由を課すのは個人の自由
他人に不自由を課すのは社会の責任
というわけです
食糧問題は国際的な懸念事項であり、国際的な食糧管理計画が必要であるとは考えます
過剰生産の抑制として畜産の制限は一考の余地がありますが、全廃はあり得ませんね
世界にはその土地に適した農業というものがあり、畜産に適した土地では畜産を行うのが適切であると考えるためです
自分からしますと善悪は神が定めるものというのは思考の放棄に等しい考えなのですが、それは自分の考えであり、それであなたが納得しているのならば言うことはありません
飢餓云々は思考問題としたもので、ヴィーガンの主張を突き詰めていくとそのような問題に行き詰まる点を指摘したかったのです
自らに不自由を課すのは個人の自由
他人に不自由を課すのは社会の責任
というわけです
食糧問題は国際的な懸念事項であり、国際的な食糧管理計画が必要であるとは考えます
過剰生産の抑制として畜産の制限は一考の余地がありますが、全廃はあり得ませんね
世界にはその土地に適した農業というものがあり、畜産に適した土地では畜産を行うのが適切であると考えるためです
自分からしますと善悪は神が定めるものというのは思考の放棄に等しい考えなのですが、それは自分の考えであり、それであなたが納得しているのならば言うことはありません
”飢餓云々は思考問題としたもので、ヴィーガンの主張を突き詰めていくとそのような問題に行き詰まる点を指摘したかったのです”
私は肉を食べるくらいなら死んだほうがましだと考える人間ですが、飢餓状態になって肉しか食べるものがないなら食べるのは仕方ないと考えます。
”世界にはその土地に適した農業というものがあり、畜産に適した土地では畜産を行うのが適切であると考えるためです”
今は培養肉というのもありますし、未来には畜産が無くなっているかもしれません。
”自分からしますと善悪は神が定めるものというのは思考の放棄に等しい考えなのですが、それは自分の考えであり、それであなたが納得しているのならば言うことはありません”
善悪は神が定めたものと人間が定めたものがあり、人間が定めた善悪というのは時と場合によっては間違えることもあるものです。
思考の放棄と言いますか、これでも私はよく考える人間なのですけどね。破滅思考になるときもあるし……。
私は肉を食べるくらいなら死んだほうがましだと考える人間ですが、飢餓状態になって肉しか食べるものがないなら食べるのは仕方ないと考えます。
”世界にはその土地に適した農業というものがあり、畜産に適した土地では畜産を行うのが適切であると考えるためです”
今は培養肉というのもありますし、未来には畜産が無くなっているかもしれません。
”自分からしますと善悪は神が定めるものというのは思考の放棄に等しい考えなのですが、それは自分の考えであり、それであなたが納得しているのならば言うことはありません”
善悪は神が定めたものと人間が定めたものがあり、人間が定めた善悪というのは時と場合によっては間違えることもあるものです。
思考の放棄と言いますか、これでも私はよく考える人間なのですけどね。破滅思考になるときもあるし……。
- ライプにっつ2
- 2020年 04月03日 05時03分
[一言]
もしも飢餓に陥り、肉を食せざるを得ない状況でもあなたは矜持に基づき餓死を選ぶのでしょう
(そのように書かれていると見受けられます)
しかし、同じく飢餓に苦しむ人に『その肉は食うな』と言えますか?
食べさせずにその人を餓死させたとき、あなたはどうするのですか?
その結果所属する社会が失われたとしても良いのですか?
以下自論
なぜ自由が束縛されるのか
それは社会・集団を維持するためです
個人の自由を完全に認めたらそれは集団では無くなります
個人を一定の規律下で行動させることにより、集団は強靭な一体的運用が可能となります
しかし、個人の自由を束縛しすぎると柔軟性が失われ、ふとした躓きにより身動きが取れなくなり全滅してしまいます
何の自由をどの程度認めるのか?
それはその社会が定めることで、その社会において自由とされていることは善よりであり、束縛されていることが悪よりなのです
ヴィーガン大いに結構です
しかし、今の社会において、肉を食することは自由であると認められています
その自由を享受しない自由はありますが、他人に享受させない(強要・束縛)という自由は無いと考えます
他人に強要したくば、そのような社会を構成する必要があります
それはこれからの人類が選択することです
もしも飢餓に陥り、肉を食せざるを得ない状況でもあなたは矜持に基づき餓死を選ぶのでしょう
(そのように書かれていると見受けられます)
しかし、同じく飢餓に苦しむ人に『その肉は食うな』と言えますか?
食べさせずにその人を餓死させたとき、あなたはどうするのですか?
その結果所属する社会が失われたとしても良いのですか?
以下自論
なぜ自由が束縛されるのか
それは社会・集団を維持するためです
個人の自由を完全に認めたらそれは集団では無くなります
個人を一定の規律下で行動させることにより、集団は強靭な一体的運用が可能となります
しかし、個人の自由を束縛しすぎると柔軟性が失われ、ふとした躓きにより身動きが取れなくなり全滅してしまいます
何の自由をどの程度認めるのか?
それはその社会が定めることで、その社会において自由とされていることは善よりであり、束縛されていることが悪よりなのです
ヴィーガン大いに結構です
しかし、今の社会において、肉を食することは自由であると認められています
その自由を享受しない自由はありますが、他人に享受させない(強要・束縛)という自由は無いと考えます
他人に強要したくば、そのような社会を構成する必要があります
それはこれからの人類が選択することです
もし、食べ物が肉しかないのであれば、食うのは仕方ないかと思われます。しかし、今の社会そんな状況でしょうか? また、世界が飢餓状態に陥っているのは肉食が原因とも言われています。それについて貴方は考えることがありますか?
自由に関しては私に決定権はありません。
ですが、肉税を検討している国がある等、これからの社会、肉食が制限される時代がやってくるものと思われます。
感想ありがとうございました。
- ライプにっつ2
- 2020年 04月01日 17時50分
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