感想一覧
▽感想を書く[良い点]
周囲に流されず、考えようとしていること。
理性的であろうとしているところ。
[気になる点]
補筆部分が誰の発言なのかが分かりにくい事。
言葉選びがやや攻撃的に感じられ、対話による理解よりも、自身の意見による制圧を望んでいるように見える事。
[一言]
言葉は、言うは易し伝えるは難しものと考えています。焦らずゆっくり話を進めてみてはいかがでしょうか?
自負と傲慢は紙一重なれば、お互いに気を付けていきたいものです。
周囲に流されず、考えようとしていること。
理性的であろうとしているところ。
[気になる点]
補筆部分が誰の発言なのかが分かりにくい事。
言葉選びがやや攻撃的に感じられ、対話による理解よりも、自身の意見による制圧を望んでいるように見える事。
[一言]
言葉は、言うは易し伝えるは難しものと考えています。焦らずゆっくり話を進めてみてはいかがでしょうか?
自負と傲慢は紙一重なれば、お互いに気を付けていきたいものです。
- 投稿者: foolishgold
- 2020年 09月26日 00時39分
foolishgold さん
感想ありがとうございます^^
>言葉選びがやや攻撃的に感じられ、対話による理解よりも、自身の意見による制圧を望んでいるように見える事。
これは、感想返信部分の事でしょうか?
とするならば、エッセイに対して誤解や曲解がありそうな部分の意見の擦り合わせを行うために感想にあった異論に対しての反論を行ったので、そう見えるのでしょうね。
論理的に物事を語る場合、自他ともに誤謬を検証する意図はあっても、そこに敵対意識はないので、制圧ではなく議論を望んでいるというのなら、正解だと思います。
>自負と傲慢は紙一重なれば、お互いに気を付けていきたいものです。
これは、持論に固執しているように見られたということでしょうから、少し誤解があるようです。
私は他者の見解を排除したいのではなく、無意識に行われてるだろうダブルスタンダードや誤謬を排除したいだけですので、他者の論理的見解は歓迎しています^^
>言葉選びがやや攻撃的に感じられ
他者を攻撃するつもりはないので、ダブルスタンダードや誤謬を排除することは論理を捻じ曲げないための基本ですからそういった指摘以外ならば、攻撃的に感じられる部分は、具体的に指摘してもらえれば改善したいと思います^^
補筆部分は、日常会話ではなく、対話でもなく、議論を望む方に応えているので、そういう印象があるのかもしれませんが、あくまでも議論で討論ではないつもりです。
そもそも、このエッセイ自体が「死刑は人殺しだから、それを存続させようというのは人でなしだと思う」という見解を論理的に検証しようというエッセイであって「死刑」自体に関する肯定や否定のエッセイではないのですから。
感想ありがとうございます^^
>言葉選びがやや攻撃的に感じられ、対話による理解よりも、自身の意見による制圧を望んでいるように見える事。
これは、感想返信部分の事でしょうか?
とするならば、エッセイに対して誤解や曲解がありそうな部分の意見の擦り合わせを行うために感想にあった異論に対しての反論を行ったので、そう見えるのでしょうね。
論理的に物事を語る場合、自他ともに誤謬を検証する意図はあっても、そこに敵対意識はないので、制圧ではなく議論を望んでいるというのなら、正解だと思います。
>自負と傲慢は紙一重なれば、お互いに気を付けていきたいものです。
これは、持論に固執しているように見られたということでしょうから、少し誤解があるようです。
私は他者の見解を排除したいのではなく、無意識に行われてるだろうダブルスタンダードや誤謬を排除したいだけですので、他者の論理的見解は歓迎しています^^
>言葉選びがやや攻撃的に感じられ
他者を攻撃するつもりはないので、ダブルスタンダードや誤謬を排除することは論理を捻じ曲げないための基本ですからそういった指摘以外ならば、攻撃的に感じられる部分は、具体的に指摘してもらえれば改善したいと思います^^
補筆部分は、日常会話ではなく、対話でもなく、議論を望む方に応えているので、そういう印象があるのかもしれませんが、あくまでも議論で討論ではないつもりです。
そもそも、このエッセイ自体が「死刑は人殺しだから、それを存続させようというのは人でなしだと思う」という見解を論理的に検証しようというエッセイであって「死刑」自体に関する肯定や否定のエッセイではないのですから。
- 隠居老人
- 2020年 10月06日 12時51分
[良い点]
何度読み返しても黙考させられるエッセイでした、思わず感想を書いてしまいます、おそらく自分に誤解が多々あるに違いなく、理解も浅いものだろうという実感があるにも関わらず。自分にとってはとても恐ろしい文でありました。
[気になる点]
大まかに: 猿から人になったので集団生活で繁栄することで快適に生活をしていくことに決めた、なので社会を維持していくのが善である(繁栄できれば社会の形は問わない)。
一方で社会の秩序を乱すのは悪である(社会の形そのものへのアプローチは悪ではない)、同じ社会の参加者ではあるが個々人の行為において悪と判断されるものは、何れかの手段で排除したい、しかし排除する側は個人ではいられない。
そこで宗教や行政体といったルールと組織を社会の中に作り出し、必要悪という役割を与え、個人を罰するという悪を行わせる(罰すること自体が社会において善とみなされる場合が多い)。
ここで死刑という制度の是非を問いたい、そういった話だと思ったのです。
[一言]
組織としてルールを課する以上、死刑という一つの制度があろうとなかろうと必要悪は大小なりとも個人を否定せざるおえない存在だと考えます。支えきれないものや配分の間違いは防げないからです、むしろ行政による殺人が死刑だけであれば良いとも思います、死刑を廃止して現場の事故が増えては残念です。
余計な一言: もし死刑廃止をするなら、私刑も死刑も肯定できる理解を醸成し得てからにしてほしいです。
何度読み返しても黙考させられるエッセイでした、思わず感想を書いてしまいます、おそらく自分に誤解が多々あるに違いなく、理解も浅いものだろうという実感があるにも関わらず。自分にとってはとても恐ろしい文でありました。
[気になる点]
大まかに: 猿から人になったので集団生活で繁栄することで快適に生活をしていくことに決めた、なので社会を維持していくのが善である(繁栄できれば社会の形は問わない)。
一方で社会の秩序を乱すのは悪である(社会の形そのものへのアプローチは悪ではない)、同じ社会の参加者ではあるが個々人の行為において悪と判断されるものは、何れかの手段で排除したい、しかし排除する側は個人ではいられない。
そこで宗教や行政体といったルールと組織を社会の中に作り出し、必要悪という役割を与え、個人を罰するという悪を行わせる(罰すること自体が社会において善とみなされる場合が多い)。
ここで死刑という制度の是非を問いたい、そういった話だと思ったのです。
[一言]
組織としてルールを課する以上、死刑という一つの制度があろうとなかろうと必要悪は大小なりとも個人を否定せざるおえない存在だと考えます。支えきれないものや配分の間違いは防げないからです、むしろ行政による殺人が死刑だけであれば良いとも思います、死刑を廃止して現場の事故が増えては残念です。
余計な一言: もし死刑廃止をするなら、私刑も死刑も肯定できる理解を醸成し得てからにしてほしいです。
感想ありがとうございます
>社会を維持していくのが善である
共存を求める理想が「善という概念」であって社会を維持するという実務面の話は全て必要悪に分類されるというエッセイなので、少し違います
理想は「努力目標」であって現状で実現される社会は存在しないという話で、自然に存在するホモ・サピエンスの本能に由来する欲望のうちで他者を害する全ての行いが「悪という概念」なので「初めに悪がある」という科学的観点から「悪を否定する理性的な概念として善は生まれた」という話ですね。
そのために、誤魔化し、騙すという暴力で権威社会は、「法の精神」や「人の在り方」をゆがめるので、人間社会が「権威という必要悪に依存する構造」ならば、理想は常に阻害されます。
だから、権威を否定した民主主義社会が実現することで初めて「理想を極める準備」ができるという事です。
中世の喩え話によると「天上の神に近づく善」と「天の光が届かぬ地の底の地獄に堕ちる悪」という二元論的に語られる善悪ですが、その喩え話を使うなら、「全ての物質的精神的暴力である悪」が地球の中心という一点に収束する重力であるとしたら「宇宙へ向かうベクトルが善」で、水は低きに流れるという喩え話です。
あるいは、「大脳新皮質」の発達により「大脳辺縁系」の獣欲を制御する方法論によって生まれた「倫理教育」という社会システムの中に純粋なデータとしてあって、個人に一番最初に教えなければならないのが「善意」であるという喩えのほうが判り易いかもしれません。
それを子供に語るのなら以下のコピペのようなことでしょう
※コピペ
誤魔化すな
騙すな奪うな
害するな
傷つけ盗るな
脅し殺すな
どんな社会でも社会維持に必要になる基本事項です。
慈しみ救いあい
思いやり援けあい
敬い信じあい
愛して育みあう
どんな社会でも目指さなければいけない人の和です。
差別なし
人に上下
意味は無し
人の和を保つために必要な関係性で「自由と平等」の話です。
奪う争い
和すが人道
「自由と平等」で和を保つ事がヒューマニズムです。
和によって
人を為すこと
人の道
ヒューマニズムは、動物の一種でしかない「裸の毛無猿=ホモ・サピエンス」が社会的動物である「人」になるための手段です。
※コピペ終わり
それを歳を経て「子供騙し」と感じるか「子供に伝えなければいけない大切な伝承」と考えるか?
「社会を維持していくのが善である」と子供に語ってしまえば、それは「子供騙し」としてしか「善」を伝えられないという類の「微妙な違いが本質を歪める話」ですので、補足説明させてもらいますね。
肉体を情報端末のハードに喩えるなら、精神という目に見えないものの本質はソフトでありアプリであり、それなしには「人が人足り得ないもの」です。
社会制度と社会構造という目に見えるシステムを「情報端末画面に映る映像」に喩えるなら、目に見えない部分にあるのが精神です。
けれど、それは確かに実在して、それによって人間社会は動いています。
「必要であるという嘘」で、唯の悪を必要悪と偽る事をする者に騙されずに物事を判断しないと、「正義で他者を傷つけるモラハラという暴力」を行うようになってしまいます。
権力を握った者達の権威集団が、そういう行為を行った歴史がそれを証明しています。
だから、「制度や法律を実施するという必要悪」が本当に必要かを精査して、「制度や法律を実施する者達が間違えていないかを監視する民主主義が機能しているかをチェック」して、そこで初めて「法律の妥当性」が生まれるというのが、現状では近代国家の法運用の理念になっています。
「社会を維持していくのが善である」という考え方と「共存を求める理想が善という概念」という考え方のニュアンスの違いの話でした。
- 隠居老人
- 2020年 05月18日 23時25分
[気になる点]
>死刑は、恐怖による民衆の統治という権威主義的手法
違います。法治の基本は、罪に対する刑の妥当性においてあります。これは古代におけるハムラビ法典の頃からある原則です。
罪に対する刑の妥当性が公平でない場合、人は法に従うことに抵抗します。人々が法に従わなくなれば社会秩序が崩壊します。法治において、刑罰の公平性は重要なのです。
よって、ヨーロッパにおいて死刑が廃止されたのは、リベラリズムの根底にある人権思想において、死刑がどのような罪に対しても妥当なものではない、と(ヨーロッパのインテリどもが)判断したからです。
しかし、それが建前である事は、ヨーロッパで横行する現場射殺を鑑みればわかる事です。
なぜ、現場射殺にたいして民衆は「野蛮だ。警官による権威的な恐怖統治だ」なんて言わないのでしょうか? 簡単です。それによって、罪に対する清算が行われていると、人々が信じるからです。
>日本という国では死刑による恐怖統治が効率的で有効とされて続けられています。
つまり、これも間違いです。罪に対する罰として、死刑に妥当性があると国民の大多数が考えているからにすぎません。『そうした法治』を求めているにすぎないのです。
>善とは「自然環境に従わず獣としては生きない」生存戦略の理性による肯定で
>悪とは「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」の理性による否定です
違います。根本的に間違っています。
あなたの言っていることは、『ギリシャ哲学の理性主義』に相当しますが、それは文明が誕生してそれなりの後になって作られた思想にすぎません。
善悪の本質は、人間のおける感情において形作られたのが原初です。
端的に言えば『快・不快』これが、根源的な善悪です。
そもそも哲学もしくは思想が発生する前の、原始的な文明において、その世界観はアミニズム(精霊信仰)が支配していました。これを別の形で言い直すと多神教となります。
アミニズムにおいては、人間も自然の一部だと考え、そして人は強力な力をもつ獣を畏怖し、時に神として崇めました。人間が最上位にあると、人は考えていなかったのです。
その世界観における善というのは、『強さ』です。
ここにおける『強さ』というのは、暴力的な意味だけではなく、賢さも含まれます。つまり生き抜くことそのものが『強さ』であり、それは善だったわけです。
そして、生き抜くために団結することも善でした。その団結する為に、公平に差配する存在も善となり、これがいわゆる権威的存在となりました。
権威というのは悪ではなく、人々が必要とする求心力をもって権威としたのです。
権威的存在(皆が認めている存在)が公平に差配できれば、良い人治となりますが、感情によって中々に難しい。よって、法によって治めようと考えた(法治)。すなわち法治とは、人々が納得できる公平性に権威を与えたモノです。
あなたの主張する人類の歴史にそって善悪を規定するならば、こういう事になります。
しかし、善悪というのはそもそも価値意識でしかないので、端的にいえば、各々の価値基準によって幾らでも『個にとって善悪』が規定可能です。
◆
死刑についての善悪を問うならば、社会的な価値意識としての善悪と問うべきであり、更にいうならば刑罰における認識として、死刑の妥当性を考えなければなりません。
当然、死刑と対になる『罪』について考える必要があります。
◆
ちなみに、基本的人権の根源である自然権は、単なるギリシャ人の宗教観からくる身体性の肯定にすぎません。
わかりやすくいえば、「人は生きようとする」「人は欲望をもっている」、それを肯定するべきだろう? という話にすぎません。
ここにおいて『公共の福祉の問題』とぶつかります。つまり、「社会において、誰かに迷惑をかけてまで、個人の好き勝手が許されるわけでない」という当たり前の道理です。
つまり、社会において、自然権は基本的に制限されます。この自然権を人権に代えれば、単純な話になります。
つまり、社会において人権は制限されるんです。
ちなみに日本において、語られる『基本的人権』というのは、実際には、『憲法が保障する基本権のうちの人権にあたる部分』にすぎません。この基本権というのは、『国民の権利』という意味です。
基本的人権は、いわゆる極左がいうような「人間には生まれながらに持っている権利として『人権』があるんだ」という所に根拠があるのではなく、憲法が保障している基本権の中に規定されているものにすぎません。
>死刑は、恐怖による民衆の統治という権威主義的手法
違います。法治の基本は、罪に対する刑の妥当性においてあります。これは古代におけるハムラビ法典の頃からある原則です。
罪に対する刑の妥当性が公平でない場合、人は法に従うことに抵抗します。人々が法に従わなくなれば社会秩序が崩壊します。法治において、刑罰の公平性は重要なのです。
よって、ヨーロッパにおいて死刑が廃止されたのは、リベラリズムの根底にある人権思想において、死刑がどのような罪に対しても妥当なものではない、と(ヨーロッパのインテリどもが)判断したからです。
しかし、それが建前である事は、ヨーロッパで横行する現場射殺を鑑みればわかる事です。
なぜ、現場射殺にたいして民衆は「野蛮だ。警官による権威的な恐怖統治だ」なんて言わないのでしょうか? 簡単です。それによって、罪に対する清算が行われていると、人々が信じるからです。
>日本という国では死刑による恐怖統治が効率的で有効とされて続けられています。
つまり、これも間違いです。罪に対する罰として、死刑に妥当性があると国民の大多数が考えているからにすぎません。『そうした法治』を求めているにすぎないのです。
>善とは「自然環境に従わず獣としては生きない」生存戦略の理性による肯定で
>悪とは「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」の理性による否定です
違います。根本的に間違っています。
あなたの言っていることは、『ギリシャ哲学の理性主義』に相当しますが、それは文明が誕生してそれなりの後になって作られた思想にすぎません。
善悪の本質は、人間のおける感情において形作られたのが原初です。
端的に言えば『快・不快』これが、根源的な善悪です。
そもそも哲学もしくは思想が発生する前の、原始的な文明において、その世界観はアミニズム(精霊信仰)が支配していました。これを別の形で言い直すと多神教となります。
アミニズムにおいては、人間も自然の一部だと考え、そして人は強力な力をもつ獣を畏怖し、時に神として崇めました。人間が最上位にあると、人は考えていなかったのです。
その世界観における善というのは、『強さ』です。
ここにおける『強さ』というのは、暴力的な意味だけではなく、賢さも含まれます。つまり生き抜くことそのものが『強さ』であり、それは善だったわけです。
そして、生き抜くために団結することも善でした。その団結する為に、公平に差配する存在も善となり、これがいわゆる権威的存在となりました。
権威というのは悪ではなく、人々が必要とする求心力をもって権威としたのです。
権威的存在(皆が認めている存在)が公平に差配できれば、良い人治となりますが、感情によって中々に難しい。よって、法によって治めようと考えた(法治)。すなわち法治とは、人々が納得できる公平性に権威を与えたモノです。
あなたの主張する人類の歴史にそって善悪を規定するならば、こういう事になります。
しかし、善悪というのはそもそも価値意識でしかないので、端的にいえば、各々の価値基準によって幾らでも『個にとって善悪』が規定可能です。
◆
死刑についての善悪を問うならば、社会的な価値意識としての善悪と問うべきであり、更にいうならば刑罰における認識として、死刑の妥当性を考えなければなりません。
当然、死刑と対になる『罪』について考える必要があります。
◆
ちなみに、基本的人権の根源である自然権は、単なるギリシャ人の宗教観からくる身体性の肯定にすぎません。
わかりやすくいえば、「人は生きようとする」「人は欲望をもっている」、それを肯定するべきだろう? という話にすぎません。
ここにおいて『公共の福祉の問題』とぶつかります。つまり、「社会において、誰かに迷惑をかけてまで、個人の好き勝手が許されるわけでない」という当たり前の道理です。
つまり、社会において、自然権は基本的に制限されます。この自然権を人権に代えれば、単純な話になります。
つまり、社会において人権は制限されるんです。
ちなみに日本において、語られる『基本的人権』というのは、実際には、『憲法が保障する基本権のうちの人権にあたる部分』にすぎません。この基本権というのは、『国民の権利』という意味です。
基本的人権は、いわゆる極左がいうような「人間には生まれながらに持っている権利として『人権』があるんだ」という所に根拠があるのではなく、憲法が保障している基本権の中に規定されているものにすぎません。
クロスオーバーさん、感想ありがとうございます
私の文章が解りにくかったせいか、文意の解釈ですれ違いがあるようなので、御意見を基にエッセイを補筆させていただきますね^‿^
以下は「クロスオーバーさん」の見解に対する私見です。
私見ですので絶対に正しいと言ってるわけではなく「クロスオーバーさん」が間違っているという主張でもありませんので、長くてややこしいですから読まなくてもいいですよ。
「クロスオーバーさん」の異論A
死刑は、恐怖による民衆の統治という権威主義的手法
↓
>違います。法治の基本は、罪に対する刑の妥当性においてあります。
この部分は「恐怖による民衆の統治という権威主義的手法」という一面は、死刑という刑罰の一種のみの効用に関する政治的方法論」ついて書いた文章への異論ですね。
「クロスオーバーさん」、死刑という刑罰の一種のみの効用と、法治主義全体を混同して論を展開していませんか?
私は権威的統治手法について語り、「クロスオーバーさん」は「形式的法治主義」について語るというすれ違いが生じているようです。
もし、私の文意が誤解されてないのなら、「法治=死刑」として論を展開するのは「死刑賛成=人でなし」として論を展開するのと方向性や論点は違っても、混同による誤謬を生むという意味では同じだと思いますよ。
○「クロスオーバーさん」の異論Aに対する論拠部分
○1
>ヨーロッパにおいて死刑が廃止されたのは、リベラリズムの根底にある人権思想において、死刑がどのような罪に対しても妥当なものではない、と(ヨーロッパのインテリどもが)判断したからです。
↓
視点を変えるなら、ヨーロッパにおいての死刑廃止は、「法の支配」と「実質的法治主義」による「形式的法治主義」の否定で死刑が廃止されたという法学的解釈の話でもありますね。
多義的な解釈のうちの一つではありますが、「建前を護るのが法治でない」という権威主義的な法解釈で過去に国家権力の暴走が起きている事実を踏まえ、権力の濫用を抑えるためという法学的論拠はあるので「財閥などの民間権威」によって政治的主流となったのでしょう。
○2
>しかし、それが建前である事は、ヨーロッパで横行する現場射殺を鑑みればわかる事です。
>なぜ、現場射殺にたいして民衆は「野蛮だ。警官による権威的な恐怖統治だ」なんて言わないのでしょうか?
↓
世界的視野で考えるなら、国によっては少なくない数で「国家権力による恐怖統治だ」と言う人々もいますね。
とくに第三世界の人権が極度に制限された国家では。国内で大声でいえなくてもそう考えていると国を捨てた者達は語っています。
そういった問題を言論の自由が保障された国々では世界的な視点で取り上げ、その意見に対して「警察官の命は、どうなってもいいのか?」という反論や「国家組織の構成員による粛清は実際にあった」という擁護論で、「法治の外の状況に対する討論」もされてたりしますよ。
「民間権威が国家権威を制限している国家」の場合は、現場射殺どころか逮捕すらできない立場と現場射殺が安易に許される階級があるという「法治の外の本音」についても討論されています。
大日本帝國統治や占領統治の「恐怖による統治の記憶」が鮮明だった冷戦時代以来、日本で「警官による現場射殺」が最後の手段とされたのは、そういう過去の事実があったからでもあります。
あまり知られていないですが、終戦後に米軍警察のMPに射殺された日本人の話などもありますし、悪名高い特高警察の幹部が終戦後に公安や警察の官僚として組み込まれて戦前と同じ手法で学生運動を過激化させたという風説も昔はよく聞きました。
今の日本では、そんな事は起こらないという者もいますが、汚職事件や原発利権にからんだ事故や自殺の不審死について警察が動かないという者もいます。
例えば50年後、日本が「人権が極度に制限された国家」にならないようにするには?
法制度を考えるときには、そういう超長期の影響を考える事も必要になります。
何故そういった必要が在るかというと、日本などの「本来してはならない憲法の法解釈による変更」で、法改正の手続きなしに実質的法運用を変えるという事をしてしまった政府が裁かれずに政権を持ち続けられるような国家。
そういう長期に渡って一つの勢力が権力を持ち続ける国家は、権威主義化して民主主義が形骸化された国家では、権力の公私混同による法の私物化が横行する危険性が高いからです。
また、日本の死刑問題で語られる事柄に限定するなら、「外患誘致罪は固定量刑で死刑なので権力が公私混同するなら現法上でも国民を粛清できる」というものなどの法治の外の問題が関連してくるという話でもあります。
「クロスオーバーさん」の言葉を借りるなら「建前でない部分」を考慮に入れた話ですね。
だから、「今の日本」はという社会観も、「未来の日本」はという展望も、一つではないでしょう。
自分に関係ないから深く考えていない人もいるでしょう。
人類全体で見るなら、世の中には色々な国があり、色々な世代があり、色々な人がいますので。
だからこそ、主張をする場合はダブルスタンダードで誤魔化さず、論理を展開しなければ詭弁になってしまいます。
「形式的法治主義」によって「良法も悪法も法である」と語るなら「法の支配」による法解釈を「建前にすぎない」と切り捨てるのは、自分に都合のいい「法」以外を無視する「法治主義全体の否定」になってしまいます。
ですから、死刑という刑罰の一種のみの効用と、法治主義全体を混同して論を展開してはいけないのです。
権力機構が法を私物化してしまえば、次に待つのは法の私物化と濫用で、その果ては人権を完全に無視した全面的な恐怖統治によるディストピア国家化でしょう。
ブラック企業の社蓄化ならぬブラック国家の国蓄化ですね。
本エッセイ冒頭部より抜粋
※
日本という国では死刑による恐怖統治が効率的で有効とされて続けられています。
※
↓
○3
>つまり、これも間違いです。罪に対する罰として、死刑に妥当性があると国民の大多数が考えているからにすぎません。『そうした法治』を求めているにすぎないのです。
たぶん、「大多数が考えているから」というのは、内閣府の世論調査の結果を受けての論でしょうが、別の意見もあります。
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」という問いに対する、「どんな場合でも死刑は廃止すべきではない」という項目がないのと、「場合によっては死刑もやむを得ない」に対する「場合によっては死刑は行うべきではない」という項目がないという理由で
この世論調査では曖昧な見識を持つ場合は、「死刑は廃止すべきではないという結果」がでるように恣意的な統計操作が行われているという見解です。
つまり、「大多数が真剣にそう考えているという論拠にはなりにくい統計」を内閣が行わせているという意見を持つ人がいるという事です。
そして、そういう意見から、国民全体で死刑に対する活発な議論がされていたわけでもないので‘ 『そうした権威主義の法治』を求めている ’とは一概にいえないという意見に繋がる場合もあります。
それは、日本の国家権威が世襲制で継承される利権権力のせいで、民間権威と癒着した大日本帝國時代の権威主義|議会選挙制度《デモクラシー》国家に法の抜け穴を使って近づいているという観点です。
その観点では、格差社会と呼ばれる金権権威主義カーストの是非を民意に問わず、法解釈と権力や独占された議会による強行採決や大規模収賄事件を責任逃れのトカゲのしっぽ切りや、プライバシーを名分とした法改定による収賄立憲の困難化で決定し続けた結果が今の社会という意見になります。
そういう「クロスオーバーさん」と反対の意見を持つ人々の視点では、「国家権威が死刑に妥当性があると考えて、権力機構が『そうした法治』を求めているから国民に問題提起していないという事になります。
また、自分に関係ないから深く考えていない人も当然いるでしょうね。
世の中には色々な国があり、色々な世代の色々な人がいますので。
要は、近代民主主義の「法の支配」と権威主義|議会選挙制度《デモクラシー》の「形式的法治主義」を区別して、「形式的法治主義」を支持するのが「クロスオーバーさん」の見解なのでしょう。
その意見を個人の見解でなく、「日本の‘ 政治的大勢によって作られた国家体制 ’という権威」を背景として語っているので、「必要悪」について語るに相応しい論だとは思います。
ただ、それは多義的解釈の一つだとも、私は思っています。
要は国家を「無謬の神のごとき存在」として扱わないというのなら「悪法もまた法」という観点も実質的に暴力原理で運営される国際社会にとっての「必要悪」として許される場合もあるが、必要性は審議されるべきという話ですね。
「クロスオーバーさん」の異論B
本エッセイ●5より
※
「人間」が必要とする概念として考えるなら
善とは「自然環境に従わず獣としては生きない」生存戦略の理性による肯定で
悪とは「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」の理性による否定です
※
↓
>違います。根本的に間違っています。
あなたの言っていることは、『ギリシャ哲学の理性主義』に相当しますが、それは文明が誕生してそれなりの後になって作られた思想にすぎません。
>善悪の本質は、人間のおける感情において形作られたのが原初です。
端的に言えば『快・不快』これが、根源的な善悪です。
>原始的な文明において、その世界観はアミニズム(精霊信仰)が支配していました。これを別の形で言い直すと多神教となります。
>その世界観における善というのは、『強さ』です。
>公平に差配する存在も善となり、これがいわゆる権威的存在
私の論は、論理として語っているだけで、古代の『ギリシャ哲学の理性主義』ではなく、脳科学と社会学や進化論と社会生物学という近代の学問を使って人類を科学的に解釈する文化人類学観点になりますね。
つまり、人類を特別な「万物の霊長」ではなく、ホモ・サピエンスという動物の一種とした観点です。
ですから、これは、私と「クロスオーバーさん」の「観点の違い」や「言葉の使い方の違い」による認識の擦れ違いでしょうね。
特に「権威」という概念の解釈は根本的に違うようです。
私は「支配」と「権威」と「善」を別の概念としていますが、「クロスオーバーさん」は、「権威=支配」「権威=善」で「権威=支配=善」とした解釈で、「権力で威す事という私的に行うならただの悪事」が権威の本質とは考えていないようですね。
しかし、私の語る権威は字義の通りの辞書的な意味での権威です。
本エッセイでは、概念の積み重ねで「必要悪」という概念が生まれる過程として論理によって暴力原理と共存原理で科学的に善悪観を語っています。
対して、「クロスオーバーさん」は、祖霊や精霊信仰という論理抜きの宗教的観点で一義的に「『強さ』=精霊=神=正義=善」を語っていますが、私の論では、それぞれが別の概念で、善と正義は違うという考えで多義的な「必要悪」定義の一つを語っています。
私の論では、多神教神話の神々が対立するように「神とは争い合う利権機構の象徴」であり、「神」という概念が生まれる前の狩猟文化の精霊信仰には社会的規範としての善悪観との繋がりはないので、「精霊は自然的脅威という強さの象徴」で、だから区別されて今では「神」と「精霊」という二種の言葉が現在使われているという歴史観で語っています。
つまり「精霊信仰は多神教信仰とは別物」という分類をしたわけです。
強い者に弱い者が従うという狩猟文化での「規律」といった概念が精霊信仰の時代に生まれ、それは善悪という「群れの統率という動物的本能と区別された公私を分かつ概念」とは違い、「公私混同された概念」であると、これも分類しています。
次に「公平」という概念が生まれて、その次に「善悪」という概念が生まれ、「権威や利権機構の象徴としての神という概念」はそれより後に生まれたという歴史観です。
現代の議論で使われる言葉にあわせて「狩猟文化の規律」を言い換えるのなら「掟」でしょうか。
要は、「法律」と「掟」は別物という分類をしたわけです。
詳しく語るのなら以下■1のような話です
■1
本エッセイ●6より抜粋
※
「原始共産制」ともいう「共存」の時代で
「規律」といった概念を「群れの統率という本能」と区別する必要が生じた時代
※
「公平」を無視した狩猟文化の「規律」といった概念と一線を画する「原始共産制の農業文化社会」で必要な「公平」という概念が生まれたことで、「強い者に弱い者が従う暴力の規律」と「公平に支配する共存」との対比で「暴力の規律」を否定した「共存の善悪」という概念が生まれ
先ず社会規範としての「平等や善悪という価値基準」が生まれ、「公平に差配する存在」として「原始共産制」の皆を‘支’え富を再分‘配’する「支配者」という役割の概念が生まれ、富の偏重により、公平性を損なった権力が、「権力」で「威す」という「権威という概念」を生み、神の代行者としての「王」を生み、やがて支配者とは力による服従の強制としてという歴史観です。
「共存原理で動く諮政者である支配者」と「暴力原理で動く統治者である王」を別物に分類したわけです。
小さな郷の支配者は、「法治の外の暴力」に屈して、王は封建統治を造っていき、歴史という概念が生まれたのでしょう。
つまり、有史以前の権威者である教祖や王族によって「利権機構の象徴としての神」という概念が創られ公平性が損なわれた組織が生まれたという現代の新興宗教の権威と変わらない話という観点です。
本エッセイ●5は、●1~●4を前提としての論ですので、その人間観が違えば、見解が違うのは当然ですね。
先ず●3で定義された人を前提としての
‘ 「人間」が必要とする概念として考えるなら ’という本エッセイの文に注目してみてください。
本エッセイ●5より
※
●1~●4を前提として
善と悪という概念について考えて見ると
※
という前文に基づくなら
これは言葉の使い方の違いでしかありませんので、『快・不快』という概念が『善・悪』という言葉より前に創られたという話ですね。
これは「よい」という言葉では、「好い」という字が当てられるもので、拙劣に対する「良い」でも、邪悪や横暴に対する「善い」でもないという話です。
概念の積み重ねとして、『快・不快』は個人の主観でしかなく●3で定義された「人」ではない動物でも持つ感情で、社会的客観にはなり得ない概念なので、「原始的狩猟文化の規律」とは別の社会的客観による個人の行為の是非として意味を持つ新しい概念として、『善・悪』が●3で定義された「人」によって創造されたのでしょう。
つまり、私の書いた「本エッセイ●5の善悪」は
本エッセイ●5より
※
「人間が必要とする概念」として考えるなら
※
という前提での理性による多義的な「必要悪」定義の一種で、「力こそが正義で勝った者が正しい」という一義的な善悪解釈ではありません。
■1終わり
別に個別に変遷する言葉として、定義「善α」とか定義「悪β」と書いて「必要悪」という概念の創造過程について語っても良かったのですが、論文ではないし、逆に返信相手に解り難そうなので省略しています。
◆部分の「クロスオーバーさん」の死刑に対する見解
◆1
>死刑についての善悪を問うならば、社会的な価値意識としての善悪と問うべきであり、更にいうならば刑罰における認識として、死刑の妥当性を考えなければなりません。
私も●7部分で「権力が必要とする必要悪という概念」を通じて「社会的な価値意識としての善悪」を語ったのですが、意が通じなかったようです。
「権威=必要悪」として考えるというのは、盲目的に成らず権威が創る法が本当に必要かどうかを常に考えて、法が拡大解釈されて人権を侵害しないか監視する必要性があるという考え方ですので、権威が定める刑罰の妥当性を考えるという事に通じるという話ですね。
◆2
>基本的人権の根源である自然権は、単なるギリシャ人の宗教観からくる身体性の肯定にすぎません。
>ここにおいて『公共の福祉の問題』とぶつかります
これは「近代の基本的人権」=「古代ギリシャの宗教観」を同じものと混同する誤謬がありますね。
近代の人権は、単に人間であるということに基づく普遍的権利で、同時に「抗国家権力」や「革命権」などに由来している考え方です。
要は、この部分は概念の積み重ねの無視にあたります。
「自由」という公的な概念は、「自侭」という私的な概念は別物なので論拠には成り得ないの論理の展開に無理があります。
「公共の福祉」と「欲望肯定の自侭」はぶつかりますが、「自由」という公的な概念は権力の強制の制限を基にした考え方で、民主主義社会では「公共の福祉」という考え方が基本的人権を護るという事から派生した考え方になります。
つまり、この論は『公共の福祉の問題』と「治安上の問題」を混同させた詭弁になっています。
◆3
>社会において人権は制限されるんです。
そうですね。それが暴力原理で動く社会の現状です。
けれど、それを盲目的に肯定していいわけではありません。
前述した権力機構の暴走があるからです。
だから、私も「必要悪」という考え方で●7部分で「善」と「悪」と「邪悪」と「必要悪」として、「人権制限の考え方」の基本が生まれたのだろうという事を語っていますが、根本的な権威に対する言葉の使い方が違うので、意が通じなかったようです。
>日本において、語られる『基本的人権』
これは「憲法が保障している基本権」は刑法で定める死刑制度より上位の法なので、「人権保障の限界」に生命権を入れるかどうかの話で、「立法権」を持つ権力による人権侵害による冤罪の可能性をどう考えるかの問題でしょうね。
現実問題として日本の民主主義は形骸化してますので、危険性は当然あると考えるべきでしょうね。
極左だから極右だからという類の政治的立場を抜きにした話。
「人間には生まれながらに持っている権利として『人権』があるから死刑は否定されるべき」という生命権の考え方は、封建制血統主義の領主権力と革命側の資本主義の権力との対立で、互いに否定し合う両権威による「形式的法治主義」を正義とした殺戮を否定するために、民衆を護るべく掲げられた「理想」なので
現代資本主義権威の文化圏では「大量虐殺を行うような国家権威を否定した民主主義の理想として護るべき」という考え方が主流です。
けれど、世襲政治を行う血統権威主義勢力が議会を寡占し続ける昨今の日本では「権力が人間の価値を定めると権力者が考えている」せいなのか、冤罪の脅威より統治に必要な必要悪としての機能を優先させる考え方が主流で「国家権威の悪意という考え方」は認められにくいようです。
ちなみに、このエッセイの私の論は日本という一つの国の制度に限定した論でもないし、だから日本における死刑賛成論でも死刑反対論でもありませんが、「死刑反対を絶対視する人へ向けて解りやすいように書いた返信」なので、権威主義支持の立場で形式的法治主義派の「クロスオーバーさん」には死刑反対論や法治の否定に見えたのかもしれません。
あるいは、「クロスオーバーさん」が一義的に考えていて、私が多義的に考えているので、意が通じなかったのかもしれませんね。
- 隠居老人
- 2020年 04月15日 10時08分
[良い点]
好い点
善と悪、人と獣、必要悪の観点
問い続ける事、対話の勧め
[一言]
甘えと脳機能
インクルーシブ教育や分身ロボットOriHime
教義と集合知や人工知能の対話
考えさせられる
好い点
善と悪、人と獣、必要悪の観点
問い続ける事、対話の勧め
[一言]
甘えと脳機能
インクルーシブ教育や分身ロボットOriHime
教義と集合知や人工知能の対話
考えさせられる
問題提起になったのなら幸いです^◡^
- 隠居老人
- 2020年 04月15日 10時04分
[良い点]
死刑と言う、日常では中々話す機会が無い事をテーマに、自身の考えを述べてるところが素敵です。
[気になる点]
私は、善悪を立場で変わる曖昧なものと認識してます。
そして、死刑は法律であり、死刑囚は犯罪者。
つまり、悪人を殺してる訳ではありません。
善悪で人を裁かない為に、法律があるのです。
それを善悪で判断してる事が、おかしいと思います。
[一言]
私は、死刑に賛成してます。
何故なら、人は真面目に社会で生きても、犯罪を行なっても、最後は必ず死ぬからです。
そこに、不公平が生まれる以上、それに対しての代償行為が必要なのです。
死刑と言う、日常では中々話す機会が無い事をテーマに、自身の考えを述べてるところが素敵です。
[気になる点]
私は、善悪を立場で変わる曖昧なものと認識してます。
そして、死刑は法律であり、死刑囚は犯罪者。
つまり、悪人を殺してる訳ではありません。
善悪で人を裁かない為に、法律があるのです。
それを善悪で判断してる事が、おかしいと思います。
[一言]
私は、死刑に賛成してます。
何故なら、人は真面目に社会で生きても、犯罪を行なっても、最後は必ず死ぬからです。
そこに、不公平が生まれる以上、それに対しての代償行為が必要なのです。
たぶん、私と五日 永遠さんは、 善悪という言葉の意味を違って解釈していますね。
>善悪を立場で変わる曖昧なものと認識してます。
個人や組織の立場で変わる曖昧なものというのは主観的判断で、このエッセイでは「神の絶対正義」と表現して、客観的な人類の生存戦略に沿う考え方の共存原理を「善」で、生存戦略を否定する考え方を「悪」と表現して、その変遷を俯瞰的に書きました。
>善悪で人を裁かない為に、法律があるのです。
この考え方は、このエッセイでは「私刑」として、個人や組織の立場で人を裁くのは公私混同による害悪と表現しています。
つまり、国家の創った法律というのは、国家という利権組織が掲げる正義という「立場で変わる曖昧なもの」という論です。
>それを善悪で判断してる事が、おかしい
私的な正義感で法の是非を判断しているのではなく、法が生まれるのに人類の生存戦略に沿った善悪という考え方が関与してると書いたつもりです。
つまりは、法制度が妥当で必要かどうかの判断をするなら、法律は絶対に全てが必要という視点ではなく、創られた制度や法律は必要かという視点を以って議論するべきだという話です。
文化人類学的に近代社会維持のために必要なものとして法を考える視点を持つべきだと、このエッセイは語っているんですね。
要は、正義は人の立場だけでなく、組織や国家の力関係によって変わる絶対ではないもので、それは国家が掲げた正義に基づく法律でも同じだと、五日 永遠さんと同じ考え方を人類全体というレベルで展開しているだけなんですよ^^
まあ、人類が統一されて、人類の自由と平等と平和を一つの法律体系で実現しても、常にその正当性はチェックされつづけないと形骸化します。
どんな場でもヒューマンエラーは常にあり続けるから、法律を国家権力が正しく運用するとは限らないし、公私混同も現在の日本の官僚組織や司法組織でも行われ続け、違憲審査が形骸化されて、法治主義が歪められているという法学者も多くいます。
裏表があるのは政治だけでなく法律を運営する司法警察官僚もだという話ですね。
近代史を紐解けば、日本は民主主義国家ではなく、議会選挙制の権威主義国家でしかないと語る海外の政治家も多くあり、死刑制度の話に絡めて批判された事もあります。
そういうのは全て国家の語る正義の違いで、国家の創る法律は国家正義であって、人類全体の生存戦略である善悪とは別で、「アメリカの正義」で多くの戦争が起こされている。
それは正義と呼ばれるものが「必要悪」であり、常に必要かどうかを考えねばならないということだと語っていますが、死刑の是非を善悪で語ってはいません。
>私は、死刑に賛成してます。
>何故なら、人は真面目に社会で生きても、犯罪を行なっても、最後は必ず死ぬからです。
>そこに、不公平が生まれる以上、それに対しての代償行為が必要なのです。
これは刑罰の必要性について語り、刑罰が必要だから死刑も必要という論理の飛躍がありますので、間を埋める論を展開すべきでしょうね。
間を埋めるなら「目には目を命には命を」でしょうか。
次にはそれが必要な理由を展開していけば論理の飛躍はなくなると思います。
ちなみに、私のエッセイはタイトルを否定するエッセイですが、死刑の是非について語ってはいなかったりします。
>善悪を立場で変わる曖昧なものと認識してます。
個人や組織の立場で変わる曖昧なものというのは主観的判断で、このエッセイでは「神の絶対正義」と表現して、客観的な人類の生存戦略に沿う考え方の共存原理を「善」で、生存戦略を否定する考え方を「悪」と表現して、その変遷を俯瞰的に書きました。
>善悪で人を裁かない為に、法律があるのです。
この考え方は、このエッセイでは「私刑」として、個人や組織の立場で人を裁くのは公私混同による害悪と表現しています。
つまり、国家の創った法律というのは、国家という利権組織が掲げる正義という「立場で変わる曖昧なもの」という論です。
>それを善悪で判断してる事が、おかしい
私的な正義感で法の是非を判断しているのではなく、法が生まれるのに人類の生存戦略に沿った善悪という考え方が関与してると書いたつもりです。
つまりは、法制度が妥当で必要かどうかの判断をするなら、法律は絶対に全てが必要という視点ではなく、創られた制度や法律は必要かという視点を以って議論するべきだという話です。
文化人類学的に近代社会維持のために必要なものとして法を考える視点を持つべきだと、このエッセイは語っているんですね。
要は、正義は人の立場だけでなく、組織や国家の力関係によって変わる絶対ではないもので、それは国家が掲げた正義に基づく法律でも同じだと、五日 永遠さんと同じ考え方を人類全体というレベルで展開しているだけなんですよ^^
まあ、人類が統一されて、人類の自由と平等と平和を一つの法律体系で実現しても、常にその正当性はチェックされつづけないと形骸化します。
どんな場でもヒューマンエラーは常にあり続けるから、法律を国家権力が正しく運用するとは限らないし、公私混同も現在の日本の官僚組織や司法組織でも行われ続け、違憲審査が形骸化されて、法治主義が歪められているという法学者も多くいます。
裏表があるのは政治だけでなく法律を運営する司法警察官僚もだという話ですね。
近代史を紐解けば、日本は民主主義国家ではなく、議会選挙制の権威主義国家でしかないと語る海外の政治家も多くあり、死刑制度の話に絡めて批判された事もあります。
そういうのは全て国家の語る正義の違いで、国家の創る法律は国家正義であって、人類全体の生存戦略である善悪とは別で、「アメリカの正義」で多くの戦争が起こされている。
それは正義と呼ばれるものが「必要悪」であり、常に必要かどうかを考えねばならないということだと語っていますが、死刑の是非を善悪で語ってはいません。
>私は、死刑に賛成してます。
>何故なら、人は真面目に社会で生きても、犯罪を行なっても、最後は必ず死ぬからです。
>そこに、不公平が生まれる以上、それに対しての代償行為が必要なのです。
これは刑罰の必要性について語り、刑罰が必要だから死刑も必要という論理の飛躍がありますので、間を埋める論を展開すべきでしょうね。
間を埋めるなら「目には目を命には命を」でしょうか。
次にはそれが必要な理由を展開していけば論理の飛躍はなくなると思います。
ちなみに、私のエッセイはタイトルを否定するエッセイですが、死刑の是非について語ってはいなかったりします。
- 隠居老人
- 2020年 04月04日 08時33分
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