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[一言]
非常に蛇足ですが、ノーベル文学賞の選考は作品を評価できてるのか?と思ったりします。
  • 投稿者: ゆたあき
  • 男性
  • 2020年 06月01日 03時59分
こちらについても個別に返信!

いやぁ......。ノーベル文学賞の評価は難しいですよね。世界的に評価される作品、といっても、ある意味ヨーロッパ人の感性にマッチした作品と考えた方がよくって、純粋に日本的な作品があったとして受賞されるのか? といったらちょっと怪しい。
   ただ、これは文学それ自体が主観的に楽しむ性質をもつものであって、客観的な楽しみ方を想定していないという特徴がでかいんだと思うんですよね。どうしても選考者の主観が混じらざるを得ない。そうすると、それぞれの選考者のバックグラウンドに依存するほかない。選考に ん? って思ってしまうのはただ単純に選考者と疑問視している私たちの間でバックグラウンドが異なるからというのが一番でかいんだと思いますよ。
[一言]
解釈を読者に預けつつも想定するものに誘導できてるのが純文学かな?と思いました。解釈させるのに余計な事(伏線や暗示に見える何かとか?)を記述すると混乱するから書かないのかもしれないとも思います。

純文学とファンタジーやSFは絶望的に相性が悪いというか、現実世界でも言語圏や文化圏が違うだけで全然通用しないかもしれませんね。翻訳した時点でだめなのかも?。
  • 投稿者: ゆたあき
  • 男性
  • 2020年 06月01日 03時45分
ご感想ありがとうございます!

>>解釈を読者に預けつつも想定するものに誘導できてるのが純文学かな?と思いました。解釈させるのに余計な事(伏線や暗示に見える何かとか?)を記述すると混乱するから書かないのかもしれないとも思います。


   私は、それは大衆文学の方かなぁと。それとも「純文学」と「大衆文学」を入れ替えて書きましたかね?
   推理ものとかでスト、伏線とか暗示それ自体は入っていますが、推理に関係する範囲であって、それ以上のことは求めません。対照的に純文学は、どこか読者に丸投げなところがあります。具体的には、現実に存在する地名が現れ、読者はその地名の情景を自力で連想することが求められます。ラノベで出てくる「あ~きは~ばら~」とはわけが違うと思うのです。あっちの場合は、理想的なオタクの桃源郷として読者の中で想定されているのが条件です。けれども純文学の地名は、そこに行ったことがない読者がいるのを分かっておきながら、「情景の想像はあとは自分でやって~♪」みたいな感じがあります。少なくとも私はそれを感じて現代文で胃の痛い思いをしました(笑)

>>純文学とファンタジーやSFは絶望的に相性が悪いというか、現実世界でも言語圏や文化圏が違うだけで全然通用しないかもしれませんね。翻訳した時点でだめなのかも?。

   この辺りは、現状では本当に相性が悪いですね。
   ただ、海外作品については、事情は違うかなぁと。例えば、海外の著名な作家の作品、ヘミングウェイとかドストエフスキーとかカミュとかいろいろな人がいますけれども、彼らが描くヨーロッパについて、私たちは、なろう系テンプレの現実には存在しない異世界と同じようには見ないわけですよね? 伝わりにくいところがあっても心のどこかでは、「彼らが描くような世界がヨーロッパという場所にあるんだ!」とは思うわけですよ。それを読み込もうとしたときに自動的に彼らにとってのヨーロッパと自分たちにとってのヨーロッパにずれが生じるわけですよね? かつて話題になったパリのルイヴィトンのお店で日本人が行列作った騒動、(ご存じでしょうか? 文化的な違いのいい例なんですよ) があるんですけれども、ここでは、日本人がイメージしているフランスと現地の人がイメージしているフランスとの乖離みたいなのが表面化しているんですね。それを媒介するものが、ヨーロッパ作家による小説なのか、ルイヴィトンバックなのかの違いだけで。で、乖離しているけれども、どちらも現実に存在しているものと信じて疑わないわけです。この辺、空想的世界を信じている、という文脈とは意味合いが違うのは伝わるでしょうか? 空想的世界を信じる点は、ある意味 (神を信じていない人にとって) 神を信じている状態に見えるわけです。つまり、明確な実在性がない。対して、ヨーロッパの例ですと、地理的な知識として実在しているわけですよね? 「いや! ヨーロッパなんてないんだ!」って主張は、哲学的な議論では意味があるかもですが、日常的な議論では無意味どころかむしろ害悪になるかもしれない。あるものを無いと主張しているに過ぎないから。

   それとは異なって、ファンタジーとSFというのは、実体験しようがないんですよね。ヨーロッパはまだいけます。ですが、ファンタジーとSFはそれが出版されたタイミングでは少なくとも体験できないんですよ。作者の頭の中にしかない。ヨーロッパみたいに伝聞すらできないわけですから。その伝聞すらできない空想的な存在をいかにして共有するのかというのは、作品を読んでもらう上では極めて重大な課題なんですよね。まず、分かりづらくてはいけない。さっと読んでスッと頭に入って作者と同様の世界観を構築するところから始めなければならない。ここがネックなところ。純文学は最初っからぶっ飛ばして、いわゆる芸術性に重きを置いて作品を展開することができるけれども、ファンタジーとSFでそんなことをやった瞬間に、物語展開について行けない読者を量産してしまって、読まれなくなってしまう。途中意向で芸術性を植え込むことができたとしても、最初から植え込むことは無理なんですよね。この辺の相性の悪さはある種絶望的かもしれません。

   とはいえ、ファンタジーとSFというか、大衆文学全般に対して、純文学的でないのは、純文学化する試みを一切やっていないからではないかなぁと思うわけです。説明描写を必須とするような特徴を持つ大衆文学は最初から大衆文学として書いているようなもので、そうやって書けば当然純文学から距離は置かれるわけですよね。でも、ファンタジーとSFを書くにあたって本当に最初から純文学として書くことはできないと断言できるのか? といったときに、それもまた不適切だとは思うのです。なぜなら、近年、そもそも純文学を定義する試みをほぼ一切やっていないのに、なぜ定義されていないものを実現することができるのか、という潜在的な問題点が存在するから。もし、私たちが、「純文学とは何か?」という問いに対して明確で明白で全ての人に共有されるような答えを提示したとき、その答えに沿ったファンタジー・SFを書くことができるのか? という新たな問いと向き合うことができる筈なのです。その問いと向き合い、その問いに答えたファンタジー作品或いはSF作品が世に出回った瞬間、ここで初めて、純文学と大衆文学の境界線は無くなると思うのです。
   今の時代、純文学と大衆文学の境界線がないと主張されているのは、これはただ単純に純文学の定義を真剣に取り組んでこなかったから。純文学なんて最初からないんだって主張はあるかもしれない。でも芥川賞=純文学というイメージを与えられた時、受賞作を読んで、「これは本当に純文学か?」って疑問に思うことがあるはずなんです。その疑問、頭の片隅で純文学の理想形を抱いてなかったら湧いてこない疑問なんですよね。理想形すらなかったら、まず芥川賞=純文学を否定するところから始めますから。つまり、理想形としての純文学はすでにある。その理想形を定義しなくてはならないのが、取り組まなくてはいけなかったことなんです。それを取り組まなければ、境界線があいまいなのは当たり前なんですよね。
   けれども、上で言ったような、形で、ファンタジー・SFから純文学が実現されたとき、これは意図的な境界線の撤廃であり、パラダイムシフトでもあるんですよ。これはなあなあにされてきた、純文学の大衆文学の境界線の曖昧さとは全く別のお話です。大衆文学というテーゼ、純文学というアンチテーゼに対して、両者の境界線を撤廃した新たな文学スタイルというシンテーゼが生まれているわけです。これを実現できた作家こそが真の意味で二十一世紀の創造作家といえるのではないでしょうか?

   まぁ、そんなことを高校時代に考えておきながら全然執筆が進んでいないんですけどね(笑)
[良い点]
面白かったです。
作品に書き手の熱量を感じたエッセイは久しぶりでした。

>「世界の記述の開放性に焦点を当てた作品群である!」
ここの「世界」と言う部分を除けば私は理解できます。
純文学は曖昧というか開放性が高く、それでいて一文が伽す稀ている、そんな気がします。
私の周囲の純文書きさんは「言葉をやる」と言っていましたる。私は百パーセントエンタメ系だと自分の筆を思っているのですが、その点は理解できました。
[気になる点]
ただ娯楽を重視した場合に閉鎖性になるかというと(個人的)ちょっと違う気もします。

まず自由であれ、が言葉をやる上で大切なことではないかと思うのです。大衆文学でも開放性を持つことは可能かな、と(あくまで個人の意見ですが)
[一言]
読ませていただきありがとうございました。
  • 投稿者: 古都ノ葉
  • 女性
  • 2020年 06月01日 03時32分
ご感想ありがとうございます!

>>作品に書き手の熱量を感じたエッセイは久しぶりでした。

   そう思ってもらえてうれしいです!

>>ここの「世界」と言う部分を除けば私は理解できます。

   ここの「世界」、分かりづらかったですか......(笑)
   「世界」って言ったときに、色々な「世界」があります。身の回りに置かれている環境とか、物理的な宇宙観とか。でも、私たちが見ている「世界」って言ったときは、私たちが把握できる範囲、或いはみようとしている範囲で完結します。それと同じように小説の中では、小説に関わる部分だけで、物語展開という名前の「世界」が完結している。けれども純文学の場合、その「世界」は物語展開として直接的には描写されていない部分に目を向けさせられてしまうという特徴がある、というイメージですね。
   この辺、もう少し世界についてもう少し分かりやすい表現はないか追及してみようと思います!

>>私の周囲の純文書きさんは「言葉をやる」と言っていましたる。

   そうですね。言葉、それ自体がかなり不思議な力がありますよね。「空気」といったら、単純に、呼吸で吸い込む空気がまず思い浮かべますが、俗語では雰囲気の意味もあります。純文学はさらに俗語ですらなく、オリジナルに文章の中にある 言葉 に辞書にはない意味を課そうとしているところはありますね!

>>ただ娯楽を重視した場合に閉鎖性になるかというと(個人的)ちょっと違う気もします。

   ここら辺、少しイメージを表現しきれていなかったですね。確かに大衆文学でも開放性を持つことは可能に見えます。この時、純文学での開放性と、大衆文学での開放性はどう違うのか、ここのラインを表現するのがちょっとむつかしかったです。
   この辺は文学全般の社会的要素もしっかりと加味する必要があるのかなぁとは思います。同時代のテーマと時事ネタの違いとでも言えばいいでしょうか? 例えば、同じコロナ流行が話題に上がっても、これ自体は時事ネタとして、「いま世界にコロナが流行っている」というのを設定として組み込んで物語にリアリティを持たせる手法があります。例えば、二月くらいの日本を舞台にして「どうやら中国では新型のコロナウィルスが流行しているらしい」みたいな一文を組み込むとか。それはある種読者を現実と作品内の世界との中間に置かせるという意味で一見開放的に見えますね。このやり方が大衆文学。他方で、テーマとしては「そもそも人間はウイルスに勝てたことがあったのか?」という問いを立てて作品を作る人がいます。結構話題になったカミュの『ペスト』はこの路線ですよね。『ペスト』が書かれた時期それ自体では大流行した伝染病はなかったはずですが、例えば、今の時期に出された作品内の一節で「アイツは素知らぬ顔でカミュの『ペスト』なんて読んでやがる。不吉だ」みたいな一文があったときに、その一文の意味合いって、「どうやら中国では新型のコロナウィルスが流行しているらしい」という一文と比べると、それ以上のメッセージが込められてしまうんですよ。そういう意味では、逆に「どうやら中国では新型のコロナウィルスが流行しているらしい」という一文はその字面通りの意味しかない。読者がその一文を読むときに感じるのは「確かにこの時期はあっちで流行ってたよなぁ。なんでもっと早く対処できなかったんだよ」くらいは思っても、それ以上のメッセージ、例えば「人類はウィルスに勝てたことはない」なんてものまでは拾う必要はないし、多分拾えないんですよね。このあたりでの開放性と閉鎖性をイメージしているところです。いかがでしょうか?

>>読ませていただきありがとうございました。

   いえいえ! こちらこそわざわざ時間をとって読んでくださりありがとうございます!
[良い点]
純文学について考えるのは、純文学を書いていく上で必要だと思います。
何読んでこの着想に至ったんだろう?と思ったのですが、二十世紀の純文学作品の舞台ですか……やはり着眼点が独自で良いですね。
[気になる点]
描写をせずに読み手に預けるというのは、割と童話やなろう系では普通なので、そことの違いが示せると良かったかなと思います。
[一言]
私も一つ、コラム書いてみようと思います。
ご感想ありがとうございます!

>純文学について考えるのは、純文学を書いていく上で必要だと思います。

はい! 今後も思索を重ねてまいります! おほめに授かり光栄です!

>描写をせずに読み手に預けるというのは、割と童話やなろう系では普通なので、そことの違いが示せると良かったかなと思います。

  そうですね。この辺の違い、もう少しうまく表現しておきたかったですね。

  大衆文学系でも、読み手に一任するってことはあり得ます。どの程度読み手に一任するのかという比重の問題のようにも置き換わってしまいますからね。そうなると、その違いというのが不明瞭になっちゃいそうですね。

  童話の場合は、作者が子供に向けたいメッセージというのがあって、子供はそのメッセージを素直に受け取ることを前提としているように思えます。その作者のバックグラウンドとか、作品の行間を読もうという作業は、子供が行っている作業ではなく、知恵のついた大人が勝手にやってることですからね。つまり、作者の中では、子供のように、字面をそのまま受け取るだけで、メッセージが正しく受け取れる、と言うことを作者は想定しているといえると思います。

  なろう作品の場合は、読み手については年齢層が幅広いので、童話のようなロジックは成立しないかもしれません。しかし、標準的ななろう作品の場合、ライトノベル作品群を想定しながら、作品が描かれています。このとき、解釈の余地を残して楽しませるという面を含めた作品も多々見受けられますが、作者が作品を書いている前提にあるのは、自分の文章を書いて読ませたときに、その字面通りに自分が思い描いている情景を読者たちはそのまま思い描けているだろう、という期待です。その期待が前提にあって、作品を書き進めているといえます。(尤も、この期待というのはある種自分の文章力を過信している状態ともいえます。この時、自分の文章力がいかほどのものか確認を怠った場合に、第三者の目から作品の質が悪い、という風に判断されてしまう遠因となっているとも思います。)

  対照的に、純文学作品では、実はそういうことを想定して文章が作られていません。「字面で書いたとおりに」同じ情景を思い浮かべられるだろうなんて期待していないと思います。なぜなら、純文学作品は総じて、「現実世界が舞台」になっている場合が多々あり、わざわざ字面で表現しなくっても、ほんの少しのキーワードを投げかけるだけで読者側が作者がイメージしている舞台という意味での情景をイメージできるようになっているからです。

  例えば、東京とか梅田という地名をボソリと投げかけるだけで、たったそれだけで舞台がどこであるのか瞬時に理解することができます。なろう作品のように説明描写はよほどのことがなければ入りません。

  この点は童話やなろう作品で度々見受けられるような 「空想的世界観」 とは対照的だと思います。「空想的世界観」を前提に置いている、童話やなろう作品において (そしてSFをはじめとする大衆文芸も含めて)、 作者が頭の中で描いている「空想的世界」の住民に読者は市民権を得る義務があります。つねに作者の想像を予想し作者の思い描いた「空想的世界」に自分を近づけようという形をとります。 (そういう意味で人間関係が閉鎖的ともいえます)

  対する主だった純文学作品は、(もちろん、作者が独自に設けた設定などはありますが、)「現実世界」という舞台を共有するだけならば、そう言った設定は些末なものになります。「現実世界」で誰もが目に映る情景、会話、礼儀作法、道徳心、信仰心、政治思想などなど、実際に存在するあらゆるものに囲まれている状態を読者と共に想定します。作者が空想的に頭の中に思い描いているのは、登場人物だけなのです。

  確かに作者の頭の中で思い描いている世界の箱庭に彼らが作った登場人物を活き活きと動かす、という形で作品は作られています。それでも、作者の思い描いた世界の箱庭は、結局現実に根差しており、結果的に「作者の頭の中で思い描いている世界の箱庭」と「現実世界」との間に境界線が消えてなくなっています。その結果、読者は、「現実世界」のように錯覚させられてしまう「作者の頭の中で思い描いている世界の箱庭」に半ば片足を突っ込んでしまい、作品との距離を読者自身の意志で判断せざるを得ない状況です。そして、作者の頭の中を想像しながら、作品に目を通そうとしますが、その作者の頭の中が、結局「現実世界」での実体験に依存し、読み手も「現実世界」での実体験に依存して「作者の頭の中の世界」をとらえようとするため、「それぞれの現実」の中で作品を判断するという状況になっています。

  両者が頭の中の世界で完結せずに、どうしても現実という自分たちの外側へとイメージが延長してしまう点は明らかに、標準的な童話やなろう作品ではなかなか見受けられないことです。童話や標準的ななろう作品の場合、その世界は現実ではないことが多々あり、仮に現実世界を舞台と主張していても、実際に存在する町ではなく、仮想的に作られた街の中で話を進めている点でも同様なことが言えると思います。

  尤も例外もあって、童話でも純文学作品と位置付けられることはあると思います。例えば宮沢賢治の作品は子供読者を想定した作品ですが、彼の思い描いているイーハトーヴという世界は、現実に存在する岩手県の実際にある場所を想定していることは有名です。その「現実」を追体験しながら作品を読むという方法ができる点では、彼の作品群は純文学だともいえると思います。

  この点に関連して、学校それ自体は仮想的でありながらも、その外側である町については現実に完全に根差している俺ガイルはラノベではありながらも同時に純文学作品といっても差し支えないのではないかなぁと感じてはいるのですが(笑)

  この観点から、現実の瞬時に共有可能な具体的な町などが存在して、それが遠回しにも明言されていれば標準的ななろう作品の中にも純文学って探せばあるのかなぁとは言えそうですね。ただ、上で説明した意味で現実世界に根差した作品を作った標準的ななろう作品は中々ないんじゃないかなぁって思います。やはりファンタジーで想定しているのは中世ヨーロッパ (俗にいうナーロッパ) で、しかも追体験しようがない架空の世界なわけですから、純文学的手法を取り入れるのは極めて困難かと思います。
  それこそ、クラスメイト全員でナーロッパに異世界転移してから、クラスメイトの一人が描いた作品をクラスメイトのうちだけで共有する、という状況が生まれて初めて純文学として昇華するんじゃないでしょうか? 尤もこの場合は、クラスメイトの中だけでそうと認められるだけで、我々は結局のところ現実として想定することも追体験することも不可のであることには変わりませんの、我々の立場からはそれを純文学とは認めることができない、という状況は生まれると思います。

  ちなみに歴史小説なんかも大衆文学に含まれる理由は、その歴史的事実を追体験しようがないという事実に基づいてるからじゃないでしょうか? 

  色々と論点が発散しかけている気がしますが、この辺でご納得いただけますでしょうか? むつかしいようならもう少し思索を重ねてこの点の議論を改めてエッセイにしたいと思います!

>私も一つ、コラム書いてみようと思います。

お待ちしております!
[良い点]
とてつもない熱量を感じました。
そして記述の詳細に宇宙軸までもが出てきた所で吹き出しちゃいました!
「そんなん誰が気になるかっ!」って。(笑)

[気になる点]
前半にある(笑)←これ、要らないんじゃないかなって思います。何と言うか、自虐的に過ぎるように思いました。
[一言]
こんばんは。

自分は純文学はよく分かりません。そもそも文学自体を分からないと言っても過言では無いですね。本なんて数年買ってないし読んでないし。
なので、この視点は非常に面白く読ませて頂きました。

因みに、自分が思っていた純文学と一般文芸の違い。
純文学は閉塞された心の内に焦点をあてて、当てた焦点の題材をこれでもかと圧縮して自己解釈した作品。 
一般文芸は開放された世界に視点を起き、世界で起きた様々な出来事から作者の好む題材をすくい取って紹介した作品。
……と、勝手に思っていただけに、本当に楽しく読ませて頂きましたよ。

  • 投稿者: 退会済み
  • 男性
  • 2020年 05月30日 02時46分
管理
こんばんは!
ご感想ありがとうございます!

  ちなみに宇宙軸は計画中の異世界旅行のSFからどうしても導き出されてしまった発想です! つまり私は気になっている!

>前半にある(笑)←これ、要らないんじゃないかなって思います。何と言うか、自虐的に過ぎるように思いました。

(笑) をいれないと普段のお茶らけた私が堅苦しい人間みたいに見えてしまうので! シリアスブレイカーなんです私!(ウルウル)

>自分は純文学はよく分かりません。そもそも文学自体を分からないと言っても過言では無いですね。本なんて数年買ってないし読んでないし。

  この辺は仕方ありませんよ。文学それ自体の通読の推奨は本来学校が一生懸命やるべきなんですが、高校の先生って小説読めない人結構多いので、人に本薦められないんですよね......。一言で言うと小説家の発想を持っている先生が少ないこと(笑) だから人に小説を薦める方法が分からんようなんですよ。ぶっちゃけ学校の先生のすすめた本というか、先生のすすめ方ってどこか読む気失せますよね?(笑)

>純文学は閉塞された心の内に焦点をあてて、当てた焦点の題材をこれでもかと圧縮して自己解釈した作品。 
>一般文芸は開放された世界に視点を起き、世界で起きた様々な出来事から作者の好む題材をすくい取って紹介した作品。

この辺心理描写的には、確かにそう捉えられるかなぁって錯覚したんですけど、

     純文学がノスタルジックな田舎という開放的世界を舞台にしている傾向が目立つ

     大衆文学が事件現場や学校といった建物の中での狭い人間関係の間でなされるやり取りを中心に物語が展開されている傾向に目立つ

という特徴を見つけて、開放的と閉鎖的、心理描写じゃなくて世界観でとらえるべきじゃね? ってアプローチから攻めた次第です!

  機会があったら紙の純文学おススメですよ! 意外と名前は知っているけど読んだことないとかどうです?『星の王子さま』とか。

  あと私は純文学の作品の勉強で今『西の魔女が死んだ』を読んでいる最中です。

  純文学を読むのになれてなくって読み方が分からなかったら、まず最初っから作品を読むんじゃなくって一番後ろに就いている 解説 から読むことをお勧めしますよ! 解説には、作者がどういうバックグラウンドで本を執筆したのかという、解説者サイドの解釈が書かれていますから! それをイメージしながらであれば、読む負担は小さいと思います! なろう小説に飽きたら是非紙の本にも触れてみてください! もう一度なろう小説を読み返したとき、結構なろう小説も捨てたもんじゃないなぁって思うような発見ありますよ!
[良い点]
面白い視点だと思いました。
純文学と大衆文学(エンタメ)といわれるものの違いは、あまりはっきりとしていませんから、そういう視点で分けるのもあり、と感じます。
[一言]
私自身は、メッセージ性が高い作品を純文学、単純にストーリーを楽しめる作品をエンタメ、とわけています。
しかし、純文学の優れた作品には同時に娯楽性の高い作品も多く、エンタメ小説の中でも優れた作品はメッセージ性をも有している。
夏目漱石が果たして 『吾輩は猫である』 や 『坊っちゃん』 を純文学のつもりで書いたのか、と考えると、どうでしょうかね……?
  • 投稿者: 砂礫零
  • 2020年 05月30日 01時28分
ご感想ありがとうございます!

>私自身は、メッセージ性が高い作品を純文学、単純にストーリーを楽しめる作品をエンタメ、とわけています。

その分け方も間違いではないと思います。ただ、一番ネックなのが芸術性という部分......

>夏目漱石が果たして 『吾輩は猫である』 や 『坊っちゃん』 を純文学のつもりで書いたのか、と考えると、どうでしょうかね……?

どうでしょうね? 私、漱石先生の本まだまともに読み進められてない (T_T)

  まぁ、今歴史的ともてはやされている伝統芸能とか伝統工芸品って元々は大衆向けですからね。当時の上流階級の人たちは見向きもしなかったものもあると思いますよ。東北で有名なこけしに至ってはあれ、死んだ子供の木像ですからね......。そう言ったものって、当時の人たちは歴史的とは思ってないわけですよね? それが時間が経って、芸術的って捉えられるようになる。

  恐らく漱石先生も書き始めた当初は、大衆文芸の一種という認識だった可能性があります。当時、日本にはまだ  小説  って概念がなくって、その概念を日本に普及させることが明治初期の小説家の仕事だったらしいです。今のように小説の形式とかも実は決まってなかったようで、色々と試行錯誤して、文体とか文章表現とかの受けを研究していたみたいですよ? (ぶっちゃけ、なろうのランカーのように大衆に受けるタイトルとか書き出しは何かで割とマジで悩んでいたみたいです。時代が変わってもそこは変わんないんですよね(笑))

  だから漱石先生としては芸術性とか意識していなくて、大衆向け作品として出版しようとしたのでしょうけど、その出版に向けた文章表現の研究の成果が後世に芸術的と認められるようになったというのが正しい解釈なのかもしれません。もしかすると、純文学かどうかは後世の人間が判断するものなのかも? そうなるといつの時代でも同時代の人に寄って純文学かどうかという判断はナンセンスである可能性も無きにしも非ず(笑)

  まぁ、実際の答えがそうであったとしても、例えば、私の定義でいうところの芸術性を夏目漱石は意識して作品を作っていたんじゃないか? と仮定を立てて、漱石の作品に対する芸術性の目を研究するとかやるのが文学者とか歴史家の仕事なんですけどね(笑) そうやって過去の偉人を読みなおしたりして見ると思いもよらない発見があったりするんですよね!
  やっぱり青空文庫で漱石先生の本を読むか(笑)

  蛇足かもしれませんけど、今回このエッセイを書こうと思った背景にあったのが、二十世紀の純文学作品の舞台が「古き良き田舎」という開放的な場所になっているものがちらほら見かけて、それと対照的に大衆文学は事件現場とか、家の中とか、会社の中って感じである意味建物の中での狭い人間関係のやり取りで物語が進んでいるっていう違いがちらりと見受けられたというのがスタートですね。ちょっと機会があったら
  純文学=ノスタルジックな田舎的発想
  大衆文学=都会的文化の発想
って観点から分析してみたいとは思ってます(笑)

  ちなみに 砂礫零様のエッセイでの返信の返信ですが、「エジョフのようにクソガキたれ」という私的体験の方のエッセイ書いてます。頭空っぽにして書いている作品で、頭空っぽになるまで書き始めないので、今エタってる状態ですが、興味があったら覗いてみてください(笑)
[良い点]
読み応えがありました!
世界の開放性と閉鎖性による文学を純文学と大衆文学に分けてしまう持論は面白いと思います。
[一言]
私個人は純文学と大衆文学は主人公の悩みに、あるいは物語的に哲学的なものを問うている箇所があるかないか、のような感じで漠然と考えておりました。
砂の女では自由とは精神によるものか肉体からによるものか、外部からか内面からの拘束か。
確かに、読後に色々鬱々と考えることになるのが純文学でした。
鬱々するからあまり読んではいないけれども、それこそが思考を導く開放性を持ちえる純文学だからなのかなと、仁羽様の持論には目から鱗のような気がします。
  • 投稿者: 蔵前
  • 2020年 05月30日 01時03分
ご感想ありがとうございます!

>私個人は純文学と大衆文学は主人公の悩みに、あるいは物語的に哲学的なものを問うている箇所があるかないか、のような感じで漠然と考えておりました。

私も最初はそう考えていましたし、一見このような分け方が適切のように見えちゃうんですけど、これだと「芸術性」って部分が反映できてないんじゃないかなぁって思って悩んでたんですよ。それで考え抜いたロジックが、本エッセイになります!

『砂の女』ですか。いやぁ、古典的な文芸作品は中々読まない口でしたので、勉強不足kkkkk

  参考文献と言うことでぜひともリストに入れさせていただきます!!!
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