エピソード27の感想一覧
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[良い点]
いやー、カミサマもチャチなことで悩んでるんですねー
[気になる点]
大丈夫?なんか病んでない?
[一言]
自分たちの好きに過ごすため星を傷つけ、同じ世界で生きる物を考えないその自己中心的な考え、そして困れば責任の擦り付け合いで正すことをしようとしない。利便性ばかり求めるくせに変化を嫌い、自由を求め責任を嫌う。なんて我儘で愚かな生き物
f「失礼 何が悪いのかまぁーーったく理解出来ません」
弱肉強食なんて都合のいい考えを持っているくせに傷付ける事に意義を求める感性が分からないし、人間が他の動物と違って残酷だったり残虐であるかのような勘違いが目立つ所が変に人間病だなぁと思いました
同じ世界の中に“他人は居ない”というのが解釈に因っては事実で、世界は事実じゃなくて認識で成り立っているのだというのが当たり前にあって 屁をぶっこいてしまったら何処かで人間が死んでも知りもしないから何とも思わない様に、世界とは共通したものを見ているという一種の錯覚にしか過ぎない、世界というのは思っているよりも狭いし不要なものは無い、断捨離は日常だから、誰しもが無意識的に知らぬ存ぜぬをしている事実がある
責任とやらを事実だと思っているような発言も気になる所で、責任とは所詮他人から押し付けられるものであって自分では無いのだからそれは他人の我儘にしか過ぎないのに、なら何故親しくも無い他人の我儘を守れと主張するかと言えば、それは寂しい独り身が孤独だから孤独な自分を守れというのを言っているに過ぎないと俺は思う、身内に助けて貰えば良い、他人にそれを求めず集団で纏まって頼ればいい、少なくとも、何の接点も無い赤の他人にそれを求めるのは間違っていると俺は思う
勇敢さと慎重さは反発しなければ何かを嫌うことも不安になる事も違うもので、自分の理由を押し通す為に擦り付けるものが責任で、自由とは責任であり、他者の自由とは自分にとっての責任だとも思う、責任も自由も本質的にはそこまで変わりは無い
本質的に、何も正しいことは無いし、何も悪い事ですら無い
要するに、善悪も自分に無くて、他人の価値観だろうと俺は思う
なら何故自由を嫌うかと言えば、自分が自由じゃないなと感じていてそれなのに他人が自由なのが気に食わないからだろうと俺は思う
正しい事をしたいやら間違った事をしたくないやらと、それも責任で、自由だ、けれど、自由が悪いならお前も悪いよと俺は言いたい
大昔から言うように、「立ち向かうものは敵で、逃げるものはよく訓練された敵だ」「そして目の前に現れない敵だけがいい敵だ」と、Sansも言っていたね、「俺とお前が友達なら二度と俺の前に現れないでくれ」と、「俺の目の前に現れたという事は俺達は友達じゃなかったという事なんだな」と、そう言っていたね
全くその通り、関わらないのが一番いいね、そんなに関わるのが辛いなら関わらなくていいよと、誰もアナタの葛藤なんて知らないし望んでもいないからと、そう言っているね
葛藤やら責任やら自由なんて言葉は、言葉をかわせる相手に使うものだよと、そうは言っても着いてくるから面倒なんだけどね
誰一人の例外もなく好きなようにやっているだけだと知れば、諦めも着くだろう
自分が何を不安に思っているのかを自覚しないものに明日は有り得ないし、明日が知りたいのなら自分の事実くらい認められるようにならなければならないし、それが出来ないのを“自己中心”といって、“天上天下唯我独尊!”と釈迦の説法を勘違いして立ち上げるキツイ奴になる
釈迦の説法の意味は、自分であれ他人であれ、その人の持つ感性こそが、自分の感性こそが正しいという教えであって、他者の感性を否定するものに自分の感性を押し付けろなんて言われた覚えは無いよ、正しいからと言って正しいものは壊しては成らない
そういう自己満足で不安が募って出来上がったエゴの塊のような善悪が如何にも清廉で御座いとばかりに潔白を主張しているのを見ると白けまして、阿呆らしくなってからが優しさで寛容さであるのですよ、と釈迦は仰ったそうですね
優しくするとか清く正しく在るというのは自分の考えを優しさだと思うことじゃなくて、他人の考えの上で優しさを考える事、無理のない範囲で納得できる範囲で何でもいいから余裕のあるだけ優しくしてあげる…譲る事だと思うな俺は、何と言うか、何が正しいとか間違ってるとか些細な事で他者を傷つけるのって馬鹿らしいよな、間違っている
なんというか、誰にとっても心が痛い話だよ其れと云うのは、考えても何をするでもなしに考え過ぎないで、考えたとしても考えを適当なところで妥協して放置する、客観的に理解して納得するだとかして、考えをある程度ポジティブで人の役に立つような、内向的でなく外向的な考えに持っていくのがベストだと思うな俺は
マウント取るのは疲れるだろ よく頑張ったから休めと
いやー、カミサマもチャチなことで悩んでるんですねー
[気になる点]
大丈夫?なんか病んでない?
[一言]
自分たちの好きに過ごすため星を傷つけ、同じ世界で生きる物を考えないその自己中心的な考え、そして困れば責任の擦り付け合いで正すことをしようとしない。利便性ばかり求めるくせに変化を嫌い、自由を求め責任を嫌う。なんて我儘で愚かな生き物
f「失礼 何が悪いのかまぁーーったく理解出来ません」
弱肉強食なんて都合のいい考えを持っているくせに傷付ける事に意義を求める感性が分からないし、人間が他の動物と違って残酷だったり残虐であるかのような勘違いが目立つ所が変に人間病だなぁと思いました
同じ世界の中に“他人は居ない”というのが解釈に因っては事実で、世界は事実じゃなくて認識で成り立っているのだというのが当たり前にあって 屁をぶっこいてしまったら何処かで人間が死んでも知りもしないから何とも思わない様に、世界とは共通したものを見ているという一種の錯覚にしか過ぎない、世界というのは思っているよりも狭いし不要なものは無い、断捨離は日常だから、誰しもが無意識的に知らぬ存ぜぬをしている事実がある
責任とやらを事実だと思っているような発言も気になる所で、責任とは所詮他人から押し付けられるものであって自分では無いのだからそれは他人の我儘にしか過ぎないのに、なら何故親しくも無い他人の我儘を守れと主張するかと言えば、それは寂しい独り身が孤独だから孤独な自分を守れというのを言っているに過ぎないと俺は思う、身内に助けて貰えば良い、他人にそれを求めず集団で纏まって頼ればいい、少なくとも、何の接点も無い赤の他人にそれを求めるのは間違っていると俺は思う
勇敢さと慎重さは反発しなければ何かを嫌うことも不安になる事も違うもので、自分の理由を押し通す為に擦り付けるものが責任で、自由とは責任であり、他者の自由とは自分にとっての責任だとも思う、責任も自由も本質的にはそこまで変わりは無い
本質的に、何も正しいことは無いし、何も悪い事ですら無い
要するに、善悪も自分に無くて、他人の価値観だろうと俺は思う
なら何故自由を嫌うかと言えば、自分が自由じゃないなと感じていてそれなのに他人が自由なのが気に食わないからだろうと俺は思う
正しい事をしたいやら間違った事をしたくないやらと、それも責任で、自由だ、けれど、自由が悪いならお前も悪いよと俺は言いたい
大昔から言うように、「立ち向かうものは敵で、逃げるものはよく訓練された敵だ」「そして目の前に現れない敵だけがいい敵だ」と、Sansも言っていたね、「俺とお前が友達なら二度と俺の前に現れないでくれ」と、「俺の目の前に現れたという事は俺達は友達じゃなかったという事なんだな」と、そう言っていたね
全くその通り、関わらないのが一番いいね、そんなに関わるのが辛いなら関わらなくていいよと、誰もアナタの葛藤なんて知らないし望んでもいないからと、そう言っているね
葛藤やら責任やら自由なんて言葉は、言葉をかわせる相手に使うものだよと、そうは言っても着いてくるから面倒なんだけどね
誰一人の例外もなく好きなようにやっているだけだと知れば、諦めも着くだろう
自分が何を不安に思っているのかを自覚しないものに明日は有り得ないし、明日が知りたいのなら自分の事実くらい認められるようにならなければならないし、それが出来ないのを“自己中心”といって、“天上天下唯我独尊!”と釈迦の説法を勘違いして立ち上げるキツイ奴になる
釈迦の説法の意味は、自分であれ他人であれ、その人の持つ感性こそが、自分の感性こそが正しいという教えであって、他者の感性を否定するものに自分の感性を押し付けろなんて言われた覚えは無いよ、正しいからと言って正しいものは壊しては成らない
そういう自己満足で不安が募って出来上がったエゴの塊のような善悪が如何にも清廉で御座いとばかりに潔白を主張しているのを見ると白けまして、阿呆らしくなってからが優しさで寛容さであるのですよ、と釈迦は仰ったそうですね
優しくするとか清く正しく在るというのは自分の考えを優しさだと思うことじゃなくて、他人の考えの上で優しさを考える事、無理のない範囲で納得できる範囲で何でもいいから余裕のあるだけ優しくしてあげる…譲る事だと思うな俺は、何と言うか、何が正しいとか間違ってるとか些細な事で他者を傷つけるのって馬鹿らしいよな、間違っている
なんというか、誰にとっても心が痛い話だよ其れと云うのは、考えても何をするでもなしに考え過ぎないで、考えたとしても考えを適当なところで妥協して放置する、客観的に理解して納得するだとかして、考えをある程度ポジティブで人の役に立つような、内向的でなく外向的な考えに持っていくのがベストだと思うな俺は
マウント取るのは疲れるだろ よく頑張ったから休めと
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