感想一覧
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日本は国連の社会権規約・自由権規約に批准しているのでしょうか?
そりゃ戦争に負けたからでしょう。国際ルールでそうなってしまったのなら従うしかありません。
松前藩がアイヌ民族を半ば奴隷として扱っていたように、
刀振り回してた時代の事持ち出されても……もしかして、刀振り回してた時と、今の時代の意識が同じだとか思ってる?痛ましいと思うよ?現代人の私はね。でも、日本人だけに言えることだと本気で思ってるの?それを言い出したら今の人権を主張してる彼ら欧米諸国とかどうなるのか……もっとひどいと思うけど?当時の倫理観を現代の倫理観で話すなら、その時代の他国の状況も考えた方が良いよ。欧米諸国、中国、韓国も当時の人達は同じようなことしてる。
日本では外国人技能実習制度が奴隷労働を産み出し
日本は技術を提供し、彼らは労働力を提供することを自分の意思で決めています。他人に強要でもされて実習に来てるのですか?技術もノウハウもただじゃないんですよ。嫌なら辞める事が出来ないわけじゃないでしょ。こうは言っていますが、むしろ私は外国人技能実習は反対です。技術やノウハウが流失する事を考えれば廃止しても良いと思っています。
教育に関する所
私は、教師が主導して政治教育することに反対しているのであって、各個人が政治に興味を持ち政治について調べる事を否定していません。むしろ、自発的に自分で興味を持って調べる事は素晴らしいことだと思います。
私は消費税が40%、50%になっても日本では暴動は起きない
確かに、いずれ50%の消費税もあるかもしれませんね。ただ、それをすると政治家も落選して無職になる可能性が非常に高くなるし、そこまで無能な政治家、政党しか選べないのなら、それはそれでしょうがない事なんでしょうね。日本を想うまともな野党が育つ事を祈るばかりです。
日本は国連の社会権規約・自由権規約に批准しているのでしょうか?
そりゃ戦争に負けたからでしょう。国際ルールでそうなってしまったのなら従うしかありません。
松前藩がアイヌ民族を半ば奴隷として扱っていたように、
刀振り回してた時代の事持ち出されても……もしかして、刀振り回してた時と、今の時代の意識が同じだとか思ってる?痛ましいと思うよ?現代人の私はね。でも、日本人だけに言えることだと本気で思ってるの?それを言い出したら今の人権を主張してる彼ら欧米諸国とかどうなるのか……もっとひどいと思うけど?当時の倫理観を現代の倫理観で話すなら、その時代の他国の状況も考えた方が良いよ。欧米諸国、中国、韓国も当時の人達は同じようなことしてる。
日本では外国人技能実習制度が奴隷労働を産み出し
日本は技術を提供し、彼らは労働力を提供することを自分の意思で決めています。他人に強要でもされて実習に来てるのですか?技術もノウハウもただじゃないんですよ。嫌なら辞める事が出来ないわけじゃないでしょ。こうは言っていますが、むしろ私は外国人技能実習は反対です。技術やノウハウが流失する事を考えれば廃止しても良いと思っています。
教育に関する所
私は、教師が主導して政治教育することに反対しているのであって、各個人が政治に興味を持ち政治について調べる事を否定していません。むしろ、自発的に自分で興味を持って調べる事は素晴らしいことだと思います。
私は消費税が40%、50%になっても日本では暴動は起きない
確かに、いずれ50%の消費税もあるかもしれませんね。ただ、それをすると政治家も落選して無職になる可能性が非常に高くなるし、そこまで無能な政治家、政党しか選べないのなら、それはそれでしょうがない事なんでしょうね。日本を想うまともな野党が育つ事を祈るばかりです。
[一言]
会場が静まり返ったならそれでよかったのでは?
相手は日本が反論してくると思ってなかったのだろう
日本は人権国家だと日本が言って、あなた達は人権国家ではありませんよと返されなかった。
外交的にはそれが全てでしょ。
会場が静まり返ったならそれでよかったのでは?
相手は日本が反論してくると思ってなかったのだろう
日本は人権国家だと日本が言って、あなた達は人権国家ではありませんよと返されなかった。
外交的にはそれが全てでしょ。
どうなのでしょう? 外交的には恥かいて失敗してるように思えますが。
- NOMAR
- 2020年 10月01日 20時26分
[一言]
外国の人権意識なんて正直しょうもないと思うがね。結局の所、彼らが叫ぶのはもっと自分達を優遇しろ!もっと金を出せ!の二つだろう。
当時の日本がキリスト教を脅威に感じたのは当然だと思います。キリスト教の人権とは白人のための人権であり、黒人や黄色人種の為のものではありません。もし何も対策していなければ我々は今、奴隷として生活していたかもしれませんね。安土桃山時代~明治時代初期の頃の東南アジアの状況を調べれば分かると思いますよ。
学校の授業に政治の話を持ち込むなんて、とんでもない話だと思います。大学ならまだ分かりますが、小中高のまだ社会にも出たことが無い子に政治政党の話なんてすれば、教師の思想が大半の子供達に洗脳されてしまってもおかしくないです。
結論としては、キリスト教や抵抗権を危険視したお陰で日本は暴動が起こりにくく、治安が良く、外国は抵抗権を尊重しすぎたため暴動が起こりやすく、治安が悪い。何でもかんでも外国の考えは正しいとする考えはとても危ういと言うことですね。
ちなみに、基本的に日本人は黒人も白人も差別してません。彼らはガタイがいいのでちょっと怖くて距離おいてるだけです。無名の格闘家が近くに来ればちょっと怖いでしょ?近所であれば、会うたびに挨拶してれば馴染めます。ネットで在日韓国人が嫌われるのは、日本国籍で他国を支援してきたからです。嫌われて当然でしょう。好かれるためには汚名をそそぐよう一丸となって、何十年も努力しないといけないでしょうね。
外国の人権意識なんて正直しょうもないと思うがね。結局の所、彼らが叫ぶのはもっと自分達を優遇しろ!もっと金を出せ!の二つだろう。
当時の日本がキリスト教を脅威に感じたのは当然だと思います。キリスト教の人権とは白人のための人権であり、黒人や黄色人種の為のものではありません。もし何も対策していなければ我々は今、奴隷として生活していたかもしれませんね。安土桃山時代~明治時代初期の頃の東南アジアの状況を調べれば分かると思いますよ。
学校の授業に政治の話を持ち込むなんて、とんでもない話だと思います。大学ならまだ分かりますが、小中高のまだ社会にも出たことが無い子に政治政党の話なんてすれば、教師の思想が大半の子供達に洗脳されてしまってもおかしくないです。
結論としては、キリスト教や抵抗権を危険視したお陰で日本は暴動が起こりにくく、治安が良く、外国は抵抗権を尊重しすぎたため暴動が起こりやすく、治安が悪い。何でもかんでも外国の考えは正しいとする考えはとても危ういと言うことですね。
ちなみに、基本的に日本人は黒人も白人も差別してません。彼らはガタイがいいのでちょっと怖くて距離おいてるだけです。無名の格闘家が近くに来ればちょっと怖いでしょ?近所であれば、会うたびに挨拶してれば馴染めます。ネットで在日韓国人が嫌われるのは、日本国籍で他国を支援してきたからです。嫌われて当然でしょう。好かれるためには汚名をそそぐよう一丸となって、何十年も努力しないといけないでしょうね。
外国の人権意識がしょうもない、ですか。
それならどうして日本は国連の社会権規約・自由権規約に批准しているのでしょうか? 国連の推奨する欧米的な人権なのですが。
バンコク宣言でアジアの人権の主張があったように、日本も日本の人権を作って主張してみてはどうか、と思います。
当時のキリスト教が白人と男性の為にあり、キリスト教の思想を危険したからこそ、当時の為政者はキリシタン弾圧に力を入れたのでしょうね。
フランスの人権宣言でも当時はまだ、女性は人間のうちに入らない、とするものもあったとか。白人と男性に都合のいいものでもあったのでしょう。
>学校の授業に政治の話を持ち込むなんて、とんでもない話だと思います。
こういった意見はわりと聞きます。
未成年者に政治の話はまだ早いと。
私はこれが、まるで政治がアダルトコンテンツのようだ、と感じます。
未成年者にとって政治とエロは同じ扱いの、健全な育成には不要の18禁の代物のようです。
それもあって政治に興味を持つ学生も多いのでしょうね。たぶん。
『小学四年生の世界平和』にあるように、私は小学生のうちからWPGのような教材で政治と社会を学ぶのは、子供に良さそうに思えます。
>何でもかんでも外国の考えは正しいとする考えはとても危ういと言うことですね。
そうですね。それと同様に何でもかんでも日本の考えは正しいとするのも、同じくらい危うく思えます。
日本は単一民族であり、白人、黒人に対する差別意識は低い、と聞いたことはあります。
しかし、松前藩がアイヌ民族を半ば奴隷として扱っていたように、利害と損得が絡めば非道なこともしてしまいます。
今でも日本では外国人技能実習制度が奴隷労働を産み出し、世界からは人身売買と揶揄されています。
>抵抗権を危険視したお陰で日本は暴動が起こりにくく、治安が良く
そうですね。日本は暴動も起きず世界第8位の治安の良さを誇る国です。
私は消費税が40%、50%になっても日本では暴動は起きないのではないか、と思います。代わりに過労死、自殺、国外への逃散が増えるかもしれませんが。
それならどうして日本は国連の社会権規約・自由権規約に批准しているのでしょうか? 国連の推奨する欧米的な人権なのですが。
バンコク宣言でアジアの人権の主張があったように、日本も日本の人権を作って主張してみてはどうか、と思います。
当時のキリスト教が白人と男性の為にあり、キリスト教の思想を危険したからこそ、当時の為政者はキリシタン弾圧に力を入れたのでしょうね。
フランスの人権宣言でも当時はまだ、女性は人間のうちに入らない、とするものもあったとか。白人と男性に都合のいいものでもあったのでしょう。
>学校の授業に政治の話を持ち込むなんて、とんでもない話だと思います。
こういった意見はわりと聞きます。
未成年者に政治の話はまだ早いと。
私はこれが、まるで政治がアダルトコンテンツのようだ、と感じます。
未成年者にとって政治とエロは同じ扱いの、健全な育成には不要の18禁の代物のようです。
それもあって政治に興味を持つ学生も多いのでしょうね。たぶん。
『小学四年生の世界平和』にあるように、私は小学生のうちからWPGのような教材で政治と社会を学ぶのは、子供に良さそうに思えます。
>何でもかんでも外国の考えは正しいとする考えはとても危ういと言うことですね。
そうですね。それと同様に何でもかんでも日本の考えは正しいとするのも、同じくらい危うく思えます。
日本は単一民族であり、白人、黒人に対する差別意識は低い、と聞いたことはあります。
しかし、松前藩がアイヌ民族を半ば奴隷として扱っていたように、利害と損得が絡めば非道なこともしてしまいます。
今でも日本では外国人技能実習制度が奴隷労働を産み出し、世界からは人身売買と揶揄されています。
>抵抗権を危険視したお陰で日本は暴動が起こりにくく、治安が良く
そうですね。日本は暴動も起きず世界第8位の治安の良さを誇る国です。
私は消費税が40%、50%になっても日本では暴動は起きないのではないか、と思います。代わりに過労死、自殺、国外への逃散が増えるかもしれませんが。
- NOMAR
- 2020年 10月01日 20時23分
[良い点]
とても分かりやすかったです!
勉強になりました!
とても分かりやすかったです!
勉強になりました!
YouTubeの動画から、人権ってナンダ? と調べてみたエッセイで、お役に立てたなら何よりです。
ただ、分かりやすさを優先したので、日本の人権の在り方に影響を与えたもの、全てを網羅したわけでは無く、足りない部分を感想欄にて補足していただきました。
日本は人権国家らしいのですが、私は日本に住んでいて、いまだに日本の人権が何か、とは把握できてません。
文面としての外面と実態の中身が違うことは分かってきました。
ただ、分かりやすさを優先したので、日本の人権の在り方に影響を与えたもの、全てを網羅したわけでは無く、足りない部分を感想欄にて補足していただきました。
日本は人権国家らしいのですが、私は日本に住んでいて、いまだに日本の人権が何か、とは把握できてません。
文面としての外面と実態の中身が違うことは分かってきました。
- NOMAR
- 2020年 10月01日 08時23分
[一言]
日本の基本的な価値観宗教観は邪馬台国の時代、あるいはそれ以前からヤマト王朝の時代にかけてアジアのそれこそ様々な地域から流れてきた価値観、宗教、社会制度の複合ともいえるモノですから当然ですけどキリスト教圏の国々の人々の価値観となんて、まず合致するわけもないし他のアジアやアフリカ県の価値観とも異なる完全な独自のモノと言えますからね。
東南アジアに多く存在したバラモン教、ヒンドゥー教などからなる自然崇拝アミニズムの思想もそうですが、現在の日本人の根幹の価値観をなす神道の思想の中にある触穢思想もまた、人権の中に含まれる、特に抵抗権への忌避意識の元凶となっているといえるのではないかなと。(そもそもその触穢思想自体大本がヒンドゥー教を元とした密教からなるモノです)
wikiより抜粋
触穢(しょくえ、そくえ)とは、神道上において不浄とされる穢に接触して汚染されること。
後に陰陽道などとも結びついて、中世日本の触穢思想(しょくえしそう、そくえしそう)へと発展していくことになった。
神道においては人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避され、また、血の流出や神道における国津罪に相当する病気にかかる事も穢であると考えられてきた。
そこで、これに関連した穢物(死体など)・穢者(既触穢者・非人・女性など)に直接接触する事は勿論、垣根や壁などで囲まれた同一の一定空間内に穢物・穢者とともにいただけでも場合によっては汚染されると考えられていた(特に同じ火にあたる事、同席する事、飲食をともにする事は直接接触する事に近い行為とされた)。
感染された人は一定の期日を経るか、祓を受けるまでは神社への参拝や神事への参加、公家の場合には参内を控える事が求められてきた。『延喜式』においては、人の死穢30日、産穢7日、六畜の死穢5日、産穢3日の謹慎が定められていた。
律令制が衰退すると、触穢は衰退するどころか陰陽道と結びついて迷信として社会に定着して、触穢思想として発展することになる。 こうした考え方は近世以後には衰微していったとする見方が多い。
>>神道においては人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避され、また、血の流出や神道における国津罪に相当する病気にかかる事も穢であると考えられてきた。
こうあるように大量の流血の下で成り立った人権やその中に当たり前に存在する抵抗権というモノは、もうその時点で日本人の根幹にある価値観となってしまった神道において忌避すべきものとなっているのですから、そんなものが日本人に馴染むわけがないんですよ
wikiでは衰微したとありますけど、むしろ戦後に流入した欧米型の人権思想やキリスト教とおかしな形で複合し、更には共産主義や平和主義と重なり、その上、高度成長期に起きた学生運動などが齎した混乱や破壊的な行動、昨今でのアメリカで起きたデモなどが齎したその結果などから、元から日本にあった触穢思想はより複雑怪奇なモノへ発展強化されたのではないかとも感じます。
血を流し世に不浄をまき散らすくらいなら、お上には歯向かわずにうまくソレに付き合って以降、そうなるのも当然でしょう。
日本の基本的な価値観宗教観は邪馬台国の時代、あるいはそれ以前からヤマト王朝の時代にかけてアジアのそれこそ様々な地域から流れてきた価値観、宗教、社会制度の複合ともいえるモノですから当然ですけどキリスト教圏の国々の人々の価値観となんて、まず合致するわけもないし他のアジアやアフリカ県の価値観とも異なる完全な独自のモノと言えますからね。
東南アジアに多く存在したバラモン教、ヒンドゥー教などからなる自然崇拝アミニズムの思想もそうですが、現在の日本人の根幹の価値観をなす神道の思想の中にある触穢思想もまた、人権の中に含まれる、特に抵抗権への忌避意識の元凶となっているといえるのではないかなと。(そもそもその触穢思想自体大本がヒンドゥー教を元とした密教からなるモノです)
wikiより抜粋
触穢(しょくえ、そくえ)とは、神道上において不浄とされる穢に接触して汚染されること。
後に陰陽道などとも結びついて、中世日本の触穢思想(しょくえしそう、そくえしそう)へと発展していくことになった。
神道においては人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避され、また、血の流出や神道における国津罪に相当する病気にかかる事も穢であると考えられてきた。
そこで、これに関連した穢物(死体など)・穢者(既触穢者・非人・女性など)に直接接触する事は勿論、垣根や壁などで囲まれた同一の一定空間内に穢物・穢者とともにいただけでも場合によっては汚染されると考えられていた(特に同じ火にあたる事、同席する事、飲食をともにする事は直接接触する事に近い行為とされた)。
感染された人は一定の期日を経るか、祓を受けるまでは神社への参拝や神事への参加、公家の場合には参内を控える事が求められてきた。『延喜式』においては、人の死穢30日、産穢7日、六畜の死穢5日、産穢3日の謹慎が定められていた。
律令制が衰退すると、触穢は衰退するどころか陰陽道と結びついて迷信として社会に定着して、触穢思想として発展することになる。 こうした考え方は近世以後には衰微していったとする見方が多い。
>>神道においては人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避され、また、血の流出や神道における国津罪に相当する病気にかかる事も穢であると考えられてきた。
こうあるように大量の流血の下で成り立った人権やその中に当たり前に存在する抵抗権というモノは、もうその時点で日本人の根幹にある価値観となってしまった神道において忌避すべきものとなっているのですから、そんなものが日本人に馴染むわけがないんですよ
wikiでは衰微したとありますけど、むしろ戦後に流入した欧米型の人権思想やキリスト教とおかしな形で複合し、更には共産主義や平和主義と重なり、その上、高度成長期に起きた学生運動などが齎した混乱や破壊的な行動、昨今でのアメリカで起きたデモなどが齎したその結果などから、元から日本にあった触穢思想はより複雑怪奇なモノへ発展強化されたのではないかとも感じます。
血を流し世に不浄をまき散らすくらいなら、お上には歯向かわずにうまくソレに付き合って以降、そうなるのも当然でしょう。
触穢思想と神道の解説、ありがとうございます。
触穢思想、この穢れの思想が日本人の根底にある、ある意味で日本人らしさであり、日本の文化なのでしょうね。
穢れの思想から払い清めとなり、手水の作法ともなり、手洗いともなり今のコロナウィルス対策のひとつへと。
この穢れの思想が日本のコロナウィルスでの死者が少ない要因のひとつかもしれません。
一方で穢多ともなり、身分制度のひとつともなりました。
この触穢思想が、抵抗権もそうですが、基本的人権とは実に食い合わせが悪い、と感じます。
高度成長期に起きた学生運動がそのまま革命となり成功していたならば、日本の人権思想も今とは違ったものになっていたかもしれませんね。
日本の文化の触穢思想が歴史の事変に絡み奇妙なものに。
その上、日本は1979年に世界人権規約に批准している為に、なんとか国連の人権に納まるようにと頑張って解釈したが為に、よりおかしなものへと進化したようです。
>血を流し世に不浄をまき散らすくらいなら、
そして抵抗を諦めやすいことが、日本の自殺率の高さへと繋がる気がします。
欧米の人権が馴染まないなら、日本の人権を作ってみればいいのに、とも思いますが。
今のやたらと思いやりを強調する人権啓発が、何やら不気味に感じられてなりません。
触穢思想、この穢れの思想が日本人の根底にある、ある意味で日本人らしさであり、日本の文化なのでしょうね。
穢れの思想から払い清めとなり、手水の作法ともなり、手洗いともなり今のコロナウィルス対策のひとつへと。
この穢れの思想が日本のコロナウィルスでの死者が少ない要因のひとつかもしれません。
一方で穢多ともなり、身分制度のひとつともなりました。
この触穢思想が、抵抗権もそうですが、基本的人権とは実に食い合わせが悪い、と感じます。
高度成長期に起きた学生運動がそのまま革命となり成功していたならば、日本の人権思想も今とは違ったものになっていたかもしれませんね。
日本の文化の触穢思想が歴史の事変に絡み奇妙なものに。
その上、日本は1979年に世界人権規約に批准している為に、なんとか国連の人権に納まるようにと頑張って解釈したが為に、よりおかしなものへと進化したようです。
>血を流し世に不浄をまき散らすくらいなら、
そして抵抗を諦めやすいことが、日本の自殺率の高さへと繋がる気がします。
欧米の人権が馴染まないなら、日本の人権を作ってみればいいのに、とも思いますが。
今のやたらと思いやりを強調する人権啓発が、何やら不気味に感じられてなりません。
- NOMAR
- 2020年 10月01日 03時08分
[一言]
プロテスタントが人権の起源?
人権の元となる自然権とは、『神によって人は”そう”作られている』という古代ギリシャの思想からです。
これは端的にいえば、人間の身体性を肯定しただけの話です。今でいう権利という概念というより「神様が人間を”そう”おつくりになっているのだから」という観方です。
この神様は、当然、ギリシャの神様です。もっといえば、アミニズムです。
天賦人権がキリスト教?
いえ、アミニズムにおいて自然にありますよ。
「お天道様がみている」なんて言い方を日本ではしますけどね、それだって、『人道』というものを語った言葉です。これはある意味、人権の原型ともいえます。
もっといえば、たとえば、
論語が道徳を作ったとか勘違いされますけど、古の聖王の言葉を孔子が語ったにすぎませんからね。
では、その古の聖王はなにを基準にして語ったか?
古代チャイナにおけるアミニズムですよ。それがいわゆる論語における道徳になっているわけです。
じゃあ、キリスト教の元になったユダヤ教はどうなのか?
むしろ人権とか無視したような、ものすごい神様ですよね。
ユダヤ教の亜種であるキリスト教は、そうしたユダヤの異質さに疑問を投げかけたプロテスタントともいえますが、しかし、同じ神を信仰してますよ。
ここは現代キリスト教のおおいなる矛盾だと思いますね。
そもそも何故、ヨーロッパは人権がこうも高らかに唱えられたのか? 『中世暗黒』によって、ヨーロッパではこれでもかという程に、世が荒れはて、人間の尊厳というものがこれでもかという位に貶められたからですよ。
中世暗黒は誰が作り出したのか?
カソリックです。
それを変えたのは?
プロテスタントです。しかしそのプロテスタトを生み出したのはルネッサンスです。それによって人文が復活し、理性主義が復活し、それが啓蒙主義になります。
それがプロテスタントを生み、カソリックの否定が行われます。
ルネッサンスとは何か?
古代ギリシャローマ文化への復興運動のことです。
プロテスタントが人権の起源?
人権の元となる自然権とは、『神によって人は”そう”作られている』という古代ギリシャの思想からです。
これは端的にいえば、人間の身体性を肯定しただけの話です。今でいう権利という概念というより「神様が人間を”そう”おつくりになっているのだから」という観方です。
この神様は、当然、ギリシャの神様です。もっといえば、アミニズムです。
天賦人権がキリスト教?
いえ、アミニズムにおいて自然にありますよ。
「お天道様がみている」なんて言い方を日本ではしますけどね、それだって、『人道』というものを語った言葉です。これはある意味、人権の原型ともいえます。
もっといえば、たとえば、
論語が道徳を作ったとか勘違いされますけど、古の聖王の言葉を孔子が語ったにすぎませんからね。
では、その古の聖王はなにを基準にして語ったか?
古代チャイナにおけるアミニズムですよ。それがいわゆる論語における道徳になっているわけです。
じゃあ、キリスト教の元になったユダヤ教はどうなのか?
むしろ人権とか無視したような、ものすごい神様ですよね。
ユダヤ教の亜種であるキリスト教は、そうしたユダヤの異質さに疑問を投げかけたプロテスタントともいえますが、しかし、同じ神を信仰してますよ。
ここは現代キリスト教のおおいなる矛盾だと思いますね。
そもそも何故、ヨーロッパは人権がこうも高らかに唱えられたのか? 『中世暗黒』によって、ヨーロッパではこれでもかという程に、世が荒れはて、人間の尊厳というものがこれでもかという位に貶められたからですよ。
中世暗黒は誰が作り出したのか?
カソリックです。
それを変えたのは?
プロテスタントです。しかしそのプロテスタトを生み出したのはルネッサンスです。それによって人文が復活し、理性主義が復活し、それが啓蒙主義になります。
それがプロテスタントを生み、カソリックの否定が行われます。
ルネッサンスとは何か?
古代ギリシャローマ文化への復興運動のことです。
古代ギリシャの人権起源説の解説、ありがとうございます。
人の権利を記したものの最古としては、紀元前539年のキュロス大王の円筒とされていますが。
このエッセイでは世界人権宣言、そこにある近代の基本的人権の雛形がフランスの人権宣言、アメリカ独立宣言にある、として考察しました。
アニミズムに置ける人道が人権の原型とする。このひとつが和式人権であり、国連の人権条約にある欧米型の人権とは似て異なるもの、と解説したつもりのエッセイです。
洋の東西問わず、強権から人を守ろうとするところは人権の共通するところです。しかし、他の部分ではいろいろと違います。
日本の憲法はアメリカが作り、憲法の十一条はアメリカらしいキリスト教背景の天賦人権説が根底にあります。
『この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる』
憲法は天賦人権説、しかし国民の意識は天賦人権説というよりは国賦人権説とでも呼ぶ方が現状に合ってあるような状態に思えます。
このエッセイ切っ掛けで、人権とはそもそもなんだ? と考えてもらえたなら、と思います。
人の権利を記したものの最古としては、紀元前539年のキュロス大王の円筒とされていますが。
このエッセイでは世界人権宣言、そこにある近代の基本的人権の雛形がフランスの人権宣言、アメリカ独立宣言にある、として考察しました。
アニミズムに置ける人道が人権の原型とする。このひとつが和式人権であり、国連の人権条約にある欧米型の人権とは似て異なるもの、と解説したつもりのエッセイです。
洋の東西問わず、強権から人を守ろうとするところは人権の共通するところです。しかし、他の部分ではいろいろと違います。
日本の憲法はアメリカが作り、憲法の十一条はアメリカらしいキリスト教背景の天賦人権説が根底にあります。
『この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる』
憲法は天賦人権説、しかし国民の意識は天賦人権説というよりは国賦人権説とでも呼ぶ方が現状に合ってあるような状態に思えます。
このエッセイ切っ掛けで、人権とはそもそもなんだ? と考えてもらえたなら、と思います。
- NOMAR
- 2020年 10月01日 02時34分
[一言]
慰安婦問題で非難されているのも今の日本は人権意識が低いという所ですからね。
丁稚奉公や女工が禁止されたのは人身売買に当たるからという所を理解出来ていない辺り、まだまだ終わらなそうですが。
慰安婦問題で非難されているのも今の日本は人権意識が低いという所ですからね。
丁稚奉公や女工が禁止されたのは人身売買に当たるからという所を理解出来ていない辺り、まだまだ終わらなそうですが。
このあたり、ギャップがあるところかもしれません。
国連に諸外国からは、日本は人権意識が低いと言われつつも、日本では人権人道大使の発言にあったように、人権意識は高いと自認する人が多いようです。
アメリカ国務省が売春や強制労働を目的とした世界各国の人身売買に関する2020年度版の報告書を発表しましたが、日本は児童買春や外国人労働者への強制労働対策が不十分との理由で、上から2番目に格下げされました。
これでは世界一の人権先進国とは言えないと思うのですが。
国連に諸外国からは、日本は人権意識が低いと言われつつも、日本では人権人道大使の発言にあったように、人権意識は高いと自認する人が多いようです。
アメリカ国務省が売春や強制労働を目的とした世界各国の人身売買に関する2020年度版の報告書を発表しましたが、日本は児童買春や外国人労働者への強制労働対策が不十分との理由で、上から2番目に格下げされました。
これでは世界一の人権先進国とは言えないと思うのですが。
- NOMAR
- 2020年 09月29日 19時11分
[一言]
人権も宗教ですからねー
さもありなん。
絶対の正義を用意しておいてあーだこーーだ。
絶対の正義が一つな事に抵抗がある人たちもあーだこーだ。
仕舞いにゃ政治に利用され、そのうち戦争だって起こします。
まあいつの時代の何時ものですなー
人権も宗教ですからねー
さもありなん。
絶対の正義を用意しておいてあーだこーーだ。
絶対の正義が一つな事に抵抗がある人たちもあーだこーだ。
仕舞いにゃ政治に利用され、そのうち戦争だって起こします。
まあいつの時代の何時ものですなー
人権も宗教、なんですよね。
日本ではかつて新興宗教がやらかしたことから、宗教に対するイメージが悪く、アンケートなどでは無宗教と答える人が多い、という特徴があります。
一方で定年後に信仰を始める人が多いという特徴もあります。
真に無宗教者ばかりなら結婚式も葬式もしなくて済むのですが。どちらも宗教儀式ですから。
日本の人権啓発はその宗教の部分を匂わせないように苦心しているようですね。
ただ、大人が勉強不足の日本では、憲法を変えて人権を啓発しようとしている人達が憲法も人権もよく分かって無い、というところが一番の問題では無いかと。
宗教は人に必要ではあるものの、政治や経済に利用されると碌でも無いことになり、これは歴史から学ぶしか無いのでしょう。
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』
オットー・フォン・ビスマルク
歴史は繰り返す、というのは大人の勉強不足が要因のひとつかもしれません。
日本ではかつて新興宗教がやらかしたことから、宗教に対するイメージが悪く、アンケートなどでは無宗教と答える人が多い、という特徴があります。
一方で定年後に信仰を始める人が多いという特徴もあります。
真に無宗教者ばかりなら結婚式も葬式もしなくて済むのですが。どちらも宗教儀式ですから。
日本の人権啓発はその宗教の部分を匂わせないように苦心しているようですね。
ただ、大人が勉強不足の日本では、憲法を変えて人権を啓発しようとしている人達が憲法も人権もよく分かって無い、というところが一番の問題では無いかと。
宗教は人に必要ではあるものの、政治や経済に利用されると碌でも無いことになり、これは歴史から学ぶしか無いのでしょう。
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』
オットー・フォン・ビスマルク
歴史は繰り返す、というのは大人の勉強不足が要因のひとつかもしれません。
- NOMAR
- 2020年 09月29日 08時24分
[良い点]
実態は違くとも形式上は天賦人権だと思ってたんですけど勘違いしたようです。日本って国のために国民がいる国家ですね。日本人よくご近所の国と違うって言えるよなって思います。
そう言えば憲法の改正案のなかに人権のくだりを変えるってのがあった気がします。確か天賦人権と理解できる文言だからその部分を変更するとかだった気がするんですが、収入の低い人間の人権を認めない布石かな(笑)と思ってたんですが、こちらのエッセイを読んで納得できました。
これからは国民じゃなくって畜民にした方がいいかもしれませんね。国歌はぴくみんの歌がいいように思えます。
[一言]
エッセイの内容にかかわらないのでなんですが、日本国民って公人と私人の区別がついてるのかなって思えます。わたしも自信はありませんが。
体調を崩して可哀想だから疑惑を明らかにしないではなく、私人としての彼の健康を気遣うのと、公人としてやったことの数々の疑惑を明らかにしないのは別だと思ってるんですが、かわいそうだからもういいじゃんとか思いやりが無いっていう風になってる気がします。
実態は違くとも形式上は天賦人権だと思ってたんですけど勘違いしたようです。日本って国のために国民がいる国家ですね。日本人よくご近所の国と違うって言えるよなって思います。
そう言えば憲法の改正案のなかに人権のくだりを変えるってのがあった気がします。確か天賦人権と理解できる文言だからその部分を変更するとかだった気がするんですが、収入の低い人間の人権を認めない布石かな(笑)と思ってたんですが、こちらのエッセイを読んで納得できました。
これからは国民じゃなくって畜民にした方がいいかもしれませんね。国歌はぴくみんの歌がいいように思えます。
[一言]
エッセイの内容にかかわらないのでなんですが、日本国民って公人と私人の区別がついてるのかなって思えます。わたしも自信はありませんが。
体調を崩して可哀想だから疑惑を明らかにしないではなく、私人としての彼の健康を気遣うのと、公人としてやったことの数々の疑惑を明らかにしないのは別だと思ってるんですが、かわいそうだからもういいじゃんとか思いやりが無いっていう風になってる気がします。
日本の憲法での基本的人権は、一応、天賦人権説です。
日本の憲法では
第十一条
『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる』
と、なっています。
これを自民党の憲法改正案では、
第十一条
『国民は、全ての基本的人権を享有する。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である』
と、なっています。
現行の憲法はアメリカが作ったものなので、
『国民に与へられる』
と、なっていて、誰が与えたか、というのはキリスト教の神、となっているわけです。
自民党は、日本はキリスト教が国教では無く、天賦人権説は馴染まない、として、『与へられる』の部分を修正したい、ということになります。
なのでこの憲法十一条が、このままであれば形式としては日本は天賦人権説となります。
改正された後は、何と呼ぶことになるのでしょうね?
ぴくみんの歌、懐かしいですね。ひっこぬかーれてー、
公人と私人の区別、突き詰めると難しいところかもしれませんね。しかし、
『あの方は人としてちゃんとしています。朝晩と歯を磨くし、外出するときはマスクをつけてます。それをちょっと汚職して使途不明金が1億円あることでそんなに叩いたら可哀想じゃないですか。少し税金が無くなったくらいでイジメるだなんて。人として思いやりの心を持って下さい』
なんだか、新しいコントが生まれそうです。これも価値相対主義というものでしょうか?
日本の憲法では
第十一条
『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる』
と、なっています。
これを自民党の憲法改正案では、
第十一条
『国民は、全ての基本的人権を享有する。
この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である』
と、なっています。
現行の憲法はアメリカが作ったものなので、
『国民に与へられる』
と、なっていて、誰が与えたか、というのはキリスト教の神、となっているわけです。
自民党は、日本はキリスト教が国教では無く、天賦人権説は馴染まない、として、『与へられる』の部分を修正したい、ということになります。
なのでこの憲法十一条が、このままであれば形式としては日本は天賦人権説となります。
改正された後は、何と呼ぶことになるのでしょうね?
ぴくみんの歌、懐かしいですね。ひっこぬかーれてー、
公人と私人の区別、突き詰めると難しいところかもしれませんね。しかし、
『あの方は人としてちゃんとしています。朝晩と歯を磨くし、外出するときはマスクをつけてます。それをちょっと汚職して使途不明金が1億円あることでそんなに叩いたら可哀想じゃないですか。少し税金が無くなったくらいでイジメるだなんて。人として思いやりの心を持って下さい』
なんだか、新しいコントが生まれそうです。これも価値相対主義というものでしょうか?
- NOMAR
- 2020年 09月28日 22時37分
[一言]
加藤弘之なんて人間が明治におりました。出石の人間なので生まれは兵庫ですから薩長の人間ではなく、しかも幕臣でしたが、新政府に出仕して帝大総長にもなったような人です。
彼は明六社の人間でして、元は天賦人権説を主張していた人間でしたが、後に転向して社会ダーウィニズムの立場を取るようになります。つまりこの世は弱肉強食であり、より優れたものが生き残るという優生学です。当然自然淘汰の原則に則れば、人間が生まれながらにして平等なんて考えはお笑い種になってしまいますから、自然権も認められません(一方で同じ明六社の森有礼などは、憲法審議の時に「自然権は明記しなくたって存在しているのが自明だから、憲法に書く必要すらない」とまで主張したゴリゴリの天賦人権論者でした。なお伊藤博文に一蹴された模様)。
何故加藤が社会ダーウィニズムに走ったかというと、社会ダーウィニズムは不平等から始まりはするものの、「頑張れば強くなれる」という性質があったからです。つまり当時後進国だった日本でも「頑張れば西欧列強と肩を並べられる」ということを主張したいが為に、生まれは不平等だが死ぬ気で頑張ればなんとかなるという社会ダーウィニズムを主張したのです。
そもそも明六社のボスである福澤諭吉も国権論者でした。つまり余りに日本は黒船を怖がり(まあ中国の有様を見ればある程度までは仕方なかったでしょうが)、「自分たちの国を維持する」「西欧列強にいいようにされないようにする」ということを意識しまくっていたのです。
問題は社会ダーウィニズムや国権論を取ってしまうと、不平等を努力で覆すことは可能という話になります。ですが「努力もせずにのうのうとしている連中を、努力して大成した我々が好き勝手しても構わない」、あるいは「努力しない遅れた連中は、我々が導いてやろう」などという不遜な考え方に至ってしまうのです。「脱亜論」はまさしくそういう視点で書かれたもので、「アジアの連中と肩並べてたらいつまで経っても追いつけないから、涙を呑んであいつらは切り離す。これからは努力した日本様がアジアを導いてやるんだ」という話になるのです。
更にこれを突き詰めると、「国際法だって力があればねじ伏せられるよね、だって弱肉強食なんだし、強いやつがあれこれ言ったら弱いやつは逆らえないでしょ」ということになってしまいます。つまり「いくら国際法違反をしようが、力があれば何も文句を言われない」ということになってしまうのです。故に戦前日本はそれに基づいて、米英が「国際法を恣意的に運用して、日本をいじめている」と半ば被害妄想に狩られた上、「なら戦争で殴り倒して弱いものいじめをしているあいつらの鼻を明かしてやろう、別にあいつらが先に国際法を捻じ曲げたんだから、こっちが戦争法に違反してもいいよね」とか言って、平気で国際法を破って奇襲したのです(パールハーバーの件を抜きにしても、マレー侵攻は言い逃れのできない宣戦布告前の攻撃になります)。
なので明治以降の日本の考え方は、「国をどうやって維持するか」ということに注力されてきており、「人権をどうやって守るか」で大量の死体を生み出したフランスやアメリカ相手に人権思想の浸透具合で勝てるわけがないのです。「亡国になればお前らはみんな奴隷なんだぞ」と帝国主義時代の考え方に縛り付けられすぎ、しかも第一次世界大戦をろくすっぽ経験しなかったので、欧米諸国が「戦争はあかん」と国際法で縛る流れになっても、未だに帝国主義時代の考え方のまま時代遅れになってしまったのです。当然第一次大戦後も植民地支配などは続いていましたが、現在進行形で抑圧されているならともかく、既に第一次世界大戦の段階で列強の末席に座った日本のやることではなかったのです。それこそ今の中国みたいに「大国として恥じない行動をしろ」とアメリカの外相にキレられたっておかしくなかったのです。
この流れは敗戦によって打ち壊されたのですが、結局逆コースによっておじゃんになりました。1960年安保が分水嶺となり、そこで「国民の主張をないがしろにしてでも、国を冷戦の中守る方を優先する」決定をした段階でおしまいだったのです。一方でフランスは冷戦下に置いてはド=ゴールの指導の元、自力で核を持ち、大量の原発を作って原料輸入をしなくとも国内で全部の電力需要をまかなえるようにし、アメリカの意向を多少無視しても物を言えるようにしました。ドイツは東西に真っ二つでしたが、西ドイツはナチスの蛮行を全力で謝罪行脚し、2度の世界大戦以前からの不倶戴天の敵であったフランスと手を組んで欧州平和を実現しようとしました。つまり現在のEUです。
とはいえ「じゃあやっぱり9条なんてやめて再軍備して、自分で物を言えるようにするんだ」とか、そういうことを言いたいわけじゃないのです。そもそも日本国憲法が「日本人の憲法」でないのがいけないのです。こういう言い方をすると「押し付け憲法論」が始まりますが、私が主張したいのはそれ以前の問題です。
つまり日本人に現在保障されている人権は、「日本人が革命で勝ち取ったものではない」のです。その段階で押し付けだろうが自分たちで作ろうが関係ありません。本当は日本人は原爆落とされる前に立ち上がり、政府を打倒してその上で自分たちの憲法を作る必要があったのです。
しかし戦争末期の日本政府が最も恐れたのはまさにそれでした。近衛文麿は戦争末期、昭和天皇に対して「何が1番恐ろしいかって、赤色革命が起こるのが1番恐ろしい」と言ったのです。鬼畜米英でアメリカにとっ捕まるくらいなら死ねとか言っておきながら、自分たちはその死ねと言っていた国民に自分たちが吊るされることを何より恐れていたのです。それくらいなら「国体が保障されるなら」アメリカに降伏した方が100万倍マシだ。そういうロジックで日本はアメリカに降伏したのです。
とどのつまり、徹頭徹尾日本は「国を守る」ことに注力しすぎなのです。「国破れて山河あり」と言ったのは杜甫ですが、日本の考え方からすれば、「国がなくなったら山河だって残らない」のです。だから「国を守る為ならいくらでも人権を侵害しても構わない」という考え方をするので、平気で機密法なんて通過してしまうのです。野党議員が酷い妨害を以下略とか言ってますが、そもそもアメリカでこんなことやったら国民全員銃片手にホワイトハウスに押し寄せて大統領撃ち殺してもおかしくありません。というよりアメリカ国民にはその権利がありますし、実際やります。彼らが持っている銃は脅しでもなんでもないからこそ、発砲事件が多発するのです。
三木鶏郎という人がいます、昭和初期から平成まで活躍した放送作家の人です。彼は1954年に佐藤栄作の造船疑獄をNHKのラジオ放送で散々コケにしまくり、当時自由党幹事長だった佐藤にブチ切れられて圧力をかけられ、番組を打ち切りにされたという経緯を持つ人間です。
そんな彼が「これが自由というものか」という歌を作り、潰された番組内で榎本健一に歌わせたことがありました。歌詞は著作権的に載せられませんが、聴いてみると現代でも普通に通用するような歌詞です。1954年といえば、まだ日本国憲法ができて10年も経たない頃です。それで平気で圧力かけて番組を打ち切りにできるのですから、どれだけ憲法の保障する権利がガタガタなものかということがお分りいただけるかと思います。
え? 政治家でも人間だから誹謗中傷はよくないだろって? 造船疑獄って贈収賄で逮捕されそうになった人間を行政が介入して救済したんですから、明確な三権分立違反です。例の上級国民と構図何も変わらないどころか、出された逮捕状取り消しなのでもっと酷いですが、それでもみなさん怒らないんですか? そういうことです。同じ日本国憲法下の事件なんですから、遡及して適用されないもクソもありません。本来佐藤栄作という男はこの段階で政治生命が終わっていてもおかしくなかったのです。
日本人は自分たちの権利を自分たちで勝ち取っていません。今から自力で憲法作ったって、それをつくる権利自体が自分たちで勝ち取ったものじゃないんですから、何も変わりません。別にだから革命しろと言いたいわけじゃありませんよ? そりゃ流血の惨事にならずに済むなら、本来はそれに越したことはありません。革命だって流血の惨事にならずに温和に成功したものもありますからね。ですが対立や流血を恐れる余りに自分たちの権利を差し出すのはどう考えたっておかしいのです。だって日本国憲法前文には「不断の努力によって国民の権利を保持しなくてはならない」と書いてあるのです。
国がなきゃ生きられないだろって? 他の国に奴隷にされたくないから自分の国の奴隷になってどうするんですか。もっと人間としての誇りを持ってください。私が言いたいのはそういうことです。
加藤弘之なんて人間が明治におりました。出石の人間なので生まれは兵庫ですから薩長の人間ではなく、しかも幕臣でしたが、新政府に出仕して帝大総長にもなったような人です。
彼は明六社の人間でして、元は天賦人権説を主張していた人間でしたが、後に転向して社会ダーウィニズムの立場を取るようになります。つまりこの世は弱肉強食であり、より優れたものが生き残るという優生学です。当然自然淘汰の原則に則れば、人間が生まれながらにして平等なんて考えはお笑い種になってしまいますから、自然権も認められません(一方で同じ明六社の森有礼などは、憲法審議の時に「自然権は明記しなくたって存在しているのが自明だから、憲法に書く必要すらない」とまで主張したゴリゴリの天賦人権論者でした。なお伊藤博文に一蹴された模様)。
何故加藤が社会ダーウィニズムに走ったかというと、社会ダーウィニズムは不平等から始まりはするものの、「頑張れば強くなれる」という性質があったからです。つまり当時後進国だった日本でも「頑張れば西欧列強と肩を並べられる」ということを主張したいが為に、生まれは不平等だが死ぬ気で頑張ればなんとかなるという社会ダーウィニズムを主張したのです。
そもそも明六社のボスである福澤諭吉も国権論者でした。つまり余りに日本は黒船を怖がり(まあ中国の有様を見ればある程度までは仕方なかったでしょうが)、「自分たちの国を維持する」「西欧列強にいいようにされないようにする」ということを意識しまくっていたのです。
問題は社会ダーウィニズムや国権論を取ってしまうと、不平等を努力で覆すことは可能という話になります。ですが「努力もせずにのうのうとしている連中を、努力して大成した我々が好き勝手しても構わない」、あるいは「努力しない遅れた連中は、我々が導いてやろう」などという不遜な考え方に至ってしまうのです。「脱亜論」はまさしくそういう視点で書かれたもので、「アジアの連中と肩並べてたらいつまで経っても追いつけないから、涙を呑んであいつらは切り離す。これからは努力した日本様がアジアを導いてやるんだ」という話になるのです。
更にこれを突き詰めると、「国際法だって力があればねじ伏せられるよね、だって弱肉強食なんだし、強いやつがあれこれ言ったら弱いやつは逆らえないでしょ」ということになってしまいます。つまり「いくら国際法違反をしようが、力があれば何も文句を言われない」ということになってしまうのです。故に戦前日本はそれに基づいて、米英が「国際法を恣意的に運用して、日本をいじめている」と半ば被害妄想に狩られた上、「なら戦争で殴り倒して弱いものいじめをしているあいつらの鼻を明かしてやろう、別にあいつらが先に国際法を捻じ曲げたんだから、こっちが戦争法に違反してもいいよね」とか言って、平気で国際法を破って奇襲したのです(パールハーバーの件を抜きにしても、マレー侵攻は言い逃れのできない宣戦布告前の攻撃になります)。
なので明治以降の日本の考え方は、「国をどうやって維持するか」ということに注力されてきており、「人権をどうやって守るか」で大量の死体を生み出したフランスやアメリカ相手に人権思想の浸透具合で勝てるわけがないのです。「亡国になればお前らはみんな奴隷なんだぞ」と帝国主義時代の考え方に縛り付けられすぎ、しかも第一次世界大戦をろくすっぽ経験しなかったので、欧米諸国が「戦争はあかん」と国際法で縛る流れになっても、未だに帝国主義時代の考え方のまま時代遅れになってしまったのです。当然第一次大戦後も植民地支配などは続いていましたが、現在進行形で抑圧されているならともかく、既に第一次世界大戦の段階で列強の末席に座った日本のやることではなかったのです。それこそ今の中国みたいに「大国として恥じない行動をしろ」とアメリカの外相にキレられたっておかしくなかったのです。
この流れは敗戦によって打ち壊されたのですが、結局逆コースによっておじゃんになりました。1960年安保が分水嶺となり、そこで「国民の主張をないがしろにしてでも、国を冷戦の中守る方を優先する」決定をした段階でおしまいだったのです。一方でフランスは冷戦下に置いてはド=ゴールの指導の元、自力で核を持ち、大量の原発を作って原料輸入をしなくとも国内で全部の電力需要をまかなえるようにし、アメリカの意向を多少無視しても物を言えるようにしました。ドイツは東西に真っ二つでしたが、西ドイツはナチスの蛮行を全力で謝罪行脚し、2度の世界大戦以前からの不倶戴天の敵であったフランスと手を組んで欧州平和を実現しようとしました。つまり現在のEUです。
とはいえ「じゃあやっぱり9条なんてやめて再軍備して、自分で物を言えるようにするんだ」とか、そういうことを言いたいわけじゃないのです。そもそも日本国憲法が「日本人の憲法」でないのがいけないのです。こういう言い方をすると「押し付け憲法論」が始まりますが、私が主張したいのはそれ以前の問題です。
つまり日本人に現在保障されている人権は、「日本人が革命で勝ち取ったものではない」のです。その段階で押し付けだろうが自分たちで作ろうが関係ありません。本当は日本人は原爆落とされる前に立ち上がり、政府を打倒してその上で自分たちの憲法を作る必要があったのです。
しかし戦争末期の日本政府が最も恐れたのはまさにそれでした。近衛文麿は戦争末期、昭和天皇に対して「何が1番恐ろしいかって、赤色革命が起こるのが1番恐ろしい」と言ったのです。鬼畜米英でアメリカにとっ捕まるくらいなら死ねとか言っておきながら、自分たちはその死ねと言っていた国民に自分たちが吊るされることを何より恐れていたのです。それくらいなら「国体が保障されるなら」アメリカに降伏した方が100万倍マシだ。そういうロジックで日本はアメリカに降伏したのです。
とどのつまり、徹頭徹尾日本は「国を守る」ことに注力しすぎなのです。「国破れて山河あり」と言ったのは杜甫ですが、日本の考え方からすれば、「国がなくなったら山河だって残らない」のです。だから「国を守る為ならいくらでも人権を侵害しても構わない」という考え方をするので、平気で機密法なんて通過してしまうのです。野党議員が酷い妨害を以下略とか言ってますが、そもそもアメリカでこんなことやったら国民全員銃片手にホワイトハウスに押し寄せて大統領撃ち殺してもおかしくありません。というよりアメリカ国民にはその権利がありますし、実際やります。彼らが持っている銃は脅しでもなんでもないからこそ、発砲事件が多発するのです。
三木鶏郎という人がいます、昭和初期から平成まで活躍した放送作家の人です。彼は1954年に佐藤栄作の造船疑獄をNHKのラジオ放送で散々コケにしまくり、当時自由党幹事長だった佐藤にブチ切れられて圧力をかけられ、番組を打ち切りにされたという経緯を持つ人間です。
そんな彼が「これが自由というものか」という歌を作り、潰された番組内で榎本健一に歌わせたことがありました。歌詞は著作権的に載せられませんが、聴いてみると現代でも普通に通用するような歌詞です。1954年といえば、まだ日本国憲法ができて10年も経たない頃です。それで平気で圧力かけて番組を打ち切りにできるのですから、どれだけ憲法の保障する権利がガタガタなものかということがお分りいただけるかと思います。
え? 政治家でも人間だから誹謗中傷はよくないだろって? 造船疑獄って贈収賄で逮捕されそうになった人間を行政が介入して救済したんですから、明確な三権分立違反です。例の上級国民と構図何も変わらないどころか、出された逮捕状取り消しなのでもっと酷いですが、それでもみなさん怒らないんですか? そういうことです。同じ日本国憲法下の事件なんですから、遡及して適用されないもクソもありません。本来佐藤栄作という男はこの段階で政治生命が終わっていてもおかしくなかったのです。
日本人は自分たちの権利を自分たちで勝ち取っていません。今から自力で憲法作ったって、それをつくる権利自体が自分たちで勝ち取ったものじゃないんですから、何も変わりません。別にだから革命しろと言いたいわけじゃありませんよ? そりゃ流血の惨事にならずに済むなら、本来はそれに越したことはありません。革命だって流血の惨事にならずに温和に成功したものもありますからね。ですが対立や流血を恐れる余りに自分たちの権利を差し出すのはどう考えたっておかしいのです。だって日本国憲法前文には「不断の努力によって国民の権利を保持しなくてはならない」と書いてあるのです。
国がなきゃ生きられないだろって? 他の国に奴隷にされたくないから自分の国の奴隷になってどうするんですか。もっと人間としての誇りを持ってください。私が言いたいのはそういうことです。
歴史の視点から見た日本の人権の成り立ち、詳しく書いていただきありがとうございます。
なんだか〇〇〇の夜明け、のような、日本の人権を作った男たち、というテロップが似合いそうな。
>つまり日本人に現在保障されている人権は、「日本人が革命で勝ち取ったものではない」のです。
やはりこの部分が日本の人権を考えるところでキーポイントになりますね。
血を流して勝ち取った、自ら作り上げた、といった歴史があれば誇りと共に伝えていこう、大事にしよう、ともなるわけで。払った代償の分の重みがそこにあるのではないかと。
与えられた憲法と人権を如何に解釈して都合よく使うか、そこに力を入れた代償が民衆の国畜化なのかもしれません。
私が危惧しているのは、法務省や役所では人権啓発をさまざまなやり方で行っていますが、そもそも人権とは何か? が曖昧なままではないのか、と。
なんだか、よくわからないけれど皆が大事と言ってるから大事と言っておこう、とでもいうもののような。正体不明のまま有難がるオカルトのように人権という単語を使う人が気になります。
「人権なんて触ることもできないし、売って金にすることもできない。そんなものを大切にしようってのがよくわからん」
「神が保障しなきゃ存在できない人権は、無神論者には無用だ」
まだ、こう言う人の方が潔いと感じます。
最近わりと耳にする自己責任という単語も、社会ダーウィニズムのような考え方をする人が増えたからなのではないでしょうか。
社会ダーウィニズム、社会進化論、
『スペンサーの自由主義的なものから変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったとされる』
ウィキペディアより。
自己責任論は追求すれば、人権を否定し帝国主義、軍国主義へと繋がるのでしょう。
『これが自由というものか』
いい歌ですね。初めて聞いて思わず笑ってしまいました。今の時代を皮肉っているかのようです。無知の知、無知の罪、その次は無知の幸福、なのかもしれません。知らぬが仏と。
( ̄▽ ̄;) しかし、この感想、私のエッセイよりおもしろいのでは? 負けたー。
なんだか〇〇〇の夜明け、のような、日本の人権を作った男たち、というテロップが似合いそうな。
>つまり日本人に現在保障されている人権は、「日本人が革命で勝ち取ったものではない」のです。
やはりこの部分が日本の人権を考えるところでキーポイントになりますね。
血を流して勝ち取った、自ら作り上げた、といった歴史があれば誇りと共に伝えていこう、大事にしよう、ともなるわけで。払った代償の分の重みがそこにあるのではないかと。
与えられた憲法と人権を如何に解釈して都合よく使うか、そこに力を入れた代償が民衆の国畜化なのかもしれません。
私が危惧しているのは、法務省や役所では人権啓発をさまざまなやり方で行っていますが、そもそも人権とは何か? が曖昧なままではないのか、と。
なんだか、よくわからないけれど皆が大事と言ってるから大事と言っておこう、とでもいうもののような。正体不明のまま有難がるオカルトのように人権という単語を使う人が気になります。
「人権なんて触ることもできないし、売って金にすることもできない。そんなものを大切にしようってのがよくわからん」
「神が保障しなきゃ存在できない人権は、無神論者には無用だ」
まだ、こう言う人の方が潔いと感じます。
最近わりと耳にする自己責任という単語も、社会ダーウィニズムのような考え方をする人が増えたからなのではないでしょうか。
社会ダーウィニズム、社会進化論、
『スペンサーの自由主義的なものから変質し、適者生存・優勝劣敗という発想から強者の論理となり、帝国主義国による侵略や植民地化を正当化する論理になったとされる』
ウィキペディアより。
自己責任論は追求すれば、人権を否定し帝国主義、軍国主義へと繋がるのでしょう。
『これが自由というものか』
いい歌ですね。初めて聞いて思わず笑ってしまいました。今の時代を皮肉っているかのようです。無知の知、無知の罪、その次は無知の幸福、なのかもしれません。知らぬが仏と。
( ̄▽ ̄;) しかし、この感想、私のエッセイよりおもしろいのでは? 負けたー。
- NOMAR
- 2020年 09月28日 21時16分
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