感想一覧

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[良い点]
きっと、真摯な返信を頂けるだろうな、という欲張り心でした。
が、想像以上に真摯な返信に、恐縮しております。
[一言]
まさか、僕の汚濁を読んで下さったとは。
結構、キツいことを書いてしまったつもりなのですが。
ありがとう、ございます。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2021年 11月18日 00時33分
管理
 HoneyBee@平野修蜂様、ご感想ありがとうございます。

 真摯と言っていただけて嬉しいです。
 真摯であることは、わかり合う以前に可能なことであって、かえって価値のある愛だと思うのです。言い分を聞かずに人を否定する痛みがその人を不幸にすると感じてるから。
 ご投稿は、恥じる必要のない素晴らしい内容だと感じました。
[良い点]
心臓を杭で貫かれたかのような衝撃でした。
ASDを親に持つASDの子の叫びを代弁しているかのようです。
[一言]
僕は、自分の遺伝子を残したくない、そう思っているのです。
子が、あまりにも気の毒だから、そう思うからです。
これは、傲慢な考えなのだろうか?
眠りに落ちる前に、そんなことを考えることがあります。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2021年 11月16日 19時34分
管理
 HoneyBee@平野修蜂様、ご感想ありがとうございます。

『新たな命の誕生に悲しみを覚えるということ』連載版
について
 反出生主義者だとのことですが、最後に自覚的に述べられているように、べき論としての信念ではなく、むしろ個人的な直観ですよね。それをなお反出生主義と呼ぶことに大きな異論はありません。
 こういったことは、例えば大きな自動車事故に遭遇した人が、自動車を運転することをしなくなることと、同じだと思います。極めて稀なほどグロテスクで衝撃的な体験をした人にとっては、車や鉄道や飛行機とは、「そういう」ものです。しかし、世間のほとんどの人達にとっては違います。なぜならそれが、確率的に「稀」だからです。牧歌的な社会の裏面にある暗い真相を自分だけが目撃してしまって知っているかのように感覚されるものですが、客観的には別に、それが特に真相だというわけではありません。つまり、個人の直観にすぎないと言えます。
 別に、HoneyBee様の見解が誤って見えるということではなくて、単に、そうも言えるということです。

 私は子供の頃、生まれてくることや生きることは怖いことだと思っていました。身体が痛かったからです。
 環境のせいで痛かったのですが、私は自分の先天的な欠陥だと誤解していて、身体の弱い自分を助けてくれる家族に逆に感謝していました。
 その後、歳をとって若干の常識を得て思うに、身体の甚だしい痛みなんて、普通はしばしばあるものではありません。
 私は子供の頃、自分が内臓で構成されていることや、偶発的にどんな残酷な展開もありうる現実が怖かったです。幸せそうに歩いている家族だって、そこに隕石が落ちれば挽肉になるという意味でです。しかしそれは所詮、稀な苦労をしている人間の非常識な直観です。

 不幸の主観性についてのご考察があったと思いますが、私は苦しみや喜びは非常な実在だと考えます。
 若い時代の理不尽のいくつかを、「人は弱いものだ」と感覚して楽になれたとのことですが、おそらくそれは、若い時代の当人に直接告げてもあまり意味のある言葉ではなく、痛みの記憶が時間的に遠ざかったとか、奪われたものを取り返せる可能性が失われたといったことの、総合的な結末ではないでしょうか。私は、倫理的な論点を一般論に帰着することは、客観的な議論としては、さほど妥当だとは感じません。言わば、児童虐待は不正義です。
 進化論から自然に考えれば、生存や繁殖は本能の命ずるところです。遺伝子を残したくないかどうか思うこと自体、残したいとか、理想的な家族を創造して体験してみたいという葛藤の現れかもしれません。
 一方で、子を儲ける時に、幸せにできるか配慮することは、常識的な人情でしょう。経済的な見通しに自信がなかったり、夫婦として離婚などをせずにやっていく自信に不安があったり、頼もしい親であるための精神状態や精神的健康に不安があることが、子を持つ意欲を阻害しているのかもしれません。もしもそうである時、人生は不幸でありうるから、とか、子は親を恨みうるから、といった理由づけは、事後的な理由づけにすぎないとも考えられます。論理的ではなく、その意味で妥当ではありません。

 経済的な見通しや精神状態についての見通しについては、否定すれば否定できる性質のものです。世の中のほとんどの人は、そこまで自省的にならず子を持っているでしょう。ですから、そのように過度に自省的なことは、幼少期などの苦労に由来する自己肯定感の病的な喪失ではないかと疑うことはできます。HoneyBee様が、我が子を幸せにする実力について、勝手に自分を過小評価しているだけかもしれませんから、もちろん私から、子を持つべきではないと申し上げるわけにはいきません。
 逆に、子を持つべきだろうと申し上げておきます。なぜなら、生存し繁殖することが生命のあり方であり、生存や繁殖の幸福を追求することが、生命のあり方だからです。倫理的な観点から見たとしても、子の幸せについてまがりなりにも自省的に考察できる人なら、子を持つ十分な権利があると私は思います。
 大雑把に言ってしまえば、HoneyBee様が肯定される体験を重ね、稀な苦労によって形成された病的な社会不信が軽減されるにつれ、恋愛や出産への欲求は自然に大いに生じてくるものと期待できるかもしれません。もちろん、そこに至らなければ駄目だとか、子のない人は劣等だという意味ではありません。まっとうな環境の中では、生命はあまり、死にたいとか子を持ちたくないとか思わないだろうという普遍性のある事実から、多くは論理的に逆算できるということです。

 本文の論点に照らして言えば、ASDの親に、子供を虐待するな、と言うことは妥当でしょう。SF的な極端な社会状況によっては、ASDの親が子を持つことを否定することもまた、倫理的に正当たりうるかもしれません。しかしなお、ASDの親が、興味がないからではなく、不幸にする可能性などを危惧して、子を持ちたくないと思うならば、それはパワハラで萎縮させた結果でしょう。生命として変であって、倫理的な疑念を生じます。

 文章を簡潔にするために断定的な文面としましたが、もちろん、一視点からの感想にすぎません。有意義な刺激のみ拾っていただければ光栄です。
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