感想一覧
▽感想を書く[気になる点]
昔見た漫画「寄生獣」に出てきたセリフ「哺乳類は痛がり屋だな」、「あいつは痛がり屋なんだろう」と言う寄生獣のセリフが浮かびました。
その漫画では「恐怖」を「痛み」として表現していて、また漫画のテーマに沿っているなとも感じ、楽しく拝読させて頂きました。
昔見た漫画「寄生獣」に出てきたセリフ「哺乳類は痛がり屋だな」、「あいつは痛がり屋なんだろう」と言う寄生獣のセリフが浮かびました。
その漫画では「恐怖」を「痛み」として表現していて、また漫画のテーマに沿っているなとも感じ、楽しく拝読させて頂きました。
天海波平様、ご感想ありがとうございます。
傑作ですよね。私も一度は読んだはずですが、そんな表現があったことは忘れていました。よく憶えていらっしゃいますね。
思うに、最も弱い存在とは、痛みを感じられない存在かもしれませんね。
遺伝子は繁殖を含む生存のために合理化された存在であって、生存確率へのプラスを喜びとして、マイナスを苦しみとして感じられるように、神経系を含む身体という装置は実装されています。神経は情報を感触のみならず視覚などとして入力し、中枢神経は近傍の将来を予測して将来の痛みに恐怖する。よって、地球では哺乳類においてこそ知性の発達が認められると、彼ら地球外生命体からの賛辞として受け取ってもいいのかもしれません。
しかし、平均寿命が男女ともに80歳を超えた今、自らの幸せのために人の恐怖心は十分でしょうか? 特に若い人々には、スポーツなどで怪我を残さないよう、無茶をせず自愛してすごしていただきたいと思います。無理をすれば無理をしたぶんだけ心も身体も壊れますが、しようとすれば無理は案外いくらでもできてしまうものでしょう。例えば愛する何かを守るため、若い人ほどかえって簡単に死んでしまえるのかもしれません。
いやしかし、人は愛するものを守るために自分という個体の痛みをキャンセルできているようにも見えるのです。それはすなわち、自分自身以上の何かが傷つくことへの痛みを感じた恐怖による動作なのでしょう。だから、私達が「痛がり屋」であることこそを、最大の誇りに数えてよいのだと考えました。
傑作ですよね。私も一度は読んだはずですが、そんな表現があったことは忘れていました。よく憶えていらっしゃいますね。
思うに、最も弱い存在とは、痛みを感じられない存在かもしれませんね。
遺伝子は繁殖を含む生存のために合理化された存在であって、生存確率へのプラスを喜びとして、マイナスを苦しみとして感じられるように、神経系を含む身体という装置は実装されています。神経は情報を感触のみならず視覚などとして入力し、中枢神経は近傍の将来を予測して将来の痛みに恐怖する。よって、地球では哺乳類においてこそ知性の発達が認められると、彼ら地球外生命体からの賛辞として受け取ってもいいのかもしれません。
しかし、平均寿命が男女ともに80歳を超えた今、自らの幸せのために人の恐怖心は十分でしょうか? 特に若い人々には、スポーツなどで怪我を残さないよう、無茶をせず自愛してすごしていただきたいと思います。無理をすれば無理をしたぶんだけ心も身体も壊れますが、しようとすれば無理は案外いくらでもできてしまうものでしょう。例えば愛する何かを守るため、若い人ほどかえって簡単に死んでしまえるのかもしれません。
いやしかし、人は愛するものを守るために自分という個体の痛みをキャンセルできているようにも見えるのです。それはすなわち、自分自身以上の何かが傷つくことへの痛みを感じた恐怖による動作なのでしょう。だから、私達が「痛がり屋」であることこそを、最大の誇りに数えてよいのだと考えました。
- 鈴木美脳
- 2022年 03月30日 22時03分
[良い点]
はじめまして、静夏夜です。
思想から来る痛みを高さにして痛みの動きを求める面白い研究だと思います。
そこから導き出されるのは痛みの根源の様にも思えてぐるりと回り回って元に戻りそうな話に、痛みの増減率を含め始めた辺りの話で私は一つ思いました。
鈴木美脳さまは軽減される方の話へと向かい、情報社会からなる連帯する民衆への平均化されて行く過程に見る波の高さに注目されたかと思います。
私はむしろ何も起きていない折に唐突に来る空虚感や古傷の痛みや季節の風に感じる懐かしさにこそ、人類のDNAに刻まれた意識の介在がそこにある様に思っていまして、脳に影響を及ぼす電気信号が意識であるのと同時に、その電気信号を変調する役目を持つ細胞組織の中のニューラルネットワークに関係する物質をどう人の脳が選択するのかに意識が介在していない事の方が生命の不思議に感じています。
そして、唐突に襲う痛みの元が解かればそれは狂人化する犯罪者の要因を知る事になり、それは逆を言えば人を兵器化する事が可能になる人の意識を取り除く研究結果を出す事にも成り得ると思います。
研究とは、全ては研究者の意識の高さと低さでもあるだけに皮肉に思えるお話だなあと感じ面白く読ませていただきました。
[気になる点]
それと私は西部邁ゼミナールを全て観ていたのですが、最終回を観れた方とそうでない方々とに彼の自死に関する反応は大きく違うものでしたね。
あの最終回で彼は示唆する様なそれを発言をされていましたから。あの逮捕された方に番組内で、それとは言わずもがな貴男には申し訳ないね等とする旨を伝え謝罪をする事がヤケに記憶に残った回でした。
そのスグ後に自死のニュースが流れたので、彼はあの放送回を前に……いえ、随分前から覚悟を決めていたのが解りました。
鈴木美脳さまが読んだ彼の著から感じたという人類の行末への絶望感ですが、私は彼が最後の方で良く吐き捨てた台詞に「ああ、無駄な人生だった」と何度も言うのですが、あれは絶望感では無く
伝えても伝えても自身の伝えた事とは違う方へと向かう社会に流される人々への愚痴の様に思えます。
そして自死は子供に世話になりたくないという話を何度もしていましたから、世俗的な社会に絶望して亡くなった訳ではありません。
そこだけは気を付けないと西部邁という方の尊厳を損ねてしまいます。
[一言]
ペインマップもまた情報社会なくして成り得ない事に、共感とは伝える何かが在って初めて起こり得る様に思いました。
はじめまして、静夏夜です。
思想から来る痛みを高さにして痛みの動きを求める面白い研究だと思います。
そこから導き出されるのは痛みの根源の様にも思えてぐるりと回り回って元に戻りそうな話に、痛みの増減率を含め始めた辺りの話で私は一つ思いました。
鈴木美脳さまは軽減される方の話へと向かい、情報社会からなる連帯する民衆への平均化されて行く過程に見る波の高さに注目されたかと思います。
私はむしろ何も起きていない折に唐突に来る空虚感や古傷の痛みや季節の風に感じる懐かしさにこそ、人類のDNAに刻まれた意識の介在がそこにある様に思っていまして、脳に影響を及ぼす電気信号が意識であるのと同時に、その電気信号を変調する役目を持つ細胞組織の中のニューラルネットワークに関係する物質をどう人の脳が選択するのかに意識が介在していない事の方が生命の不思議に感じています。
そして、唐突に襲う痛みの元が解かればそれは狂人化する犯罪者の要因を知る事になり、それは逆を言えば人を兵器化する事が可能になる人の意識を取り除く研究結果を出す事にも成り得ると思います。
研究とは、全ては研究者の意識の高さと低さでもあるだけに皮肉に思えるお話だなあと感じ面白く読ませていただきました。
[気になる点]
それと私は西部邁ゼミナールを全て観ていたのですが、最終回を観れた方とそうでない方々とに彼の自死に関する反応は大きく違うものでしたね。
あの最終回で彼は示唆する様なそれを発言をされていましたから。あの逮捕された方に番組内で、それとは言わずもがな貴男には申し訳ないね等とする旨を伝え謝罪をする事がヤケに記憶に残った回でした。
そのスグ後に自死のニュースが流れたので、彼はあの放送回を前に……いえ、随分前から覚悟を決めていたのが解りました。
鈴木美脳さまが読んだ彼の著から感じたという人類の行末への絶望感ですが、私は彼が最後の方で良く吐き捨てた台詞に「ああ、無駄な人生だった」と何度も言うのですが、あれは絶望感では無く
伝えても伝えても自身の伝えた事とは違う方へと向かう社会に流される人々への愚痴の様に思えます。
そして自死は子供に世話になりたくないという話を何度もしていましたから、世俗的な社会に絶望して亡くなった訳ではありません。
そこだけは気を付けないと西部邁という方の尊厳を損ねてしまいます。
[一言]
ペインマップもまた情報社会なくして成り得ない事に、共感とは伝える何かが在って初めて起こり得る様に思いました。
静夏夜様、ご感想ありがとうございます。
ある人が世俗的な社会に絶望して亡くなった訳ではないということにだけは気を付けなければその人の尊厳を損なうことになるとは、ある価値観でしょう。つまりある絶望が存在した時に、その理由が私的あるいは公的であるバランスについて、私的であるほうが尊厳が高く公的であるほうが尊厳が低いとは、ある価値観です。公共に献身する英雄的な死にむしろ優越した尊厳を見る価値観も別途ありうると思います。すなわち、私的な動機にこそ尊厳が伴うとは、ニーチェが言うキリスト教的奴隷道徳に沿っており、西部邁が批判しつづけた近代的な大衆像に却って沿っていると見受けます。
そしてその価値観についてのご指摘については、論理的な論拠は特に伴っておらず、単に暴力的に押しつけただけに見えます。文章を長くすることはもちろん、ただちに論拠を構成するものではありません。
西部邁の思想の本質は、近代的な経済人仮説の相対化で、すなわち奴隷道徳批判だと私は思います。彼は、近代的な奴隷道徳によって人類幸福が破滅に終わる結末を目撃した人間の一人だと私は思います。一方で、ご指摘のどこを取っても、奴隷道徳の有害性についての堅実な理解は認められません。長年にわたって放送されたテレビ番組である「西部邁ゼミナール」を全て観たことは敬愛し尊重いたしますが、それゆえ、だからと言って私よりも彼を理解しているという論拠としてはまったく薄弱でしょう。
(ここでどちらがより理解してるかとは、単に文脈の上でのことです。私は彼の熱心な読者やファンではありません。ニーチェの読者でもありません。)
しかも私の本文は彼が純然たる公的な理由のために命を絶ったとは言っておらず、まったく堅実な範囲でしか論を構成していません。公的な絶望感を著書に記載したとしても最後の死についてはそれは無関係だったとは静夏夜様の信念にすぎず、近代が孕む奴隷道徳といった本質的な問題への理解がもしなければ、その信念は私にとっては現実には見えません。彼の死が最終的には圧倒的に私的な動機に基づいていたとしても、そこを重視しなければ彼の尊厳が損なわれるということは言えないし、本文の論理も崩れはしません。
「人類的な規模の自我において深い痛みを体験した魂の一つ」
として彼という実例を援用し、そのような痛みが奴隷道徳批判を理解するような無数の人々においてよく重なり合っている事実を本文は指摘しているにすぎませんから。
「「個人」という境界は、夢のように不確定な実在にすぎない。」
と本文に書きましたことも、経済人仮説の超克を主旨とする意味でです。
よって、私の見方からすれば、情報化社会は何ら、痛みへの共感を促進しません。他人が苦しむ映像をどんなに高画質で提供されたとしても、良心がなければ人はわずかにも苦しみません。一方で、想像する知能と共感する性格さえあれば、少しの文章からでも世界の課題をよく理解して苦しむことができます。情報を伝送する媒体の進歩が、人類幸福を確かに進歩させるものだとは、私は考えていません。言わば、個人的な利己主義は人類という痛覚神経の壊死なのだと考えます。
また私は、凶悪犯罪を狂人化とは解釈していません。凶悪犯罪の犯人らの主な理由は生まれた環境の悪さだと思っており、発露された憎悪の源には理不尽な苦しみの蓄積があった例が少なくないと感じています。つまり犯罪者は潜在的に、既存の体制の不正義に挑戦する英雄でありえて、私利私欲による合理的保身を不正義への憎悪が上回ったことによる「狂人化」は、却って(DNAに刻まれた意識である)人類規模のペインマップの健全な発露なのだと解釈してます。
また、本文の研究はフィクションです。現実にはペインマップなるものをプロットして重ねることは不可能でしょうが、比喩的に話題にしました。
私的なほうが尊厳が高いとは何ら主張していないと思われるでしょうが、私からすれば以上のような返信をしたくなる内容のご感想の文章だったのだと、適当に受け止めていただければ幸いです。有益な点のみ拾っていただければ十分に光栄でございます。
ある人が世俗的な社会に絶望して亡くなった訳ではないということにだけは気を付けなければその人の尊厳を損なうことになるとは、ある価値観でしょう。つまりある絶望が存在した時に、その理由が私的あるいは公的であるバランスについて、私的であるほうが尊厳が高く公的であるほうが尊厳が低いとは、ある価値観です。公共に献身する英雄的な死にむしろ優越した尊厳を見る価値観も別途ありうると思います。すなわち、私的な動機にこそ尊厳が伴うとは、ニーチェが言うキリスト教的奴隷道徳に沿っており、西部邁が批判しつづけた近代的な大衆像に却って沿っていると見受けます。
そしてその価値観についてのご指摘については、論理的な論拠は特に伴っておらず、単に暴力的に押しつけただけに見えます。文章を長くすることはもちろん、ただちに論拠を構成するものではありません。
西部邁の思想の本質は、近代的な経済人仮説の相対化で、すなわち奴隷道徳批判だと私は思います。彼は、近代的な奴隷道徳によって人類幸福が破滅に終わる結末を目撃した人間の一人だと私は思います。一方で、ご指摘のどこを取っても、奴隷道徳の有害性についての堅実な理解は認められません。長年にわたって放送されたテレビ番組である「西部邁ゼミナール」を全て観たことは敬愛し尊重いたしますが、それゆえ、だからと言って私よりも彼を理解しているという論拠としてはまったく薄弱でしょう。
(ここでどちらがより理解してるかとは、単に文脈の上でのことです。私は彼の熱心な読者やファンではありません。ニーチェの読者でもありません。)
しかも私の本文は彼が純然たる公的な理由のために命を絶ったとは言っておらず、まったく堅実な範囲でしか論を構成していません。公的な絶望感を著書に記載したとしても最後の死についてはそれは無関係だったとは静夏夜様の信念にすぎず、近代が孕む奴隷道徳といった本質的な問題への理解がもしなければ、その信念は私にとっては現実には見えません。彼の死が最終的には圧倒的に私的な動機に基づいていたとしても、そこを重視しなければ彼の尊厳が損なわれるということは言えないし、本文の論理も崩れはしません。
「人類的な規模の自我において深い痛みを体験した魂の一つ」
として彼という実例を援用し、そのような痛みが奴隷道徳批判を理解するような無数の人々においてよく重なり合っている事実を本文は指摘しているにすぎませんから。
「「個人」という境界は、夢のように不確定な実在にすぎない。」
と本文に書きましたことも、経済人仮説の超克を主旨とする意味でです。
よって、私の見方からすれば、情報化社会は何ら、痛みへの共感を促進しません。他人が苦しむ映像をどんなに高画質で提供されたとしても、良心がなければ人はわずかにも苦しみません。一方で、想像する知能と共感する性格さえあれば、少しの文章からでも世界の課題をよく理解して苦しむことができます。情報を伝送する媒体の進歩が、人類幸福を確かに進歩させるものだとは、私は考えていません。言わば、個人的な利己主義は人類という痛覚神経の壊死なのだと考えます。
また私は、凶悪犯罪を狂人化とは解釈していません。凶悪犯罪の犯人らの主な理由は生まれた環境の悪さだと思っており、発露された憎悪の源には理不尽な苦しみの蓄積があった例が少なくないと感じています。つまり犯罪者は潜在的に、既存の体制の不正義に挑戦する英雄でありえて、私利私欲による合理的保身を不正義への憎悪が上回ったことによる「狂人化」は、却って(DNAに刻まれた意識である)人類規模のペインマップの健全な発露なのだと解釈してます。
また、本文の研究はフィクションです。現実にはペインマップなるものをプロットして重ねることは不可能でしょうが、比喩的に話題にしました。
私的なほうが尊厳が高いとは何ら主張していないと思われるでしょうが、私からすれば以上のような返信をしたくなる内容のご感想の文章だったのだと、適当に受け止めていただければ幸いです。有益な点のみ拾っていただければ十分に光栄でございます。
- 鈴木美脳
- 2022年 03月27日 23時31分
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