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[一言]
>民主主義の敗北

 この言葉や、あるいは、民主主義へのテロ行為などニュースでよく使われてますね。

 実に印象的な単語でマスコミが好きそうな言葉ですが、私にはそういう「プロパガンダ的な流行語狙いの言葉」っぽい言葉の使い方には、多くの問題点がある気がします。

 「民主主義の敗北」や「民主主義の否定」という言葉について、なぜ「選挙中の政党所属者に対する殺人事件」がそういう言葉に繋がったのかを考えてみました。

 まず、因果関係の問題で「選挙中の政党所属者に対する殺人事件」が起きたからテロ行為であるという論理展開。

 犯人に政治的な意図があったのなら、まあいいでしょう。

 けれど、「個人的な恨み」という主張が本当なら明確には「テロル=有形無形の暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること」ではありません。

 日本国憲法の厳格な政教分離の原則を否定した「権威主義の政治屋=反民主主義者」への攻撃ではあっても、政治的な意図がないなら、テロルではないからです。

 政治的な意図があった場合はどうでしょう?
 
 「選挙中の政党所属者に対する殺人事件」が「民主主義の否定」や「民主主義の敗北」と直結するのか?

 政党による政治や、間接民主制による選挙は、2世紀以上前に権威主義との妥協で生まれた制度で、国民の意思が反映されにくい「民主主義を行うための不完全な制度の一つ」として考えるなら、答えはNOです。

 間接民主制による選挙は、「基本的人権・自由権・平等権を多数決原理・法治主義によって実現しようとする民主主義」にとっては手段の一形態でしかないという話ですね。

 職と利権を失うので多くの政治屋や権力者は否定しますが、現代の技術なら「直接民主制」も可能ですから、
「選挙中の政党所属者に対する殺人事件」が「民主主義の否定」や「民主主義の敗北」と直結しません。

 そもそも、因果関係の問題もあります。

 今回の事件の場合は、犯人の自白が事実なら、原因が「民主主義を権力者が形骸化して民主主義が行えなかった」から起こった事件といえます。


 日本国憲法の厳格な政教分離の原則を否定して宗教団体に「個人的に関与したという建前」で便宜を諮った「民主主義に反した政治屋」が、それで被害を受けた被害者の恨みから殺された。

 そう考えるなら、この事件は「ただの個人的犯行の殺人事件」で、 「民主主義の敗北」や「民主主義の否定」という言葉はあてはまらないように思えます。

 「ただの殺人事件」であっても、あってはならないことで、それは「法治主義の否定」で、広義では「民主主義の否定」ではあります。

 けれど、法治主義も「民主主義の一要素」でしかないし、「ただの殺人事件」を「民主主義の敗北」というのは拡大解釈でしょう。

 感情抜きの論理でいうなら、「ただの殺人事件」も「国家の利権を得るための戦争」も同じで、戦争が起きても「民主主義の敗北」と直結しません。

 そういう観点で見ると、この事件の原因である「反民主主義者=権威主義者」が政権中枢にいて「民主主義の形骸化」が行われているという問題を覆い隠す論調ばかりが大きなニュースとして取り上げられていると感じます。

 「民主主義という神」という少し前にマスコミで使われた表現を夏川結月さんは使っていますが、「神とは権威主義の象徴」です。

 特に聖書宗教やカルト宗教ではそれが分り易い教義になっています。

 だからこそ、民主主義では「厳格な政教分離の原則」を掲げ、権威主義を否定しています。

 つまり、「民主主義という神」という考え方を「民主主義を形骸化するエセ民背主義者の妄言」としてではなく、広めているのは「民主主義を歪めた政治屋」や「民主主義者のふりをした権威主義者」です。

 「民主主義という神が死んだ」と夏川結月さんが思ったのは、「民主主義の形骸化を行う権力者」の思惑に乗ったのかもしれないのでは?

 ニュースにならないところでも、民主主義と権威主義の対立と妥協は、学生運動や労働運動が消えかけた日本でも、今も行われ続けています。

 政治とは妥協の産物で、大日本帝國はもとより、日本国もアメリカですら「民主主義=民権制」は完全に実現できていません。

 「トロッコ問題」を夏川結月さんは今回の事件に関連付けていますが、多くの人が関わる現実で、こういう単純化した選択で考えると他の可能性を潰す結果になります。

 だから、「トロッコ問題」は緊急時や戦争時だから許されるかもしれない独裁的判断に対する思考実験なのです。

 これが語られだしたのは憲法9条改定議論による「法治主義」の法解釈関連でだったでしょうか?

 要は、「トロッコ問題」も不特定多数の人間の権利を護る人権思想の否定を前提とした「権力者サイドの生殺与奪権を基にした判断の強制」で、法治主義も否定する「民主主義の形骸化を行う権力者の思惑」が絡んで広められた考え方という観点があるという話ですね。

 もちろん、現実では、緊急時の「必要悪」として、そういう「生殺与奪権」が「正当防衛の殺人」などで許されてはいます。

 それを責めるのは「法治主義の否定」ですが、「必要なこと」であったのかの判断は、もちろん前提として「他者による客観的な検証」されなければなりません。

 これらの観点でこのエッセイを読むのならば、「民主主義の敗北」というタイトルは「政党政治の構造的欠陥」あるいは「代表民主制の限界と敗北」こそが相応しいのかもしれません。

 

  • 投稿者: OLDTELLER
  • 70歳以上
  • 2022年 07月18日 05時03分
ご指摘ありがとうございます

言っている内容が私には難しくて理解できていない部分も多いのですが、できる限り意見を述べてみようと思います

あらすじと前書きには「テロ行為を推奨しない」と書きましたが、実は、本文ではこの行為がテロであると書いていません。私自身もテロだとは思っていません。個人的恨みだろうと考えていますし、そう述べました。ただの暴力行為だと認識しています。事実、本文で「そしてこの暴力行為が、次の選挙の結果に(略)」と書いています。私自身の意見を言えば(言うことが世間的に許されなさそうなので困っているのですが)、暴力で目的(何の目的かにもよりますが)を達成するのは別に悪いことだとは思っていないのです。今回の事件に関していえば、山上容疑者肯定派です。しかし、それを記述してしまえば本稿が消される可能性もありますし、万が一本稿を見て事件を起こしたと供述する人が現れると面倒なのであえてぼかして、カモフラージュ的な表現で前書きとして書いたというわけです。
カモフラージュとして”テロ”(そもそも今回のはテロじゃない)は推奨していないけど今回のような”暴力”についは……
これ以上は言わないでおきましょう
その思惑も、これをここに書いた時点で終わったかもしれませんが……

トロッコ問題については、適切な例えではありませんでしたね。トロッコ問題は無関係の人たちを前提とした思考実験だったはずなので。今回の事件は宗教団体の広告塔の政治家とその結果生まれるカルト被害者どちらを取るかという構図ですからね。しかも危険行為であるとさんざん弁護士団に指摘されていましたし。

それはそれとして、戦争のような緊急時でなくても、このような取捨選択は必要だと思っています。全ての人を救うことができるのならいいのですが、できるのならば苦労しません。複数のトロッコが今現在でも動き続けている状態だと思っています。人の死は銃弾によってのみ引き起こされるものではありませんから。
経済政策一つとっても、何万人もの人が死にますし、現在も死んでいるでしょう。そういう意味では緊急時だと思っています。そして、その犠牲者をゼロにすることができない以上は、より少ないほうを犠牲にしたほうがいいのではと私は考えています

話は変わりますが、
ロシア革命を経て、共産主義を掲げたソ連が誕生しましたが、もちろんこれは、共産主義の方が平等で豊かな生活を送れるだろうと信じたから起きた革命です。決してスターリンのような独裁者を望んだからではありません。
しかし、共産主義は独裁とセットです。つまりスターリンの誕生は宿命だったわけです。

では民主主義は何とセットかというならば愚衆政治だと思われます。

仮に民意が「生活保護を廃止して、余ったお金を別の用途に使えば生活が良くなるんじゃ?」と考えたとしましょう。そして、その民意をくみ取って、選挙に勝つためにその政策を掲げようと決めた政党があり、その政党を国民が支持したとしましょう。
それで生活が良くなると信じたわけですが、結果窃盗強盗などの犯罪が多発し、治安が悪くなった。

当然ですが、治安が悪くしたいという民意によって引き起こされたわけではありません。むしろ生活をよくしたいと思っていたのです。しかし、生活をよくするには何が適切なのか、それが民衆にわかっていない以上、生活が良くなるわけがありません。
選挙権が一人一票である以上、平均的な答えしか出せないのは必然です。そしてその平均的な民意をくみ取らなければ政権を獲得できないのです

今回もそうであり、統一教会を背後に抱えた政党が素晴らしいという民意によって選ばれたわけではありませんしむしろ望んではいなかったでしょう。(そういう風に読み取れる書き方になってしまったかもしれませんが)
ただ民意による決定が何を引き起こすのか分かっていなかったというだけだと思っています。そして、腐敗したとしてもこういう事件でもなければ民衆に見抜く力がありません。

共産主義がいい、でも独裁は嫌だ、と言ってもそれは上を見ながら下を見るようなもので、つまりは不可能なわけです。

今回の事件が暴いたことは、そのようなものだった、というのが本稿で主張したかったことです。
つまり、民意を尊重すれば、民意を実現できない。そういう意味では、別に民主主義を否定しているわけではありません。
本来の“民意”を実現するのが良いことだと思っていますから

民主主義も共産主義も神ではなくただのシステムです。絶対的に維持されなければならないとかそういうものではなく、最も適切なものを選べばいいのです。駄目だったなら改良するなりいいとこどりすればいいのですが、どうもメディアとかを見ていると民主主義の挑戦だのなんだの言っていたので、ちょっと反発したくなって、今回神だの民主主義の敗北など大げさに書いただけなので、まあ本稿はそんなたいそうなものではないですよ。ただこれをきっかけに何か変わりそうだなあという私個人の予感です

[良い点]
まさにご指摘通りだと思いました~

正直な事を言うと、今の国民は政界をしきっている連中にバカにされてますよ…
バカにされてる事にも気が付かないのが現状ですがね(;'∀')
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