感想一覧
▽感想を書く[良い点]
こんばんは(おはよう)?
読ませていただきました。論にはとてもよく納得できました。
『アンナ・カレーニナ』は私も学生時代に読んで、ハマった作品です。
『平家物語』は、中学生向けにやさしく現代語に翻訳されたものですが、こちらもハマりました。(武将の名前は数人しか覚えてないけど……)
ニーチェは『ツァラトゥストラ』しか読めませんでしたけど、私の師だと思ってます。
馴染みのあるものばかり例に挙げていただいて、なんだか親しみが持てました(*^^*)
[気になる点]
私は生きている中で、世間とはずれた、自分の考え方をもっていると思っています。
それは学生時代にハマった主に近代のヨーロッパ文学や、あるいは現代詩にとても影響を受けていますが、とりあえず自分の思想って呼んじゃえ!みたいに思ってます。
それは自分の作品に自然と染み出しているものだとは思いますし、そういう思想に基づいて書いているつもりもあります。
仰る通りトルストイさんは非常にメッセージ性の強い作家さんだと思います。キリスト教的ストイシズムを善とし、奔放な生き方を『悪魔』にたとえていますよね。
ただ、それは彼が非常に性欲の強い人だったために、その反動として、神を愛するリョーヴィンとキチイを肯定し、自分の本質に似たアンナとブロンスキーを否定したのだと私は聞いています。
ニーチェさんだったら『嘘をつくな!』とか言いそうですよね(*^^*)
また、アンナを破滅させ、かわいい二人を幸せにして、最後にリョーヴィンさんに神への道を肯定させることで、結局は作品を説教臭いものにしていますよね。
『イワンのばか』なんかを読むと、このへんの説教臭さがさらに丸出しになります。
それでも私が『アンナ・カレーニナ』を素晴らしいと思うのは、仰る通りのさまざまな人間が絡まっているからですけど。
オブロンスキーさんなんてとてもかわいいと思います(๑•̀ㅂ•́)و✧
[一言]
私は『作者がメッセージ性をもつな』と言ってるんではなくて、『メッセージ性のない作品をバカにするな』と言ってるつもりでした。
極端な言い方をすると、電話帳を読んで『これはNTTが書いた素晴らしい小説だ!』と言う人がいてもいいと思うんですよね。
気は知れませんけど(^o^;
小林多喜二さんの『蟹工船』を読んで、そのプロパガンダともいえるほどのメッセージ性を無視して『ロシア・フォルマリズム的な意味で素晴らしい!』とか感想を言ったら多喜二さん涙目だと思うし、先に挙げた『イワンのばか』を読んで『よし、生活保護を受けるようなばかになって、エログッズに囲まれた王の生活を送ろう!』とかなってもトルストイさん涙目でしょう(^o^;
作者の思想みたいなものはどうしても作品に滲み出るものです。
どんな人だって、生きてる限りは思想をもっていると思います。それが受け売りのものだろうと、世間に流されているだけのものだろうと。
だからこそ、それをそのまま作品に込めて誰かに伝えようとするのももちろんアリだと思いますが、そこから抜け出るやり方もアリだと思うんです。
人一人の思想なんて限られたものなので、そうしたほうがもっと広い、無意識にあるものまで出ると私は思っています。
たとえば私は自分の好み的に、精神的に劣ったものと思っているのか、『ざまぁ』がどうしても書けないんですが、そういう無理なものをあえて書いてみるというのもしてみています。(今のところ、何度か挑戦してすべて失敗していますが……)
私が書く以上、私の思想(たぶんメッセージ性と呼べるもの)は作品の根底に存在するのだとは思いますが、トルストイさんが『神への道こそ正義である』とするようには、それを結論みたいに提示したくないんです。だってそれ、ほんとうの自分に嘘ついてるし(^o^;
私が『アンナ・カレーニナ』を書くなら、たとえ私がストイシズムを正義だと思っているとしても、アンナさんもリョーヴィンさんもどちらも幸せにして、読者さんに『どっちが好き?』みたいに聞くような形にすると思います。
自分を壊して、宇宙神のことばをこそ、そこに広げるのです(๑•̀ㅂ•́)و✧←ツッコむとこ
まぁ、こういうやり方こそが正義だという、私のメッセージ性を作品に込めていると言われたらそれまでですが(^.^;
長々とすみませんでしたm(_ _;)m
こんばんは(おはよう)?
読ませていただきました。論にはとてもよく納得できました。
『アンナ・カレーニナ』は私も学生時代に読んで、ハマった作品です。
『平家物語』は、中学生向けにやさしく現代語に翻訳されたものですが、こちらもハマりました。(武将の名前は数人しか覚えてないけど……)
ニーチェは『ツァラトゥストラ』しか読めませんでしたけど、私の師だと思ってます。
馴染みのあるものばかり例に挙げていただいて、なんだか親しみが持てました(*^^*)
[気になる点]
私は生きている中で、世間とはずれた、自分の考え方をもっていると思っています。
それは学生時代にハマった主に近代のヨーロッパ文学や、あるいは現代詩にとても影響を受けていますが、とりあえず自分の思想って呼んじゃえ!みたいに思ってます。
それは自分の作品に自然と染み出しているものだとは思いますし、そういう思想に基づいて書いているつもりもあります。
仰る通りトルストイさんは非常にメッセージ性の強い作家さんだと思います。キリスト教的ストイシズムを善とし、奔放な生き方を『悪魔』にたとえていますよね。
ただ、それは彼が非常に性欲の強い人だったために、その反動として、神を愛するリョーヴィンとキチイを肯定し、自分の本質に似たアンナとブロンスキーを否定したのだと私は聞いています。
ニーチェさんだったら『嘘をつくな!』とか言いそうですよね(*^^*)
また、アンナを破滅させ、かわいい二人を幸せにして、最後にリョーヴィンさんに神への道を肯定させることで、結局は作品を説教臭いものにしていますよね。
『イワンのばか』なんかを読むと、このへんの説教臭さがさらに丸出しになります。
それでも私が『アンナ・カレーニナ』を素晴らしいと思うのは、仰る通りのさまざまな人間が絡まっているからですけど。
オブロンスキーさんなんてとてもかわいいと思います(๑•̀ㅂ•́)و✧
[一言]
私は『作者がメッセージ性をもつな』と言ってるんではなくて、『メッセージ性のない作品をバカにするな』と言ってるつもりでした。
極端な言い方をすると、電話帳を読んで『これはNTTが書いた素晴らしい小説だ!』と言う人がいてもいいと思うんですよね。
気は知れませんけど(^o^;
小林多喜二さんの『蟹工船』を読んで、そのプロパガンダともいえるほどのメッセージ性を無視して『ロシア・フォルマリズム的な意味で素晴らしい!』とか感想を言ったら多喜二さん涙目だと思うし、先に挙げた『イワンのばか』を読んで『よし、生活保護を受けるようなばかになって、エログッズに囲まれた王の生活を送ろう!』とかなってもトルストイさん涙目でしょう(^o^;
作者の思想みたいなものはどうしても作品に滲み出るものです。
どんな人だって、生きてる限りは思想をもっていると思います。それが受け売りのものだろうと、世間に流されているだけのものだろうと。
だからこそ、それをそのまま作品に込めて誰かに伝えようとするのももちろんアリだと思いますが、そこから抜け出るやり方もアリだと思うんです。
人一人の思想なんて限られたものなので、そうしたほうがもっと広い、無意識にあるものまで出ると私は思っています。
たとえば私は自分の好み的に、精神的に劣ったものと思っているのか、『ざまぁ』がどうしても書けないんですが、そういう無理なものをあえて書いてみるというのもしてみています。(今のところ、何度か挑戦してすべて失敗していますが……)
私が書く以上、私の思想(たぶんメッセージ性と呼べるもの)は作品の根底に存在するのだとは思いますが、トルストイさんが『神への道こそ正義である』とするようには、それを結論みたいに提示したくないんです。だってそれ、ほんとうの自分に嘘ついてるし(^o^;
私が『アンナ・カレーニナ』を書くなら、たとえ私がストイシズムを正義だと思っているとしても、アンナさんもリョーヴィンさんもどちらも幸せにして、読者さんに『どっちが好き?』みたいに聞くような形にすると思います。
自分を壊して、宇宙神のことばをこそ、そこに広げるのです(๑•̀ㅂ•́)و✧←ツッコむとこ
まぁ、こういうやり方こそが正義だという、私のメッセージ性を作品に込めていると言われたらそれまでですが(^.^;
長々とすみませんでしたm(_ _;)m
深夜にコメントありがとうございます。
私自身は、メッセージ性はなければならないと思っていますが、現代の人間、つまり我々はそれを見つける事が容易ではないわけです。
キリスト教と戦っていた時、封建社会と戦っていた時、敵がどれほど厄介なものであろうと、実はその敵の存在によって、戦う事の偉大さが規定されていたという側面があると思います。
それらの敵が消えた今、メッセージ性を見つけにくくなって、かえって自由になってしまった。それ故に、自由でいい、好き嫌いでいいとなったわけですが、それは真の自由ではなく、ただ我々が一つの大きな価値観に包摂されたが為に、自分たちの価値観を相対化できなくなった事に過ぎない。私はそう考えています。
要するに、自由とは、自由を求める戦いの内にしかない。戦いが廃棄されればそれは自由ではないのだと。
我々に確たるメッセージ性が見当たらないのは何故なのか、と真剣に考える必要があると思っています。そこから始めるべきであると。
…もちろん、これは私の考えで、他人に強要するつもりはありません。それにこれはとてもしんどい事なので、私のような偏屈な人間がやるべき事なのでしょう。
一つ例を上げると村上春樹なんかも一応メッセージ性がありますね。「踊るんだ、できるだけ考える事なく、素敵なステップを踏め」云々といった。
これは消費社会の中で意味を考えずに、ある種せつなさもある、アメリカ型の社会を深く考えずに生きていけというような意味だと思います。
村上春樹は頑張ったと思いますが、その程度のモチーフでは私は不満です。そうなると、我々は暗黒の世界に突入するので、非常にしんどいですが。
そんなわけで、私はメッセージを持つ事ができない世界から脱却すべし、という考えで、しいなここみさんとは反対の考えですが、これは、我々が享受している消費社会における自由も廃棄する事につながっていくので、誰にもお勧めできませんね。私はそんな考えをしています。
とにかく深夜に長いコメントありがとうございました。すいません。翌日にもらえればいいという感じでしたので。
私自身は、メッセージ性はなければならないと思っていますが、現代の人間、つまり我々はそれを見つける事が容易ではないわけです。
キリスト教と戦っていた時、封建社会と戦っていた時、敵がどれほど厄介なものであろうと、実はその敵の存在によって、戦う事の偉大さが規定されていたという側面があると思います。
それらの敵が消えた今、メッセージ性を見つけにくくなって、かえって自由になってしまった。それ故に、自由でいい、好き嫌いでいいとなったわけですが、それは真の自由ではなく、ただ我々が一つの大きな価値観に包摂されたが為に、自分たちの価値観を相対化できなくなった事に過ぎない。私はそう考えています。
要するに、自由とは、自由を求める戦いの内にしかない。戦いが廃棄されればそれは自由ではないのだと。
我々に確たるメッセージ性が見当たらないのは何故なのか、と真剣に考える必要があると思っています。そこから始めるべきであると。
…もちろん、これは私の考えで、他人に強要するつもりはありません。それにこれはとてもしんどい事なので、私のような偏屈な人間がやるべき事なのでしょう。
一つ例を上げると村上春樹なんかも一応メッセージ性がありますね。「踊るんだ、できるだけ考える事なく、素敵なステップを踏め」云々といった。
これは消費社会の中で意味を考えずに、ある種せつなさもある、アメリカ型の社会を深く考えずに生きていけというような意味だと思います。
村上春樹は頑張ったと思いますが、その程度のモチーフでは私は不満です。そうなると、我々は暗黒の世界に突入するので、非常にしんどいですが。
そんなわけで、私はメッセージを持つ事ができない世界から脱却すべし、という考えで、しいなここみさんとは反対の考えですが、これは、我々が享受している消費社会における自由も廃棄する事につながっていくので、誰にもお勧めできませんね。私はそんな考えをしています。
とにかく深夜に長いコメントありがとうございました。すいません。翌日にもらえればいいという感じでしたので。
- ヤマダヒフミ
- 2023年 04月03日 05時23分
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