感想一覧

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[一言]
何か誤解されてるようなので補足を

>それに対して「おまえは人殺しを肯定するのか!」と言われても……何も言えません

「エッセイに書いていたバカな論争になりがちな理由」について考えてみました。

 と最後に書いたように、あの感想は「バカな論争をする者達」が、どうしてそういう事をするのだろう?

 その原因を考えると、【作品は~のもの】という考え方にそもそもの問題があるのではないか?

 という観点で「しいな ここみ」さんのエッセイを正しいとしたうえで、少し社会現象として考えてみた感想です。

 だから、「しいな ここみ」さんの考え方について書いたものではなく、ましてや批判でもありません。

 パッと見で批判に見えたのならすみません。
 最後ではなく、冒頭に以下のようにかくべきだったと反省しています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

>『作品は読者のものだ! 読者には好き勝手に読んでバカにする資格がある!』とか『作品は作者のものだ! おまえらが何と言おうと作者は神だ! 崇めよ!』みたいなバカな論争になりがちだと思う

 なるほどそういうふうに考える人がいるのですね。
 バカな論争になりがちな理由について少し考えてみましょう。

>作品は読者のもの
>作品は作者のもの

(━_━)うーむ

 【作品は~のもの】ですか。
 この比喩自体に問題がある気がしますね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こういう書き出しだったら、よかったのかもしれませんね。
エッセイと同じくらいの感想を長々と書いた後に、これはそういう感想だとまとめるように

「エッセイに書いていたバカな論争になりがちな理由」について考えてみました。

と書いても読み飛ばされる可能性があるという配慮が足りなかったのでしょう。|\(_ _ ;)ハンセイ

 

  • 投稿者: OLDTELLER
  • 2023年 08月06日 07時38分
すみません。私の頭がバカなので理解が追いつかないんです(^.^;

私としては単純に、たとえばペットでいえば、『家で飼ってるぶんには飼い主のもの』『公園に連れて出たらみんなに可愛がってもらうもの(もちろん虐める子はダメっ)』『ペットショーに出したら飼い主がどう言おうと客観的に評価されるもの』みたいな考えでした。

そしてペットは飼い主のところにいても独立した一匹のその子であって、飼い主がもちろん一番よく知ってるんだけど、他人が見て初めて気づくその子の特徴だってありうるし、その子はその子、飼い主の勝手にしていい持ち物じゃない、みたいな……。

私はフェレットを飼っていましたが、公園に連れて行くと『タヌキみたい』と奥さんに言われて私は嬉しかったですし、年配の男性から『昔はこいつみたいなのよく罠にかけて捕まえた。農作物を荒らすから』と、野生のイタチの話を聞いたりして『へぇ』とか思ってました。

作品をあまり過保護にして「何がタヌキですか!」と怒ったり、「そんなこの子が罠にかかったのを想像してしまうような話はやめてください!」とか、そんな反応する気持ちもわかるけど、作品は外に連れ出した時点で自由にみんなにいじられるものだという覚悟みたいなものは持っておいたほうがいいと思うんですよね。

ムカつくこと言ってくる人はいるものだし、気になる点を言ってくれたおかげで見つかる病気もあるかもしれないし、作品をみんなの中に投げ出すことってとてもいいことだと思うんです。

もちろん他人のペットを無断で連れて帰ったら窃盗罪ですし、虐待したら動物愛護法?器物損壊罪?に触れますけど、それはその子が元々飼い主さんのものではないからそういう法律で守ってるんだと思うんですよね。

何が言いたいか自分でもよくわからなくなってしまってすみませんm(_ _)m
[一言]
>作品は読者のもの
>作品は作者のもの

(━_━)うーむ

 【作品は~のもの】ですか。
 この比喩自体に問題がある気がしますね。

 【これ】は、「表現の自由」というものについての考え方と、資本主義利権の考え方を混同させる比喩ですからねぇ。

 そう、〔 味噌も糞も一緒にする 〕なんて喩えもある‘ 混同 ’です。

 絶対一緒にしたくないし、その二つをまぜるなんて、「とんでもないことだ」「汚くて危険なことだ」と示す〔この〕比喩は解りやすくて良い比喩ですね。

 汚い表現だけど、官僚とか政治屋とかがマスコミを通じて、わざと物事を‘ 混同 ’させるような「汚さ」。

 いわゆる「大人の汚さ」という比喩にも通じている秀逸な比喩でしょう。

 逆にバブル以降に生まれ21世紀にになって一般でも使われ出した「空気を読む」とかは、もとは未成年の子供たちが使っていた言葉で、「大人の汚さ」を真似た言葉で、日本語の乱れなどとも言われていた表現でした。

 KYなどと一緒にマスコミが広げていた記憶があり、「雰囲気に流される」という表現が使われにくくするために故意に広められた流行語のように思えます。



※コピペ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ‘ 混同 ’が、どういうことか、ピンとこないひとのために例をあげると、〈やらない善よりやる偽善〉という比喩。


 〈無関心より不純な善行〉という意味で使われているようですが、〈この比喩〉の混同は「偽善」と「見栄」。

 そもそも「善悪」は評価基準ですから、やるからこそ「善行」と判断されるわけで、〈やらない善〉というのはおかしな表現です。

 くわえて、偽善の意味は、「善を偽る」で「不純な見栄」という意味で使うのではなく、「表面上は善だが実際は異なる、つまりは悪だ」というのが本来の意味で、「独善」などと同じ使われ方をする単語でした。

 皮肉って「見栄で善人のように振る舞う」ことをいうようにもなりましたが、本来は「悪事を隠すこと」が偽善。

 「善も悪も共に心に持つのが人間」とそう考えるなら「不純な者」は普通の人間ですが「偽善者」は悪人です。

 混同のせいで、〈この比喩〉からは、「悪事を隠すこと」が偽善という本来の意味がないことにされているわけです。

 連続殺人犯がボランティアに参加して被害者を物色するのは、偽善ですが、〈この比喩〉はそういう悪事から無意識に目をそらさせるものとなっています。

 この言葉をマスコミが広めたときに、うやむやにされた不正利用問題に関する報道が無かったか、調べてみると面白いことが分かるかもしれません。
 
 まあ、そういう例は、大は「憲法の法解釈」や法律の通称から、小は〈こういうもの〉まで多々あります。

 そのせいで、意味が変わった粗雑という意味で使われ出した「適当」や、まるで逆に使われ出した「貴様」などなど、深く考えずに |粗雑《テキトウ》に言葉を使うことで混同は広まります。


※コピペ終わり━━━━━━━━━━━━━━━


 などとつらつら前置きが長くなりましたが、このエッセイは、そういう混同を指摘するエッセイだと考えて、何故そういう比喩が使われ出したのか、少し踏み込んで考えてみました。


 作品を発表するという行為を権威が「正しい」かどうか判断して禁止する「思想弾圧」の考え方を、近代の民主主義は間違いだとしています。

 民主主義は、国が定めた民主制度の根拠となるものなので、当然ながら為政者が振るう国家権威も、本来はその例外ではありません。

 表向きはですが。

 表があれば裏があるという話で、実際には今でも古代から伝わる「権威主義」が、民主制度を骨抜きにすることで、様々な差別や横暴が許されるので、『民主主義は間違ってる』と信じる者もいます。

 『それ』は、民主主義と民主制度の混同のせいでしょう。

 為政者が、「利権」のために私利私欲で民主制度の在り方をゆがめたり、「権威」に忖度する官僚のせいで起こる問題なのに、それを責任転嫁して「権威主義のほうがマシ」という理屈ですね。


 では、【作品は~のもの】の問題点はどこか?

 先ず、曖昧で比喩になっていないのに、それが通じて当然のように考えられている事があげられます。

 こういう表現は、たぶん「資本主義」は「正しい在り方」だという権威に従ってきた人間の思い込みを前提としているように思えます。

 「表現の自由」と「所有の問題」という本来は混同するはずのない別の考え方です。

 ところが、「所有する利権」が「正しい在り方」という混同を前提とすると、意味があるかのように錯覚してしまいます。

 例えるなら、ペットの虐待がそうですね。

 法的には、ペットは飼い主の所有物です。
 けれど、だからといって何をしてもいいわけではない。

 それは、普通の持ち物でも同じです。
 モノを大事にしなさいと子供には教えているでしょう。
 包丁で他人を傷つけるなど論外でしょう。

 

 「表現の自由」は、誰もが持っていいとされる民主主義の根本的な考え方です。

 ある行為が善か悪か、正しいことか間違ったことかを、皆が話し合って決めるためには必要不可欠だからです。

 だから、このエッセイで語られている、「作者の思想を語る表現の自由」と「読者の批判する表現の自由」が対立する状態は、不自然な話ではありませんし、対立が間違っているわけではありません。

 では、何が間違っているかというと、「所有する利権」が「正しい在り方」という混同を前提とする金権権威主義の考え方でしょう。

 利権という意味で語るなら、作品は作者の|思想《もの》です。
 
 けれど、それは作品の内容の正しさや価値とは、別問題です。

 例をあげるなら、アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』を考えてみてください。

 これは色々な思想の影響はあってもヒトラーの思想です。
 ナチズムのバイブルといわれるほど影響を多くの者達に与え、多くの者が批判してきました。

 更に考えてみてください。

 その聖書ですが、その|信条《もの》は作者とされる者達のものですが、それが科学的に正しいか、現代倫理と矛盾しないかは別問題だと解るでしょう。

 だからといって、キリスト教徒やイスラム教徒がそれを信じることを批判すれば、宗教権威を敵にしますが、それを禁じるのは「信教の自由」に反します。

 「信じるのも信じないのもあわせての信教の自由」だからです。

 絶対の権威である「神の教え」など不完全な人間に語れるものではないという思想が、「自由」の根幹にあるから、近代民主主義は、「絶対の正義」を否定しています。

 なのに、【こういう混同】が起こるのは何故なのか?

 それは、資本主義の金権権威である「多くを持つ者の考えに従うことが正しい在り方」という思想に、知らず知らずに染まっている者が多いからなのかもしれません。

 また、故意にそういう思想を広めている者もいるのでしょう。

 資本主義による愚民化というやつですね。


 エッセイに書いていたバカな論争になりがちな理由について少し考えてみました。
 

  • 投稿者: OLDTELLER
  • 2023年 08月03日 14時41分
コメントをありがとうございます(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾ぺこ

著作権という視点からはもちろん作者なものなのですが、そんなのは当たり前すぎるので断る必要もないと思ってしまっていました。

『人権』というものが『ある』としとかないとヤバいから『人の命は地球より重い』とされているところに『人の命も動物の命も同じ』と発言してしまったようなものでした。

それに対して「おまえは人殺しを肯定するのか!」と言われても……何も言えませんm(_ _;)m
[良い点]
はじめまして。
通りがかりのものです。
感想を読んで若干気になりましたもので。
誤解を解くためにも……。

まったくそのとおりこれは常識ですね。昔からずっと言われていることですし、私も本などで、この言葉を何度か目にしております。
作品は作者の手を離れて読者の目に触れた時点で、それは読者のものになると言われていますね。
その作品をどう読み解こうと、それは読者の自由。そこには作者の出る領域はないと。
著作権はもちろん作者のものですが……。
本編の意図するところは、著作権などの話ではなく、その常識の再確認なのだと思いました。

  • 投稿者: keikato
  • 2023年 07月26日 06時54分
100年ぐらい前から言われてますよね?

自分が間違った勉強してたかと不安になっていたので、安心しました。ありがとうございますm(_ _)m
[一言]
しかしこの人は次から次へと連投魔かよw

バイタリティ溢れるのは良いけど
無理はしないでね
ナツを餓死させないでね
(;^ω^)

まあ、本題です

個人的意見ですが
作品は、発表前なら本人だけのモノ
の主張はアリかと

ただ、発表後に
無断で勝手に2次創作等が多々行われている
これが現実かと

パロディやら作品愛があるのは
個人的にはセーフ
悪意ある改変やらは微妙だが
アウトにも成り得る

発表した後は、著作権など主張するのは可能だが
絶対的なものでは無い気がする
自由に想像、妄想する権利までは制限出来無い気がする
٩(๑´3`๑)۶

ナッくんをご心配いただき、ありがとうございます(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾ぺこ

本文にも書いたと思いますが『発表した時点で』作者のものではなくなります。

ワンピースの絵をコピーしても、販売しなければセーフです。
漫画家になりたくて、練習のためにプロの絵をトレースしても、練習目的ならお咎めなんてありませんし、描いた絵は尾田さまではなく、描いた素人さんのものです。
発表するまでは間違いなく作者さんのものなのです。

発表したら、その時点で作品は誰のものでもなくなり、みんなのものになります。

それがパクリだった場合、もちろん問題になりますし、グレーな場合はとりあえず問題とはされていないように思います。

『なろう』ではこのへんの認識が、作者さん読者さんともに正しくされていないように思っています。

『作品は作者さんのものだから、作者さんが意図した通りに解釈してあげなければならない』なんてこと、ありませんよね。
みんなで好きにかわいがってあげたらいいと思います(^o^)
[一言]
連続で申し訳ないですが、あまりにも私の意図が全く伝わっていないので、コメントさせて頂きます。

>そうですね。著作権と所有権は違いますよね。
とご返信で仰っていますが、私は、
>>作品の所有権ともいえる著作権は作者様に付随しています。
と書きました。
なぜそうなるかの説明は前回しているので省きます。


次に、
>私は単に、作品は人前に発表された時点で作者のものではなくなるという当たり前のことを言ったつもりでした。

この仰り様ですと、しいな様が“小説家になろう”に投稿した作品がしいな様の判断で削除したり内容を変更したりできなくなるということです。
「作者のものではなくなる」とはそういうことです。
しいな様はそれをお認めになるのですか?


そして、
>私は著作権の話はしていません。
とご返信で仰っていますが、エッセイ本文では言及されていません。
本文の書かれ方ですと著作権も込みで「誰のものでもありません」と仰っているようにしか思えません。

それと、
>作品が作者の『子供』なのだとすれば、
>子供は親の所有物ではありません。同じように、作品も作者の所有物ではないのです。
という例え話もずれています。
子供は親と同じ人間であり、親とは別個の人間です。
一方で小説等の作品はあくまでも作者様の「所有物」です。子供と作品を同等にするのはいささか不適切ではと思います。


最後に、しいな様が仰りたいことは、ご返信から察するに、

「作品の感想」には作者様は関与できない。
だから、どういう感想を持ってもいいんだよ。

ということではないかと愚考しております。
「作品そのもの」と「作品を読んだ上での所感」は全く別のものではないでしょうか。
しいな様はそこを混同されているように見受けられます。


長々と申し訳ありません。
これで最後に致しますのでお許しください。
失礼致しました。
  • 投稿者: 白烏
  • 2023年 07月24日 20時40分
>作品の所有権ともいえる著作権は作者様に付随しています。

なるほど。読み逃しておりました。

『オリジナルのアイデアの所有権』という意味なら確かに仰る通りですけど、『作品の所有権』という意味では、その限りではないですよ。著作物を所持してるのは読者ですから。もちろんそれを複製して売ることとかできませんが(^o^)

っていうか私はホンマに著作権の話はしていないつもりでした。私がそれも込みで『作品は作者のものではない』と言ってると思ってらっしゃったのですか?
私が真性のバカだと思われているのでない限り、それは言わなくてもわかると思いましたが。

って、まぁ、自分が商業的なことに興味があまりにもなく、そっちに頭が回らなかったのが悪いのです。すみません(^.^;

私は『作品と作者の関係性』についてのみ述べていることをご理解ください。

『作品は人前に発表された時点で作者のものではなくなる』というのは、べつに文芸批評の勉強をしたことがない人でも自明のことだと思っていたのですが、違うのでしょうか。

どうも『作品は作者のものだ!』みたいな声をよく聞きますので、耳を疑ってしまいます。まるで『自分には太陽が地球のまわりを回っているようにしか見えないから、天動説が正しい!』とみんなが言ってるような感じです。
もちろん視点を地球に定めれば天動説も正しくなるみたいな面白い異論も言われもしますが、客観的視点においては太陽のまわりを惑星が回っており、地球もその惑星のひとつだということを知っていて初めて面白い異論だとそれは思うのです。

まぁ、そこまで大袈裟でなくても(^.^;

人類の長い歴史の中で『作品と作者は切り離して考察するべき』だの『作品の意味は100年経って初めてわかる』だの、色々な有名な学者さんによって言われて来たらしいですが、そんな物々しいものはどうでもよく、私は単に『なろう』において、作者さんに対してビクビクしてしまうほどに気を遣いすぎな人が多いんじゃないだろうかと思うだけです。そしてそれをさせている『作者は神だ! 作者の気に入るような感想だけを寄越せ!』『作品は作者のものだ! 勝手にアイデア提供とかすんな!』みたいな作者さんがいるのでは……とオロオロするのです。

私の勘違いだったらごめんなさいm(_ _)m

[一言]
作品の所有権ともいえる著作権は作者様に付随しています。例えば、私はしいな様の作品を他サイトに勝手に転載はできません。著作権があるからです。

本文中でギターの話をしてらっしゃいますが、これは論点がずれています。
ギターを制作した人は「対価」をもらって「ギター所有の権利」を売ったのです。だから、そのギターを購入した人に対して製作者は何も言えません。

しかし、小説等の作者様は「著作権」を売っているわけではありません。
小説等の本を買ったとして、その本を買った人は本そのものを破くことは出来ますが、内容を変えることはできません。
webで小説が無料で公開されていたとして、読むことは誰にでもできますが、内容を書き換えることは作者様にしかできないのです。

ゆえに、作品の権利は作者様にあり、「作品は作者のもの」です。

一方で公開された作品は代価を払えば(無料の場合は無料ですが)誰でも読めますし、その作品に対してどんな感想を持つのも自由です。
その権利は作者様の著作権とは別の権利です。
しいな様のエッセイはこの二つの権利を一まとめにしてしまっているように感じました。
  • 投稿者: 白烏
  • 2023年 07月24日 18時10分
そうですね。著作権と所有権は違いますよね。

私の下手な喩えで混乱させてしまったかもですが、私は著作権の話はしていません。著作権でいえば作品はもちろん作者のものですからね。

私は単に、作品は人前に発表された時点で作者のものではなくなるという当たり前のことを言ったつもりでした。

二次創作というものがある通り、発表された時点で作品は作者だけのものではなく、みんなのものになります。(もちろん『なろう』では著作権の都合上、二次創作は基本的には禁止されていますけど)
また、ユングも言っている通り、『作品は作者の意図よりも大きいもの』で、読者や批評家によって初めて発見される『意図』もあるものです。
作品が作者の『子供』なのだとすれば、親だからといって子供のすべてを知っているわけではないし、他人が我が子のファンになってくれたとして、好いてくれるポイントが親からしたら気に入らないとしても、それに文句を言うのはおかしいのです。
子供は親の所有物ではありません。同じように、作品も作者の所有物ではないのです。

『作品は作者さんのものだから、感想を書く際には作者さんの意図を正確に汲み取って書かなければいけないから、躊躇してしまって書けない』みたいなことを仰る方を最近お見かけしたので、『作品には作者さんの意図したもの以外にもあるよ。それを発見してあげて』『作品は作者さんのものじゃないんだから、みんなでかわいがってあげようよ』と言いたくて書いたエッセイでした。
[良い点]
法律では作品は作者の物ですが、啓蒙的考えだと作品は作者のものではないと言う考えが根付いていると言うのは面白いなと思いました。

[一言]
私は作品は作者の物でもあるし、読者の物でもあると考えています。
作品は、両方いるからこそ生きると思います。
>私は作品は作者の物でもあるし、読者の物でもある

つまり、作者だけのものではないってことです。
作者だけが作品のすべてをわかっていて、読者はそれを正確に読み取らなければならない──なんてことはないってことです。
これは私が文学評論で習った『評論の常識』です。
この認識がまずないと、創作界隈ではバカな言い合いが始まるように思っています。
[一言]
それは人それぞれ考え方があるんじゃない?
じゃ、小説家は自分自身の名前書かなくてもいいよね?
しーここさんは、ななしで作品アップする?
ワシは自分の名前を必ずいれるよ。
それは自分の物だから。
ワシの作品はワシのものであり、読者には読むこと、ないし誤字報告などは許容するけど、ワシのもんに違いはないよ。
人それぞれというより視点によって変わる話ではあります。

『著作権』という意味ではもちろん作者のものです。

ただ、私は文学評論を噛りましたが、文学評論の俎上においては、作者と作品の関係は単に『書いた人でしかない』とされています。

作者が『こう読んでくれ』と言おうが、評論においては別の読み方をされることなんて当たり前なんです。

だからなろうで感想を書く時も、『作者さんの意図をちゃんと汲み取ってなかったらどうしよう』とか忖度する必要はないのです。

『読者には誤読する権利がある』ともよく言われます。作者さんには『自分の意図したものをちゃんと読み取れ』なんて言う権利はありません。

繰り返しますが、これは私の考えとかではなく、文学評論における基本中の基本なのです。長い歴史の中で確定されている考え方です。

アメリカなんかでは特に、『自分の脚本を監督が台無しにしやがった!』みたいに騒ぐ映画監督さんとかいますが、作品は作者のものではなく、受け手のものでもなく、一個の独立したものであり、いわばみんなでかわいがるものだという認識があれば、ああいうゴタゴタは起こらないのになと思ってしまいます。

ちなみに私にとって自分の作品はもちろんとてもかわいいものです(*´ω`*)
でも過保護にはしたくない。
かわいい子には旅をさせたいです。
[一言]
「作った物を世に出す(公開する)」と言う事は「自分(作者)だけの物では無くなる」と言う事なんですわなぁ。 


  • 投稿者: 漉緒
  • 2023年 07月23日 19時52分
筒井康隆先生も『只野教授』の中で論じておられたように記憶しています。

その認識がありながら、自作を批判する文芸評論家に対して偏執狂的にやり返す筒井先生……素敵だと思います(*´艸`*)
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