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[一言]
「国貞ゑがく」の現代語訳を読ませていただきました。
「國貞ゑがく」か「国貞ゑがく」か「国貞えがく」か……。現代語訳の題名とするのに、結局「国貞ゑがく」を選んだとの話がありました。
少しネット検索してみたら、他にも「國貞ゑかく」とか「國貞画く」などの表紙もあったりして、どれが真物(ほんもの)なのか? と思ったりしました。
https://tw.daigobang.com/zh-tw/item/aID-b1090475104.html?aID=b1090475104
現代語訳とする場合、やはり旧仮名づかいを採用するのは若干ためらいがありますね。私も鏡花の「逢ふ夜」を最初「逢う夜」にしようと考えましたが、何だかそれだと雰囲気が出ないと思う気持ちが強く、題名は変更せず、そのままにしました。
また、これはちょっと違うのですが、私の勝手訳の「龍潭譚」は底本とした岩波文庫では「竜潭譚」となっていて、どうしようかと迷ったのですが、雰囲気がやはり「龍」のイメージが私には強く「龍潭譚」とした経過があります。
あるいは、これは許容範囲というか、当たり前なのかも知れませんが、幸田露伴に「雪たゝき」という作品があって、これも「雪たたき」にしてしまうと、どうも違う気がしてそのままにしました。この問題は悩ましいです。もっと割り切って、すべて「国貞えがく」みたいにすればすっきりするのかな。
もう一つ、当て字の問題があります。ただ、今これに関して書けば長くなりますので、もしも機会があればということにします。
さて、今回も鏡花の一種独特な文体を分かりやすい現代の文章に置き替えてもらうことで、我々読者もすんなりと作品を楽しむことが出来ました。
ただ、いくつかの点で、私とはニュアンスの違う箇所もありました。私の理解(訳)が正しいと主張できるものでもありませんが、たとえば七節で祖母が織次の父親に向かって言う言葉、
「他の事ではない、あの子も喜ぼう」の「あの子」を「亡嫁」としておられる所。確かにそういう意味合いがあるとも採れるのですが、私は素直に織次と考えました。「亡嫁」と捉えることによって、言葉に深みが出そうですが……。
泉鏡花の小説を読んだのは、それほど昔からではなく(と言って、最近でもありませんが)、その表現の妙に感じ入ったものです。数年前、この「国貞えがく」が収められている新潮文庫を読んだ時、気になった表現の箇所に確か赤ボールペンを引いた覚えがあるぞと、取り出して開いて見たら、どのページにもほとんどどこかに赤のラインが引かれていました。
でも、そんなことをしてまで読んだはずなのに、内容はすでにぼやけていて、この度らいどんさんの訳と合わせ読みをして、こんな内容だったのかと、自分でも呆れました。(記憶力が情けないほど低下しています)
再読の機会を与えていただき感謝です。
そして、また(あとがき)での解説によって、もう少しこの作品のことを知ることができたことも大きな収穫でした。作品の持つ構図というか意図というか、もしかしたら鏡花自身も意識していないかも知れない事柄までもが指摘されてあり、参考になりました。
私は「失われた時を求めて」を読み始めたものの、最初の段階でギブアップした軟弱者ですが、らいどんさんがそれに関連して書かれてある部分、
「……この『国貞ゑがく」』の最後のセリフは――」に始まるパラグラフはまさにその通りだと思いました。
この辺りの分析がとても上手いと感じます。
この記述によって、より深く「国貞ゑがく」の作品を理解できる気がしました。
「臆病窓」の言葉は知りませんでした。らいどんさんがそう訳されているのを見て、慌ててググりました。(笑)確かに「箱のような仕切戸」は臆病窓でしょうね。このあたりは知識がなくては訳せないところです。
新潮文庫の「デロレン坊主」の「注解」によれば、『さいもん語りのデロレン坊主とは、浪花節語りのこと』とあります。続いて写せば『さいもん(祭文)はもと神を祭る言葉だったが、江戸時代には山伏などが法螺貝や錫の音にあわせて珍しい世話話、物語などを節おもしろく語る大道芸となり、さらに浪花節が派生した。この小説の時代には、もうほとんど浪花節と区別のつかないものになっている』とあります。(P.268) ご存じであったなら申し訳ありません。
長くなりました。
ますます積極的に鏡花の現代語訳および論評を続けられておられることに頼もしさを感じます。
これからもどうぞ健康に留意され、我々を楽しませてください。
「国貞ゑがく」の現代語訳を読ませていただきました。
「國貞ゑがく」か「国貞ゑがく」か「国貞えがく」か……。現代語訳の題名とするのに、結局「国貞ゑがく」を選んだとの話がありました。
少しネット検索してみたら、他にも「國貞ゑかく」とか「國貞画く」などの表紙もあったりして、どれが真物(ほんもの)なのか? と思ったりしました。
https://tw.daigobang.com/zh-tw/item/aID-b1090475104.html?aID=b1090475104
現代語訳とする場合、やはり旧仮名づかいを採用するのは若干ためらいがありますね。私も鏡花の「逢ふ夜」を最初「逢う夜」にしようと考えましたが、何だかそれだと雰囲気が出ないと思う気持ちが強く、題名は変更せず、そのままにしました。
また、これはちょっと違うのですが、私の勝手訳の「龍潭譚」は底本とした岩波文庫では「竜潭譚」となっていて、どうしようかと迷ったのですが、雰囲気がやはり「龍」のイメージが私には強く「龍潭譚」とした経過があります。
あるいは、これは許容範囲というか、当たり前なのかも知れませんが、幸田露伴に「雪たゝき」という作品があって、これも「雪たたき」にしてしまうと、どうも違う気がしてそのままにしました。この問題は悩ましいです。もっと割り切って、すべて「国貞えがく」みたいにすればすっきりするのかな。
もう一つ、当て字の問題があります。ただ、今これに関して書けば長くなりますので、もしも機会があればということにします。
さて、今回も鏡花の一種独特な文体を分かりやすい現代の文章に置き替えてもらうことで、我々読者もすんなりと作品を楽しむことが出来ました。
ただ、いくつかの点で、私とはニュアンスの違う箇所もありました。私の理解(訳)が正しいと主張できるものでもありませんが、たとえば七節で祖母が織次の父親に向かって言う言葉、
「他の事ではない、あの子も喜ぼう」の「あの子」を「亡嫁」としておられる所。確かにそういう意味合いがあるとも採れるのですが、私は素直に織次と考えました。「亡嫁」と捉えることによって、言葉に深みが出そうですが……。
泉鏡花の小説を読んだのは、それほど昔からではなく(と言って、最近でもありませんが)、その表現の妙に感じ入ったものです。数年前、この「国貞えがく」が収められている新潮文庫を読んだ時、気になった表現の箇所に確か赤ボールペンを引いた覚えがあるぞと、取り出して開いて見たら、どのページにもほとんどどこかに赤のラインが引かれていました。
でも、そんなことをしてまで読んだはずなのに、内容はすでにぼやけていて、この度らいどんさんの訳と合わせ読みをして、こんな内容だったのかと、自分でも呆れました。(記憶力が情けないほど低下しています)
再読の機会を与えていただき感謝です。
そして、また(あとがき)での解説によって、もう少しこの作品のことを知ることができたことも大きな収穫でした。作品の持つ構図というか意図というか、もしかしたら鏡花自身も意識していないかも知れない事柄までもが指摘されてあり、参考になりました。
私は「失われた時を求めて」を読み始めたものの、最初の段階でギブアップした軟弱者ですが、らいどんさんがそれに関連して書かれてある部分、
「……この『国貞ゑがく」』の最後のセリフは――」に始まるパラグラフはまさにその通りだと思いました。
この辺りの分析がとても上手いと感じます。
この記述によって、より深く「国貞ゑがく」の作品を理解できる気がしました。
「臆病窓」の言葉は知りませんでした。らいどんさんがそう訳されているのを見て、慌ててググりました。(笑)確かに「箱のような仕切戸」は臆病窓でしょうね。このあたりは知識がなくては訳せないところです。
新潮文庫の「デロレン坊主」の「注解」によれば、『さいもん語りのデロレン坊主とは、浪花節語りのこと』とあります。続いて写せば『さいもん(祭文)はもと神を祭る言葉だったが、江戸時代には山伏などが法螺貝や錫の音にあわせて珍しい世話話、物語などを節おもしろく語る大道芸となり、さらに浪花節が派生した。この小説の時代には、もうほとんど浪花節と区別のつかないものになっている』とあります。(P.268) ご存じであったなら申し訳ありません。
長くなりました。
ますます積極的に鏡花の現代語訳および論評を続けられておられることに頼もしさを感じます。
これからもどうぞ健康に留意され、我々を楽しませてください。
エピソード11
今回も丁寧に読んでくださって、ありがとうございます。
私も、昔読んだ鏡花のものは、中身をほぼ忘れているので、読み返して驚くことばかりです。今回もいくつか読み返したりして、これは面白いと思って『国貞ゑがく』を選びました。いや、ちくま集成に入っていないので、これは初読だったような。
本によって、場所によってタイトル表記が異なるというのは、「江戸ぶり」みたいなものなんでしょうかね。詳しくはないですが、草紙、読本の類いは、タイトルを統一するという意識が希薄で、わかればいいという感じですよね。漢字で書くか、仮名にするかも、その場次第だし。『東海道中膝栗毛』にしても、『東海道中膝栗毛』という題名なのは一八冊あるうちの半分くらいで、あとは『浮世道中膝栗毛』『道中膝栗毛』『膝栗毛』とかバラバラで、けっきょくシリーズ全体は『膝栗毛』もの、と言うしかない(笑)。扉だけ『國貞画く』とかなってると、江戸っぽくていいね、という感覚があったのかもしれません。
新潮文庫は持っていないのですが、そうですか。やっぱりデロレン祭文の唄い手が浪花節のもとになっていたんですか。初めて知りました。音源が残っていると、解説を見る機会も多いんですが……。浪花節に進化したことで逆に、古いものが完全に消えてしまったのかもですね。新潮文庫の注釈も読んでおいたほうがよかったかな。
あいかわらず、自分がこういうふうに理解した、というのを押しつける訳なので、読んで疑問に思われる部分もあるかと思います。「あの子」というのもたしかに、「子」という字を使っているから織次のようでもあるし、しかし、つきまとわっていると思われる織次を「あの」と指すのもおかしな気がするし……うーん、どっちなんでしょうね。いつか、そのへんで失敗しそうな気もするのですが、……まあ、あまりまわりを気にせず読んでいきたいと思っています。
では、お体にお気をつけて。今回もありがとうございました。
私も、昔読んだ鏡花のものは、中身をほぼ忘れているので、読み返して驚くことばかりです。今回もいくつか読み返したりして、これは面白いと思って『国貞ゑがく』を選びました。いや、ちくま集成に入っていないので、これは初読だったような。
本によって、場所によってタイトル表記が異なるというのは、「江戸ぶり」みたいなものなんでしょうかね。詳しくはないですが、草紙、読本の類いは、タイトルを統一するという意識が希薄で、わかればいいという感じですよね。漢字で書くか、仮名にするかも、その場次第だし。『東海道中膝栗毛』にしても、『東海道中膝栗毛』という題名なのは一八冊あるうちの半分くらいで、あとは『浮世道中膝栗毛』『道中膝栗毛』『膝栗毛』とかバラバラで、けっきょくシリーズ全体は『膝栗毛』もの、と言うしかない(笑)。扉だけ『國貞画く』とかなってると、江戸っぽくていいね、という感覚があったのかもしれません。
新潮文庫は持っていないのですが、そうですか。やっぱりデロレン祭文の唄い手が浪花節のもとになっていたんですか。初めて知りました。音源が残っていると、解説を見る機会も多いんですが……。浪花節に進化したことで逆に、古いものが完全に消えてしまったのかもですね。新潮文庫の注釈も読んでおいたほうがよかったかな。
あいかわらず、自分がこういうふうに理解した、というのを押しつける訳なので、読んで疑問に思われる部分もあるかと思います。「あの子」というのもたしかに、「子」という字を使っているから織次のようでもあるし、しかし、つきまとわっていると思われる織次を「あの」と指すのもおかしな気がするし……うーん、どっちなんでしょうね。いつか、そのへんで失敗しそうな気もするのですが、……まあ、あまりまわりを気にせず読んでいきたいと思っています。
では、お体にお気をつけて。今回もありがとうございました。
- らいどん
- 2024年 02月19日 00時17分
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