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洗脳という道具によって人知を超えた存在を認識する、ことができたとしてもなんかあまり新鮮な出来事にはならなそうですね。過去をさかのぼればそのようなイメージはたくさんあって、萎えてしまいました。
陰謀論は楽しいけど冷めやすいですね。
もっと現実的なものの中にこそ新しい出来事が発見できる気がします。

非現実への逃避のためには洗脳という思考誘導が有効で、つまり現実を洗い流し視界を狭くすることでより強烈に非現実を認識できる、とこう考えた場合、洗脳を道具としてとらえる感覚がとてもクリティカルだと思いました。

しかし洗脳の弱点は、バランスが偏ることだと思います。つまり現実的なものの成分が薄まってしまう。

2つの洗脳、というテーマはどうでしょう。
つまり虚構への思考誘導と現実への思考誘導、相反するベクトルへ同時多発に引っ張る。アバンギャルドに。これができたらけっこう新しい出来事が生まれそうな気がするのです。

寺山修司は洗脳を有効に扱ってるかもしれませんが、だからこそその表現はそこで完結していて。僕はその次の表現を見たいのです。
洗脳という道具の有用性が見つけられたらなと思う次第です。

牝牡蠣さんのテーマの自己洗脳と精神分裂的活動演技も楽しみにしているであります。
  • 投稿者: カゼノ
  • 2024年 12月19日 20時47分

なるほど!遥かな創造性。

ところで「誰かを洗脳したい」という暴力の感覚はよく理解できます。誰だって他人を自分の思い通りに動かしたいはずです。しかしよく理解できるからこそ、この理解は実は何かに(メディアやSNSやその他に)洗脳された証なのではと疑います。
本当は人間は、犯罪や暴力に何の理解も出来ないほうがナチュラルなのではないかと。

人と他の動物とはやはり明確に差異があります。
生物的に正しいものが人間にそのまま適用するとは(それがごく少数派だとしても)思えないのです。
エログロの耽美性は、実は本能によるものではなく、後天的につくられたものと疑うこともできるのではないでしょうか。

めちゃくちゃな思い付きですが、例えば洗脳というものが概念としてそれ自体が意識のようなものを持っていて、その人知を超えた力が人間を操作しようとしているとしたら。
人間を攻撃する技術を解析するという名目で、洗脳の存在を正当化できると妄想してみました。
洗脳といういわば人間の極限状態、その自覚が新しい何かを認知するきっかけになったり。

(まあ半分陰謀論というか議論を長引かせたいみたいな気もあったりして)

映画見てみます。
  • 投稿者: カゼノ
  • 2024年 12月08日 19時00分
○洗脳はメディアやSNSによる後天的な衝動で、実は洗脳そのものに人格がある人智を超えた何かで、人格(=洗脳)が自身を正当化するために人を洗脳している!

 かなりエッジが効いてるきましたね! ただ無理が来るようなら話題を変えて新しい燃料を入れたり休憩したりするので伝えて下さいね。
 これから私もかなりぶっ飛んだ半陰謀妄想遊びをするので、脳みそ焼き切れないように体調万全で望んでね。いくよ!
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 ハナー・アレント「人間の条件」
 人間の生きる力
 労働→生命維持、奴隷、家庭(オイキア
 仕事→道具による永続性・世界性
 活動→より善き人間たる、公共空間(ポリス

 着目したのは二つ目の仕事つまりは道具です。

 アレントは仕事で生み出された道具の世界性について、例にガリレイの天体望遠鏡以前以後、という風に挙げています。
 ガリレイ以前での天体観測では、人の目による分析で、そこにはどこか天体を神話や伝説のような要素が多分に含まれていた。
 しかし、ガリレイの天体望遠鏡以後は、それによる分析を、天体を数学的な要素がしめるようになった。おそらく、コペルニクスの地動説的なモノと思うのですが、

 つまりは天体観測において天体が

 人そのもの=人の目、
 では神話や伝説だったものが

 人そのもの+天体望遠鏡、
 によって数学的宇宙的なもの

 に変わったのだと書いているみたいです。
 この、人の世界を変えてしまう道具のパワーこそが、アレントの言う世界性、だと思います。

 これはもしか、洗脳にも言えるかも?
 つまりは、洗脳という方法自体が、

 人そのもの=人の目、
 では神話や伝説

 人そのもの+天体望遠鏡、
 数学的宇宙的なもの

 のように、

 人そのもの=人体
 では犯罪も暴力もないナチュラル

 人そのもの+洗脳(=洗脳という道具→洗脳の永続性! 世界性!」
 によって、人間の極限状態! になった!?

 もしそうなら、道具の永続性、世界性を持った洗脳とは、どこか人智を超えた存在にも見えてきます……。
 と、かなりぶっ飛んでいますが、
 生真面目な話し合いでは無いので遊びに遊んでSFチックに考えてみました! フィリップ・K・ディックにこんなのありませんでしたっけ?

 どっすか?

 てか、カゼノは脳みそ焼き切れてない? 俺若干オーバーヒートしそうだけど、大丈夫か? 
  • 牝牡蠣/ヴォルタア・黒とら
  • 2024年 12月08日 21時22分
洗脳にはネガティブなイメージがあるといいましたが、ほとんど犯罪とニアイコールでハイリスクハイリターンであると思ってます。
だれかの思考の自由を縛るような行為が、(その倫理観はさておき)その行為が新しい表現を産めるのか、それが僕がもっとも知りたいところかもしれません。
洗脳は人の尊厳を攻撃しています。
生物における正当性ではなく、人間社会における正当性を、洗脳あるいはその周辺に見出すことはできるのでしょうか。
  • 投稿者: カゼノ
  • 2024年 12月08日 15時45分
○人の思考を縛る行為、洗脳が新しい表現を産むか、その正当性



 私は洗脳に正当性があるか、と問われると難しい、と答えるしかできないでしょう。
 ジル・ドゥールズという哲学者が
「サドとマゾッホ」という本を書いています。
 白状すると私は難し過ぎて読破できなかったのですが、要約を読んでみると

 『サディズム』とは
 相手を破壊するという非感情的なもの

 対して『マゾヒズム』は
 加虐者と被虐者の親密さの下に、遥かな想像性へと飛躍するもの
 
 らしいです。
 洗脳は私は『マゾヒズム』かと思っているのですが、もしドゥールズの通りなら、親密さの下に遥かな想像性。と言えるかもしれません。
 さすがに正当性、とまで問われると……難しい、と私は言わざるを得ません。
 ただ、これは小池真理子の『望みは何かと聞かれたら』という小説が、洗脳、共依存、マゾヒズム、のような小説なのですが、正当性は抜きにして、私はある意味で暴力的でグロテスクで耽美的で美しさと感じます。それはもしか三文小説のようでありきたりな不倫劇かもしれません。

 もしこの洗脳もマゾヒズムと訳すなら、それは加虐者と被虐者の親密さの下の遥かな想像性であり、それはその二人にしか理解できないものであって、それが社会的に正当に理解されることは、無いかもしれません。
 しかも二人のマゾヒズムの想像性は、二人にとっては宝石のような新しい表現でも、社会的に見れば陳腐もの、ありきたりな表現かも。
 ただやはりそれには魔性の何かがあるような気もします。しかしそれはきっと生物的正当性であり、社会的正当性ではない……のか。
 社会的正当性を、会社経営や組織論、行動経済学から考えてみることもできるかも? まだ掴めていないですが。

 ところでカルト宗教を題材にしたホアキン・フェニックス主演の

「ザ・マスター」

 という映画があるのですが、もしかそれが思考の資料になるかも? と考えました。
  • 牝牡蠣/ヴォルタア・黒とら
  • 2024年 12月08日 16時39分
とても面白いです。
現実逃避という快楽を提供されたら確かに洗脳されるかも。感情の反射という部分も興味深いです。
洗脳の意義は、自分の支配欲を満たすためというより、自分を投影した信者を複製していく、いわば種の保存のような生物的な原動力によるものかもしれませんね。
洗脳という技術がなぜ生まれたかとかも気になります。

ところで洗脳という言葉のニュアンスがとてもネガティブな理由は、それが主に暴力に使われているからだと思います。というか暴力性がなければそれは洗脳では無いと思うのです。
市街劇という突然起こる出来事にもある種の暴力性を感じます。
寺山修司は作品のテーマに意図的に暴力を込めてるのでしょうか。
  • 投稿者: カゼノ
  • 2024年 12月07日 21時01分
①洗脳の技術について

 以前ちらっと述べたハナー・アレント「人間の条件」の中に、
『オイキア=家庭』という概念が出てきます
 それは、古代ローマにおいて

 公的空間=ポリスの対になる

 生存の為なの労働をする私的な秘匿されるべき空間

 だと言われていました。
 そこには、古代の戦争で負けて捕虜にされた兵士や人が奴隷として生存の為の労働をさせられていました。

 つまりは公的空間=ポリスで政治する主人と

 私的家庭=オイキアで労働する奴隷

 その主従関係、服従があったのでしょう。
 私はこれ↑が洗脳の技術だと考えます。

 洗脳という言葉自体は冷戦期の思想改造に対し使われたようですが、このオイキア=家庭の主従関係、服従も洗脳の一つではと見ています。おそらく、ホモ・サピエンスという生物が集団生活を営む上で、巨大なコミュニティを作る際に、主人と奴隷、リーダーと構成員、のような主従、服従の関係は生命活動として必要で、もしかそれは野生の猿のボスがいる、のような当たり前のメカニズムだと考えています。文章中のサオ師の女性も、そういった当たり前のメカニズムだからこそ悪魔的に捕らわれるんだと。

②寺山修司の暴力性について。
 これは私観ですが、寺山は作家の中でも異質に暴力的だと感じます。文学者には作品に暴力描写や乱暴な性格はありますが、それとは違う。暴力というより、グロテスク、反体制かも。
 処女映画「田園に死す」は顔面を真っ白に塗った人物、母の写真を切り刻みホッチキスで繋ぎ直す、etc……。まさにアングラ演劇です。
 そもそも寺山が作った劇団天井桟敷が、見せ物小屋=フリークス(奇形)の復権を謳ってもいました。
 そして、市街劇については阿佐ヶ谷で行った「ノック!」という市街劇で民家を勝手に覗いてしまい、警察に捕まったりもしています。

 このように調べても調べても、寺山修司の異質に暴力的な要素は随所に見られるような気がします。
  • 牝牡蠣/ヴォルタア・黒とら
  • 2024年 12月07日 22時02分
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