感想一覧

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 こちらも再び読ませていただきに参りました。
 どうやら私は手段という価値観に固執していたようで人としての幸せという本来の目的を見失っていたようです。
 正直いってこの作品に人の価値観というものを判り易く具現化しようとした偉人たちの努力を無用の戯言、否、害悪と否定されたように錯覚してしまったのでつい批判的な感想を送ってしまいました。一応はその価値観を認めてはいると述べており、その上でそのいき過ぎについて警告を送っていただけだというのに。
 今さらですが改めて謝罪させていただきます。
 申し訳ありませんでした。

 でも、やはり道徳を語る者たちも所詮は自己満足の域から出ないという自覚はあったんですね。隠者として祈るだけじゃ結局世界は何も変わらないわけですし。

 そういう意味ではこうした作品で世間に訴え続けるあなたは偉大だと思います。
 これからも活動を頑張ってください。
  • 投稿者: 戯言士
  • 2025年 04月07日 06時12分
 戯言士様、ご感想ありがとうございます。

 何をおっしゃっているのか、まったく読み取りにくいのですが、何かの嫌味なのでしょうか?
 何らかの妄想と戦っておられるのでしょうか?
 嫌味たらしい表現に陥る時点で、人格的にも道徳的にも劣位にあるのではないでしょうか。
 各々が自らにとっての価値を感覚するのは自由です。しかし社会的な価値となると異なります。価値の主張は往々にして、異なる価値の否定につながっているからです。そのようにして、現実の力によって、立場の強い者達の側の倫理的な正当性が誇張される。しかし、誇張は科学的な検証に耐えません。すると結局、社会的な価値とは、人々の内面的な共感的な利他性に帰着するしかないのです。
 そして、道徳的な議論は、現実の社会の様々な面で実際に活用され、効力を発しています。現実の不正義を一掃するにはほど遠いですが、人々の善意の力はゼロではありません。
 失礼致しました。人間としての精神的在り方について述べられている場において、このような価値観の多様性の話を持ち出したのは間違いでした。
 ただ、あなたのことを詰り貶めることを悦びとする目的のコメントでなかったということをご理解いただければと思います。
 それでは重ねてお詫び致します。
 大変失礼致しました。
  • 投稿者: 戯言士
  • 2025年 03月15日 02時27分
 戯言士様、ご感想ありがとうございます。

 確かに、悪意のないご投稿だったということはわかります。対して、常識的に見て明らかに過度に攻撃的なのは、もちろん私の返信のほうです。
 私の感想返信は、他の方々に対してもしばしばこんな感じです。しかし私の返信内容も、いちおう内容や理屈があり説明を意図したものであって、戯言士様の尊厳を軽んじたり侮辱する趣旨ではないと思っていただきたいです。言葉がきついのは、論理構造を明確化するためでした。このようにきつく表現しても、かつては何ら成長も譲歩もしない人達が一般的でした。令和には不適切だったかもしれません。笑
 まあ、正義や道徳的な価値とはいっても、それは主観によるでしょう?、という反応は、正直なところ一般的です。またそれを、真理や発見だと思いやすい。社会的な価値に一定の普遍的構造があるということは、なかなか、現代では理解していただくことのできない論点のようです。したがって私は同様の反応を何百回と受けて返信しているので、本文での説明も雑に、感想返信も雑になってしまっている面もあります。
 戯言士様の実力を軽んじたような先ほどの表現は、取り消します。悪意のないところに罪はありえず、悪意がない以上の価値はありません。道徳を愛する私はそう信じています。いつまでもお元気であってくださいませ。
 丁寧なお言葉、ありがとうございました。
 いろいろと道徳について述べられておられますが、忘れておられないでしょうか。所詮道徳も人が社会生活を築くための手段に過ぎないということを。
 何を以て善とし悪とするかは、その環境と見方によって変わるもの。
 例えば、あなたの忌み嫌う拝金主義もある意味社会的正義なのです。
 そもそも金というものについてですが、それはそれを持つ者がどれだけ社会に貢献できたかを具現化するためにできたものであり、それ故にそれをある種の徳のパラメーターとして人は見るわけです。ならばそれが拝金主義に至るのは当然の結果というもの。
 金とは安定した社会を齎すための秩序を築くための手段のひとつだということから目を逸らしてはならないのです。
 ということで、ここでは金を例に出してみましたが、見方によって観念というものは変わってくるわけで、マイノリティ、マジョリティと騒いでみるよりも双方の良点を探り、そのバランスについて考えてみてはいかがでしょうか。
  • 投稿者: 戯言士
  • 2025年 03月12日 14時11分
 戯言士様、ご感想ありがとうございます。

 先日、「ぁゃιぃ(*゜ー゜)NEWS 2nd」とかいう「2chまとめ」系ウェブサイトで、『本気出して「善」と「悪」がなんなのか考えるスレ』という記事を目にしました。そのコメント欄で、「集団に都合の良いものが善」という主旨の投稿を繰り返している人がいましたが、(私じゃないですが、)ご指摘の主旨に対してはその内容が適切な説明だという気がします。

個人レベルの問題は全て善悪を用いずに説明可能
善悪は人が集団を形成した時に初めて生まれる概念

 ……といった説明を罵詈雑言を交えて大量の文章で多角的に説明しています。個人的には、かなり初歩的な論点になるのでここで詳しく解説したくはないです。

 「馬鹿の口喧嘩においては論拠の権威が認知のすべて」と本文で説明しましたが、例えば現代社会ではお金持ちが自らの存在感で権威を強調し、逆に言えば貧乏人の主張は尊重されないといった実情があると思いますが、「論理的」には、権威の実情はその「価値」あるいは道徳的価値ないし社会的価値を証明しません。逆に言うと、本文が論じる道徳的価値つまり善悪は、妥当な推論によって事実に接地したものに限られます。

 そしてさらに、拝金主義つまり利己的な価値が「善」つまり道徳的価値ではないという論理的な理屈が必要になるわけですが、それは、「自由主義市場による全体最適性というナラティブは、近代経済学によるファンタジーにほかならない。」というほぼ一行で済ませています。
 ですが、「マイノリティ、マジョリティと騒いで」いるようにこの本文が見えるような方には恐らく、その意味は永遠にわからないことだろうと思います。
 「見方によって観念というものは変わってくる」という点も、本文冒頭の「現代の道徳は考え方の多様性を説くが」として視野に納めているので、もちろん本文で論証的に棄却できています。
 あなたに思いつくことは、あなたよりも賢い人は全員思いついています。あえて戯言(たわごと)を述べていらっしゃるのかもしれませんが……。
 道徳を授業化した折には、授業であるが故の採点を危惧すると共に、多くの人は、時の政権与党の改憲に意する恣意的な思惑が垣間見えた事から、反対の声が多く出ましたね。
 改憲に対しても言える事に、大衆は凡そ改憲に対して肯定する部分は多く考えてもいるが、反対する理由こそが“憲法を扱う政治家に道徳がある者が居ない”事から反対の声が多く上がる訳だ。
 今や政治家ではなく政党渡り鳥の政治屋が権力を持ち、それが比例上位になるような現状の政権与党だからこそ改憲させる事に反対なのであり、自身の思惑に授業化した道徳観念が、何れはそうした道徳の無い政治家を内から打ち倒す事を願うばかりとなっているのでしょう。
 その折には、授業化した当時の政権与党の政治屋は、道徳を身から出た錆とすら思えて来るのかも知れませんね。

 途中、つまりを繰り返す文体に、バカボンのパパ語録で馬鹿にする所は笑いましたが、論理と倫理に道徳倫理へと至るまでの話は、現実社会におけるネット社会は“サーフ”するの言葉が云うようで波乗り感覚にしか物事を考えない者を増やしたようにも思えます。
 元々の軍事兵器の素養に人を駄目にする目的を有していた事を如実にしてもいますが、ものは使いようを賢いとするかにも道徳があればこそなのでしょう。

 「道徳理論の庭の香り」素敵な表現。
  • 投稿者: 静夏夜
  • 2025年 02月28日 20時16分
 静夏夜様、ご感想ありがとうございます。返信が遅れましてごめんなさい!

 1958年頃からあった「道徳」が2018年頃に「教科」の一種になったという話題ですね。安倍政権下でしょうか、まあ、右方向の動きですね。しかしこういう考え方もできます。戦後初期にはずっと弱かった中国およびその周辺諸国がはるかに強大に成長するなかで、日本人が日本人の利益を集団的に防衛することはすでに困難になっている。言い換えると、売国奴が洒落にならない。戦後教育は米国が日本の背骨を抜くために個人的利己主義一辺倒でしたからね。金や力でいくらまさっても「善良に生きる庶民」より決して尊くはないのだと、中央政府が一度、子供心に対し述べておくことは重要です。金や力で尊厳が買えないなら、政治家の価値もまた、国民幸福への実質的貢献度ということに回帰します。民間企業じゃあるまいし、利益誘導で社会の公正な運営は不可能です。
 憲法の改正についても、私は好意的です。平和憲法とは言っても、その実態は敗戦国の手足を切り落としたにすぎない。「道徳がある者がいない」と言ったって、日本の庶民に原爆を落として民主主義を啓蒙してくれた米国に何か道徳らしきものがあるわけでもない。欧米の土人から日本が教わるべきことなど初めから一つもないのだから、戦後憲法なんていりません。
 そしてそもそも、従来からの道徳もそうですが、内容としては特に道徳を教えてはいない気がします……。道徳っていうのは、商人や財界や資本家にとってはもちろん不都合なものですが、国家権力や超大国による国際的支配にとっても限りなく不都合なものです。道徳なんてものは、一種のテロ思想ですよ。だって第一に、倫理的正当性と法律的正当性は論理的に分離されます。その両者を混同させることで「正義による支配」を捏造している現代にとっては破滅的じゃないですか。
 「バカボンのパパ語録」は意図してないです……笑。「そうでないからそうではないのだ」と書いたところかな?
 インターネットは情報の流通を多元化しましたね。民主化した。それ自体は非常に好ましい気がしますが、実際の世論はさほど進歩してない気がして残念です。大量の愚者がいるとしても、現実を顕在化したことは健全でしょう。「ひろゆき」だとか「ホリエモン」だとか、非メインストリームの思想家が動画配信などで小さくない影響力を持っていることも、健全な気はします。私は昔、西部邁という人の文章を雑誌で見て感心しましたが、知的水準としてはそれにかなり劣る気はしますが……、昔を懐かしんでも仕方ないので……。
 「素敵な表現」とのお言葉、ありがとうございます。
事実はひとつ、これが真理ですか。
改めてみると、私の思想とおおむね一致します。
私見では「事実は一つとしても、真実は一つとは限らない」
「絶対に正しい真理とは、絶対に正しい真理など存在しない
ただ一つだけ、そしてこれは自己矛盾している」
と、過去綴ったことがあるので。

道徳を追及するのは難しいですね。
論理と倫理はけだし近しいと、私も思います。
それがいまや世俗から乖離…ゆゆしい。

民主主義がどうたらとはよくわからないのですが。
調和がひつようなことはわかります。
でもいま、世界中で悲惨なことになっていて…
福祉には同時に、教育が必要ですし、
教育には道徳が必須なのに、なまじ
宗教が絡むとそれが困難になったり…

最後の〆の、勝利とは、も
考えてしまうのです。
単に武力で勝つこと? 愚かしい。
前世紀で示されたはずなのに。
力など弄べば、簡単に世界は終わるとわかりきっているのに…
卑劣な犯罪が世界中で起きていることを思うと。
道徳は、最低限普遍的な共通項ができないものかと、
つい願ってしまうのです。

乱筆失礼しました。(^^♪
 酒のつまみにあたりまえ様、ご感想ありがとうございます。最近活発にご執筆されていますよね。お元気ということかな。幸いです。

 絶対に自分が悪いと認めない人っていますよね。責められれば言い訳する。自分では成り立っているつもりの言い訳をすれば言い訳ができたと思っている。もっと言えば、成り立っているかどうでもいいと思っているからこそ、自分が悪いとは決して考えないという芸当ができる。そういった人の主観的な世界には(唯一的な)「現実」はない。
 一方で、(唯一的な)現実は存在し、私達はそれを共有している。反社会的な行動や政策は情報の偏りといった虚偽を常に不可欠としているから、事実性は公正をほぼそのまま意味する。一方、現実そのものは限りなく複雑であって、私達人間の個人や全体が表現したり思考することはできませんが、それは現実そのものが存在しないことを意味しない。
 推論を複数人で行うことが議論ですから、議論が妥当であるためには不都合な結論を危惧しての情報の歪曲は(理想を言えば)許容されない。したがって、正直だの誠実だとのいった徳性はすぐ自然に導かれる。
 民主主義がどうたらは、人類が歩んできた歴史の話です。利他性の価値を肯定する命題は利己性の合理性の限界を指摘する命題でもあるため、それへの言及が欠かせませんが、もう昔の話なので、わからなくても自然です。
 現代の価値のフレームワークは一面で明らかに資本主義的であり、金持ちが金持ちであることによって聖人君子にマウンティングを取るようなところがある。聖人君子らからすればそれはナンセンスでしょうね。気高く美しい者達は気高く美しい価値を追求していて、勝利と義は完全に調和しているのだと思います。

 拝読する時間にはなかなか恵まれませんが、今後ともお元気であってくださいませ。今回もお言葉ありがとうございました!
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