感想一覧

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[一言]
なっちゃんさん。
"差別"と"差蔑"、分かりやすい表現だと思いますよ!!

本文だけでなく他の人の感想などを読むと、さらに考えが深まります。
まるで議論しているかのような。

大学へ行ったら、こんな議題も出て来るのでしょうかねぇ...。
  • 投稿者: 江角 稚
  • 18歳~22歳 女性
  • 2012年 02月16日 23時52分
 なっちゃん議論屋、屁理屈屋♪
 ……でございますw


 人文学で、語学やら論理学やら。
 あるいは社会病理学やらをやると、似たような議題はあるかもしれませんねえ。

 学問の本質は議論にある、とわたしは思うのですが、


 なかなかなかなか、学生同士だとインテリジェンスが不足している場合もあって
 ただの口喧嘩になってしまったりして、
 それはそれで、その人はなにに感情的となるのかが分かって面白いですが……
 自分の考えを表明し、叩かれ、なにくそ! と思うから学問発展は楽しいと思うのですw



 好き勝手に文章を書きつつ、自分の言葉に責任をもつ、という、このサイトの環境もありがたい。
 そして、わざわざのご感想を投じてくださった江角先生にも感謝を捧げます。
 いつもありがとうございます!
[一言]
大きな意味の差別からヘーベルハウスの身近なところまで来るところが作り的にも、内容的にも面白かったです。こういう「あげあしとり」はアリです!!
  • 投稿者: 小春
  • 2012年 01月31日 18時02分
 言葉を使うのは非常に難しいと思うのです。

 いつどんなときも、ものごとを現そうとするときに
「他者の視点で見た際にその他者をネガティブな主観的価値観によって傷つけてはいないか」
 という言葉選びをせねばならず、

 それでいて、小説を書こうとするときは、相手に主観的に読んでもらわねばならず、

 なかなかにモノカキとはたいへんなものです。

 弁論好きが高じて「あげあしとり」という蔑称をいろんな人からいただくのですが、
 自称すれば武器にもなる、というあたりもまた、言葉の面白さであはありますねえwww


 お読み頂き、また感想たまわりまして、ありがとうございました!!
[一言]
自称、あげあしとりのなっちゃん・・・
素敵w

  • 投稿者: 退会済み
  • 男性
  • 2012年 01月25日 17時34分
管理
 あしをあげなければ、私は別に脚フェチじゃないので放っておきますが。
 振り上げられた脚があったら、とりあえず太ももをサワサワしたく……以下略www
[一言]
格差を根絶しようという試みは、突き詰めるとマルクス主義的な弁証法的唯物論に行き当たるかもしれないけど、プロレタリア革命が必ずしも格差社会をなくすものかと言えば実はそうではなく、たんに新たな支配階級を生み出すだけだったりすることは歴史が証明していると思うんだけど、これいかに (´・ω・`)?
 唯物史でものごとを見渡しても、人間はひとまず半径2メートルの範囲の自己に関わりのあることへ感情的な見方でしか物事をみえない動物であった、という感じが私にはありますねえ。
 格差を受け入れて安寧することのほうが本質的な部分では唯物論な気がしなくもないのですが、人間がもう少し思考を捨てれることができる将来があるとするなら、プロレタリア革命に似たことは何度となく起こるのではないかと思われまする。
[一言]
果断なく襲いかかる破壊因子の手から逃れる為には、差異という逃げ道の分岐が絶対必要だとは思いますが、蔑視は無用ですね。貴様は何様なんだ、人間のくせに! と言いたい。

私は他とは差別化をどんどん図っていきたいです。他の価値をないがしろにすることなく。
  • 投稿者: 退会済み
  • 女性
  • 2012年 01月24日 18時41分
管理
「ヒイキ」という言葉がありますが、
 商売人としては「今後ともご贔屓に~」という言葉がありますしねえ。
 ただ、蔑視もある一点で必要ではあります。
 ここらへんは社会病理学にかかわりますかねえ。

 あるいは自己蔑視という状態が人間にどういう発展をもたらすか、
 なかなか興味深いものであります。
[一言]
なんだか「生物多様性」という言葉と「差別をなくそう」という言葉は真逆を向いている気がしますね。
一番怖いのは「差蔑」が自分の中に無意識にありはしないか、というところでしょうか。
こういったお話を読ませていただくと、気が引き締まる思いが致します。
ありがとうございました。
  • 投稿者: すー
  • 2012年 01月23日 23時31分
 おおお、鋭い知見ですねえ、びっくりしました。
 書いた内容から一歩踏み込んだ「無意識的差蔑」について
 言が及ぶとは思ってもおりませんでした。←なんだかめっちゃ偉そうwww

 差があって別つとき、そこに蔑視という主観は少なからず内在するものと思います。
 どれだけ、自分自身のなかに意識できている差蔑があるか、というのが決め手なんでしょうね。

 本文は、より正確にすると「差蔑をなくそうとする努力は賞賛できる」が現実的にはこれも不可能だと言わざるを得ないのでありますね~。努力し続けることが大切、無意識のままであるのが一番危ない。いわく「無知の知」であり「無知は罪」でありましょう。

 なぜなくならないか。これも人間の「自由」な尺度である主観に由来するのでしょう。
 それに、誰になんと言われても「自己蔑視」「自己差蔑」は、論理的には切り崩せない「自己内容の表出」なので、差蔑がもしなくなるとすればそれは「自分以外の他者が完全に平等である」という場合のみだけ。なかなか手間のかかる仕事ですが、なかなか燃える仕事になりそうではありますね。


 ぐだぐだ書いていますが、
 お読みくださりまして。
 またご感想たまわりまして。
 たいへん、ありがとうございました!
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