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 難しいことを言ってますけど、結局は全て自身のためで良いのではないでしょうか?
 住み好い世界を望むなら、世界が良くなるように努力しましょうという当たり前の話なわけですしね。
 利の逸脱とか言ってますけど、利他なくして利己のないのが理ならば、利己のための利他を行うことになるわけで、結局は全てが利の内です。
 ならば私はそんな自己欺瞞を以て偽善に努めるとしますかね。(笑)
  • 投稿者: 戯言士
  • 2025年 06月22日 23時51分
 戯言士様、ご感想ありがとうございます。

 それは、「結局は全て自身のためで良い」という願望する自己欺瞞に向けて、弁明を脳が逆向きに構築しているだけです。自己の快のために子を愛することと、子を殴ることが、「自己の快」という理由で説明できることをもって、まさに同等の社会的な価値だと言えるでしょうか? おっしゃる主張の自己矛盾は、いつも甚だしく自明です。絶対に勝てないものと戦っているからです。真実と自己正当化が矛盾しているのです。そしてそれは、人間精神の加害的な暴力性の最も露骨な姿ですらあります。ずっと前からそうですが、戯言士様は、一切成長しませんね。
 自分は自分、他人は他人。
 暮らす世界は共有すれど、個人の内面世界はその個人のみのもの。故に価値観を比べるのはナンセンスといったところですかね。
 自己を中心として図る世界との共存共栄。多分これが唯一神論の解釈になるのかな……?
  • 投稿者: 戯言士
  • 2025年 06月22日 23時21分
 戯言士様、ご感想ありがとうございます。

 「価値観を比べるのはナンセンス」という反駁は、近代的な大衆が利他的な美徳を矮小化するために行う典型的な「相対主義」であって、論理的にはまったく成立しないことは、繰り返しご説明してきたとおりです。おっしゃる内容は単に独善への埋没であり、神の愛に最も背くものだと言わざるをえません。
 神は人に懐いても、人は神に懐くとは限らない。
 経験に学べば学ぶほど神への理解は難しく遠のくから。
 ただ今を生きている、そのことだけを刹那的に考えられれば可能なのかな……。
  • 投稿者: 戯言士
  • 2025年 06月22日 22時30分
 戯言士様、ご感想ありがとうございます。

 ただ今を生きている、そのことだけを刹那的に考えているから、恥知らずな利己主義を自己正当化する精神の腐敗が、「学び」だと錯覚されているだけでしょう。それは学びではないし、人生を通してより倫理的な方向に成長する魂も多く実在します。それを認めると自分が劣等だということになるから、理性が事実を認識することを拒絶しているのです。
自己欺瞞から目をさます、これは難しいですね。
私は個人主義をきっとやめられませんから。
個人の自由と権利あってこその社会であると。
ただし、公共の福祉に反してはいけない、
とだけは前提としているのですが……

いま、壊れつつある世界で。
破滅的な事態を回避するためには、なにが要るか、
それを深く追求したエッセイですね、とても興味深いです。
 酒のつまみにあたりまえ様、ご感想ありがとうございます。

 自己欺瞞の外側に立ってもメリットないですからね。この船、穴あいてない?、第一層の人達もう全員溺れて死んでない?、とか、見えても言っちゃいけないのが現代人類の社会ですからね。
 本文では、個人主義や平等主義やマルクス主義を否定していますが、実際社会でそう呼ばれるすべてを否定したいってわけでもありません。本文ではそれぞれを厳密な論理で立ち上げています。そして欺瞞性の骨格を見抜いて、まあ結局は否定してるわけですが。
 「公共の福祉に反しない」は、貫徹しようとするとあまりに重大な命題ですよね。本文の議論は、まあ人間だから公共の福祉に多少反して生きても仕方がないけど、「より反していない」存在への敬意を失ったら、文明って墜落(沈没)していくだけじゃね?、みたいな話です。
 近代西洋史における個人主義と公共の福祉の話については、やっぱり私としては、問題視はしますね。個々人の私有地を区切って私有地のなかでは自由とするイメージですよね。思想・言論の自由は、わかります。でも実際に近代史を通して起きたことは負の外部効果の徹底的な矮小化ですよね。じゃあやっぱり、古代の金融業者がその哲学を訴えたとき、すでに悪意はあったのだと、私は結論します。利己性が恥とされない社会は、拡大しきった狂気がついに正気の顔をするようになった社会だと、私は思ってます。
 そうですね、国際的な暴力も今なお日常であり、ある意味では正義を論じることが決して抽象的ではない、恵まれた時代なのかもしれません。人間精神の大きな変革の時代の到来を、密かに願望しつづけております。コメントありがとうございます。
みすぼらしい行為、なるほど。
他人を見下しての嘲笑ならそうなりますね。
しかし憎しみと嫌悪からはどうなるか……
 どういうことですかね。自身に都合のよい自己欺瞞を傷つける事実的な言動、すなわち偽善を傷つける善に対して、聖霊の貧しい人々が嘲笑するのみならずしばしば憎悪や加害することは一種の必然ですが、やはり、みすぼらしいですよね。殺されても殺したほうがみすぼらしい。殺されて負けてんのに「みすぼらしい」とか言って意味あんの?、という点については、結論から言うと、あります。
たまたま、私も
神、愛、宇宙
↑の三つの概念の、どれがどれを包括するか、
などと試みて結論が出せずにいました。
ロジックとしてベン図にしたかったのですが、なかなかに難しい。
それぞれの占める範囲があいまいだから、しかたないのですが。

私も、優しさが弱さとは思いません。むしろ強さなのでは?
そして、力と強さは相関関係にはおおむねありますが、別物と思います。
神がひとに懐く、とは驚いてしまいましたが、反対する根拠となるものはないし、
けだし名言だと感じました。
 酒のつまみにあたりまえ様、ご感想ありがとうございます。

 宇宙は常識的に言えば実在ですよね。愛は生命において現実的な現象ですよね。神は、冷めたことを言えば単に主観ですよね。歴史的な宗教なら外部に神を仮定しますが、本文は実はそういうのに頼ってないとこが、一つのテクニックです。
 優しさが弱さなら、誰にでもできますもんね。いざ喧嘩になったら勝てるって口でだけ言ってるレベルですよね。
 強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。とかいう名言(もどき)があるようですが、やっぱり、英雄的な正義の味方が一番かっこいいと思います。最も強い者が最も弱い者のために倒れていく姿こそが、美の頂点ではないでしょうか。
 神がひとに懐く、は滅茶苦茶重要なコンセプトのつもりです。いやー、名言だと思います(←自重しろよこいつ)。
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