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[一言]
お返事ありがとうございます。


ディベートの論題は、ゲームとしての公平さを保つために、幅広い議論の余地があるようなものが選ばれています。しかし、おっしゃる通り「議論の余地があるかどうか」の判断は個人によるところもありますので、それを「議論の余地がない」として思考停止に陥る人もいるでしょう。

私としては、そのような人こそディベートを経験し、自分とは異なる立場についての知識・理解を深め、自信の見識を広げるべきだと考えているのですが、自分の意見に固執し、反対意見を暴論として排除してしまうような人はディベートをまともにやろうとしない可能性が高いですね。

しかし、例えば「死刑には絶対反対、異論は認めない」という人でもその他の論題、例えば、道州制や、炭素税については「議論の余地がある」と考えるかもしれません。まずはそういった「取り組めそうな」論題からスタートして、自分の思考の狭さを痛感し、「死刑についても自分は誤解や偏見に基づいた判断を下しているのかもしれない」と、自分の考えを振り返るようになる可能性はあります。ディベートは、先述の通り両方の立場から議論を作るので、片方に意見が偏ることなく客観的に物事を見つめる機会を与えてくれますから、いくつかの論題でのディベート経験を通じて、「安易に判断を下さず、批判的・実証的に自分の考えを見直す」という姿勢が自然に身についてくるように思われます。(私自身、ディベートに慣れるごとに、軽々しい発言はできなくなりました)

このように、ディベートの意義は「論題について多角的に考えることができる」だけでなく、「何となく物事を決めない」姿勢を養うという、より一般的なところにもあるのです。


「ベニスの商人」の件ですが、ディベートのジャッジはまず間違いなく「肉は取ってもよいが血は取ってはならない」という主張はとらないでしょう。私も、審判であればそのように判断します。理由は、「肉をとれば血が出るのは常識的なことなので、その前提を無視した要求は非現実的であり受け入れられない」からです。もちろん、冷凍したり、焼いたりといった加工によって血が流れないようにすることはできるのかもしれませんが、そうした「特殊な」ケースをもって「肉を切れば血が出る」という「一般的な」判断を無視すべきとの結論にはならないでしょう。

ディベートの審判は、自分が下した判断について選手に理由を説明する責任を負います。ですから、「血が出ないように肉を取れ」というおかしな要求を擁護するような突飛な判断を下す場合は、その判定理由を双方に説明せねばならないのです。これが、「自分が理由を説明できないような変な判断は下さない」という判断基準につながり、ディベートという競技の質を保つ一つの要素になっています。

取り留めの無い回答になってしまいすみません。
競技ディベート・教育ディベートについては、以下のページが参考になるかと思われます。

http://nade.jp/first/

http://japan-debate-association.org/intro/intro1.htm
  • 投稿者: MAGICAL_DEBATER
  • 18歳~22歳 男性
  • 2012年 12月13日 00時37分
お返事ありがとうございます。おっしゃる通り、ディベートによって他人の意見をよく聞くという習慣は身につくかもしれません。それには大賛同します。最近の原発反対論争なんか見ていると、反対派の人たちは論理的思考というよりは、感情的にものを言っている感じがします。やはりきちんとしたディベートが必要かもしれません。それとディベート好きが世を滅ぼすというタイトルは論理飛躍があったと思います。多分アメリカの訴訟社会は、他の要因もあるのかもしれません。

ただ筆者が海外勤務をしていた時、現地のスタッフや弁護士と話しているとどうしても日本人と議論が噛み合わないということがよくありました。契約書一つとっても、日本なら紙一枚で済みそうなものを何十ページに渡ってこと細かく作成します。言葉の定義だけでも何ページにも及びました。「この契約書において「期日」とは…」といったように当たり前のようなことまで、こと細かく決めてゆきます。これは後々そうしたことで議論の余地がないようにするためです。「ベニスの商人」の例を借りるなら、「血」についてもきちんと定義しておく必要があったということになります。

本当に疲れる社会でした。スミマセン愚痴になってしまいました。

ということで、本題についてのディベートは終了ということにして、あとはジャッジ(読者の皆さん)の判断に委ねましょう。大変勉強になりました。ありがとうございました。
[一言]
中学・高校時代に同好会・部活でディベートをやっていました。

まず、私のディベートに対する考え方を簡潔に書くと、「ディベート教育そのものは望ましいが、この文章中で言及されているディベートは、『ディベート』と名前がついているだけの、無価値な教育である」というものです。

私が経験したディベートは、ツジセイゴウさんがこの文章で言及している「ディベート」とは全く異質のものです。

具体的な相違点は、
1「変な論題は使わない」
2「暴論はまかり通らない」
の2点です。

まず1「変な論題は使わない」ということについてです。
この文章中にあるような、カラスの色を決めるような議論はしません。明らかに事実であることについては、議論の余地がないとみなされるからです。
ではどのような論題をつかっているかというと、簡単には判断ができないようなものを使います。例えば、救急車の有料化や、中学生以下の携帯電話の使用禁止といった問題を扱います。
私が参加していた大会は「全国中学・高校ディベート選手権」というもので、半年かけて肯定・否定に有利・不利の差がないテーマが論題として決められます。
すなわち、「黒い物を白だと言う技術」ではなく「黒か白か判断しかねる物について、黒(あるいは白)であると判断すべき理由を、相手にわかってもらえるように説明する技術」が要求されているのです。

2「暴論はまかり通らない」
ディベートの試合では、肯定・否定の主張、どちらに説得力があるか第三者である審判が判定します。ですから、どれほど自信満々に議論を展開していても、内容が荒唐無稽で到底受け入れられないような論を展開するチームは勝てないのです。(「カラスが黒いかどうか」という論題の場合、「突然変異だとかペンキを塗られただとかいう暴論もまかり通る」ような判断基準を採用せねばゲームとして成立しないでしょうからそのような試合になるのかもしれませんが、論題の選定が不適切だと、このような変なジャッジをしなければならないのです。)
簡単には判断できないような「まともな」論題であれば、一般的に納得できるような価値基準に基づき、きちんとしたデータに基づいて、わかりやすく説得力のある議論を行ったほうが勝ちになるのです。

以上のように、本来ディベートは「屁理屈を戦わせる競技」ではなく、「より正論に近いと思われる議論を目指す競技」なのです。

しかも、一つの大会で肯定と否定の両方を担当するようになっており、どちらの側に立っても説得力のある議論が展開できるように準備しておかなければなりませんから、一つのトピックに対して様々な観点からアプローチする癖がつきます。約半年もの間、どちらの側に立ってもいいように幅広く膨大な量の文献を読むので、たとえ自分の個人的な考えとは異なる主張に対してであっても、一定の理解が示せるようになります。

私の場合、他人と意見が違った場合であっても「この人がこのような意見をもつのには、それなりの根拠があるのだろう」と考え、相手の意見を聞き、自分の意見を伝え、それによって相手と分かり合おうとする心の余裕が生まれました。


ところが残念な事に、指導者の中にはディベートの意義を理解せずに無意味な(場合によってはマイナスになりうる)授業を展開し、それを「ディベート」と呼んでいる人も少なくありません。(カラスの例はその典型でしょう)
ディベートのよさが「正しく」伝わっているとは言いがたい状況なのです。


アメリカの学校でディベートがどのような形で実践されているのかは、詳しい知識を持ち合わせていないのでなんともいえません。しかし、少なくとも大学ディベートの最高峰の大会では「カラスの色」について議論するようなものは採用されていないようです。(アメリカの場合1シーズンが1年なので、いい加減な論題では論点が出尽くてしまって1年間の議論に耐えられないそうです)

アメリカで見られる「変な訴訟」が、アメリカにおける「不適切なディベート教育」のためなのか、それともその他の要因によるものなのかはよくわかりません。詭弁を弄する者が世間に存在するからこそ、そういった議論にきちんと反論する、あるいはそのような変な議論をする者たちに有利な判断を下さないようにする、そのために「価値あるディベート教育」が必要なのだと思いますし、そういった人材を育成する方向に教育界が動き、世の中の人が真の意味で「ディベートに成熟する」ことが、今の社会に求められているのだと思います。
  • 投稿者: MAGICAL_DEBATER
  • 18歳~22歳 男性
  • 2012年 12月12日 14時01分
ご感想ありがとうございます。

筆者もディベートの専門家ではないので、もし偏った見方があったとしたら大変失礼しました。筆者も某英会話学校に通っていた時にディベートの講義が受けたのですが、第一感、変な授業だなという印象を持ちました。そして、筆者のディベートに対する偏見?は、親しかった友人が米国留学を終えて帰国してからすっかり人格が変わったように理屈っぽくなってしまったことで、さらに深まってしまった次第です。

確かに、「カラスの色」を問うとい議題は荒唐無稽で極端な例ですが、世の中には素人目に見ればくだらないように思える問題でも、人によっては大真面目に考えている場合もあります。そのテーマがディベートに値するかどうかは、個人の価値判断によるものであり、出題者がディベートに値すると思えばそれはディベートのテーマになりうると思います。

たとえば「死刑制度の是非」なんていう大真面目なテーマはディベートに値すると思いますが、死刑反対論者から言わせれば、人の命の重さは絶対であり、そもそもそんなテーマを議論の俎上に持ち出すことがおかしいと端から突っぱねるかもしれません。そういう人から見れば、死刑制度があること自体が暴論なのです。これでは、このテーマでのディベートは成立しません。

ディベートが成立するにはお互いが討論する余地があるという認識を持っていることが大切で、端からお互いがソッポを向いていれば議論にもなりません。「ベニスの商人」のお話では、肉1キロを担保として取ると言った時に、血は1滴も取ってはダメという暴論(筆者はこれは暴論だと思います)で難を免れるという結論になりました。こういうケースでは、ディベートの審判員ならどう判断されるのでしょうか。それともそういうテーマは、そもそもディベートに値しないという判断になるのでしょうか。

何だかスミマセン。お返事がディベートになってしまいました。
[一言]
超ひも理論ですか。僕がひそかに期待している理論です。九次元云々の話を持ち出せば、ダークマターなんてものに説明がつくと思いますし、それが世に広まれば、芸術家達が面白い絵を描いてくれるようになるかもしれません。というか、ピカソ等の書く絵は、もしかすると既に九次元を二次元で表現しているものなのかもです。勝手な期待ですが。

二次元の世界に三次元の球を突っ込むと、どこから見ても線であるものが浮かぶわけですが、九次元とは一体何なのでしょう?

いやはや、世界は不思議だらけで面白いです。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2012年 12月06日 15時29分
管理
いつもご感想ありがとうございます。
さて、9次元を表すとどのように見えるかというお話ですが、実はこの世に9次元を表現しているのではないかと思わせるモノが存在しています。仏教で出てくる「両界曼荼羅」です。これは大日如来を中心に据えて、9つの世界を描いています。また仏教でいう「108の煩悩」、これを9で割ると12つまり方位尺が出てきます。9という数字は仏教と密接な関係があるように思えます。不思議ですよね。
また仏教で言う、あの世あるいは冥土へ行くと言うのは、異次元に行くということを言っているように思います。人が死ぬと肉体は滅びても人を生かしていたエネルギーだけは残ります(エネルギー保存の法則)。そしてこのエネルギーは、物質ではないので次元の壁を超えることができるとされています。
お釈迦様は、実は高度な文明から来た物理学者で、この世が9次元でできていて、肉体を捨てれば異次元にも行けるということを人類に言い残されたのかもしれません。摩訶不思議。
[一言]
IQ云々に関してですが、頭の良い人の子供は遺伝的に頭が良いのでなく、ただ頭が良い人と共にいる時間が長いから頭が良いのではないでしょうか?
頭が良くなる為の習慣を持っていれば頭が良くなります。で、その習慣は親から受け継ぐわけですから。

持論としては、考える癖を持つか否かが頭の良し悪しを決めると考えていますけど。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2012年 11月17日 14時00分
管理
最近、育児書とかでよく見かける「天才脳の作り方」といったようなお話かと思います。確かに頭を使うことでニューロンが発達して頭がよくなるという大脳生理学者もいます。また最近は東大卒に金持ちの家系の人が多くなったとも言われており、教育環境が影響している可能性はあると思います。でも、小生は「File51 カエルの子はカエルか」でも書いた通り、遺伝優位論です。
もし、後天優位だとすると、世の教育ママたちは努力すれば誰でも東大に行ける、東大に行けないのは頭を使わないあなたが悪いと、子供にプレッシャーをかけることになるかもしれません。子供にとっては甚だ迷惑な話です。駄馬はいくら頑張ってもサラブレッドに勝つことはできないと言ってしまうと失礼かもしれませんが、東大脳を持たない人は1日25時間勉強しても東大には行けないと思います。
ただ、小生は今のIQ制度あるいは日本の教育制度自体に疑問を感じていますので、駄馬でもノーベル賞を取れる可能性はあると思います。失礼ながら、ノーベル賞学者にご自身のIQを披露してもらえれば、きっと面白い結果が得られると思います。ノーベル賞学者、必ずしも天才にあらず、といった答えが出るような気がします。
[一言]

 以前から興味を持って拝見させて頂いていましたが、今回あまり人が触れない内容に触れられていましたので、感想を送らせて頂きました。

【File82 死刑制度の是非】
 この問題はやはりタブー視される方が多く、あまり人の意見を聞けない話でしたので、この文章を大変興味深く拝見させて頂きました。

 テレビ討論でこのことを論じられているのを見て、気持ち悪い印象を覚えたのを思い出しました。

 死刑存置論者は、被害者感情、犯罪抑止などを挙げて論じ。
 死刑廃止論者は、世界のすう勢、誤審、人権を挙げて論じ。

 普通のディベートならば「ある主張」⇒「対する反論」⇒「更なる反論」と展開するものですが、それは全く違っていて、自分の主張のみを繰り返して、全くかみ合っていない討論でした。
 テレビ番組ですから時間制限がありますし、妥協案や結論は出てこないのは別に不思議ないのですが、例えば領土問題や税金問題、与党の責任追及などと全く雰囲気が違っていたことに、「え? この人たちなにやってるの?」と思ったものです。


 自分は「どちらかと言えば」死刑存置論者です。
 世論や政界で論じられた結果、先々で死刑が撤廃されても、それはそれで仕方ないと思うレベルですが。(犯罪被害者の方々のような苦い経験を、自分は幸いにも遭っていないので、無責任に言ってる部分もありますが)

 だからとも言えますし、だからというわけでもないですが、法務大臣の個人的感情で死刑執行を行わないというのは、私も非常に納得できません。
 現行制度での大臣の職務を、個人の考えで放棄している事になるのですから。

 自分は他人の人生の左右を決断する、勇気も立場もありません。
 そしてデリケートで重要な問題ですから、あまり触れたくないのは、心情的には理解できるのですが……
 でも、触れて結論を出さないとならない問題でもあります。
 人の人生を左右する立場に自らなった方々は、責任を持って職務を果たして頂きたいです。

 あ。なんだか結論が感想じゃなくなって申しわけないです。
  • 投稿者: 風待月
  • 2012年 10月25日 13時42分
ご感想ありがとうございます。死刑制度については何を言っても叱られそうなのであまり多くは言いません。このお話で特に言いたかったことは、死刑に限らず、ミクロで見た場合とマクロで見た場合で答えが違ってくることがあるという点です。経済学の専門用語で「合成の誤謬」と言われる現象です。個別にみると正しいと思われる判断でも、それが積み重なってマクロで見るとよくない結果をもたらすという意味で使われています。例えば生活保護。生活に困っている人がいればこれを助けるのは人道的にみて正しいことと思います。でも、それが200万人ともなると、財政の破綻が心配になってきます。世の中には似たような事例は数多くあります。出生前診断、難民救済、高齢者保護…、人道重視か集団重視か、いずれも判断の難しい事案です。
[良い点]
非常に興味深い話題が多くあり、面白いです。
[一言]
遺伝子に着いて書かれていましたが、僕は遺伝子が抵抗をするというより、弱い遺伝子が生き残ってしまうことが問題だと考えています。

生物はこれまで、より強く進化してきましたが、それは弱い個体を排斥してきたからであって、弱い個体が受け入れられるようになると、種はどんどん弱っていってしまいそうです。
医療が発達しても脳だけはどうしようもなく、いずれ生まれてくる子供の脳に障害がある確率がとても高くなってしまいそうで怖いです。他には、風邪感覚でガンになったりとか。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2012年 10月25日 10時15分
管理
小生もまったく同感です。遺伝子に人の手を加えることは遺伝子の弱体化を招き、ひいては種全体を危険にさらす恐れがあると思います。難病に苦しむ人を助けることは人道的にみて正しいこととは思いますが、遠い遠い未来において、何が起きるのか予見できず心配です。でも、小生が生きている間には何も起きないでしょうから、まあいいか。
[良い点]
 深い考案と発想力
[気になる点]
 多少読みにくいです、文章の隙間に空白(スペース)をいれてはどうでしょう?

 こんな風に。(なんか、偉そうにすいませんm(_ _)m)
[一言]
晴人です。
File62、60進法を読ませて頂きました。

 貴方の考案はいつも恐れ入ります。

 自然は効率良く、安定的な構造をしています。古代の人間(日本人やシュメール人)は、自然を神格化し神と崇め豊穣を祈願しました(古神道)。

 ちなみに60進法とは、シュメールの神々からもたらされ現在に至ります。

 歴史を遡ると、決まって「神」と呼ばれる絶対君主に行き着きます……。

長文失礼しました。
  • 投稿者: 無名作家
  • 男性
  • 2012年 09月05日 13時03分
ご感想ありがとうございました。60進法がシュメールの神からもたらされたというのは知りませんでした。ひょっとするとその神は古代の宇宙人だったのかもしれませんね。ハンコックの「神々の指紋」を思い出しました。
ところで読みにくいというのは私もそう思います。会話がないので全体的に文字がぎっしり詰まって見えるかもしれません。適当に改行はいれているのですが、1000字程度の文章なので一気読みでいけるかなと思ってます。ちなみに他の作品は、切りのいい所で適宜スペース行をいれています。
引続きご愛読いただけましたら幸いです。セイゴウ
[一言]
File47を読んで。
平均というモノは現実から目を背けさせるのにすごく便利な言葉ですね。
  • 投稿者: 立島圭
  • 2012年 05月24日 01時04分
ご指摘のとおりだと思います。と言いますか、統計自体がその取り方でいかようにも見せられるということでしょうか。例えば、消費者物価の上昇率は年金支給額や金利にも影響します。政府にしてみれば、物価が上がると年金支給額が増えるし、国債の利払いも増えるので、困ることになります。だから、デフレだデフレと言っている方が、本音のところでは都合がいいのかもしれません。国民はいつも言われた通り信じるしかないのです。
[一言]
いつも楽しみに拝見させていただいてます。
file45の宇宙の外側が無であるというのは、宇宙論なんかの物理学が成立しないという意味で、本当に無なのか、それとも量子力学における無の揺らぎのように、様々なものが消しあっているのか
夢が膨らみますね。
  • 投稿者: シキ
  • 2012年 05月15日 23時14分
ご感想いただきありがとうございます。
難しい問題ですよね。私見ですが、小生は宇宙が生まれる前も後も、完全なる「無」はないのではと思っています。論理的にみて、「無」から「有」が生じるというところが、どうしても引っかかるからです。対称性が破れて、反物質だけが消えたという理屈はどうも都合がよすぎるように思えるのです。そんな時、量子揺らぎの話を知り、なるほど何もない真空中でも何かがあるんだと何となく納得できました。
ビッグバン宇宙論は宇宙が生まれる前には何があったのかを常に問うていますが、宇宙に始まりがあると考えるからそうした論理矛盾が生じるのではないかと思っています。宇宙は最初から永遠に存在していて、振り子のように行ったり来たりしているだけではないのかと考えると妙に気分が落ち着くのです。それを説いた宇宙論にエキピロティック宇宙論というのがありますが、小生はこの考え方がとても気に入っています。物質ばかりで出来た我々の宇宙と、反物質ばかりで出来た並行宇宙が衝突するとビッグバンが起こり、永遠の昔からこのサイクルが繰り返されている。今はたまたま両方の宇宙が離れ離れになっているので、我々の世界が存在しえているのではないかと思えるのです。これで、我々の世界に反物質が全く存在しない理由も、「無」から「有」が生まれるという理由も説明がつくからです。
小生は文系人間なので、物理学的な詳しいことはわかりませんが、論理的におかしいことには絶対納得できない性分です。またのご意見お待ちしております。
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