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[良い点]
書くときの、一人ぼっち感は、同感〜と思いました。書いてる小説で悩んでることを、友達に愚痴ると、何を小説家ぶってんのって感じで笑われちゃいまして。さみしい。
[気になる点]
このエッセイは、私には難しすぎました。
ごめんなさい、私、書きはじめて2ヶ月だから、小説の書き方に悩んだことがまだないもので。
[一言]
私はどっぷり小説の中に入り込んで書きます。だから、クライマックスを書くときにはその話の自分なりのテーマソングを繰り返し流してます。

小説の書き方を本で読んだら、上手くなるものなんですか?
上手い書き方って、何だろう?
と、思いました。
 ご感想ありがとうございます。

>書くときの、一人ぼっち感は、同感〜と思いました。書いてる小説で悩んでることを、友達に愚痴ると、何を小説家ぶってんのって感じで笑われちゃいまして。さみしい。
 書くの、本当どうしようもなく、一人ぼっちですよね(笑) それは小説書く人同士で集まっても、やはり小説を書く行為自体一人でやる以上――リレー小説でもそうです――避けがたい孤独です。
 しかし、だからこそ、小説を書く人間同士が協同して何かを行うとか、あるいは相談し合う、というような行為に消しがたい価値が存在するのだと、私は思います。
 「小説家ぶっ」てると笑われるのは、「小説家」になっても同じかもしれません。仮に「小説家」になったとしても、それはやはり、現実的な問題とは別のことばかり考えている、という誤解は避けがたいのですから。
 「小説」は現実とは違う、遊戯の一形態に過ぎない……といった考え方は、私は半分までは賛成します。しかしながら、もう半分では決して賛成できないのです。それは、「小説」を一つの「嘘」と見なすときに、「正直者には嘘は見破れない」という意味で出現する価値です。
 しかし、そのことに関しては、ここではなくどこかで書きます(こんなのばかりですね!)。

>このエッセイは、私には難しすぎました。
>ごめんなさい、私、書きはじめて2ヶ月だから、小説の書き方に悩んだことがまだないもので。
 それは朝野さんが悪いのではなく、完全にぼくのほうが悪いのです。何故なら、すべての言葉は、相手が受け取らない限り意味し得ないのですから、相手が解らないなら要するに「意味がない」のです(そして、「意味がない」ものに対して意味を求めようとして難渋することは時間の無駄だし、そしてもし書き手がそんな労苦を相手に求めさせているのだったら、それは書き手自らが「悪い文章」と呼ばなければならないでしょう)。
 あと、「小説の書き方」なんてものは、悩まないほうが絶対にいいものです(笑)
 そして、少しばかり曖昧な書き方ばかりしていると反省しています。そういう曖昧さは、決して読み手の能力がどうのこうのではなく、根本的には書く側に「書くべきもの」が存在しないのに起因する場合が多々あります。
 もちろん、これには「わかりやすさ」が時に大変な災厄を招くこともあるので、難しいところです(それについても、ゆくゆく書きたいです)。

>小説の書き方を本で読んだら、上手くなるものなんですか?
>上手い書き方って、何だろう?
>と、思いました。

 これは極めて根源的な問いかけですね。ありがとうございます。
 まず、小説の書き方を本で読んだら上手くなるのか、という問いは、もちろんノーです。それは、野球のテクニックを知っていても、実践しない限り上達が出来ないのと全く同じで、実際に方法を試さねばなりません。
 更に言うなら、そのテクニックが自分に適するかどうか、あるいは自分のやりたいことと一致しているかどうかで、調整したり、あるいは一旦は受け入れても拒むとか、そういう受け手の消化・排泄があって然るべきです。
 「上手い書き方」よりは、「面白くなる書き方」を目指すべきですね。
 「上手さ」とは、要するにルールをいかに順守できるか、あるゲームの規則のなかでいかに上手く立ち回れるか、という意味で、実は誰にだって出来ることです(勉強さえ積めば。そして勉強はもちろん、「誰にだって」出来ることなどではないのですが。変な言い方ですね)。ということで、「上手い書き方」とは要するに、そのゲームの規則、――小説には「純文学」とか「ライトノベル」とかいうジャンルがあって、それをたとえば「バスケットボール」とか「バレーボール」だと考えてみてください――しかも審判もルールブックもない、誰も教えてくれないゲームの規則を、いかに発見するかにかかっています。大塚英志は「ありがちなパターンを発見しろ」と言っています。そういうことですね。
 「上手さ」とは、「空気を読む」能力なのかもしれません。
 もちろんそういう割り切りは暴力的であって、「上手さ」にはもっと色々な意味があるでしょう。
 それに対して、「面白さ」とは基礎的な身体能力なのだと思っています。それはつまり、「バレーボール」も「バスケットボール」も出来る能力です。どういうことか。
 三島由紀夫という日本の「純文学作家」が書いた一番面白い作品が、実はSF作品や大衆小説なのではないか、という話はよくされます。あるいは遠藤周作という作家もそうです。彼は純文学も書けたけど、ミステリー作品も書けた(しかも、そっちのほうが人に言わせれば面白いそうです)。
 これらは別に、彼らの純文学作家としての価値を幾分も貶めることではありません。
 おそらくは、基礎的な身体能力――これを基礎的な言語能力、と言い換えるのも変な話なので――曖昧な言葉になってしまいますが「ものの見通し」に優れていたのだろう、と思います。あるいは読み手がどう反応するのか、それを正確に想像出来た。
 冲方丁は、小説さえ書ければ脚本でも漫画でも何でも書ける、といってます(確か)。その言葉の是非はともかくとして、漫画の面白い人が(たとえ語彙が乏しくとも)面白い文章を書くのはよくあることなのです。ですから、「面白さ」とはもちろん小説に限らず、あらゆる創作物を作る上で求められる基礎的な能力の結果です。
 本来身に付けるべきはそういうもののはずです。
 そして、それが具体的に何なのか? 今「読者の反応」ということを言いました。その見立てが優れているのも、一つの基礎能力でしょう。この「小説の書き方」は、そういうことをめぐって書かれるべきだし、書くつもりです。

 「小説の書き方を本で読んだら、上手くなるものなのですか?」という問いかけに関してもう一つ答えるならば、自分が小説を書くうえでの疑問を解消してくれることがたとえなくとも、誰かが自分の書き方をまとめ、読み手に伝えようとしているということだけでも、私は救われる気がしています。 
 書く人間にとって、その孤独を慰めてくれる最大のものは、他の誰かが書いている、その事実ではないでしょうか。
 それ以上に、「他の人は小説を書くうえで何を考えているのかを知る」ということは、「上手くなるために読む」ということ以前に単体で面白さを持っているはずです。ごく単純に、小説論も小説です。

 長々と失礼しました。ご感想いただけて、本当に嬉しいです。
 もう少し具体的なことを、できるかぎり書ければと思います。ありがとうございました。
  • Raise
  • 2012年 12月04日 23時57分
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