感想一覧
▽感想を書く感想絞り込み
[良い点]
古代日本をモチーフにした物語は珍しいですね。
[気になる点]
悪いと言うか一つ気になったのが、一昔前の主流論で書かれている点ですかね。渡来人=弥生人説は遺伝子学的に否定されていますが、この話ではそうではないですね。
専門家の方でも間違いやすいのですが、渡来人とは主に4~5世紀に大和朝廷の影響を受けていた朝鮮半島南部や交流のあった大陸などからの帰化人を指します。弥生時代に大陸からやって来た人種は現在では渡来型弥生人ということが多いようです。
ちなみに、日本人は遺伝子学的に恐らく縄文またはそれ以前の更新世に住んでいた土着民が先祖の様です。以前まで、縄文人と弥生人や渡来人など様々な集団の混血によって徐々に日本人が形作られていったという説が主流だったようですが、近年の遺伝子学の発達で今ではそれも見直されているようです。
Y染色体を調べる方法での人類区分によると、朝鮮、中国、モンゴルなどその他多くのアジア大陸の民族はOタイプ、日本とヒマラヤ付近の一部高山民族は、Dタイプと呼ばれる遺伝子を持つ集団で同じモンゴロイドでも大きく異なった種族の様であります。
元々、アジアに広く住んでいたDタイプモンゴロイド(アフリカでヨーロッパの民族と直接分岐した古いタイプのモンゴロイド)を新たに渡来したOタイプモンゴロイド(アフリカ北部または中近東で一度形質転換した新しいタイプのモンゴロイド)が駆逐していったようです。
日本は島という特異な環境下にあったのでDタイプの遺伝子が駆逐されずに今まで残っているようです。(一時大陸と氷河で繋がっていたこともありますがあまり影響は無かったでのしょう。その後日本のDタイプはより独特なものに進化し、日本列島とその周辺の小島に住む集団民族は独特なDタイプ遺伝子をその後も保有していくことになります)
[一言]
色々と書きましたが古代日本というのは調べるほどに興味を持てる分野ですよね。このような小説がありとてもうれしく思いました。
所で、荒神谷遺跡から発掘された銅剣ですが、作者様は武器として考えられていらっしゃるようですが、元々武器を祭器に見立てたので専門家の祭器という考えも、作者様の武器という考えも両方成り立つ者だと思います。青銅器というと大陸からというイメージですが出雲の青銅の剣は縄文時代後期の頃に作られていた石剣、石刀の形の流れをくみ、それを青銅器で作りだしたと思われます。
悪い点でもあげましたように、日本は限りなく閉鎖した空間だったようで、北九州は例外として、それ以外から渡来型弥生人の遺跡が発掘されるのは極めてまれなことです。北九州の沿岸部の遺跡を除いて、日本列島のほとんどの弥生時代の遺跡は在来型弥生人(それまで従来狩猟採集、栗栽培を行ってきた縄文人が、縄文時代後期頃から大規模な陸稲栽培を行うことによって、それまでとは異なる形質を持った集団の事)によるものだと考えられており、その後歴史に記される渡来人達も文化に影響は与えたものの明らかに渡来人と区別をされており、わざわざ渡来人たち専用の集落を作っていたようなので日本に住んでいた在来集団に与えた遺伝子的影響は限りなく低かったものだと言う報告もなされています。
つまり、出土物や遺跡の研究などから考えるに出雲王国の存在を物語る荒神谷遺跡は、様々な集団による雑居地などでは無く在来型弥生人達の青銅器文化圏の遺跡だったと考えるのがよろしいかと。
ちなみに出雲王朝の文化交流を見てみると、隠岐の島から出雲地方の遺物と楽浪郡の遺物が混同して発見されるほか、北九州との青銅器文化交流も見受けられます。それだけでなく出雲製の装飾製品や出雲地方の黒曜石が旧石器時代から弥生時代にかけて中国や朝鮮半島に輸出され大きな影響を与えていたようです。
つまり、出雲王朝は、文化を受け取るだけでなく発信もしている強固な王権だったと思われるわけです。このような歴史事実が後の古事記などの出雲地域の重要性に関わってくるのでしょう。
長くなりましたが、さかんな大陸交流により力を付けた北九州地域の諸王国と異なり、出雲王朝は弥生時代以前から発達していた旧石器時代の黒曜石交流や縄文時代の勾玉製作ですでに文化の強固な基盤を整え、弥生時代にはその基盤を足掛かりに構成された王国だったことが出雲王国の特異な点です。
加茂岩倉遺跡(荒神谷のすぐそばにある遺跡で主に銅鐸の出土が主)からの銅鐸(紀元前3世紀~前1世紀)も独特の絵画(ウミガメ、トンボ、人の笑い顔が沢山などなど)を持っているので以上の内容の根拠になっております。
ですが出雲地方の文化交流を見ると、高志国(八岐大蛇が居た場所です。山陰道がほぼその領域。)や畿内の三輪王朝(三輪山は縄文時代ないし弥生時代から山岳信仰を集め古墳時代にはその周辺に巨大な古墳が造られたヤマトを代表する山です。ちなみに山自体が御神体で大物主神が鎮座しておられます。三輪山周辺にあった集落が徐々に巨大化し王国になりそれが古墳時代でさらに大きくなった物が後の大和朝廷です)との交流が北九州などよりも圧倒的に深いのにもかかわらず、北九州と山岳地域の文化の出雲への影響がほぼ同じくらいなのは、新興文化の勢いを感じさせますね。
長くなりましたが、()の中は簡単な補足の様なもので、作者様が知っている内容についてでしたら軽く流してください。
古代日本をモチーフにした物語は珍しいですね。
[気になる点]
悪いと言うか一つ気になったのが、一昔前の主流論で書かれている点ですかね。渡来人=弥生人説は遺伝子学的に否定されていますが、この話ではそうではないですね。
専門家の方でも間違いやすいのですが、渡来人とは主に4~5世紀に大和朝廷の影響を受けていた朝鮮半島南部や交流のあった大陸などからの帰化人を指します。弥生時代に大陸からやって来た人種は現在では渡来型弥生人ということが多いようです。
ちなみに、日本人は遺伝子学的に恐らく縄文またはそれ以前の更新世に住んでいた土着民が先祖の様です。以前まで、縄文人と弥生人や渡来人など様々な集団の混血によって徐々に日本人が形作られていったという説が主流だったようですが、近年の遺伝子学の発達で今ではそれも見直されているようです。
Y染色体を調べる方法での人類区分によると、朝鮮、中国、モンゴルなどその他多くのアジア大陸の民族はOタイプ、日本とヒマラヤ付近の一部高山民族は、Dタイプと呼ばれる遺伝子を持つ集団で同じモンゴロイドでも大きく異なった種族の様であります。
元々、アジアに広く住んでいたDタイプモンゴロイド(アフリカでヨーロッパの民族と直接分岐した古いタイプのモンゴロイド)を新たに渡来したOタイプモンゴロイド(アフリカ北部または中近東で一度形質転換した新しいタイプのモンゴロイド)が駆逐していったようです。
日本は島という特異な環境下にあったのでDタイプの遺伝子が駆逐されずに今まで残っているようです。(一時大陸と氷河で繋がっていたこともありますがあまり影響は無かったでのしょう。その後日本のDタイプはより独特なものに進化し、日本列島とその周辺の小島に住む集団民族は独特なDタイプ遺伝子をその後も保有していくことになります)
[一言]
色々と書きましたが古代日本というのは調べるほどに興味を持てる分野ですよね。このような小説がありとてもうれしく思いました。
所で、荒神谷遺跡から発掘された銅剣ですが、作者様は武器として考えられていらっしゃるようですが、元々武器を祭器に見立てたので専門家の祭器という考えも、作者様の武器という考えも両方成り立つ者だと思います。青銅器というと大陸からというイメージですが出雲の青銅の剣は縄文時代後期の頃に作られていた石剣、石刀の形の流れをくみ、それを青銅器で作りだしたと思われます。
悪い点でもあげましたように、日本は限りなく閉鎖した空間だったようで、北九州は例外として、それ以外から渡来型弥生人の遺跡が発掘されるのは極めてまれなことです。北九州の沿岸部の遺跡を除いて、日本列島のほとんどの弥生時代の遺跡は在来型弥生人(それまで従来狩猟採集、栗栽培を行ってきた縄文人が、縄文時代後期頃から大規模な陸稲栽培を行うことによって、それまでとは異なる形質を持った集団の事)によるものだと考えられており、その後歴史に記される渡来人達も文化に影響は与えたものの明らかに渡来人と区別をされており、わざわざ渡来人たち専用の集落を作っていたようなので日本に住んでいた在来集団に与えた遺伝子的影響は限りなく低かったものだと言う報告もなされています。
つまり、出土物や遺跡の研究などから考えるに出雲王国の存在を物語る荒神谷遺跡は、様々な集団による雑居地などでは無く在来型弥生人達の青銅器文化圏の遺跡だったと考えるのがよろしいかと。
ちなみに出雲王朝の文化交流を見てみると、隠岐の島から出雲地方の遺物と楽浪郡の遺物が混同して発見されるほか、北九州との青銅器文化交流も見受けられます。それだけでなく出雲製の装飾製品や出雲地方の黒曜石が旧石器時代から弥生時代にかけて中国や朝鮮半島に輸出され大きな影響を与えていたようです。
つまり、出雲王朝は、文化を受け取るだけでなく発信もしている強固な王権だったと思われるわけです。このような歴史事実が後の古事記などの出雲地域の重要性に関わってくるのでしょう。
長くなりましたが、さかんな大陸交流により力を付けた北九州地域の諸王国と異なり、出雲王朝は弥生時代以前から発達していた旧石器時代の黒曜石交流や縄文時代の勾玉製作ですでに文化の強固な基盤を整え、弥生時代にはその基盤を足掛かりに構成された王国だったことが出雲王国の特異な点です。
加茂岩倉遺跡(荒神谷のすぐそばにある遺跡で主に銅鐸の出土が主)からの銅鐸(紀元前3世紀~前1世紀)も独特の絵画(ウミガメ、トンボ、人の笑い顔が沢山などなど)を持っているので以上の内容の根拠になっております。
ですが出雲地方の文化交流を見ると、高志国(八岐大蛇が居た場所です。山陰道がほぼその領域。)や畿内の三輪王朝(三輪山は縄文時代ないし弥生時代から山岳信仰を集め古墳時代にはその周辺に巨大な古墳が造られたヤマトを代表する山です。ちなみに山自体が御神体で大物主神が鎮座しておられます。三輪山周辺にあった集落が徐々に巨大化し王国になりそれが古墳時代でさらに大きくなった物が後の大和朝廷です)との交流が北九州などよりも圧倒的に深いのにもかかわらず、北九州と山岳地域の文化の出雲への影響がほぼ同じくらいなのは、新興文化の勢いを感じさせますね。
長くなりましたが、()の中は簡単な補足の様なもので、作者様が知っている内容についてでしたら軽く流してください。
[一言]
荒人先生
やはり推測した通りの構想で、この“物語”を育んでおられる。
出版されましたら、是非ご一報下さいませ。
愛読させていただきとうございます。
さて、『しかし、あの「×」マークは何なのでしょう?何であの場所に大量に…?
』とだけ書いたのは、誤解を与える表現でした。
簸川郡斐川町の南にある小さな谷「荒神谷」で大量に発見された銅剣。何故この場所で?、何故あの様な傾斜箇所に?。
さらに、それに付けられていた、あの「×」マークの意味合いは何なのか?
現地・現物を見学させていただきました。
学芸員さんのお話しも聞かせていただきましたが…釈然と致して居りませんでした。
そこに出逢ったのが“先生の「スサノヲ」”でした。
先生のご見解を伺いたく、上記の表現となりました。
臥薪嘗胆
荒人先生
やはり推測した通りの構想で、この“物語”を育んでおられる。
出版されましたら、是非ご一報下さいませ。
愛読させていただきとうございます。
さて、『しかし、あの「×」マークは何なのでしょう?何であの場所に大量に…?
』とだけ書いたのは、誤解を与える表現でした。
簸川郡斐川町の南にある小さな谷「荒神谷」で大量に発見された銅剣。何故この場所で?、何故あの様な傾斜箇所に?。
さらに、それに付けられていた、あの「×」マークの意味合いは何なのか?
現地・現物を見学させていただきました。
学芸員さんのお話しも聞かせていただきましたが…釈然と致して居りませんでした。
そこに出逢ったのが“先生の「スサノヲ」”でした。
先生のご見解を伺いたく、上記の表現となりました。
臥薪嘗胆
臥薪嘗胆 様
「×」マークについて、御質問の意味が分かりました。
私は古代史学者でも神社関係者でもありませんので、
『当時の使用者が、識別するためにつけたマーク』であろうと、極めて単純に考えました。
学問的には銅剣を祭祀用と考える傾向が強いようですが、私は実戦用の武器と考えています。
ですからあの×印は、実用的なマーク(例えば要研磨・既研磨)といった具合かなと考えたのです。
またあの場所にあの様な形で置かれていた点ですが、
直感では『将来の使用のために隠し置いた』と感じました。
現在でも、実戦では武器の補給は極めて重要です。
自衛隊は、仮想敵国の日本への上陸作戦に関して、
『敵国の事前侵入者が、何カ所かに武器を秘匿している』ことを常識としています。
更に、敵地に侵入した後に作戦的撤退する場合には、
次の攻撃に備えて適地内に補給用の武器を隠し置くことはしばしばです。
たまたま荒神谷で発見されましたが、あの周辺に同様のものが何カ所もあるかもしれません。
律令時代に大和朝廷側に供出したり、接収された可能性もあります。
更には地元の者が密かに再利用して仏像に鋳直したかもしれません。
これらの類は文書として残らないでしょうから、後世に伝わってはいないはずです。
島根県多伎町から鳥取県大山町辺りまでが古代出雲王国中核地帯と考えていますが、
この一帯の山中には、面白い言い伝えがいくつもあります。
しかし学問の世界の人達は、それらに一顧だにしようとはしません。
荒人
「×」マークについて、御質問の意味が分かりました。
私は古代史学者でも神社関係者でもありませんので、
『当時の使用者が、識別するためにつけたマーク』であろうと、極めて単純に考えました。
学問的には銅剣を祭祀用と考える傾向が強いようですが、私は実戦用の武器と考えています。
ですからあの×印は、実用的なマーク(例えば要研磨・既研磨)といった具合かなと考えたのです。
またあの場所にあの様な形で置かれていた点ですが、
直感では『将来の使用のために隠し置いた』と感じました。
現在でも、実戦では武器の補給は極めて重要です。
自衛隊は、仮想敵国の日本への上陸作戦に関して、
『敵国の事前侵入者が、何カ所かに武器を秘匿している』ことを常識としています。
更に、敵地に侵入した後に作戦的撤退する場合には、
次の攻撃に備えて適地内に補給用の武器を隠し置くことはしばしばです。
たまたま荒神谷で発見されましたが、あの周辺に同様のものが何カ所もあるかもしれません。
律令時代に大和朝廷側に供出したり、接収された可能性もあります。
更には地元の者が密かに再利用して仏像に鋳直したかもしれません。
これらの類は文書として残らないでしょうから、後世に伝わってはいないはずです。
島根県多伎町から鳥取県大山町辺りまでが古代出雲王国中核地帯と考えていますが、
この一帯の山中には、面白い言い伝えがいくつもあります。
しかし学問の世界の人達は、それらに一顧だにしようとはしません。
荒人
- 荒人
- 2010年 05月03日 18時00分
[良い点]
切り口が興味津々。一気に読みきってしまいました。
先生の“古代出雲都市国家”論は、“古代史の復元”には重要な観点ですね。
次の展開を楽しみにしております。
しかし、あの「×」マークは何なのでしょう?何であの場所に大量に…?
切り口が興味津々。一気に読みきってしまいました。
先生の“古代出雲都市国家”論は、“古代史の復元”には重要な観点ですね。
次の展開を楽しみにしております。
しかし、あの「×」マークは何なのでしょう?何であの場所に大量に…?
臥薪嘗胆 様
返事が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
これまで掲載しましたのは、地域の国造りまでです。
今後スサノヲは、全国(当時の全国とは近畿以西)展開します。
実はこれまで掲載した部分を含め大幅に加筆訂正し、三月末で物語は完成しました。
ご存知とは思いますが、今年は奈良開都1300年です。
2012年は、古事記完成後1300年の年となります。
また14年には出雲大社の遷宮が行われます。
更に20年は日本書紀完成後1300年となり、
島根県ではそれらにあわせて「神話のふるさと島根」の大キャンペーンを実行します。
このような環境ですので、現在山陰地方の出版社と製本・出版の交渉中です。
この改訂版を全てここに掲載するかどうか、思案中です。
「×」マークがあるとのことですが、文中にそのようなものは付けていません。
どこにあったのかをお教え下されば、訂正いたします。
荒人
返事が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
これまで掲載しましたのは、地域の国造りまでです。
今後スサノヲは、全国(当時の全国とは近畿以西)展開します。
実はこれまで掲載した部分を含め大幅に加筆訂正し、三月末で物語は完成しました。
ご存知とは思いますが、今年は奈良開都1300年です。
2012年は、古事記完成後1300年の年となります。
また14年には出雲大社の遷宮が行われます。
更に20年は日本書紀完成後1300年となり、
島根県ではそれらにあわせて「神話のふるさと島根」の大キャンペーンを実行します。
このような環境ですので、現在山陰地方の出版社と製本・出版の交渉中です。
この改訂版を全てここに掲載するかどうか、思案中です。
「×」マークがあるとのことですが、文中にそのようなものは付けていません。
どこにあったのかをお教え下されば、訂正いたします。
荒人
- 荒人
- 2010年 04月29日 18時51分
[一言]
一気に読みました、続きが気になります!
Google Mapsで調べたら、出雲に塩津町っていう地名ありますね。
スガの森に対応するのは須我神社のあたり?
一気に読みました、続きが気になります!
Google Mapsで調べたら、出雲に塩津町っていう地名ありますね。
スガの森に対応するのは須我神社のあたり?
塩津町が物語の中の「シオツ」です。海岸から少し高い所に『石上神社』がありますが、元の名前は『宇美神社』です。多くの学者が、平田町にある『宇美神社』をスサノヲ誕生の地としています。多分現地に行かないで誰かの書いたものを引用したのでしょう。
塩津の石上神社=宇美神社の氏子さんは、スサノヲの幼少の姿を見たような話をしてくれます。
育ったのは現在の唐川だそうで、そこには韓竃神社があります。
Google Mapsで見るには、鰐淵寺を捜して下さい。その北西に唐川地区があります。
この一帯は銅の産地で、昭和50年代まで日本鉱業が採鉱していました。これは旧平田市役所に書類が残っていました。また鉛と錫も産出していたそうですから、唐川で青銅が造られていたことは間違いないようです。唐川公民館の館長さんは、荒神谷遺跡から大量に出土した青銅製品は唐川で造られたものだと話していました。(学問的には中国産ということになっていますが、証拠はありません)
スガの森は、須佐神社です。木次町(オロチ衆の大砦のあった場所)と山並み二つ離れた場所です。
須我神社は、スサノヲがイナタ姫と新居を構えた場所で和歌発祥の地と伝えられていますが、現地の地形とスサノヲが山ひとつ越えた熊野で亡くなったと伝えられている点を考えますと、「違う」と感じます。
物語の中では、最初の戦垣による激戦地としました。全体の地形から考えると、その方が自然だからです。ですから須我は、物語の後半でイナタが鎮魂の生活をした場所としました。
塩津の石上神社=宇美神社の氏子さんは、スサノヲの幼少の姿を見たような話をしてくれます。
育ったのは現在の唐川だそうで、そこには韓竃神社があります。
Google Mapsで見るには、鰐淵寺を捜して下さい。その北西に唐川地区があります。
この一帯は銅の産地で、昭和50年代まで日本鉱業が採鉱していました。これは旧平田市役所に書類が残っていました。また鉛と錫も産出していたそうですから、唐川で青銅が造られていたことは間違いないようです。唐川公民館の館長さんは、荒神谷遺跡から大量に出土した青銅製品は唐川で造られたものだと話していました。(学問的には中国産ということになっていますが、証拠はありません)
スガの森は、須佐神社です。木次町(オロチ衆の大砦のあった場所)と山並み二つ離れた場所です。
須我神社は、スサノヲがイナタ姫と新居を構えた場所で和歌発祥の地と伝えられていますが、現地の地形とスサノヲが山ひとつ越えた熊野で亡くなったと伝えられている点を考えますと、「違う」と感じます。
物語の中では、最初の戦垣による激戦地としました。全体の地形から考えると、その方が自然だからです。ですから須我は、物語の後半でイナタが鎮魂の生活をした場所としました。
- 荒人
- 2010年 01月07日 16時56分
[一言]
太古物として読むにはイマイチ時代背景が伝わって来ないのですが、読み易く退屈させない展開はとても良いと思います。早く続きが読みたいです。頑張って下さい。
太古物として読むにはイマイチ時代背景が伝わって来ないのですが、読み易く退屈させない展開はとても良いと思います。早く続きが読みたいです。頑張って下さい。
- 投稿者: KAZ
- 30歳~39歳 男性
- 2009年 07月22日 22時06分
この物語は、紀元100~200年頃を舞台にしています。
学校で習う歴史では、弥生後期と古墳時代の重なる頃で、なぜかしら日本の学者達が曖昧にしている時代です。地中海地方では、ローマが頂点に達して衰退を始める頃ですが、隆盛期のローマの情報が中国大陸・朝鮮半島に伝わっていたようです。私は古代出雲王国を、日本で最初で最後の「都市国家」と考えました。
学校で習う歴史では、弥生後期と古墳時代の重なる頃で、なぜかしら日本の学者達が曖昧にしている時代です。地中海地方では、ローマが頂点に達して衰退を始める頃ですが、隆盛期のローマの情報が中国大陸・朝鮮半島に伝わっていたようです。私は古代出雲王国を、日本で最初で最後の「都市国家」と考えました。
- 荒人
- 2010年 01月07日 16時07分
[一言]
私が名前が余り覚えれないのか? どちら側が渡来した人たちなのか分からないのが・・・
私が名前が余り覚えれないのか? どちら側が渡来した人たちなのか分からないのが・・・
- 投稿者: 金刃 朝則
- 50歳~59歳 男性
- 2009年 05月20日 09時54分
オロチ衆もフツシ達も、技術集団ですから渡来人です。早く来た者と後から来た者の違いです。
また農業集団も、先祖を辿れば渡来人との前提にしています。
当時(紀元100年頃)の山陰地方は、従来の土着人と新たに海を渡ってきた大陸からの渡来人(現在の中国・朝鮮半島・モンゴル・ロシア)とそれらの混血人が割拠していたのではないでしょうか。
また農業集団も、先祖を辿れば渡来人との前提にしています。
当時(紀元100年頃)の山陰地方は、従来の土着人と新たに海を渡ってきた大陸からの渡来人(現在の中国・朝鮮半島・モンゴル・ロシア)とそれらの混血人が割拠していたのではないでしょうか。
- 荒人
- 2010年 01月07日 15時49分
[一言]
おもいろいです。
ストーリーは調査した情報から考えるのでしょうか?それとも霊感?
おもいろいです。
ストーリーは調査した情報から考えるのでしょうか?それとも霊感?
- 投稿者: BIGWENDNESDAY
- 40歳~49歳 男性
- 2009年 01月10日 16時48分
感想を頂いていながら、一年も気付かなくて・・・ごめんなさい。
ストーリーは、以下の展開で創作しました。
1)紀元100年頃の日本の地形(海岸線)を調査。
2)古事記・日本書紀に記されている地名の場所を訪れ、山並みの地形を確認する。
(山陰地方は開発から取り残されており、約1900年前の地形が大きくは崩されてはいない)
3)出雲風土記に記された道を捜し、その周辺を巡る。
(面白いことに、1の海岸線と出雲古道は一致している)
4)山陰地方のスサノヲ・大国主・スセリ姫・八上姫などを祭神とする神社の宮司や高齢の氏子から、「表向きはこの様に伝えられているいるが、実は・・・」というお話しを集めた。
6)1~4を合体させて、全体像を創りました。
ストーリーは、以下の展開で創作しました。
1)紀元100年頃の日本の地形(海岸線)を調査。
2)古事記・日本書紀に記されている地名の場所を訪れ、山並みの地形を確認する。
(山陰地方は開発から取り残されており、約1900年前の地形が大きくは崩されてはいない)
3)出雲風土記に記された道を捜し、その周辺を巡る。
(面白いことに、1の海岸線と出雲古道は一致している)
4)山陰地方のスサノヲ・大国主・スセリ姫・八上姫などを祭神とする神社の宮司や高齢の氏子から、「表向きはこの様に伝えられているいるが、実は・・・」というお話しを集めた。
6)1~4を合体させて、全体像を創りました。
- 荒人
- 2010年 01月07日 15時40分
感想を書く場合はログインしてください。