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[一言]
クヒオ大佐のお話では、男の願望の小ささを思いました。というか帰属願望の対象が違うという事でしょうか? 現実の異性に満たせないものを妄想の世界で満たす、このサイトにも様々な類の物語がありますよね。
そのうち異世界転生チーレム詐欺や、悪役キャラですが何か?詐欺などが出てくる可能性を妄想しました。
メールなどではアイドルのマネージャーを騙る詐欺などがある様子ですね。
パン×クロックスさん

ご高覧どうもありがとうございます。

「クヒオ大佐」は名乗っていた彼の作り出したチートキャラクターなのでしょうね。

このサイトに投稿されている物語はあらかじめ「フィクションです」と銘打っているけれど、「これはノンフィクションです」とフィクションを売りつけるのが詐欺で、それは形を変えて生き続けるのでしょうね。
[一言]
 私にとって、あなたは、特別な人……
 これは、人の言葉の魔法です。
 呪文を唱えられても、無神経な人間になりたい。
 それが、家族を自分を守るから
クレヨンさん

ご高覧どうもありがとうございます。

私も今のところ振り込め詐欺の被害には遭っていませんが、
真贋を見分けられる人でありたいですね。
[一言]
憧れの「フランス」――ルノワールとローランサンを拝見させていただきました。
私自身は印象派が苦手なので、
印象派に思い入れがある方の視点を垣間見る事は勉強になりました。
来年はパリに行くので楽しみです。
昔パリに行った時はオルセーが工事中でorz
美術館巡りをしてくるつもりですが、
印象派の作品もこれまでとは違った見方が出来そうで、楽しみが増えました。
ありがとうございました!
  • 投稿者: 石橋凛
  • 2014年 11月29日 22時42分
stoneさん、初めまして。

ご高覧どうもありがとうございます。

印象派が苦手な方もいらっしゃるんですね。

そういう私もキュビズムのような写実性を極端に放棄したタイプの作品は苦手ですが。

フランスには一度も行ったことがなくて、頭の中にある憧れの都なので、羨ましいです。
[一言]
「ヨコハマ・トリコロール」を読ませていただきました。
 僕は横浜へは行ったことがなく(新幹線で横をすり抜けるばかり)、崎陽軒のしゅうまいくらいしか神戸との違いが分かりません。でも、西洋文明との窓口だった港町のイメージとして確かに「赤」(赤レンガに象徴されるように西洋に追いつけと意気込んだ明治の人々のシンボルカラー)「青」(なんでも舶来モノとして有り難がった明治の人々を冷笑しつつも西洋に対抗する独自のものはないかと悩んだ大正時代のインテリのシンボルカラー)「白」(文化的にも経済的にも西洋に追いついたとして均一化の波に安心しきった昭和・平成の普通の人々の無機質なシンボルカラー)のイメージがありますよね。なるほどと思いました。
 最後に、昔、外国の船員さんたちは神戸の水がおいしいと喜んで船に給水していたそうです。横浜も水が美味しいと言われていたのかな?
 
でれすけさん

ご感想どうもありがとうございます。

私も神戸は一度旅行したきりですが、中華街、港町等、横浜と似通った印象を抱きました。

ただ、神戸は震災から新たに復興した街でもありますから、「崩壊から立ち直る」面では横浜より強いかもしれませんね。

トリコロールについては私の独断と偏見ですが、「赤」「青」「白」は横浜の街を歩いていると、実際に散見する色彩です。

水について検索したところ、横浜は当初は海や沼を埋め立てて市街地を作ったので、水質はむしろ非常に悪く、そこから改善策が講じられていった模様です。

そこからすると、神戸より横浜の方が「人工の街」といった性格が強いのかもしれませんね。
[一言]
 高倉健さんが死んだのがわかった時、家の母が「昭和が終わった」と、ぽつんと言っていました。

 今更ながら、ご冥福をお祈りします。
クレヨンさん

コメントどうもありがとうございます。

高倉健さんは1931年、昭和6年生まれですから、正に昭和と共に生きた人ですね。

平成に入ってから出演した作品も、昭和の香りを色濃く残した作品が主だった気がします。

改めてご冥福を祈りたいです。
[一言]
吾妻様、こんにちは。
先日は丁寧な感想をありがとうございました。
もともと感想返しや論争的なものが苦手なので自分の考えを伝えたりしないのですが、人魚はとても興味深いモチーフなので出しゃばってきました。

こちらのエッセイ「人魚の涙」を感想返しの後から拝読したので、不誠実なお返事になった気がして申し訳ないです。
想像はしていたのですが深く考察されていて、研究者や学者の視点のような切り口だと感じました。
私とは違う視点からの人魚像ですから、とても近代的で面白かったです。

アンデルセンの「人魚姫」ですが、私もとても好きなお話しなので読み漁りました。
語学に堪能ではないので、すべて日本語に翻訳された絵本や書籍です。
驚くことに、同じ結末にたどりつく話ばかりではなくて、子供心にどういうことだろうととても不思議でした。

海の泡となって完全に消える話。
海の泡となって海に還り、生命の源(光の粒のイラストで表現されたプランクトン的な存在?)になって、たくさんの海の生物の中に溶ける話。
海の泡になって空に浮かび、風の精になって世界を旅する話。(続きがあった)
まだ他にもあったのですが、天使に救われる話は記憶に残っていないのが残念です。
人魚姫の題で統一され、あらすじはほぼ同じだし、作者もアンデルセンなのに、どうして結末が違うのだろう?

物語としてはすべて楽しめたのですが、大きな謎でした。
魔女もいかにも悪そうな魔女もいれば、こういうリスクがあるからやめなさいと諭す白いイメージの魔女もいる。
たぶん出版社の思惑や翻訳者の趣味や思考での差異だったのでしょうが、そもそも人魚って何? という疑問を抱きました。

本の虫でしたからいろいろと読み漁って気持ちの上で落ち着いた結論は、概念としての人魚と種族としての人魚は必ずしも一致しない、ということでした。
私は研究者でも学者でもありませんから、これはあくまで一個人の感じ体験だと思っていただけると幸いです。

種族としての人魚は、アンデルセンの童話やディズニーのリトルマーメイドに出てくる、おなじみの姿をしています。
独自のコミュニティーを持って姿かたちも特性も細分化されている。
辞書や文献をめくれば、人魚の項目で「これです」とはっきりと示せる存在。
マーメイドと日本語の人魚は種族としては別だと思いますが、外観の特徴が同じだし、他にしっくりする語訳がなかったのだろうなぁと、調べもせずに勝手なことも思っています。

うまくお伝えできる自信がありませんが、概念としての人魚は文字のない時代から語り継がれてきた、感じることはできるけど目に見えない存在。
情報網がまるでない時代でも、海を居住としている人たちのあいだで語られる存在にも不思議と一致する特徴が多くありします。
海だけでなく川や湖など水に関わる、自然への畏怖や敬意も含まれているのかもしれません。
命を奪う不吉な存在。麗しい歌で人を惑わす。船を沈める。嵐を呼ぶ。姿は美しい女。
人間とはまるで違う彼らを恐れ敬いながら、語り継ぐために名前を与えて「人魚」と呼んだのかと。

ウィキペディアさんの人魚項目にセイレーンやメロウが堂々と表記されています。
それは概念としての人魚が先にあったからではないかと勝手に予想しています。
文字すらない古い時代から、人魚は確かに存在する隣人だった。
人魚を感知できない人間は、感知できないものを受け入れるためにも研究して文献を作成する。
交通網や情報網が発達し、学者や研究者が語り部から聞き取るうちに、特性や地域性で呼び名も種族も細分化されて種族として確立していったのではないでしょうか。

私はとても古い伝承のある山奥で育ちましたし、身内もなぜか離島だとか川だとか目に見えない概念が当たり前に存在する場所にいます。
曖昧模糊として、見える人には見えるけれど、見えない人には見えない。
けれど存在としては確かに確立している。
そういった不可思議な存在と関わる家で育ったので、歌で迷わせ嵐を呼ぶ存在が私の認識では身近で、本来の人魚だと感じてしまいます。
かといって、この考え方以外は絶対認めないという強い信念はありません。
概念としての人魚はもはやマイナーで、他の目に見えない隣人たちのように、消えゆく存在なのかもしれないですね。

受け継がれてきた概念を感じ取って、そこに特化した研究がないのは残念です。
学者も研究者も直接かかわらない場所で、あれこれと思考を巡らせる人が多いのでしょうか。
種族として確立させた研究者たちの努力は時間も手間もかかったもので、考察そのものも興味深いからです。

私も小説などのモチーフに使う場合は、やっぱりマーメイド・セイレーン・メロウなどは別の種族として、書きたい主題に合わせて使いわけると思います。
むしろ、これが人魚、という強い信念がないと、主題がぶれてしまうでしょう。

長々と語ってしまって申し訳ありません。
感想ではなく、ただの持論の展開になっている気もして、二重にごめんなさい。
吾妻さんは他人の持論も楽しまれる方かもしれないと、勝手に想定して語りました。
言葉の使い方が下手なので批判に受け取られたら怖いなぁと思っていますが、別視点があってもいいよね、ぐらいに受け取っていただけると幸いです。
御不快でしたら消去してください(汗)

私個人としては人魚が大好きなので、とても楽しい思考する時間をありがとうございました。

  • 投稿者: 退会済み
  • 2014年 09月04日 14時37分
管理
にゃん椿3号さん

わざわざこちらにもご感想ありがとうございます。

「人魚」に関する造詣の深さには敬服します。

私は「セイレーン」「ローレライ」は知っていてエッセイでも言及しましたが、「メロウ」はにゃん椿3号さんの書き込みを読んで初めて知りました。

エッセイを書くにあたってウィキペディアには当たりましたが、どうも認識不足というか見落としだらけだったみたいです(恥)

日本語ではイメージしやすいように、上半身が人(特に美女)で下半身が魚になっている種族に対しては、「人魚」と包括的な訳語を便宜的に当てているのではないでしょうか。

私もアンデルセンの原語版には当たったことはありませんし、更に言えば原典を忠実に訳した版すらきちんとは読んでいません。

小さい頃に絵本で読んだ「泡にならずに天使に救い上げられる」アレンジが基本イメージですね。

ただ、アレンジにもたくさんのバリエーションがあるということは、原典がそもそも多層な解釈を許すものだったということではないでしょうか。

エッセイにも書きましたが、私も地方の出身でして、「安達が原の鬼婆」みたいに全国レベルに有名な伝承もあったりします(地域の住人としてはあまり名誉な内容ではないですが)。

ただ、実家自体は信仰も薄い上に霊感などゼロに等しい家系なので、異形の存在が出てくる話は本当に「お話」の世界ですね。

こちらこそ、「人魚」をモチーフにした創作をしているので、にゃん椿3号さんのお話はとても参考になりました。

ご賢察の通り、私は他の方の持論も興味深く拝聴します。
むしろ、にゃん椿3号さんのような独自の見方の出来る方の感想は大歓迎です。

どうもありがとうございました。
[一言]
今回も吾妻先生のお話で、女性の目に映る「人魚姫」の物語の景色やディズニーの「リトル・マーメード」の意味がようやく理解できました。ありがとうございます。まったくお恥ずかしい……。
あの物語については、僕などは男(作者)が自分を人魚姫に置き換えて子供の頃の初恋に対する憧憬と挫折あるいは失恋の苦い思い出を描いたものだとばかり思っておりました。社会的な束縛のない子供の交流が一方的な恋心に変わり、やがて社会の壁(身分差や貧富の差、社会的な立場の違い)を知り挫折する。相手とお姫様(相手と同じ世界の住人)が一緒になって幸せそうな様子をしていても嫉妬に狂ってそれを破壊する気にもなれず(男はなんだかだと言ってすぐ諦めます。「どうせオレなんて」とか思い、最後まで追いかけずに世の女性の方々に失望の念を抱かせて。)、指をくわえて相手の幸せを願いつつ自身は泡となって消える……。
僕はそういう話だとばかり思って悲劇的な最後でも納得していました(しょうもない自己完結でも男にとってはロマンなのです。)。
でも、女性の目から見るとそうではないんですね。非常に納得のいかない物語なんだとはじめて理解できました。
「羽衣天女」にしても吾妻先生の解説ではじめて不条理な物語であると気づかされました。
僕のあの物語への印象は、普段ついてまわっていた仲良しのお姉さんが急に嫁入りして自分の世界から消えてしまったことへの小さな子供の喪失感・悲しみと重なるもので、「わかるわかる」(「そういや、僕も小学校の低学年の頃、父方の遠戚のお姉さんに同じ思いをしていたっけ」)と勝手に納得していました。羽衣を隠すなどといった幼稚な衝動は幼い子供特有のものと思っておりましたから。
僕などはいつまでたっても女性の物の見方が理解できません。情けない限りです。アスペルガー症候群ではないのかと実際にお叱りを受けたこともあるくらいです。
そういうわけで吾妻先生のお書きになるものは僕にとって貴重であり、本当に感謝しております。本来ならもっと感想を書くべきなのでしょうが、上記のように僕の感想は本当にくどくて押し付けがましいので、先生のご気分を壊さぬため控えておりました。決して感謝の念が足りないからというわけではありません。
最後に少しだけ。
「アンナ・カレーニナ」もやはり男(トルストイ)から見た破滅志向の女性を描いたものですね。女性からしてみれば、やりたいことの総仕上げとして鉄道自殺を選び、満足して自ら幕を引くアンナの行動には納得いかないのでしょうね。僕などは女性の物の見方がわからないので、小説に忠実なタチアナ・サモイロワ版に納得していました。
 ちなみに、モスフィルムで検索すれば、サモイロワさん主演の「鶴は飛んでいく」等の映画がyoutubeで見られます(すでにお知りかもしれませんが)。僕にとってはオードリー・ヘプバーン似の大好きな女優さんの一人です。
でれすけさん

ご感想どうもありがとうございます。

丁寧に読み込んだ上で独自のご意見が述べられているので大変興味深いです。

でれすけさんの「人魚姫」の解釈にも一理ありますね。

というより、そもそも作者のアンデルセンも男性で、しかも生涯を通して失恋を繰り返していた人のようですから、本来はそちらの読み方こそ、書き手の意図に沿ったものかもしれないですね。

人魚姫が隣国の姫と結婚した王子を殺さずに自ら姿を消す道を選ぶのは、同じ人魚の姉たちとの会話を経て二人の姿を目にした時に「そもそもが住む世界の違う相手だった」と改めて思い知ったせいもあると思います。

「羽衣天女」て羽衣を隠してしまう夫は、そういう形でしかアプローチ出来ない男性なのでしょうね。
恐らくはまともな教育も受けず、貧しい境遇の人でもありますから。

ただ、子供の頃は、天女が夫を置いて飛び去るラストを見て、
「あれ、これで終わりなの?」と釈然としなかった記憶があります。

私も男性の見方や心情は今一つ理解できないので、男性を主人公にして描く時はいつも迷いますよ(苦笑)

タチアナ・サモイロワさんの作品は「アンナ・カレーニナ」も「鶴は飛んでいく」もDVDを買って観ました(検索したら、今年の五月にお亡くなりになっていたようで……)。

どちらのヒロインも形は違うけれど、真っ直ぐに愛情を求めるが故に不幸になっていく女性像ですね。

「アンナ・カレーニナ」のアンナに関しては、「結局は、こういう形でしか生きられない女性なんだろうな」という風にヒロインを捉えて観ていました。

キチイには安定した家庭を築いてその中に充足して暮らす生き方が出来るけれど、アンナはそうしたくてもそれが出来ない。

「鶴は飛んでいく」のヒロインが鉄道自殺を遂げようとして、結果的には孤児の少年を救い出して、自分も生きる道を選ぶのは、実子を置いて死を選ぶ「アンナ・カレーニナ」へのアンチテーゼにも思えました。

タチアナ・サモイロワさんはオードリーのような愛くるしさや洗練された感じは少し乏しいけれど、その代わりに荒涼とした大地に生きるロシア人女性の憂愁や苦味を表現する点では秀でていたように思います。

話はずれますが、ロシア人女優でオードリーに似ていると言えば、リュドミラ・サベリエワの方がもう少し近い気がします。

実際、どちらも「戦争と平和」のヒロインを演じています。
[一言]
>不況で地道な職探しに疲れ果てた失業者がとうとう思い余って銀行強盗を働いたような痛ましさ
凄い解釈ですね、物語の登場人物をそこまで深く見つめているとは。私は男性の性欲とはこんなに激しいのか、と子供ながらに関心しつつ、我が身を振り返りさもありなんと納得していました。
最近の幼女監禁事件の「理想の妻に育てようとした」という発言を想起して、浅薄な男の悲哀と害悪を思います。
パン×クロックスさん

「羽衣天女」の夫の行動については、むしろ大人になってからの方が悲しさが見える気がします。

「竹取物語」の五人の貴顕の求婚者たちと違って、この夫はそもそもが妻を娶るのが困難な境遇にいると思われますから、地上に取り残される結末を見ても、「ざまをみろ」という感じがしないんですよね。

だからこそ、伝承には「夫も共に天に昇る」というバリエーションも存在しているのではないか、と。

宮崎勤の事件について書いた直後だったので、最近の事件については正直、背筋が寒くなるような思いで見ていました。
無事に女の子が保護されたようで本当に良かったです。

「理想の妻に育てようとした」という発想自体は、女性の紫式部が描いた「源氏物語」にも出てきますが、これは物語だからこそ成り立つお話ですよね。

ちなみに光源氏が幼い若紫を引き取るのは、そのままだと、病身の祖母の死後は、継母や異母兄弟のいる家に引き取られ、不遇に育つのが目に見えているため(継母が美しい継娘を虐待する話は同じ平安時代の『落窪物語』にも出てきます)、救済措置として自ら養育に乗り出した側面もありますから、決して男性としての欲望やエゴばかりではないのです。

光源氏が救済する中には、若紫や玉鬘のような人目をそばだてる美少女ばかりではなく、末摘花のような容姿も不器量ならば、才覚も劣った女性もいますから、その意味で、彼はやはり女性の目を通して理想化された男性像なのでしょうね。

同じような行動を取る人物を描いても、男性の目線と女性の視点ではその辺りが大きく違っている気がします。
[一言]
活動報告に書かせて頂いた通り、私と同じように不気味に感じていた事に少し驚きました。でも、あの話はそうなるように出来てますよね。少なくとも楽しい雰囲気の作品ではありません。そこから宮崎勤の話に移行するとは、吾妻栄子さんの思考は自由自在で素晴らしいですね。確かにあの目は薄ら寒い怖さを持ってました。無気力な人程怖いと感じる様になったキッカケです。
パン×クロックスさん

早速のご高覧及びご感想どうもありがとうございます。

「ハーメルンの笛吹き」の結末にゾッとする子供は多いでしょうね。
笛吹きも子供たちも結局はどこに行ったのか分からない。

真相は藪の中というラストは、「罰が当たって死んでしまいました」という自業自得のエンディングより不気味なものです。

そもそも、「町に鼠が溢れかえる」というカオスに始まり、「問題を解決してもらっておきながら、報酬の支払いを拒否する」というトラブルを転機にして、「町から子供の姿が消えてしまう」というカオスに終わるストーリーですから、一貫して、不穏な空気に包まれた作品ですね。

だからこそ、まだら服を着た笛吹きの姿や聴く者を魅惑する笛の音の響きが色鮮やかに浮かび上がってもくるのですが。

宮崎勤事件については、おとぎ話として「子供が連れ去られて姿を消す」ストーリーに接するのと前後して、リアルにそうした事件を見聞きした衝撃が影響しています。

彼に殺害された女の子たちは生きていれば、私と変わらない年配です。

リアルタイムで報道を見ていた時は、被害者の写真が増えるたびに、「もしかして、私も?」と絵本の中ではなく現実の自分の背後に黒い影が忍び寄っているような恐怖を覚えた記憶があります。

本文でも書いたように、宮崎勤の風貌は「オタク」のステレオタイプとしてメディアでも定着しましたが、個人的には「オタク」的な趣味を持つことが問題なのではなく、他人の痛みを捉えられない麻痺した感性が恐ろしいのだと思います。
[一言]
ピエロの話、私もマクドナルドのキャラクターであるドナルドが怖くて、子供の頃夢に出てきた事があります。
ドナルド誘拐団という人攫いの集団で、近づいて来た時の大きな体が不気味で、それ以来ピエロがトラウマになりました。「IT」も当然見ることが出来ないんですがその元になった人物がいたとは、しかも捕まってからも人を襲う、まさに映画の様な話ですね。
パン×クロックスさん

こちらにもご感想ありがとうございます。

毎回テーマを変えて書いているつもりなんですが、どうもこちらは反応が薄いので、とても嬉しいです。

ネットで見かけた情報によると、「ピエロ恐怖症」て七人に一人くらいの割合でいるそうですから、ドナルドが怖い子も潜在的に多そうですね。

それでも、ドナルドはまだピエロのメイクや扮装としては大人しめの部類だとは思いますけど。

映画「IT」の殺人ピエロは、ドナルドをもっと厚塗りにして装飾の多い服を着せ、全般に禍々しくしたような感じですよね。

ちなみに、モデルになったジョン・ゲイシーは、マクドナルドではなくケンタッキー・フライドチキンのチェーン店経営で成功したそうです。

本人がピエロの「ポゴ」に扮した写真を見ると、カーネル・サンダースが白塗りに青い隈取を施したようなご面相です。

ちなみに映画「IT」の公開が1990年、ゲイシーの刑死が1994年だそうですから、映画の公開時点では本人はまだ生きていたわけです。

外で自分をモデルにした殺人ピエロの映画が公開され話題を呼んでいる一方で、本人は獄中で哀しく笑ったピエロの自画像を描き続けている姿を想像すると、それ自体が怪談じみた光景に思えてきます。
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