感想一覧
▽感想を書く感想絞り込み
[一言]
敬愛する路瀕存様
もう一度、拝読しました。1回目よりも理解できた気がします。しかし確かに、路瀕存さんおっしゃるように、厳密さに欠ける部分や、もっと掘り下げるべき点を残していると感じます。それでも、ひとつの詩論をこのような視点から書かれたこと、私はそれに感服しております。
触発されて、私も「内容と形式」をひとつのテーマとして詩論のようなものを書き始めました。いち詩人として、それが路瀕存さんとも既存の詩論とも異なるような、新たな可能性を示せればと思っています。
分析の手法のひとつして静学分析を用いられたのは、単純なモデルを提示することでともかく分かり易く理解しようというところもあるのかな、と勝手に思っています。ですが個人的な意見としては、ぜひとも動学分析を行って頂きたいと感じています。詩の現在を探る、というところから逸れてしまうと書かれておりましたが、私には(素人感覚ですが)、動学分析によって、過去から未来への大きな流れのなかの一点としての「現在」を探ることができるのではないか、と思われるのです。いやむしろ、動学分析で示されるような経過を辿ったからこそ、詩壇においては「内容=形式」となっているわけであり、そして、まさにそこにこそ、現代詩の陥っている閉塞感があるのではないでしょうか。詩壇の見解は、詩壇のなかにおいては全く正しいのではないかと思います。しかし私は、それに違和感を覚える者として、「では詩はどうあれば良いのか」を新たなに提示し、言わば「先」に進みたいと思うのですが、路瀕存さん、いかがでしょうか。
Sai:武田章利
敬愛する路瀕存様
もう一度、拝読しました。1回目よりも理解できた気がします。しかし確かに、路瀕存さんおっしゃるように、厳密さに欠ける部分や、もっと掘り下げるべき点を残していると感じます。それでも、ひとつの詩論をこのような視点から書かれたこと、私はそれに感服しております。
触発されて、私も「内容と形式」をひとつのテーマとして詩論のようなものを書き始めました。いち詩人として、それが路瀕存さんとも既存の詩論とも異なるような、新たな可能性を示せればと思っています。
分析の手法のひとつして静学分析を用いられたのは、単純なモデルを提示することでともかく分かり易く理解しようというところもあるのかな、と勝手に思っています。ですが個人的な意見としては、ぜひとも動学分析を行って頂きたいと感じています。詩の現在を探る、というところから逸れてしまうと書かれておりましたが、私には(素人感覚ですが)、動学分析によって、過去から未来への大きな流れのなかの一点としての「現在」を探ることができるのではないか、と思われるのです。いやむしろ、動学分析で示されるような経過を辿ったからこそ、詩壇においては「内容=形式」となっているわけであり、そして、まさにそこにこそ、現代詩の陥っている閉塞感があるのではないでしょうか。詩壇の見解は、詩壇のなかにおいては全く正しいのではないかと思います。しかし私は、それに違和感を覚える者として、「では詩はどうあれば良いのか」を新たなに提示し、言わば「先」に進みたいと思うのですが、路瀕存さん、いかがでしょうか。
Sai:武田章利
≫Saiさん
コメントをお寄せ頂き,ありがとうございます。
Saiさんの詩論,一読者として楽しみにしています。
>分析の手法のひとつとして静学分析を用いられたのは、
>単純なモデルを提示することでともかく分かり易く理解しようというところもある
ご指摘のとおりであります。シンプルなものほど切れ味が良く,理解しやすい。
クルーグマン的手法が有用だとおもっています。
>ぜひとも動学分析を行って頂きたい
>動学分析によって、過去から未来への大きな流れのなかの一点としての
>「現在」を探ることができるのではないか
以下の45度線モデルが静学で,ニューケインジアンのモデルが動学に当たります。
「どこの誰がサミュエルソンの45度線モデルなんて教えます? とりわけ,大学院で教える人なんていますかね? あまりにも粗雑であまりにも時代遅れで,いまさら言及する価値なんてないと思われていますよね.でも,これが教えてくれる基本的な論点は,いま多くの高名な経済学者たちが言っていることよりも洗練されています――それどころか,この粗雑なつくりごとを学んでおきさえすれば,素朴な誤謬におちいらずにすんだはずです.これと同じ要点をもっと精緻なニューケインジアンのモデルの観点で言い表すこともできますが,そうしたモデルは,あまりにややこしいおかげで,古風な45度線図ほど力強く要点を示してくれないのです」「ぼくがいつも経済学に求めているのは『直観ポンプ』です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです」(Krugman[2011])。
>動学分析で示されるような経過を辿ったからこそ、
>詩壇においては「内容=形式」となっているわけであり、そして、まさにそこにこそ、
>現代詩の陥っている閉塞感があるのではないでしょうか。
そのとおりだと私もおもいます。私は,「自由詩の自由は,作者が自由に肩を選べるし,更に自分なりに型を生み出していくことができる」(鈴木[1988])との考えのもと,中也,萩原,立原,三好とも同様,「現代詩がさまざまな試みを重ねて成熟すれば,たとえ定型ではないにしても,それなりの〈型〉ができる,と予想し期待して」います(北川[1993])。だからこそ,いまひとたび「形式」を思い出してほしい,そういう思いもあります。
>「では詩はどうあれば良いのか」を新たなに提示し、言わば「先」に進みたいと思う
そのお気持ち,とてもよくわかります。
私も,それを模索するための足掛かりとして,本稿を執筆させていただいています。「詩はどうあるべきか」を模索するのは,次稿への課題で提示している「規範的分析」に当たるものであり,第1章では触れられないものでした。
本稿とは別の感想欄にて,稲葉孝太郎さんからのコメントに返信したところですが,「詩を他ジャンルに位置づけることで,窮屈さから脱することができるのであれば,それは模索に値する道かとおもっています。Harold Buddの如く音楽の1ジャンルに位置づけたり,様々な詩人が朗読詩を推し進めたりすることに対して,私は賛成の立場にあります。もしこれらが,「文学」(または内容と形式)からの脱却だと看做しえるのであれば,この可能性も積極的に探るべきだと思います」。
Saiさんの論考を拝読させていただき,勉強させていただきます。
コメントをお寄せ頂き,ありがとうございます。
Saiさんの詩論,一読者として楽しみにしています。
>分析の手法のひとつとして静学分析を用いられたのは、
>単純なモデルを提示することでともかく分かり易く理解しようというところもある
ご指摘のとおりであります。シンプルなものほど切れ味が良く,理解しやすい。
クルーグマン的手法が有用だとおもっています。
>ぜひとも動学分析を行って頂きたい
>動学分析によって、過去から未来への大きな流れのなかの一点としての
>「現在」を探ることができるのではないか
以下の45度線モデルが静学で,ニューケインジアンのモデルが動学に当たります。
「どこの誰がサミュエルソンの45度線モデルなんて教えます? とりわけ,大学院で教える人なんていますかね? あまりにも粗雑であまりにも時代遅れで,いまさら言及する価値なんてないと思われていますよね.でも,これが教えてくれる基本的な論点は,いま多くの高名な経済学者たちが言っていることよりも洗練されています――それどころか,この粗雑なつくりごとを学んでおきさえすれば,素朴な誤謬におちいらずにすんだはずです.これと同じ要点をもっと精緻なニューケインジアンのモデルの観点で言い表すこともできますが,そうしたモデルは,あまりにややこしいおかげで,古風な45度線図ほど力強く要点を示してくれないのです」「ぼくがいつも経済学に求めているのは『直観ポンプ』です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです」(Krugman[2011])。
>動学分析で示されるような経過を辿ったからこそ、
>詩壇においては「内容=形式」となっているわけであり、そして、まさにそこにこそ、
>現代詩の陥っている閉塞感があるのではないでしょうか。
そのとおりだと私もおもいます。私は,「自由詩の自由は,作者が自由に肩を選べるし,更に自分なりに型を生み出していくことができる」(鈴木[1988])との考えのもと,中也,萩原,立原,三好とも同様,「現代詩がさまざまな試みを重ねて成熟すれば,たとえ定型ではないにしても,それなりの〈型〉ができる,と予想し期待して」います(北川[1993])。だからこそ,いまひとたび「形式」を思い出してほしい,そういう思いもあります。
>「では詩はどうあれば良いのか」を新たなに提示し、言わば「先」に進みたいと思う
そのお気持ち,とてもよくわかります。
私も,それを模索するための足掛かりとして,本稿を執筆させていただいています。「詩はどうあるべきか」を模索するのは,次稿への課題で提示している「規範的分析」に当たるものであり,第1章では触れられないものでした。
本稿とは別の感想欄にて,稲葉孝太郎さんからのコメントに返信したところですが,「詩を他ジャンルに位置づけることで,窮屈さから脱することができるのであれば,それは模索に値する道かとおもっています。Harold Buddの如く音楽の1ジャンルに位置づけたり,様々な詩人が朗読詩を推し進めたりすることに対して,私は賛成の立場にあります。もしこれらが,「文学」(または内容と形式)からの脱却だと看做しえるのであれば,この可能性も積極的に探るべきだと思います」。
Saiさんの論考を拝読させていただき,勉強させていただきます。
- 路瀕存
- 2014年 07月06日 09時31分
[一言]
大変面白い試みですね! 私は理系のくせに数式苦手なもので、数式での解説部分をうまく理解できている自信はありませんが、路瀕存さんの出した「内容が形式であり、形式が内容であるような状態を指して詩という」が誤りであるという結論には同意です。
しかし、内容、形式、それぞれの意味の捉え方が、路瀕存さんと詩壇とで異なるため、詩壇で言われている内容を知らない私には、詩壇における「内容が形式であり、形式が内容であるような状態を指して詩という」を否定することもできません。
いやしかし、とても刺激になりました。私も私なりに、詩における内容と形式について考えてみます。
大変面白い試みですね! 私は理系のくせに数式苦手なもので、数式での解説部分をうまく理解できている自信はありませんが、路瀕存さんの出した「内容が形式であり、形式が内容であるような状態を指して詩という」が誤りであるという結論には同意です。
しかし、内容、形式、それぞれの意味の捉え方が、路瀕存さんと詩壇とで異なるため、詩壇で言われている内容を知らない私には、詩壇における「内容が形式であり、形式が内容であるような状態を指して詩という」を否定することもできません。
いやしかし、とても刺激になりました。私も私なりに、詩における内容と形式について考えてみます。
》saiさん
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
ご案内のとおり、本稿の数学はメカニズムデザイン理論を援用しただけにつき、厳密でないので、お読みいただくにあたってご苦労をおかけしたかと存じます(語はどーいうパラメータで数学的にどのように表現されるのか、主体の情動は外生か内生か、など)。
内容が表現されるプロセスは、メカ論のマウントライター三角形(※ほんとはそんな名前じゃないらしいのですが便宜上。)を想定した決定関数なので、主体の情動→内容→形式というパスはあっても、形式→主体の情動というパスは想定してない、という状況です。これは、本稿が行っていることが、静学分析であるためです。むろん、ここに経時的視点(例えばフィードバックループ)を入れ漸進進化や適応学習過程を導入すれば、動学分析として、主体の情動→内容→形式→詩→主体の情動…が描けるのだとおもいます。そうなれば内容=形式、としても差し支えないようにみえる。ところがそれは歴史経路依存の結果でしかない。歴史経路依存性を分析対象にすると、無限後退問題を扱う羽目になり、結果として本稿はたんに詩のルーツを探る旅に堕してしまいかねない。詩の現在を探るためには、これを避けたい。
かくいう次第で、静学分析としている次第です。
というか、これは本文に書かねばならないことですよね!
saiさんのおかげで気づきました。ありがとうございます。
コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
ご案内のとおり、本稿の数学はメカニズムデザイン理論を援用しただけにつき、厳密でないので、お読みいただくにあたってご苦労をおかけしたかと存じます(語はどーいうパラメータで数学的にどのように表現されるのか、主体の情動は外生か内生か、など)。
内容が表現されるプロセスは、メカ論のマウントライター三角形(※ほんとはそんな名前じゃないらしいのですが便宜上。)を想定した決定関数なので、主体の情動→内容→形式というパスはあっても、形式→主体の情動というパスは想定してない、という状況です。これは、本稿が行っていることが、静学分析であるためです。むろん、ここに経時的視点(例えばフィードバックループ)を入れ漸進進化や適応学習過程を導入すれば、動学分析として、主体の情動→内容→形式→詩→主体の情動…が描けるのだとおもいます。そうなれば内容=形式、としても差し支えないようにみえる。ところがそれは歴史経路依存の結果でしかない。歴史経路依存性を分析対象にすると、無限後退問題を扱う羽目になり、結果として本稿はたんに詩のルーツを探る旅に堕してしまいかねない。詩の現在を探るためには、これを避けたい。
かくいう次第で、静学分析としている次第です。
というか、これは本文に書かねばならないことですよね!
saiさんのおかげで気づきました。ありがとうございます。
- 路瀕存
- 2014年 07月01日 23時12分
[一言]
作詞は確かに定型詩と同じようなものです。
ただ作詞の場合は、毎回作曲者が異なった譜割り(定型詩のような形式)を決めているので、作詞者はそれに則り言葉を綴らなければならない。
これが作詞でいう「形式」、或いは「技法」となります。
そして「アート」についてですが、これはもうその人の感性次第なので、私としては、その「何か」を持っている人は支持するし、そうでなければ相手にはしません。
作詞は確かに定型詩と同じようなものです。
ただ作詞の場合は、毎回作曲者が異なった譜割り(定型詩のような形式)を決めているので、作詞者はそれに則り言葉を綴らなければならない。
これが作詞でいう「形式」、或いは「技法」となります。
そして「アート」についてですが、これはもうその人の感性次第なので、私としては、その「何か」を持っている人は支持するし、そうでなければ相手にはしません。
- 投稿者: 退会済み
- 男性
- 2014年 06月27日 00時39分
管理
[良い点]
興味深い。
というか自分もさっき、たまたまそのようなことを考えていましたので(文系として)。
[一言]
初めまして。
私はLYRICS(作詞)を書いているので、感覚としてそれなりには詩(自由詩)との違いがわかります。
自由詩は字数制限を設けていないので、一行に対し自由な字数で綴ることができ、また行数も自分の表現したいぶんだけ増やしていくことが可能なため、比較的誰にでも、書こうと思えば手頃に書くことが出来ますよね。
ただそのためか、時にそれは、詩ではなくただのジャーナル(日記)のようなものになったりもする。
興味深い。
というか自分もさっき、たまたまそのようなことを考えていましたので(文系として)。
[一言]
初めまして。
私はLYRICS(作詞)を書いているので、感覚としてそれなりには詩(自由詩)との違いがわかります。
自由詩は字数制限を設けていないので、一行に対し自由な字数で綴ることができ、また行数も自分の表現したいぶんだけ増やしていくことが可能なため、比較的誰にでも、書こうと思えば手頃に書くことが出来ますよね。
ただそのためか、時にそれは、詩ではなくただのジャーナル(日記)のようなものになったりもする。
- 投稿者: 退会済み
- 男性
- 2014年 06月25日 22時30分
管理
コメントをお寄せ頂きありがとうございます。
自由詩は,自由であるがゆえに,範疇を拡大して魑魅魍魎の世界を形成してしまっているなあ……と私も思います。
2012年 09月10日当時,(自由であるがゆえに)詩と詞が混同して語られることが多くて辟易し,「歌詞と詩は別物であると何度言ったら判りますか」という活動報告を書いて注意喚起を試みました。その時寄せられたコメントに対し,小生は「詩でいうところの『定型詩』のようなイメージではないかと思っています。換言すると,歌い手にとっては制約条件付費用(=歌いづらさ)最小化問題であるところ,作詞家にとっては,制約条件付効用(=書きたいこと)最大化問題であるのかなあとおもっています」と返信していました。門外漢なので,作詞家さんのご高見を賜れれば幸甚です。
※以前の論考で参照したリンク:
http://ameblo.jp/lyricist-h1r0i/entry-10728133459.html
http://hwbb.gyao.ne.jp/s_kato-pg/SH000-LIST.htm
http://www.vividcar.com/cgi-bin/WebObjects/f1b8d82887.woa/wa/read/1099d9c4f5d/
自由詩は,自由であるがゆえに,範疇を拡大して魑魅魍魎の世界を形成してしまっているなあ……と私も思います。
2012年 09月10日当時,(自由であるがゆえに)詩と詞が混同して語られることが多くて辟易し,「歌詞と詩は別物であると何度言ったら判りますか」という活動報告を書いて注意喚起を試みました。その時寄せられたコメントに対し,小生は「詩でいうところの『定型詩』のようなイメージではないかと思っています。換言すると,歌い手にとっては制約条件付費用(=歌いづらさ)最小化問題であるところ,作詞家にとっては,制約条件付効用(=書きたいこと)最大化問題であるのかなあとおもっています」と返信していました。門外漢なので,作詞家さんのご高見を賜れれば幸甚です。
※以前の論考で参照したリンク:
http://ameblo.jp/lyricist-h1r0i/entry-10728133459.html
http://hwbb.gyao.ne.jp/s_kato-pg/SH000-LIST.htm
http://www.vividcar.com/cgi-bin/WebObjects/f1b8d82887.woa/wa/read/1099d9c4f5d/
- 路瀕存
- 2014年 06月26日 07時26分
― 感想を書く ―