感想一覧
▽感想を書く[一言]
数年前の物ですがエッセイランキングに載っていたので・・・
そもそもの武田勢が織田を攻めるために〜というところですが
自分が歴史物を漁っていた10年ほど前?頃の時点で
家康を挑発するために通り過ぎた、とされていたように思います。
当時の松平徳川勢は武田方より
家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭に本多平八
と言われるように馬鹿にされていたとされます
(後世の後付けで石田三成の物を真似しただけとも言われていますが)
元より徳川と織田の挟撃を恐れ、得意な野戦をもって
"最小限の被害"に抑えるための信玄の策だった、とされていた気がします。
三方ヶ原で待ち構えていた、というのも通り過ぎたはいいものの
家康チキンすぎて出てこねーよ!ちょ、これ流石に不味くね?転進!てんしーん!
→三方ヶ原が転進するには丁度いい場所だった?
→そこで鉢合わせした、という説も見た記憶があります。
まぁぶっちゃけて家康の我慢が足りなかっただけっていう話ですよね。
数年前の物ですがエッセイランキングに載っていたので・・・
そもそもの武田勢が織田を攻めるために〜というところですが
自分が歴史物を漁っていた10年ほど前?頃の時点で
家康を挑発するために通り過ぎた、とされていたように思います。
当時の松平徳川勢は武田方より
家康に過ぎたる物が二つあり、唐の頭に本多平八
と言われるように馬鹿にされていたとされます
(後世の後付けで石田三成の物を真似しただけとも言われていますが)
元より徳川と織田の挟撃を恐れ、得意な野戦をもって
"最小限の被害"に抑えるための信玄の策だった、とされていた気がします。
三方ヶ原で待ち構えていた、というのも通り過ぎたはいいものの
家康チキンすぎて出てこねーよ!ちょ、これ流石に不味くね?転進!てんしーん!
→三方ヶ原が転進するには丁度いい場所だった?
→そこで鉢合わせした、という説も見た記憶があります。
まぁぶっちゃけて家康の我慢が足りなかっただけっていう話ですよね。
ご感想ありがとう御座います。
>まぁぶっちゃけて家康の我慢が足りなかっただけっていう話ですよね。
まあ、私の説は、家康が乗らざるを得ない挑発(三河と遠江が分断されるのをだまって見過ごせば、遠江の豪族が離反して浜松に篭城どころではない)を信玄がした。という話ですね。
>まぁぶっちゃけて家康の我慢が足りなかっただけっていう話ですよね。
まあ、私の説は、家康が乗らざるを得ない挑発(三河と遠江が分断されるのをだまって見過ごせば、遠江の豪族が離反して浜松に篭城どころではない)を信玄がした。という話ですね。
- 六三
- 2017年 04月18日 22時03分
[良い点]
漫画とか小説とかでしか歴史をかじらない素人マンですが、歴史考察物は好きでよく見ます。
武士や大名と言ったって、経営者で為政者であり、現代人と通じる感覚はあったんじゃないかと思っているので、今回の説を聞いて、あーなるほどなと思いました。
漫画とか小説とかでしか歴史をかじらない素人マンですが、歴史考察物は好きでよく見ます。
武士や大名と言ったって、経営者で為政者であり、現代人と通じる感覚はあったんじゃないかと思っているので、今回の説を聞いて、あーなるほどなと思いました。
ご感想ありがとう御座います。
日本の戦争は、実際には内乱であり、そこが他国(特に西洋)の戦争との大きな違いと思います。
それは、日本の将棋が取った駒を使え、チェスなど西洋将棋は取った駒を使えない事に現れています。
日本の武士は寄親、寄子の関係があり、寄親が戦いに敗れても、寄子は新しい領主に当然のように従ったりしますし。
単に戦に勝つだけではなく、如何に家臣を纏めるかが重要だったようですね。
※西洋にも当然内乱はあったり、王族同士の血縁関係が複雑だったイギリスとフランスの百年戦争などは、貴族があっちについたり、こっちについたりしていますが。
日本の戦争は、実際には内乱であり、そこが他国(特に西洋)の戦争との大きな違いと思います。
それは、日本の将棋が取った駒を使え、チェスなど西洋将棋は取った駒を使えない事に現れています。
日本の武士は寄親、寄子の関係があり、寄親が戦いに敗れても、寄子は新しい領主に当然のように従ったりしますし。
単に戦に勝つだけではなく、如何に家臣を纏めるかが重要だったようですね。
※西洋にも当然内乱はあったり、王族同士の血縁関係が複雑だったイギリスとフランスの百年戦争などは、貴族があっちについたり、こっちについたりしていますが。
- 六三
- 2016年 09月13日 23時34分
[一言]
記事が書かれてから大分時間が経っているので、作者さんの認識も変わっているかも知れませんが、一応一言。
まず、信玄は史実において三方ヶ原の戦いの後東三河の野田城を実際に攻めていますので、信玄の当面の狙いが三河だったという事は、説というよりももはや純然たる事実であると言えるでしょう。
問題は、三河を攻めて徳川を死に体にした後、そのまま織田領を攻める気があったのかどうかという点だと思います。
実際武田軍は野田城攻めをしている最中にも本願寺や足利義昭と連絡をとっていますし、信玄自身も上洛を口にしています。また、京の山城離宮八幡宮などは早くも武田軍に諸役免除と禁制の発行を依頼しているそうなので、武田軍がまもなく上洛してくるかも知れない。位の認識は当時の京にもあったようです。
史実においては信玄の病状悪化により武田軍の動きは停滞しますが、それがなかった場合、とりあえず三河をつぶしてその後尾張・美濃へ攻め込むという目もまんざら不可能とは言えないので、これを否定する事は出来ないと思います。
もっとも、個人的には三河を落とし更にそのまま尾張・美濃まで攻め込むというのは、不可能とは言えないとしてもかなり無茶な軍事行動だと思うので、そこまではしなかった可能性の方が高いと考えていますが。
以上参考までに。
記事が書かれてから大分時間が経っているので、作者さんの認識も変わっているかも知れませんが、一応一言。
まず、信玄は史実において三方ヶ原の戦いの後東三河の野田城を実際に攻めていますので、信玄の当面の狙いが三河だったという事は、説というよりももはや純然たる事実であると言えるでしょう。
問題は、三河を攻めて徳川を死に体にした後、そのまま織田領を攻める気があったのかどうかという点だと思います。
実際武田軍は野田城攻めをしている最中にも本願寺や足利義昭と連絡をとっていますし、信玄自身も上洛を口にしています。また、京の山城離宮八幡宮などは早くも武田軍に諸役免除と禁制の発行を依頼しているそうなので、武田軍がまもなく上洛してくるかも知れない。位の認識は当時の京にもあったようです。
史実においては信玄の病状悪化により武田軍の動きは停滞しますが、それがなかった場合、とりあえず三河をつぶしてその後尾張・美濃へ攻め込むという目もまんざら不可能とは言えないので、これを否定する事は出来ないと思います。
もっとも、個人的には三河を落とし更にそのまま尾張・美濃まで攻め込むというのは、不可能とは言えないとしてもかなり無茶な軍事行動だと思うので、そこまではしなかった可能性の方が高いと考えていますが。
以上参考までに。
ご感想ありがとう御座います。
戦国武将の、特に名将と称される人は、ほぼ間違いなく私より頭がよいだろうと思っています。
私も、三河を落とし、そのまま尾張、美濃を攻めるのは相当無茶と考えており、私がわかる程度の事は信玄が分からないはずがないと思います。
そこで、信玄が上洛をするかのような事を本願寺などの諸勢力に言っている理由についてですが、徳川を潰すまで織田を引き付けて欲しかったのだと考えます。
信玄は、助勢するといって上杉の家臣に反逆させ、実際は助勢せず他の方面を攻めたりしており、まあ、いつもの手かなと。
戦国武将の、特に名将と称される人は、ほぼ間違いなく私より頭がよいだろうと思っています。
私も、三河を落とし、そのまま尾張、美濃を攻めるのは相当無茶と考えており、私がわかる程度の事は信玄が分からないはずがないと思います。
そこで、信玄が上洛をするかのような事を本願寺などの諸勢力に言っている理由についてですが、徳川を潰すまで織田を引き付けて欲しかったのだと考えます。
信玄は、助勢するといって上杉の家臣に反逆させ、実際は助勢せず他の方面を攻めたりしており、まあ、いつもの手かなと。
- 六三
- 2016年 09月13日 23時24分
[良い点]
はじめまして。深夜なのに楽しく読ませていただきました。
面白い考察だと思います。
東三河が松平と決して蜜月でなかったのは、『風は山河より』などにも書かれておりますが、
そもそも山家三方衆の行動もありますからね。
西三河は徳川の本拠と言いますが、そもそも守山崩れ、広忠公の岡崎退散以来、西三河はほぼ今川と織田による分割支配状態でした。
その上、三河一向一揆で土豪の力が弱り、挙句には家康が遠江に移ってしまった。
三代をかけて南近江を安定化させた浅井と異なり、あの時点での家康の権力基盤は決して強くはなかったと思います。
そこに武田が衝けばどうなるか。
世良田、得川の名前を称し、大久保や本多、井伊を従えた徳川氏は、南北朝の組分けを色濃く意識していた当時の人々にとっては、まごうことなく南朝を想起させる家です。
そこに、室町幕府の守護大名、つまりは北朝方であり、源氏の名家である武田が侵攻すれば。
吉良や荒川の与党に限らず、今川家旧臣もどこまで呼応するかわかりません。
家康の行動は、徳川という家を危険に晒してでも出撃せざるを得なかった、と考えたほうが自然ですね。
[一言]
明智光秀の本能寺の変についてもそうなのですが、特に明治以降、戦国武将や後の大名の行動について、個人的な感情や怨恨、義理人情、そうしたものに理由を求めるという風潮が強かったように思います。
家康にしても、当時はまだ若いですが、若さゆえの激情と捉えるのはあまりに早計ですよね。
例え同時代人や家康自身がそう後に語ったにしても。
家康は当時既に家臣とその家族、領民を食わせていかなければならない、いわば経営者だったわけですし
若いとはいえ没落大名の嫡子から始まったわけで、辛酸を嘗め尽くしている。
そんな彼の師表はそれこそ今川義元だったでしょう。
義元もまたお家騒動からの辛酸を嘗め尽くしたからこそ、大名とはどうあるべき、という指針を幼い家康の脳裏に刻んでいたとしてもおかしくないでしょうね。
そんな家康が、自分を無視された、という激情で危うく家を潰す真似をするでしょうか。
そんな疑問をすっきりと答えてくださいました。
ありがとうございました。
はじめまして。深夜なのに楽しく読ませていただきました。
面白い考察だと思います。
東三河が松平と決して蜜月でなかったのは、『風は山河より』などにも書かれておりますが、
そもそも山家三方衆の行動もありますからね。
西三河は徳川の本拠と言いますが、そもそも守山崩れ、広忠公の岡崎退散以来、西三河はほぼ今川と織田による分割支配状態でした。
その上、三河一向一揆で土豪の力が弱り、挙句には家康が遠江に移ってしまった。
三代をかけて南近江を安定化させた浅井と異なり、あの時点での家康の権力基盤は決して強くはなかったと思います。
そこに武田が衝けばどうなるか。
世良田、得川の名前を称し、大久保や本多、井伊を従えた徳川氏は、南北朝の組分けを色濃く意識していた当時の人々にとっては、まごうことなく南朝を想起させる家です。
そこに、室町幕府の守護大名、つまりは北朝方であり、源氏の名家である武田が侵攻すれば。
吉良や荒川の与党に限らず、今川家旧臣もどこまで呼応するかわかりません。
家康の行動は、徳川という家を危険に晒してでも出撃せざるを得なかった、と考えたほうが自然ですね。
[一言]
明智光秀の本能寺の変についてもそうなのですが、特に明治以降、戦国武将や後の大名の行動について、個人的な感情や怨恨、義理人情、そうしたものに理由を求めるという風潮が強かったように思います。
家康にしても、当時はまだ若いですが、若さゆえの激情と捉えるのはあまりに早計ですよね。
例え同時代人や家康自身がそう後に語ったにしても。
家康は当時既に家臣とその家族、領民を食わせていかなければならない、いわば経営者だったわけですし
若いとはいえ没落大名の嫡子から始まったわけで、辛酸を嘗め尽くしている。
そんな彼の師表はそれこそ今川義元だったでしょう。
義元もまたお家騒動からの辛酸を嘗め尽くしたからこそ、大名とはどうあるべき、という指針を幼い家康の脳裏に刻んでいたとしてもおかしくないでしょうね。
そんな家康が、自分を無視された、という激情で危うく家を潰す真似をするでしょうか。
そんな疑問をすっきりと答えてくださいました。
ありがとうございました。
ご感想有難う御座います。
>例え同時代人や家康自身がそう後に語ったにしても。
権謀渦巻く戦国時代に、そう言ってるんだからそう思ってたんだろう。は必ずしも通じないと思いますね。
私達だって社会で生きていれば、言っている事とやっている事が違っていたり、やりたい事の本当の理由を言っても通じなさそうなら、別のもっともらしい理由をこじつけたりもします。ましてや戦国時代ならばです。
三倍の武田軍に戦うなら勝算は低く、被害も多いでしょう(本当は戦う気がなかったとも言いますが危険は危険です)。
そして浜松城に篭る兵は大半は、当然遠江衆な訳ですから、東三河に気概を見せる為の無謀な戦いを挑むとは言えなくても不思議ではなく、取ってつけた様な理由で出陣した。と見る事も出来ますね。
(もっとも、三方ヶ原での家康の言葉は、三河物語が出典で個人的には信憑性に欠けると思ってますが)
これからも宜しくお願いします。
>例え同時代人や家康自身がそう後に語ったにしても。
権謀渦巻く戦国時代に、そう言ってるんだからそう思ってたんだろう。は必ずしも通じないと思いますね。
私達だって社会で生きていれば、言っている事とやっている事が違っていたり、やりたい事の本当の理由を言っても通じなさそうなら、別のもっともらしい理由をこじつけたりもします。ましてや戦国時代ならばです。
三倍の武田軍に戦うなら勝算は低く、被害も多いでしょう(本当は戦う気がなかったとも言いますが危険は危険です)。
そして浜松城に篭る兵は大半は、当然遠江衆な訳ですから、東三河に気概を見せる為の無謀な戦いを挑むとは言えなくても不思議ではなく、取ってつけた様な理由で出陣した。と見る事も出来ますね。
(もっとも、三方ヶ原での家康の言葉は、三河物語が出典で個人的には信憑性に欠けると思ってますが)
これからも宜しくお願いします。
- 六三
- 2015年 01月10日 22時04分
[良い点]
非常に面白い着眼点で、感服しました。
お説の通り、挟撃されたらアウトですし、後方攪乱も危険ですよね。武田家の場合は、信州から三河へのルートもあるから退路はあるのでしょうが。
最近は、桶狭間の際の今川義元の目的も、上洛ではなく尾張の掌握にあったという説も出てきていますし、これも実に説得力のある仮説かと思います。面白かったです。
非常に面白い着眼点で、感服しました。
お説の通り、挟撃されたらアウトですし、後方攪乱も危険ですよね。武田家の場合は、信州から三河へのルートもあるから退路はあるのでしょうが。
最近は、桶狭間の際の今川義元の目的も、上洛ではなく尾張の掌握にあったという説も出てきていますし、これも実に説得力のある仮説かと思います。面白かったです。
ご感想有難う御座います。
最近では、信長の鉄砲三段打ちはなかった。武田に騎馬隊などなかった。など、以前広まっていた説が覆される事が多いようです。
結城藍人さんの言われた、桶狭間について以前から考えていたことを思い出したので、そちらについても投稿いたしました。よろしければごらん下さい。
これからも宜しくお願いします。
最近では、信長の鉄砲三段打ちはなかった。武田に騎馬隊などなかった。など、以前広まっていた説が覆される事が多いようです。
結城藍人さんの言われた、桶狭間について以前から考えていたことを思い出したので、そちらについても投稿いたしました。よろしければごらん下さい。
これからも宜しくお願いします。
- 六三
- 2014年 12月29日 16時19分
[一言]
ちょっとした疑問なのですが、[通説では武田信玄は徳川家康が篭る浜松城を素通りし織田領に向かった]との記述がありましたが、通説という表現は不適なのではないですか?
ちょっとした疑問なのですが、[通説では武田信玄は徳川家康が篭る浜松城を素通りし織田領に向かった]との記述がありましたが、通説という表現は不適なのではないですか?
ご指摘有難う御座います。
そういえば感覚的に通説という言葉を使用しましたが、正確な意味はどうなんだろうと調べて見ました。
①世間に広く通用している説。 「 -をくつがえす新発見」
②全般にわたって解説すること。また,その解説。 「日本文学史-」
③深い真理に達した説。通達した説。
また、こうも言うそうです。
通説(つうせつ)は、世間に広く通用している説のことである。
すなわち、いくつかの仮説のうち多数が支持しているものをさす。
確定的であるとされる定説とは異なる。
まあ、私の記憶に有る限りでは、TVなどで歴史研究家や歴史小説家が、信玄が浜松を素通りした理由を説明する時は織田領に向かったと説明されておりましたので、世間では多くの人がそう思っているかなと。
※無論、もっと多くの人が興味がないから知らない。考えたこともない。のでしょうが。
もっとも、通説という言葉を使用するときに本当に多くの人がそう考えているかアンケートなどをとる人は居ないでしょうし(逆に通説じゃないという人もアンケートなど取らないでしょうし)、あの人は通説と思っているが、自分は通説とは思わないという事も多々あるんでしょうね。
これからも宜しくお願いします。
そういえば感覚的に通説という言葉を使用しましたが、正確な意味はどうなんだろうと調べて見ました。
①世間に広く通用している説。 「 -をくつがえす新発見」
②全般にわたって解説すること。また,その解説。 「日本文学史-」
③深い真理に達した説。通達した説。
また、こうも言うそうです。
通説(つうせつ)は、世間に広く通用している説のことである。
すなわち、いくつかの仮説のうち多数が支持しているものをさす。
確定的であるとされる定説とは異なる。
まあ、私の記憶に有る限りでは、TVなどで歴史研究家や歴史小説家が、信玄が浜松を素通りした理由を説明する時は織田領に向かったと説明されておりましたので、世間では多くの人がそう思っているかなと。
※無論、もっと多くの人が興味がないから知らない。考えたこともない。のでしょうが。
もっとも、通説という言葉を使用するときに本当に多くの人がそう考えているかアンケートなどをとる人は居ないでしょうし(逆に通説じゃないという人もアンケートなど取らないでしょうし)、あの人は通説と思っているが、自分は通説とは思わないという事も多々あるんでしょうね。
これからも宜しくお願いします。
- 六三
- 2014年 12月26日 10時50分
[良い点]
考察が細かくて(私程度の人間からすればですがw)解説もわかりやすく、案外見落としがちな点を説明してくださったところ。
[一言]
何気なくクリックしてなんとなく読んでましたが、読んでいるうちに「あれ、そういえばそうだな」「考えてみれば不思議だな」と感じてきて徐々に「確かにこれはおかしい」「前に感じたことのある違和感はこれか」と気づかされ、最後に「なるほど」と納得させていただきました。
確かにそうですよね、武田の率いた二万五千ともいわれる大軍は当時百万石前後の武田からすれば限界近い動員数でしょうし、上杉、北条への備えで国境にもそれなりの兵を動員して固めてるだろうことを考えると捨て置いたら駿河はあっけなく、最悪甲斐すらも危うくなるかもしれない真似はしないですよね。東三河を落として本拠西三河と遠江を分断するための戦略というのを見てすごくすっきりとさせていただきました。ありがとうございます。
考察が細かくて(私程度の人間からすればですがw)解説もわかりやすく、案外見落としがちな点を説明してくださったところ。
[一言]
何気なくクリックしてなんとなく読んでましたが、読んでいるうちに「あれ、そういえばそうだな」「考えてみれば不思議だな」と感じてきて徐々に「確かにこれはおかしい」「前に感じたことのある違和感はこれか」と気づかされ、最後に「なるほど」と納得させていただきました。
確かにそうですよね、武田の率いた二万五千ともいわれる大軍は当時百万石前後の武田からすれば限界近い動員数でしょうし、上杉、北条への備えで国境にもそれなりの兵を動員して固めてるだろうことを考えると捨て置いたら駿河はあっけなく、最悪甲斐すらも危うくなるかもしれない真似はしないですよね。東三河を落として本拠西三河と遠江を分断するための戦略というのを見てすごくすっきりとさせていただきました。ありがとうございます。
ご感想有難う御座います。
私も初めは武田軍は素通りして織田領に向かったというのを何の疑問も無く、そうなんだと思っていたのですが、ある時ふと浅井に裏切られて後方を襲われた時は研究科や時代作家という人達が当たり前のように存亡の危機だと言い、武田が徳川放置で素通りするのは同じ人がこれも当たり前の様に織田領に向かったと言うのに違和感を覚えました。
当然のように言われている事も、よくよく考えればおかしいと感じる事も多々ありますね。
私も初めは武田軍は素通りして織田領に向かったというのを何の疑問も無く、そうなんだと思っていたのですが、ある時ふと浅井に裏切られて後方を襲われた時は研究科や時代作家という人達が当たり前のように存亡の危機だと言い、武田が徳川放置で素通りするのは同じ人がこれも当たり前の様に織田領に向かったと言うのに違和感を覚えました。
当然のように言われている事も、よくよく考えればおかしいと感じる事も多々ありますね。
- 六三
- 2014年 11月22日 20時16分
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