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仰りたいことには同意します。
ただ私が最近の純文学(ヤマダ様にとっての純文学の定義もかかわってくると思います)と思しき作品を読んでいないことと、
「人生に対する作者の視点だ。作者の思想だ。」
が小説を構成する要素のどこまでを内包しているのかがはっきりするとより面白い内容になるかと思います。
私は国内の戦前作品と接する機会が多いのですが、自然主義文学がヤマダ様にとってどのように評価するのかは気になります。
岩野泡鳴の如き自我の力もあれば、徳田秋声のような罪悪感をえぐる視点もあります。他にも思想を感じる作家は多いですが、一方で島崎藤村の『千曲川のスケッチ』はどうでしょうか。詩人から小説家への過渡期の表現的に素朴な面白さを感じますが思想や視点が強調されているわけではありません。“生の作品”に近いのではないでしょうか。それでも同じ自然を強く描いた作品でも国木田独歩の「武蔵野」とは異なるやさしい味わいを届けてくれます。
現代の作品で例を挙げられず申し訳ないですが、ヤマダ様のより詳しい立ち位置に興味がわいた次第です。
仰りたいことには同意します。
ただ私が最近の純文学(ヤマダ様にとっての純文学の定義もかかわってくると思います)と思しき作品を読んでいないことと、
「人生に対する作者の視点だ。作者の思想だ。」
が小説を構成する要素のどこまでを内包しているのかがはっきりするとより面白い内容になるかと思います。
私は国内の戦前作品と接する機会が多いのですが、自然主義文学がヤマダ様にとってどのように評価するのかは気になります。
岩野泡鳴の如き自我の力もあれば、徳田秋声のような罪悪感をえぐる視点もあります。他にも思想を感じる作家は多いですが、一方で島崎藤村の『千曲川のスケッチ』はどうでしょうか。詩人から小説家への過渡期の表現的に素朴な面白さを感じますが思想や視点が強調されているわけではありません。“生の作品”に近いのではないでしょうか。それでも同じ自然を強く描いた作品でも国木田独歩の「武蔵野」とは異なるやさしい味わいを届けてくれます。
現代の作品で例を挙げられず申し訳ないですが、ヤマダ様のより詳しい立ち位置に興味がわいた次第です。
- 投稿者: 退会済み
- 男性
- 2015年 04月13日 12時55分
管理
丁寧なコメントありがとうざいます。…ですが、僕は自然主義文学については全然知らないのですよ笑 この文章を書いている時頭にあったのは漱石とドストエフスキーです。
漱石とドストエフスキーは形而上的な描写が多いですよね。例えば、ここに一人の人が街を歩いてます。でも、そこにどんな意味があるか。例えば、漱石だとそこに文明史観的な視線が織り込まれてきます。また、ドストエフスキーなんかでも、常に社会的なものとの接点として個人の行動が示されてきます。漱石もドストエフスキーも両者、上方からの視点があるというか、文学=思想というのはそういう意味合いがあります。
ですので、自然主義文学についてはほとんど無知だというのが実情です。ただ、視線、眼差しという点では、自然主義文学は地を這っているという印象があります。そういう点でも、ただ人生を描けばいいというのではなく、人生に対する視点のあり方、視点の定め方が非常に大切だという事です。そのような感じで考えております。
漱石とドストエフスキーは形而上的な描写が多いですよね。例えば、ここに一人の人が街を歩いてます。でも、そこにどんな意味があるか。例えば、漱石だとそこに文明史観的な視線が織り込まれてきます。また、ドストエフスキーなんかでも、常に社会的なものとの接点として個人の行動が示されてきます。漱石もドストエフスキーも両者、上方からの視点があるというか、文学=思想というのはそういう意味合いがあります。
ですので、自然主義文学についてはほとんど無知だというのが実情です。ただ、視線、眼差しという点では、自然主義文学は地を這っているという印象があります。そういう点でも、ただ人生を描けばいいというのではなく、人生に対する視点のあり方、視点の定め方が非常に大切だという事です。そのような感じで考えております。
- ヤマダヒフミ
- 2015年 04月13日 13時32分
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