感想一覧

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[良い点]
面白い考察ですね。
確かに言われてみれば
当時の常識からすれば
義元の本陣は
丸わかりだったと思います。
現在と違って、相当遠くからでも
見通せたみたいですし、
狙って攻撃をしたとしか
思えませんね。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2021年 03月31日 01時09分
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[一言]
信長公記も牛一が聞いた話をまとめたものらしいです。
信長推しの家臣が酒の席で話を盛って、それが真しやかに広まってしまったかもしれませんし、いろんな説が出てきてもおかしくないですね。

資料からずれた新説は小説とくくられてしまいますが、僕はそれでも好きです。謙信女説とか

信長公記は史料的価値は高いとの事ですが、それでも桶狭間の部分は、そもそも起こった年代が違っていたり、どうかなという記述が多いようですね。

謙信女説は、最近よくドラマ化を頻繁にされている漫画家が謙信女説の作品を書いていますが、主張される根拠を並べれば説得力がありそうではありますね
・書状に景勝の叔母と書いている物がある
・月に一度腹痛と称して部屋に篭っていた
・地元に「男もおよばぬ大力無双」という歌がある
とか
でも、結局は、当時に実際に謙信と会っている人々が謙信を女とは記録していないので、まあ、難しいなとは思いますが。
  • 六三
  • 2017年 03月26日 10時21分
[一言]
鯨統一郎氏のバカミスと言われいる某小説では、信長公記から信長の自殺願望説を挙げてたという事を思い出しました。
  • 投稿者: zavas
  • 2016年 09月13日 17時43分
ご感想ありがとう御座います。

返信が遅くなり申し訳ありません。

自殺説ですか。

信長公記の記述で自殺願望があったとは思えないんですが、どう読み取ったんですかね。
  • 六三
  • 2017年 03月26日 10時13分
[良い点]
とても面白い考察だと思います。
兵を鼓舞する嘘というのは、歴史上よくある事なので桶狭間でも同じであったと考えるのは、決してありえない話ではないかと。
カエサルにしても、ガリア戦記や内乱記での自分による説明と書簡から見える真実に差異がありますし、ナポレオンなど、一兵士の従軍記を見ると、バレバレな形でやらかしていました。
(評価5にて投稿させていただきました)
[一言]
正面攻撃vs迂回攻撃についてはどう思われますか? 行軍速度のミスから橋場氏の迂回説が叩かれたりしてますけど、個人的には、そもそも鎌倉往還経由に別働隊を送らなくても、沓掛で土豪戦力が集まり、後ろから攻撃というのもあり得るなどとも思っています。大雨により大軍が分断され、動きがとれなくなった瞬間を狙っての正面攻撃も魅力的なんですけどね。
  • 投稿者: 旗代
  • 男性
  • 2015年 11月15日 08時37分
ご感想ありがとう御座います。

>兵を鼓舞する嘘というのは、歴史上よくある事なので桶狭間でも同じであったと考えるのは、決してありえない話ではないかと。
実際、正面攻撃 且つ 初めから今川本陣を狙っていたという説もありますが(特に信長を持ち上げる雑誌などでは)、その時には「敵は、鷲津、丸根を攻撃して疲れ果てている兵である」の台詞は触れないようにしているみたいです。
正面攻撃説は信長公記を元にしてるんだろうに、その中に出てくる都合の悪い台詞はスルーするのはどうかと思うんですけどね。

>正面攻撃vs迂回攻撃についてはどう思われますか? 行軍速度のミスから橋場氏の迂回説が叩かれたりしてますけど、
正直、橋場氏の迂回説というのは知りませんでした。ネットで調べた限りでは別働隊が迂回したという説のようですが。

私としては、信長公記を元にする以上、信長公記に書かれている事が正しいとして推論します。
無論、松平勢が鷲津、丸根の両砦を落としたというような間違いもあります。ですがこれは、敵方の話です。間違う事もあるでしょう。

しかし織田方の内部の話として、敵からこちらが丸見えなのでこれ以上の進撃を家老達が諌めた。という描写が出てきます。
私としては、信長公記に迂回攻撃(別働隊も含め)の話が出てこない、且つ、相手から丸見えで迂回してもしょうがない。と思いますので、正面から攻撃したのだと考えています。
(信長公記の桶狭間山まで進軍するときの描写の「山際迄御人数寄せられ候」を、現代文訳で、山際まで「密行」(ひそかに目的地へ行くこと)と訳しているのがあって、相手から見られるはずなのに密行できたということは迂回したのではないか。と誤解をあたえかねないですが)
  • 六三
  • 2015年 11月15日 15時41分
[良い点]
全くもって正しい推測だと思います。
重ねて言えば当時の信長は25歳、信忠が死んだ年と同じですね。
父子は無論、同一人物ではありませんが、一連の今川との戦いに関しては、若さというか、後の信忠と同じく短兵急な物を感じます。
[一言]
学者というのは嘘をついてはならず、与えられた史料は正として判断します。
或いは偽史、偽書として完全に無視するか。

当人の発言や行動すら疑い始めたら仕事やってられないでしょうから、学者達のそうした姿勢には理解できなくもありませんが。
軍事指揮官にして経営者にして政治的盟主でしかない男が、勝って生き残るために何をするのか。
そうして出た言葉は『汗の如き綸言』なのか。
そのあたりを考えて分析して欲しい物ですよね。
ご感想ありがとう御座います。

確かに、書かれている内容を信じるのが前提な部分はありますね。
まあ、色々を書いていますが、実際、「小高い場所に布陣して、当時の合戦の常識として馬印を掲げてて本陣の位置が分からないはずがない」というだけで、偶然ではなかった理由になると思っていますが。
  • 六三
  • 2015年 09月22日 21時36分
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