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[一言]
 他の方への感想の返しも含めて、とても勉強になりましたし、読み手に対する語りの柔らかさというか、頭ごなしでない感じが、とても良かったです。


 話はエッセイとはずれますが、今の日本の、マスメディアの世論誘導は、ある種の言論を封殺というか、間接的な言論や思想の統制だなぁ、とはよく思います。
 それは、(エセ)リベラルが唱えるポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)の文脈にそっていて、私個人としては、「どこがリベラルなんだろう? まさに全体主義じゃないか?」と、彼らのいう正義に、窮屈さというか、圧迫感を感じます。 
 
 おそらく、そこに観念のぶつかり合いがあって、ある意味、宗教戦争的な構図があるのだと思う。
 戦後体制において敷かれたリベラリズムは、ひたすらに権力を求め、結果的に権威性を落とした。 にも関わらず、権威性を維持しようとしたが為に、いわゆるポリコレ言われるような言論統制をしているのだろうと思う。
 これは腐敗したカトリックが、その権威を乱用したのと似ている。

 今、世界でおきている、いわゆる『ナショナリズム』と呼ばれるソレは、リベラルの『多文化軋轢』とは違い、正しい意味での『多文化共生』だけど、いわゆるリベラルに、その言葉を奪われてしまっている感がある。
 結局の所、そうしたリベラルのレッテルを張る行為が、(印象操作として)おそろしく効いている。
 プロテスタントが、母国語で聖書を作り、信仰を取り戻そうとしたように、本当に自由(リベラル)を求める人こそ、自分たちの言葉を取り戻す必要があると思う。

 このエッセイにおける解説は、そうした言葉を取り戻す意味で、大きな力があると思いました。


感想ありがとうございます。
コメントを拝見して色々と思うところがありましたので、少し長くなりますが返信させていただきます。
少し……というか、かなり長くなってしまったので、時間のあるときにでも読んで頂けたら幸いです。

さて、まずは基本的な話から入りますが、議論において相手を論破するためには、まずは議論の場に参加しなければなりません。要するに、相手と同じ土俵に立たないといけない訳ですが、現在の「言論の場」としてのマスメディアは「(エセ)リベラル」で占められているため、他の者達は常に相手の土俵で戦わねばならないというアンフェアな構図になってしまっている――つまり、サッカーで言うなら常にアウェーで戦うことを強いられている為に、「(エセ)リベラル」とは異なる考え方や価値観を持つ者からすれば、「彼らのいう正義に、窮屈さというか、圧迫感を感じ」、「リベラルに言葉を奪われている」という感想になるのだろうと推測します。

この推測を踏まえて、今の日本のマスメディアの世論誘導が顕著になっている原因を考えてみると、一つに、マスメディアにおける企業内統治(ガバナンス)に、たとえば「(エセ)リベラル」のような特定の主義・思想を持つ者が主流派となって関与しているであろう事が挙げられれます。なぜなら、マスメディアが国家の検閲を受けている場合には、そのことを取り上げて「国家がメディアを利用して世論を誘導している」という話もできるわけですが、現在の日本においては国家は検閲をしていないので、マスメディアで公表されたものはマスメディアの企業内統治によって認められたものであると捉える必然性があるからです。

これはどういうことかといえば、戦前において日本の世論を誘導してきたのはマスメディアを利用した国家であったかも知れませんが、戦後において日本の世論誘導を行ってきたのは国家ではなくマスメディアであるということです。マスメディアは、戦後間もない頃には国家と足並みを揃えていたかも知れませんが、憲法に「検閲をしてはならない」と明記された時点で、国家に縛られることなく日本の世論を誘導できる権能を与えられたと解釈することができるでしょう。それに加えて、電波という不特定多数にアプローチできる手段を用いることが出来るようになったこと――すなわち特定の情報をマスメディアに載せることが可能になったこと――それ自体が、視聴者に特定の方向性を与えたり、逆に与えなかったりするという現実(いわゆる報道しない自由)を鑑みれば、戦後の世論誘導は主に彼等が行ってきたと言っても過言ではないでしょう。

その為、戦後日本においてはマスメディアによる世論誘導は常に行われてきたと言わねばならず、問題としては世論誘導そのものよりも、その方向性や程度という話になるのだろうと思われます。

このことを踏まえた上で、マスメディアの世論誘導がある特定の方向性を持っている場合を考えてみると、マスメディアにおける企業内統治が特定の人間に握られている、あるいはマスメディアの内部で特定の主義や思想の持ち主が幅を利かせていると考える必然性がある事に思い至ることでしょう。なぜなら、一般的に組織の方向性を決めるのは末端の者ではなく上層部の者であり、その上層部によって現場の指揮権や監督権を与えられた一部の者達であるはずだからです。

池田信夫氏によれば、「マスコミはどこの社も、左=社会部で右=政治部。数の上では左が多いが、権力は右がもっている。そのバランスでニュース価値が決まるが、今はバランスが崩れて全メディアが社会部化(ワイドショー化)している」のだそうです。これを事実として捉えるなら、かつてマスメディアにおける主流派というのは政治部であり、社会部は権力を握っていなかったが、最近では社会部がメディア内で発言力を増し、政治部の統治力が及ばなくなっているという事になるでしょう。このことは、ニュースではなくワイドショーが現在のマスメディアの主要なコンテンツとなっているという実態に即していると思われますが、その背景には、少子高齢化と情報化による複合的な要因があるのではないかと筆者は考えています。
https://twitter.com/ikedanob/status/892312407007141888

昨今ではインターネットという情報化社会の発展を担った媒体の登場によって「言論の場」としてのマスメディアの存在感が希薄化し、SNSなどのインタラクティブ・コンテンツを提供するネット媒体がマスメディアの「識者の意見交換を目撃する場」としてのお株を奪ったことで、より質の高い情報を求める現代人のテレビ離れが加速化して、以前のように視聴率を稼げない環境になっています。要するに、現代人は新聞やテレビで得られる情報だけでは物足りなくなっている訳ですが、そのことが高じて、かつては家庭内でチャンネルを奪い合っていたのに今ではテレビを見るのは他に暇つぶしの相手のないお年寄りくらいと言われても信じられるほどに、テレビの周りの環境はここ十数年で劇的に変わってしまっています。

そのような環境下にあって、特に民放においては既存のビジネスモデルを維持することが困難になっている――すなわち既得権益の保護が難しくなっているであろう実情が考えられます。たとえばテレビのスポンサーになってもらうためには多くの人がテレビを見ていることを客観的な数字で示すことが求められる訳ですが、現在において数字を持っている――すなわちテレビを日常的に見てくれる層というのは、若年層や生産年齢層ではなく、おそらく専業主婦層や高齢者層という事になるでしょう。この数字を持っている方々というのは、どちらかと言えば政治への興味・関心が旺盛ではなく、造詣が深いという訳でもないでしょうから、必然的に視聴する番組内容は政治色の薄いバラエティ番組や情報番組になるであろうと推測できます。もちろん、中には政治に関心の高い方も居るかも知れませんが、そのような方は自ら政治活動に勤しむことでしょうから必然的にテレビに割く時間は少なくなるでしょうし、もし見るとしても彼等はバラエティ番組よりもニュース番組を見ているはずです。

その上で、現在のテレビ視聴者の視聴目的を考えてみれば、政治について理解を深める為というよりはむしろコミュニケーション・ツールとして利用する為に視聴している――簡単に言えば、近しい人と話を合わせる為に見ているという傾向が強いものと思われます。そして、このような現在の主なテレビ視聴者の傾向を踏まえた上で、マスメディアにおける仕事分担に目を向けれてみれば、ニュース番組は政治部の担当で、バラエティ番組や情報番組は社会部の担当と考えるのが妥当でしょうから、数字を持っている視聴者層にアピールできる社会部の発言力が強くなるのは必然であろうと考えられるわけです。

このことに加えて、現在の日本の人口ピラミッドを考慮すると、今のテレビが視聴率を獲得するためには「誰にターゲットを絞るべきか」が明白となることでしょう。視聴率が下がり続ける中で、若年層のテレビ離れが明らかになっているにもかかわらず、それでも10%程度の視聴率があるというのは、人口構造のボリュームゾーンに視聴者が集中していることの傍証となり得るでしょうから、テレビ側としては当然、彼等を主たる視聴者層として考慮しないわけにはいかないはずです。

これらのことを総合して考えるなら、「少子高齢化と情報化のタイミングが上手い具合に重なった為、現在のマスメディアがターゲティングすべき範囲が必然的に決まってしまった」と言い得るのではないでしょうか。これは見方を変えれば、今のマスメディアにはターゲティングの選択肢があまりなく、選り好みのしようがないということでもあるでしょう。要するに「新規の顧客を見込めないので、既存の顧客を囲い込むしかない」という感じでしょうか。このような事情は民放だけに限らず、たとえば新聞や週刊誌などの出版業界についても同じようなことが言えることでしょう。情報化によって紙媒体にこだわる必要がなくなり、むしろ利便性という面ではデメリットとなってしまっているために、現在のマスメディア――特に政治色の強いメディアというのは、新規顧客の獲得が上手くゆかず、既存の顧客頼みになっているという現状があるように思われます。新聞の購読数が減り続けていることも、このことを傍証しているのではないでしょうか。

このように消極的なターゲティングを強いられている環境下にあって、マスメディアの論調が特定の方向性を持っていた場合には、彼等がターゲットとしている視聴者にその原因があるというよりは、むしろマスメディアの内部において世論誘導の目的で番組を作る者達が増えたことに原因があると考えるほうが自然でしょう。なぜなら、彼等が現在ターゲットとしている視聴者層というのは、先に述べたとおり、どちらかと言えば政治への興味・関心が旺盛ではなく、また造詣が深いという訳でもないという、いわゆるノンポリの人達であり、ポリティカル・コレクトネスのような特定の方向性を求めている者達ではないと言い得るからです。また、この方々はおそらくマスメディアの報道姿勢についてクレームをつけたり、主義・思想的な要望を送ったりすることはないでしょうから、マスメディアが彼等の意見を十分に反映させて番組を作っているとは考えにくいでしょう。つまり、今の日本のマスメディアにおいては、視聴者が求めるコンテンツを作っているというよりも、彼等が視聴者に見せたいコンテンツを作っていると言った方が実情に即している可能性が高いわけです。

そうであるなら――現在のように少子高齢化と情報化が重なってマスメディアのターゲットが特定層に顕著化された状態にある時に、マスメディアの内部において特定の主義や思想を持つ者が主導権を握った場合や、声の大きな視聴者の要望ばかりが報道内容に反映されるという内部構造があった場合には、マスメディアに備わっている世論誘導の権能がその者達に専有されて、あたかもメディアが特定の言論を封殺したり思想の統制をしているかのように振る舞う――とも言い得るのではないでしょうか。その上で、マスメディアに纏わる法令に着目して、マスメディアの世論誘導が憲法で規定された制度上の権能であるという点や、放送法や電波法などで特定の者達にしかその使用許可が下りていないという現実を鑑みれば、「世論誘導の方向性やその程度に着目することによって、現在のマスメディアの内部ではどのような者達が支配的となっているのか逆説的に指摘し得る」と言うこともできるでしょう。

これは国家による検閲が憲法によって禁止されたことで、マスメディアによる世論誘導が制度的に保証され、且つ放送法や電波法によって特定の事業者しか市場に参入していないという特殊な事情があるために、そこで主導権を握った人間の主義や思想が実に率直な形で如実に反映され得るというマスメディア独特の業界構造があるからこそ可能となる推論です。もし国家による検閲が当たり前のように行われていたり、電波が自由化されて誰もが参入できるような市場となっていたり、マスメディアが真に公平公正な番組を作りを続けることで多くの視聴者からの支持を得ていたり、放送倫理・番組向上機構が不偏不党の報道を重んじて行き過ぎた世論誘導を是正するよう機能していたら、このような推論は成り立たなかったでしょう。

これらを踏まえて考えてみれば、世論誘導そのものは憲法で認められたメディアの権能(表現の自由)として保存されなければなりませんが、著しい世論誘導は報道倫理に照らした上で是正されるべきであると言うことできるでしょう。つまり、世論誘導の問題とは、その方向性や程度を監督する報道倫理の問題であり、視聴者の側の情報リテラシーの問題とは分けて考える必要があるということです。そして、現在のマスメディアでは報道倫理が上手く機能していない為に、特定の主義や思想が喧伝されやすい状態となっている――すなわち、報道倫理の欠如している者達が今のメディアの中では支配的である、ということなのだと思われます。

さて、ここで改めて昨今のマスメディアの周辺および内部の環境を概観してみれば、少子高齢化と情報化によってマスメディアのアピール対象がボリュームゾーンに特化された結果として政治部が統治力を失い社会部の発言力が増すという情勢が生まれ、メディア内部の主流派が変わって特定の主義や思想の持ち主がメディアの主導権を獲得し、彼等に敵と見做されている者達の言論が不当に貶められる空間がワイドショーなどのテレビコンテンツ内で演出されるようになっている、と言えるのではないでしょうか。しかし、ネットという言論空間がテレビのカウンターパートとして機能することで、彼等の歪な番組作りや彼等によって強化された世論誘導の実態(発言の曲解や事実の誤認など)が顕在化されて、現在のマスメディアにおける不公平で不平等で不埒な報道姿勢が問題視されて、報道倫理による是正の必要性が高まっている――これが、昨今の日本の言論空間で起こっている出来事であると思われます。

これを踏まえて将来におけるマスメディアの環境を考慮すれば、今現在のマスメディアの振る舞いは「メディアの自殺」と呼ばれるような実に愚かな行為であることが分かることでしょう。なぜなら、現在のマスメディアがメインターゲットとしている少子高齢化×情報化のコンビネーションが生んだボリュームゾーンの方々は、30年後には恐らく視聴率を担保してくれる存在ではなくなっているでしょうし、それ以上に政治的な影響力や存在感――いわゆるプレゼンスを失っているであろうことが明白だからです。

一方、現在のマスメディアに対する不信は、インターネットという情報媒体が健全に存続する限り、またメディアに対する不信感を抱いた人々が存在する限り、末永く将来に渡って保存される可能性が高いものであり、マスメディアの復権を考えた時に大きな障害となって立ちはだかるものと思われます。

とはいえ、近年マスメディアの主流派となった者達にとっては、今現在の状況は”千載一遇の好機”といえるでしょう。あるいは”この期を逃せば次はない”と言っても良いのかもしれません。自分たちの主義や思想(彼等の場合リベラリズムというよりはリバタリアニズムあるいはアナキズムと呼ぶべきでしょうが)を喧伝して、その影響力や存在感をアピールすることで日本の言論空間における政治的なプレゼンスを確保するという絶好の機会でしょうから、”この期を逃すな”とばかりに必死になっているとも言えるのかもしれません。そもそも日本のマスメディアは、憲法で世論誘導が認められているのを良いことに今までも散々好き勝手に振る舞ってきましたから、その中で反主流派として臍を噛んでいた現在の主流派が好き放題にやっているのは、ある意味で、日本のメディア関係者に共通する常識的な振る舞いなのでしょう。視聴者側からすれば、一般常識とかけ離れた実に迷惑極まりない振る舞いに見えるわけですが、彼等は視聴者のことを「自分たちの権益を守るための道具」としか思っていないフシがあるので、彼等による横暴(レッテルを貼るなどの印象操作)はこれからも続けられることでしょう。

さて、ここまで、なぜ今の日本のマスメディアにおいて「(エセ)リベラル」が勢力的となったかを考えてきたわけですが、その背景にはやはり、元々あった憲法の制度上の問題に加えて、少子高齢化と情報化のタイミングが重なって生まれた日本特有の環境的な要因が大きいのではないかと思われます。民主的な選挙制度を持つ法治国家における少子高齢化と情報化という特異な環境の後押しが無ければ、今のマスメディアにおける主流派は勢力を拡大し得なかったことでしょう。もし情報化が達成されていなかったらマスメディアにはカウンターパートが存在することなくもう暫くは衰退せずに居れたことでしょうが、しかしいずれにせよ少子高齢化すれば情報化に関係なくマスメディアはボリュームゾーンにターゲットを絞らざるを得なくなっていたことでしょうから、日本の人口構造を考慮すれば、マスメディアの世論誘導が強化される方向性を持つことは時間の問題であったと考え得るでしょう。情報化はマスメディアの情報支配を終わらせ、彼等の寿命を縮める働きを担った訳ですが、そのことがマスメディアに危機感を抱かせて”手負いの虎”のような振る舞いをさせるようになったとも言い得るのではないかと思われます。

つまり、少子高齢化と情報化によってマスコミのビジネスモデルが崩壊したことで、これまで内部にいた「(エセ)リベラル」が台頭できる環境となったというのが現在の日本のマスメディアに共通して起こっている現象なのではないかと思うわけです。その為、貴方が感じた「リベラルに言葉を奪われている」という状況は、彼等の政治的な喧伝の方法(いわゆるレッテル貼りや印象操作)が問題なのは言うまでもありませんが、そもそも彼等がマスメディア内で主導権を握らなければ顕在化しなかったと考えられる以上は、そのような環境を提供してしまった現代社会という人工の培地が、彼等の成長を促したと見るのが実情に即しているのではないかと思うわけです。

そういう意味では、日本における「(エセ)リベラル」の伸長は”時代の流れ”と言うこともできるのでしょう。もちろん、ここにおける”時代の流れ”とは、世界的な潮流のことではなく日本特有の現象としてのものです。なぜなら、敗戦国の日本におけるリベラルというのは、戦勝国であるアメリカのリベラルの焼き直しがローカライズされたものに過ぎず、その意味において「戦後体制において敷かれたリベラリズム」と言えるわけですが、彼等は元々日本において権威を持っていたわけではなく、しかもフランス革命やアメリカ独立宣言で象徴されるような自助努力によって獲得された権威でもないので、結局のところ彼等自身には権威の根拠となるものが皆無なのであり、その為に「自由そのもの」であるとか「平等そのもの」というような我が国の事績や歴史的事実に基づかない「借り物の思想や概念」を根拠にせざるを得ず、ないものねだりをするように権威主義に走るという宿命を持っていたのではないかと筆者は考えているからです。

そう考えると、権威の根拠が無いのに権威を振りかざす日本のリベラルというのは実に空虚であり、彼等に席巻されてしまっている言論空間というのもまた実に空虚なものであると感じられるのです。そして権威の根拠が空虚であるということは、権威主義が腐敗する要因とも考えうるのではないでしょうか。彼等は戦勝国によって与えられた自由と民主主義という文脈のおかげで、それなりの市民権を得て今日に至る訳ですが、そもそも権威の根拠がなく正統性もない為に、日本国民に頭から受け入れられているわけではなく、そのことが余計に彼等を権威主義に走らせて、頭ごなしに日本国民にリベラルな思想を押し付けるようになっている。これが日本のリベラルの現状なのではないかと思うわけです。そんな彼等が、マスメディアを利用して政治的影響力を得た気になって専横や横暴の限りを尽くせば、それに対する反発が起こるのは論を俟たないことでしょう。

マスメディアの内部で「(エセ)リベラル」が自由に振る舞えば、他の者達の自由は奪われるでしょうし、日本国内で「(エセ)リベラル」が自由を得た時には、他の者達の自由が失われていくことでしょう。そして世界の潮流として「(エセ)リベラル」が権益を獲得すれば、他の者達の権益は剥奪されてゆくでしょう。これはたとえば括弧内を「保守」に変えても同じことが言えるはずです。結局のところ、リベラルや保守に限らず、現代社会に参加している者達の自由が十分に実現し得るか、あるいは現在における様々な権益がバランスし得るかは、今を生きる私達の器量次第という事になるでしょう。見方を変えれば、どのような者達がその場を支配するかによって人の自由や権益のバランスが決まるとも言えるでしょう。

この状況は、喩えるなら、オセロゲームのようなものなのだと思われます。白と黒のどちらが支配的となるのかを競うゲームですが、今では赤や青や黄など、様々な色が挙って参加してシェアを競い合っているような状態になっている気がします。まして、このオセロの石は自らの意志で色を変えることができ(自由意思の主体)、しかも風が吹けばその度にコロコロと色を変え(環境依存の主体)、さらにはお金の欲しさに色の売り買いをしている石ですから(経済活動の主体)、変化の激しい先の読めないオセロゲーム(自由民主主義×資本主義経済)と言えそうです。とはいえ、これは決して今に始まったものではなく、それぞれの立場で異なる経緯を経た上で、現在進行系で異なる色を持つ者達との間で軋轢や対立が起こっている――あるいはそれらが深まっていると見るべきものなのでしょう。そして、その軋轢や対立というのは、貴方がご指摘のとおり、「観念のぶつかり合いがあって、ある意味、宗教戦争的な構図」なのだと思います。

なぜなら、同じ言語を用いて異なる方法論や世界観を唱える者達による衝突というのは、その周囲の人間がどちらの言い分を信じるかという信仰の問題となり、それが極まった時には、互いに己を正当化して相手を悪魔化するという宗教的な方法で対決することになるからです。

これを避ける為にはどちらかが身を引くしかありませんが、その時期を失うと「方法論の正しさ」や「世界観の美しさ」といった主義や思想の根拠となる観念的なものを離れて、「個人の信念」や「周囲の人間の信心の強さ」といった信仰の問題となる為、どちらも引くに引けず必然的に争いになります。観念の衝突であったものが、いつの間にか信仰の衝突になるわけです。人類の歴史というのはそのような宗教的な争いの歴史と言えるでしょう。

人が相手の言い分を完全に受け入れるというのはそれほど容易いことでは有りません。同じ国に生まれて、同じ教育を受けてきた者達であっても、その難しさは変わらないのです。そのことは「(エセ)リベラル」の言動に拒否感を抱いている貴方ならよく分かることでしょう。ならば、このことは「多文化共生」についても同じことが言えるのではないでしょうか。相手の言い分を受け入れることが難しいのと同じように、相手そのものを受け入れることは決して容易いことではないでしょう。

今、世界でおきている「ナショナリズム」――とりわけ欧州において高まっている機運については、難民という文化的・歴史的・宗教的背景の異なる人々が、固有の文化や歴史や宗教を持った人々が暮らす生活空間に流入している事に起因しています。ですから、一言で「多文化共生」を目指すと言っても、その内容が如何に困難を伴うものであるかは想像を絶するところでしょう。

欧州の難民危機の規模については、たとえば筆者が住んでいた町は人口が約3万人程度の小さな町でしたが、欧州ではわずか一年足らずの間に、その30倍程度の数の難民(それも不法入国者)が彼等の生活空間に流入してきたわけです。極端な例になりますが、これは「日本のある政令指定都市の全人口(政令市は50万人以上から認められるそうです)が都市の治安悪化を理由に隣町に移住しようとする」というような予測も想定もし難い話であり、とても現実的とは思えない規模の話と言えるでしょう。しかし、それが起こってしまった。実際に起こってしまった以上は対応せざるを得ず、対策を講じなければならないわけですが、これはもはや地方自治体レベルで対応できるものではありません。国家あるいはそれ以上のレベルで対応せざるを得ない状況であることは論を俟たないところでしょう。

しかし、現在の欧州の政治体制というのはEUという国家を超える政治機構が主体となっています。この地域統合体は「自由」「民主主義」「人権の尊重」という美名の下に加盟国に自由主義的な理念の実現を要求し、その一環として人や物や金の移動を活発化させてきました。なぜなら、それが二つの大戦を経験して生き残った者達が、彼等なりに考えに考えて到達した一つの理想的な世界観であったからです。ところが、そのような理念の実現を希求する余り、加盟国に国家として現実の問題に対応する術を失わせてしまった。理念の実現を求める欧州連合の存在が、現在の中東情勢に起因する難民危機を前にした加盟国の「国家としての現実的な対策を取る主体性(国家主権)」を制限してしまったのです。

理想的な世界観を作るアイテムとして「自由」「民主主義」「人権の尊重」などの理念を見出し、実際に政治機構も作って実現しようとやってみたら、加盟国の国民の生活空間が思わぬ形、望まぬ形で脅かされてしまった時に、それら理念の実現にこだわって現実的な対応を取れず、今では逆にその世界観が加盟国の国民の「自由」「民主主義」「人権」を脅かしてしまっている。そのことが加盟国の国民が実際に危機に直面したことで、地域統合体の実態として明らかになってしまった。それが現在の欧州で表出している危機的な状況なのだろうと思われます。そのため、EUの理念には共感するけれど、現実的には結構厳しいというのが、現在の欧州諸国の国民の偽らざる本音なのではないでしょうか。

このような欧州における政治体制の実情を鑑みれば、現在の欧州においては、理念の実現よりも現実的な対策を求める国民によって「ナショナリズム」が叫ばれているのではないかと思うのです。そのため、欧州にて起こっている「ナショナリズム」というのは、生活空間を脅かされた国民が国家に対応を求めるという文脈において起こっているものと捉えるべきであり、国粋主義的あるいは排外主義的な文脈で捉えるべきではないと思うわけです。

国家を束ねる地域統合体が現実的な難民対策を取らないなら、その加盟国の国民としては自らが帰属する国家にそれを求める外に経路は有りません。そのため欧州に起こっている問題とは、「多文化共生の問題」というよりはむしろ「国民の生存権の問題」として理解されるべきものであり、それを守るための方法論として「ナショナリズム」が叫ばれていると見るのが実情に即しているのではないかと思われます。つまり、過去における他国との戦争を前提とした対敵性国家的な意味での「ナショナリズム」とは実情も中身も異なっており、区別して語られるべきではないかと思うのです。

一方、アメリカにおける「ナショナリズム」というのは、欧州の状況を受けて対策の必要性を認識した事によって起こったものであると解釈できるものでしょう。彼等は、欧州のように難民の大量流入に晒されている訳ではありませんが、テロの標的にされているという文脈にあり、人の移動を制限したいという欲求を持っています。そういう意味では、欧州における事態は、彼等が人の移動を制限する為の口実として利用するのに好都合だったのかもしれません。

また、そればかりではなく、彼等は自らが主導したグローバリズムが実はそれほど旨味がない(私企業や投資家は儲かったかもしれませんが、国家としては安全保障と天秤に掛けるとリスクが高く、国民は他国の労働市場との競争に巻き込まれて職を失ってしまった)という現実にも直面しているため、上手いこと物や金の移動も制限することで方針転換を図りたいという希望も持っています。そのことはTPPを反故にしたり、反ダンピング関税を導入したり、メキシコに壁を設置すると言ってみたり、いわゆる保護主義と呼ばれる内政重視の方向性に転換している様子を見ても分かることでしょう。

その意味において、アメリカの「ナショナリズム」というのは、欧州における国民の側からの切実な「ナショナリズム」とは少し内容が異なると言えるでしょう。しかし、どちらも思想的な意味合いというよりは、現実的な対策を取る必要性を認識した者達による方法論としての「ナショナリズム」なのだろうと思われます。その顕著な違いとは、当該国の国民の切実さも然ることながら、アメリカは国家としてその方法を採用して実行できますが、欧州諸国はEUという地域統合体の制限によって実行できないという点にあるでしょう。

このように見てみると、ブレグジットと呼ばれる英による欧州連合からの脱退についても少し違った観点を持てるのではないでしょうか。将棋では「王の早逃げ八手の得」と云われますが、英に当てはめてみれば「王国の早逃げ八手の得」という感じでしょうか。いずれにせよ彼等の選択が本当に最善手であったかどうかは、数手先まで手が進まないと見えてこないでしょう。

さて、ここで注目すべきは現代社会におけるマスメディアの立場です。彼等の仕事は、世界各国の様々な地域を飛び回って情報を収集し、それを紹介するというものです。その意味では、人や物や金の移動が自由化されて最も恩恵を受けた者達と言うことができるでしょう。それ故に、今の彼等は自由主義を信望しやすい立場にあります。その為、自らの活動範囲を狭めるような政策には反対を表明しやすいとも言えるでしょう。彼等が表現の自由を盛んに叫ぶのも、自由主義的な思想を喧伝するのも、そもそも今の彼等の立場がそれらの恩恵に大いに与っているからです。つまり、世界的にマスメディアが「ナショナリズム」を否定的に喧伝するのは、それによって今の自分たちの立場を脅かされるかもしれないという彼等なりの切実な事情があると言うことができるでしょう。もちろん、生活空間が脅かされて「ナショナリズム」に助けを求めたい国民の立場からすれば、それは実に身勝手なメディアの側の都合に過ぎません。

つまり、現在においてメディアと国民との間で対立があるとすれば、それはお互いの立場に由来すると考えられるということです。現在のメディア関係者というのは自由主義の恩恵を大いに受けた者達であり、それが地域の秩序を重んじる国民の平穏な生活を脅かしたとしても、彼等にしてみれば飯の種が増えたくらいの認識でしか無い可能性すらあるわけです。それくらい現在のメディア関係者と一般の国民の立場というのは大いに異なるのです。今の日本のマスメディアにおいて「(エセ)リベラル」の言動が顕著となっているのは、このような立場の違いとして説明することもできるでしょう。しかし、これは日本だけの問題ではなく、世界のマスメディアに共通する問題であると思われます。

もし立場の違いが思想の違いを生み、思想の違いが方法論や世界観の違いを生むのなら、将来的にメディアと国民との対立が起こった時には、やはり宗教的な構図を持つことになるでしょう。先に筆者は「観念の衝突が信仰の衝突になる」と言いましたが、人間社会というのは文字という記録媒体を持ったことで常にこの衝突を繰り返しながら継承してきていますから、云ってみれば人間は常に、集団として、あるいは個人レベルで、宗教的な争いを行っているとも言えるでしょう。しかし、日本においては宗教とは団体活動であると認識されているため、キリスト教やイスラム教や仏教などの特定の団体における衝突のみを宗教的な争いと認識してしまい、人間の本質的な活動としての信仰に目が向いていないような気がします。

これは筆者の私見になりますが、宗教とは団体活動ではなく集団活動であり、その範囲とはある特定の団体に限定されるのではなく人間の社会的な集団を基礎とするものであり、その本質とは「何を信じるか」にあるのではなく「信じることそれ自体」にあるのではないでしょうか。そうであるなら、宗教家は宗教家としての信仰を持ち、政治家は政治家としての信仰を持つ故に、宗派や派閥が生まれるという捉え方もできるでしょう。また、資本家は資本家としての信仰を持ち、実業家は実業家としての信仰を持つ故に、限られた者達の集団としてのコミュニティに参加するとも言えるでしょう。それらは方向性の違いや程度の違い、あるいは属性の違いこそ在れど、己の存在や価値を確認したい者達による信仰の共同体なのではないでしょうか。

ならば、メディアはメディアとしての信仰を持ち、国民は国民としての信仰を持つ故に、メディアと国民の対立が起こった時には、それもまた宗教的な争いになると言えることでしょう。メディア関係者もその他の者達も、実態としては家族や企業や地域や国家などの複数の共同体に同時並行的に所属している訳ですが、その一方で、夫々がそれぞれ独自のコミュニティを持って、そこを活動拠点としているために、それが立場の違いとして顕在化した時には、自らが拠点とするコミュニティを正当化する必要性に駆られて、あるいは己の帰属する信仰の共同体を守るために、互いに対立することになるでしょう。その時、おそらく当事者たちには、自らの立場や帰属の違いが、そのような信仰の衝突となって表れているという自覚は生まれないかもしれません。しかし、当人達の自覚の有無にかかわらず信仰の衝突というものは起こるものであるでしょう。なぜなら、それは人間の信仰の本質が「何を信じるか」にあるのではなく「信じることそれ自体」にあるために、既存の宗教的な枠組みに囚われることなく、常に新しく豊かに内容を育みながら、あらゆる方向性に成長し続けて、どこまでも際限なく拡大し得るものだからです。

そして、そのような人間の信仰を根拠として生まれたものが、「自由」「民主主義」「人権の尊重」といった、現在の自由主義的な世界観なのだと思うわけです。ならば、キリスト教の布教が自由主義の布教に変わったところで、つまるところ、人間の問題というのは常に今現在に生きる人間の信仰活動に由来するのですから、私達は常に宗教的な争いに直面しているとも言い得るでしょう。

その中にあって人間の信仰が向かう対象として最も顕著なものは権威でしょう。その為、権威主義とは人間の信仰活動における一つの経路であると筆者は考えています。その権威主義において最も大切なものは、先に示唆したように、権威の正統性です。それゆえに「プロテスタントが、母国語で聖書を作り、信仰を取り戻そうとした」というのは、おそらく彼等の信仰の対象である「神の権威の正統性」を適切に表現する言葉を求めたからだったのではないでしょうか。そうであるなら、今の日本において本当にリベラルを求める人達が「自分たちの言葉を取り戻す」為には、日本における権威の正統性がどこにあるのか、そして日本の権威の正統性を適切に表現し得る言葉とはどのようなものであるのかを今一度問い直し、「戦後体制において敷かれたリベラリズム」の世界観に抗議(プロテスト)して、我が国の正統なる権威に基づいた真にリベラルな世界観を表現しようと努力することが必要なのではないでしょうか。これを突き詰めてゆけば、やはりプロテスタントがかつて行ったように、行き着く先は記述の問題になるのだと思われます。すなわち、今の日本人に最も受け入れられやすい表現方法によって権威の正統性を説くというのが、現代の日本において最も求められている活動なのだろうと思うわけです。

このことを踏まえて考えてみると、今の日本のリベラルというのは国民に忌避感を抱かれるような明らかに間違った方法で権威の正統性を説いてると感じますし、それと同時に、貴方が「(エセ)リベラル」に対して抱いた問題意識が実に的を射たものであると強く感じるのです。また現代人が真に自由になるための方法として、貴方が「自分たちの言葉を取り戻す必要性」を説かれたことは、まったくもって適切であり、真に有意義であると思うわけです。その意味において、筆者の解説に「そうした言葉を取り戻す意味で、大きな力がある」とコメントして頂けたことは、大変光栄なことでした。

さて、以上が、コメントを拝見して筆者が色々と思ったところの一部となります。
本当はもっと書きたいことはあるのですが、流石に収集がつかなくなるので止めておきます。
お書きいただいたコメントから様々な着想を得ることができたのは、本当に有り難いことでした。
長々と書き綴ってしまいましたが、この拙文が現代社会の問題に対する理解の助けになれば幸いです。
[気になる点]
共謀罪の開設を治安維持法の再来と言っている方にとっては、「当初の目的」だの「条約の趣旨」だのは、「伝家の宝刀発言」と同じ口約束の類いに過ぎません。
確かに口約束で安心させようというアクションそのものを、治安維持法前夜に行っている歴史的事実があります。

つまり、この手の考察は最初から反論になっていません。本来「でもそれ戦前に破ったよね?」で終わるものなんですよ。
法律は実際の文面が全てであり、それ以外の周辺における発言はいつ破られるかわからない口約束に過ぎないんですよ。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2017年 06月28日 19時41分
管理
感想ありがとうございます。
貴方のご懸念やご心配は御尤もだと思います。

他人を信じられない、疑ってしまいたくなることは誰にでもあるでしょう。まして約束を破られた経験があるのなら、口約束を警戒するのは至極当然のことと理解します。

ただ、筆者は反論や反駁は相手を論破するためだけにするものではなく、また己の正しさを証明するためだけにするのでもなく、第三者に異なる見解を示すことで判断の材料としてもらい、問題についての理解を深めてもらうためにするものと考えています。

ですから、文章中に矛盾や事実誤認があれば訂正に吝かではありませんが、そうでないなら、それが相手の論にダメージを与えられなくても、相手の思考や態度を変えられなくても、筆者は特に気になりません。

筆者の見解が反論になっていようといまいと、すべての判断は読者に委ねておりますから、こうして貴方に書いていただいたように、自由に解釈して、自由に判断して、常識の範囲内で自由に表現してもらえればよいかと思います。それが他の方々の理解を助けることにも繋がることでしょう。
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