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自然に参州・遠江を取ったは
松平と同盟を組んだので戦うことなく取れた、的な意味でしょうか。
古典は難しいですね。
訳文ありがたいです!
松平と同盟を組んだので戦うことなく取れた、的な意味でしょうか。
古典は難しいですね。
訳文ありがたいです!
エピソード14
ノーネアユミ様
コメントありがとうございます。
軍記もの等に見られる「自然」の解釈は私には難しく……はっきりとこうだとは言えないのですが……
「自然の事」(自然の事あらば、自然の事候、自然の事ある時など…)という語は「合戦」「戦争」「誰かが死んだとき」などを言い、「そうなるべくして起こった非常事態」というような意味なのでしょう。
しかし、勢州軍記における「信長が参州遠州を自然に取った」という文章はあてはまらないように思います。ノーネアユミ様がおっしゃるように松平と同盟を組んでいますし。
おそらくこの場合の「自然に」とは、そうなるのは当然、そうなるべくしてなったというような意味あいだろうと。
そしてこの自然の用い方は太平記の北条義時が執権になった時の「自然に執天下権柄……」という文章を参考にして書いたのではないかと思っています。(あくまで、私が勝手に思っているだけですが)
自然にそうなった=信長の武威、権勢がそれほど強大だった
ということを太平記の北条義時を参考に表現したのかもしれません。
コメントありがとうございます。
軍記もの等に見られる「自然」の解釈は私には難しく……はっきりとこうだとは言えないのですが……
「自然の事」(自然の事あらば、自然の事候、自然の事ある時など…)という語は「合戦」「戦争」「誰かが死んだとき」などを言い、「そうなるべくして起こった非常事態」というような意味なのでしょう。
しかし、勢州軍記における「信長が参州遠州を自然に取った」という文章はあてはまらないように思います。ノーネアユミ様がおっしゃるように松平と同盟を組んでいますし。
おそらくこの場合の「自然に」とは、そうなるのは当然、そうなるべくしてなったというような意味あいだろうと。
そしてこの自然の用い方は太平記の北条義時が執権になった時の「自然に執天下権柄……」という文章を参考にして書いたのではないかと思っています。(あくまで、私が勝手に思っているだけですが)
自然にそうなった=信長の武威、権勢がそれほど強大だった
ということを太平記の北条義時を参考に表現したのかもしれません。
- 水上千年
- 2025年 03月24日 19時45分
[一言]
はじめまして。
千代御前の資料は少ないのですね。
wikiには三瀬の変で自害享年19と出ているのですが出典元が書かれていないのですよね。
調べても資料には当たらないし、何か小説からの引用でもされているのでしょうか・・・。
はじめまして。
千代御前の資料は少ないのですね。
wikiには三瀬の変で自害享年19と出ているのですが出典元が書かれていないのですよね。
調べても資料には当たらないし、何か小説からの引用でもされているのでしょうか・・・。
エピソード52
きゅう様
コメントありがとうございます。
北畠具教女、織田信雄妻については史料が少なく、生まれた年も本名もわかりません。
三瀬の変で彼女が死んだとする史料「北畠御所討死法名」はおそらく江戸時代に作成されたものであり、信憑性はないように思います。
(北畠御所討死法名についての論考は赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」をご参考ください)
きゅう様がおっしゃるようにWikipediaには彼女が三瀬の変で自害したと記述していますが……、
おそらく北畠の歴史をまとめた『三重国盗り物語』や数十年前に書かれた郷土史関係の本を参考にしているのだと思います。
織田系図や北畠系図には三瀬の変から数年後に生まれた織田秀雄、小姫(おかに姫)の母と書かれているにも関わらず、古い郷土史の本では伝説や北畠御所討死法名が史実であるかのように書かれているのですよね…
とくに、『三重国盗り物語』は創作も混じえて書いているように思います。Wikipediaはその創作部分も参考にしているのかなぁ、と。
北畠具教女、織田信雄妻に関する研究者の論文はありませんが、彼女が生んだ小姫に関する論文はありますので、ご参考にどうぞ
渡辺江美子氏「甘棠院殿桂林夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」
私的には三瀬の変で死なずに生きて織田・北畠両家のために尽くした賢夫人であったのだろうと思っていますが、悲劇のお姫様としての伝説を長年大事にしてきた地元の方々の気持ちを考えるとちょっと心苦しいですね。
私が調べてまとめたブログです↓ よかったらご覧ください。
https://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/01/06/165122
コメントありがとうございます。
北畠具教女、織田信雄妻については史料が少なく、生まれた年も本名もわかりません。
三瀬の変で彼女が死んだとする史料「北畠御所討死法名」はおそらく江戸時代に作成されたものであり、信憑性はないように思います。
(北畠御所討死法名についての論考は赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」をご参考ください)
きゅう様がおっしゃるようにWikipediaには彼女が三瀬の変で自害したと記述していますが……、
おそらく北畠の歴史をまとめた『三重国盗り物語』や数十年前に書かれた郷土史関係の本を参考にしているのだと思います。
織田系図や北畠系図には三瀬の変から数年後に生まれた織田秀雄、小姫(おかに姫)の母と書かれているにも関わらず、古い郷土史の本では伝説や北畠御所討死法名が史実であるかのように書かれているのですよね…
とくに、『三重国盗り物語』は創作も混じえて書いているように思います。Wikipediaはその創作部分も参考にしているのかなぁ、と。
北畠具教女、織田信雄妻に関する研究者の論文はありませんが、彼女が生んだ小姫に関する論文はありますので、ご参考にどうぞ
渡辺江美子氏「甘棠院殿桂林夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」
私的には三瀬の変で死なずに生きて織田・北畠両家のために尽くした賢夫人であったのだろうと思っていますが、悲劇のお姫様としての伝説を長年大事にしてきた地元の方々の気持ちを考えるとちょっと心苦しいですね。
私が調べてまとめたブログです↓ よかったらご覧ください。
https://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/01/06/165122
- 水上千年
- 2024年 06月23日 19時13分
[良い点]
ちょうど自作で北畠のあたりを書いているので、参考になります。
離れた土地のことを調べるのって、大変ですね。
ちょうど自作で北畠のあたりを書いているので、参考になります。
離れた土地のことを調べるのって、大変ですね。
歌池 聡様
コメントありがとうございます。
歴史小説書くのは資料集めが大変ですよね、とくに地元ではない歴史関係は(TT)
伊勢や北畠関連のことで私の連載がお役に立てたら嬉しいです。でも私の勘違いや間違いも時々あるのでそのへんご容赦をm(._.)m
コメントありがとうございます。
歴史小説書くのは資料集めが大変ですよね、とくに地元ではない歴史関係は(TT)
伊勢や北畠関連のことで私の連載がお役に立てたら嬉しいです。でも私の勘違いや間違いも時々あるのでそのへんご容赦をm(._.)m
- 水上千年
- 2022年 07月12日 16時17分
[一言]
九鬼嘉隆! すごく馴染みはあるけれど、詳しくは知らなかったので勉強になりました。
九鬼嘉隆! すごく馴染みはあるけれど、詳しくは知らなかったので勉強になりました。
エピソード65
ごろり様
コメントありがとうございます(*´ω`*)
鳥羽城かっこいいですよね〜
コメントありがとうございます(*´ω`*)
鳥羽城かっこいいですよね〜
- 水上千年
- 2022年 06月03日 08時14分
[一言]
神戸の四百八十人衆なんて初めて知りました、勉強になります。
織田信長の伊勢支配についてはどの歴史作品もすごく簡単に纏められるので、このまとめは有難いです。
神戸の四百八十人衆なんて初めて知りました、勉強になります。
織田信長の伊勢支配についてはどの歴史作品もすごく簡単に纏められるので、このまとめは有難いです。
エピソード57
コメントありがとうございます。
四百八十人衆は最後に信孝から離反し神戸に帰ってきます。真偽不明ですが、『伊勢記』ではこの時四百八十人衆が信孝の妻を連れ帰ったそうです。ドラマですね。
三重県の歴史は人気知名度が低いからというのもありますが、歴史作品だけでなく、ネットの中でもマイナーというか、ブログなどで情報発信をしている方が他の県の歴史ジャンル(武田とか毛利とか信長とか)に比べて少ない気がするなぁ、と。
地元民は図書館に行けばすぐに情報を手に入れられますが、他県の方はネットに頼らざるをえないですよね; 歴史作品で伊勢支配が簡潔になっちゃうのは仕方ないことかなぁ、と。
(十年以上前から北畠関連のサイトをやっていらっしゃる方もいて、私もたまに参考にさせていただいています。)
更新遅くてすみません。ただいま執筆しております。もう少しお待ちください。
四百八十人衆は最後に信孝から離反し神戸に帰ってきます。真偽不明ですが、『伊勢記』ではこの時四百八十人衆が信孝の妻を連れ帰ったそうです。ドラマですね。
三重県の歴史は人気知名度が低いからというのもありますが、歴史作品だけでなく、ネットの中でもマイナーというか、ブログなどで情報発信をしている方が他の県の歴史ジャンル(武田とか毛利とか信長とか)に比べて少ない気がするなぁ、と。
地元民は図書館に行けばすぐに情報を手に入れられますが、他県の方はネットに頼らざるをえないですよね; 歴史作品で伊勢支配が簡潔になっちゃうのは仕方ないことかなぁ、と。
(十年以上前から北畠関連のサイトをやっていらっしゃる方もいて、私もたまに参考にさせていただいています。)
更新遅くてすみません。ただいま執筆しております。もう少しお待ちください。
- 水上千年
- 2021年 07月21日 21時22分
[一言]
なかなか面白い話ですね。
志摩市には以前磯部町がありましたから、磯部という名前もそこから来ているのかも。
地理と歴史の勉強になりました。
南伊勢と志摩はおおきな戦いがないので世間的にはかなり地味ですよね……
なかなか面白い話ですね。
志摩市には以前磯部町がありましたから、磯部という名前もそこから来ているのかも。
地理と歴史の勉強になりました。
南伊勢と志摩はおおきな戦いがないので世間的にはかなり地味ですよね……
コメントありがとうございます。
地元民にとっては磯部といったら近鉄の駅名のイメージですね(*´ω`*)
南伊勢や志摩とかあの辺も戦いは色々あったみたいですが、一次史料が少ないんですよね(;´д`)
宇治山田合戦は神宮の禰宜の日記があって細かいことが書いてあるらしく、結構面白いんですよー。
二次史料になりますが小牧長久手の戦いの時や関ヶ原の戦いの時、南伊勢や志摩でも合戦している記録ありますよー。小牧長久手の時の信雄軍の奮戦ぶりを知ったら彼をバカ息子なんて言えません(`・ω・´)
でもやっぱり史料が少ないですからねー、今後も映像作品で描かれることはない……(´ω`)
更新遅くてすみません、もう少しお待ち下さいm(._.)m
地元民にとっては磯部といったら近鉄の駅名のイメージですね(*´ω`*)
南伊勢や志摩とかあの辺も戦いは色々あったみたいですが、一次史料が少ないんですよね(;´д`)
宇治山田合戦は神宮の禰宜の日記があって細かいことが書いてあるらしく、結構面白いんですよー。
二次史料になりますが小牧長久手の戦いの時や関ヶ原の戦いの時、南伊勢や志摩でも合戦している記録ありますよー。小牧長久手の時の信雄軍の奮戦ぶりを知ったら彼をバカ息子なんて言えません(`・ω・´)
でもやっぱり史料が少ないですからねー、今後も映像作品で描かれることはない……(´ω`)
更新遅くてすみません、もう少しお待ち下さいm(._.)m
- 水上千年
- 2020年 09月21日 19時58分
[一言]
度会町の名前は公募によって決めたみたいですけど、禰宜の姓から由来がきてるのかな?
変な質問ですいません
度会町の名前は公募によって決めたみたいですけど、禰宜の姓から由来がきてるのかな?
変な質問ですいません
エピソード54
書き忘れです(・・;)
度会(度相)という地名は磯部さんが賜姓する前からある地名みたいです。やはり地名由来みたいですね。
度会(度相)という地名は磯部さんが賜姓する前からある地名みたいです。やはり地名由来みたいですね。
- 水上千年
- 2020年 09月13日 13時58分
度会さんの名前の由来、偶然読んでいた本当に少し書いてありました(*´ω`*)
『神宮雑例集』に引用されている『大同本紀』に度会さんの遠い先祖である大幡主命が伊勢の大宮を定めて、大幡主命が「神国造兼大神主」に定められたそうです。のちに大幡主命の子孫たちが度会郡を立てたそうです。意外なことに内宮の荒木田さんより歴史が古いんですね。
和銅四年に、子孫の磯部さんが「度相神主を賜姓」したと『続紀』にあるそうです。朝廷から賜った姓だったようです(*´ω`*)
ただ、内宮側の史料ではまた少し話が違っていて何がなんだか(・・;)
『神宮雑例集』に引用されている『大同本紀』に度会さんの遠い先祖である大幡主命が伊勢の大宮を定めて、大幡主命が「神国造兼大神主」に定められたそうです。のちに大幡主命の子孫たちが度会郡を立てたそうです。意外なことに内宮の荒木田さんより歴史が古いんですね。
和銅四年に、子孫の磯部さんが「度相神主を賜姓」したと『続紀』にあるそうです。朝廷から賜った姓だったようです(*´ω`*)
ただ、内宮側の史料ではまた少し話が違っていて何がなんだか(・・;)
- 水上千年
- 2020年 09月13日 13時14分
フェニックス様
コメントありがとうございます(*´∀`*)
度会郡という地名があったので、また明治の初め頃は度会県だったので「度会」という名に皆さん愛着があったんじゃないんですかねー。禰宜の度会さんも地名から名乗ったんじゃないかな、ちゃんと調べてないのではっきり言えませんが(・・;)
旧度会県の南の方は大昔は熊野詣の通り道だったり和歌山方面からの海路の港があったりして栄えてたと思うんですけど、現在、過疎化ががが(;´д`)
バーチャルの世界では度会県は復活してますよー!絶賛県民募集中★
というわけで、勢州軍記読もうぜ!をこれからもよろしくお願いします(*´ω`*)
いつも更新遅くてすみません(TT)
これから先は長嶋攻めや具親反乱や伊賀攻めや本能寺の変といったメインイベントの現代語訳に突入します〜。
コメントありがとうございます(*´∀`*)
度会郡という地名があったので、また明治の初め頃は度会県だったので「度会」という名に皆さん愛着があったんじゃないんですかねー。禰宜の度会さんも地名から名乗ったんじゃないかな、ちゃんと調べてないのではっきり言えませんが(・・;)
旧度会県の南の方は大昔は熊野詣の通り道だったり和歌山方面からの海路の港があったりして栄えてたと思うんですけど、現在、過疎化ががが(;´д`)
バーチャルの世界では度会県は復活してますよー!絶賛県民募集中★
というわけで、勢州軍記読もうぜ!をこれからもよろしくお願いします(*´ω`*)
いつも更新遅くてすみません(TT)
これから先は長嶋攻めや具親反乱や伊賀攻めや本能寺の変といったメインイベントの現代語訳に突入します〜。
- 水上千年
- 2020年 08月14日 15時22分
[良い点]
早々にコメントを『ありがとうございました』m(__)m
[気になる点]
御縁を『ありがとうございます』
[一言]
水上千年様
直ぐにコメントを頂きましたが…返事が遅くなり申し訳ありません。
『ありがとうございます』
当たり前の御話ですが、真実は当時の方々がみえないので不明です。しかしながら研究者の方々が書かれた情報を整理されている自体が非常に貴重な事だと考えます。
想像されているだけとも仰ってみえますが…想像推測する事も大切だと感じます。
元々はバラバラの情報であっても最終的に個々の情報が繋がり始めますと発見する事ばかりで信頼性も高くなってくると思われます。
映画『忍びの国』では、演じられた方の影響が大きいと思われますが、大膳がカッコ良すぎて(笑)ですよね^_^
水上千年さんが…
『このサイトで私が書いた記事の内容(日置一族の出自について)ですが……
御子孫の方に素人の私の考察を述べるのは畏れ多いのですが……』
と仰ってみえますが…私は全く興味もない状況でしたので…今後、歴史を知る上で、幸いな事だと思っています。
『美杉秘帖』を三重県立図書館で拝啓してみます。ありがとうございますm(__)m
先祖の事について幼い頃から故母より『日置大膳』との具体的な名は聞いておらず『寺社奉行』?であるとの話を聞いておりました。
津市美杉町(旧美杉村)の山奥に川上との場所があります。
真実かは不明ですが…川上の高台に先祖の城跡だと聞いている土地があります。現在は他人所有の物件なのですが(親戚)
又、三重県のいなべ市(藤原町)付近に野尻城?と名のつく城跡(荒地)がありますが…時々、手を合わせに伺っています。
他に水上千年様へ御伝えしたい事もあるのですが…ネットでは情報の公開が限られてしまいますので…御容赦下さい。
宜しく御願い致します。
早々にコメントを『ありがとうございました』m(__)m
[気になる点]
御縁を『ありがとうございます』
[一言]
水上千年様
直ぐにコメントを頂きましたが…返事が遅くなり申し訳ありません。
『ありがとうございます』
当たり前の御話ですが、真実は当時の方々がみえないので不明です。しかしながら研究者の方々が書かれた情報を整理されている自体が非常に貴重な事だと考えます。
想像されているだけとも仰ってみえますが…想像推測する事も大切だと感じます。
元々はバラバラの情報であっても最終的に個々の情報が繋がり始めますと発見する事ばかりで信頼性も高くなってくると思われます。
映画『忍びの国』では、演じられた方の影響が大きいと思われますが、大膳がカッコ良すぎて(笑)ですよね^_^
水上千年さんが…
『このサイトで私が書いた記事の内容(日置一族の出自について)ですが……
御子孫の方に素人の私の考察を述べるのは畏れ多いのですが……』
と仰ってみえますが…私は全く興味もない状況でしたので…今後、歴史を知る上で、幸いな事だと思っています。
『美杉秘帖』を三重県立図書館で拝啓してみます。ありがとうございますm(__)m
先祖の事について幼い頃から故母より『日置大膳』との具体的な名は聞いておらず『寺社奉行』?であるとの話を聞いておりました。
津市美杉町(旧美杉村)の山奥に川上との場所があります。
真実かは不明ですが…川上の高台に先祖の城跡だと聞いている土地があります。現在は他人所有の物件なのですが(親戚)
又、三重県のいなべ市(藤原町)付近に野尻城?と名のつく城跡(荒地)がありますが…時々、手を合わせに伺っています。
他に水上千年様へ御伝えしたい事もあるのですが…ネットでは情報の公開が限られてしまいますので…御容赦下さい。
宜しく御願い致します。
- 投稿者: 日置ゆたか
- 2020年 05月24日 18時57分
エピソード21
日置ゆたか様
御子孫の方にそう言っていただけて嬉しいです。
お母様から御先祖のことを伝え聞いていたというのは心温まることだと存じます。そして御先祖ゆかりの地がわかっているというのも。
戦国時代の多気谷には寺院が多かったらしく、また北畠の祈願所の神社(たしか川上八幡宮という名だったかな?)がありましたから、もしかしたら「寺社奉行」というのは多気谷内の寺社に関わる仕事をしていたのかもしれませんね。史料がないのでハッキリとは言えないのですが(・・;)
図書館でご自身で色々ご覧になってお母様からお聞きになった情報と合わせてみると楽しいと思いますよ(*´ω`*)
私の先祖は百姓ですが、自分で先祖のことを調べて楽しかったですよ。
日置ゆたか様が御先祖様を知るきっかけになったようでよかったです。
御子孫の方にそう言っていただけて嬉しいです。
お母様から御先祖のことを伝え聞いていたというのは心温まることだと存じます。そして御先祖ゆかりの地がわかっているというのも。
戦国時代の多気谷には寺院が多かったらしく、また北畠の祈願所の神社(たしか川上八幡宮という名だったかな?)がありましたから、もしかしたら「寺社奉行」というのは多気谷内の寺社に関わる仕事をしていたのかもしれませんね。史料がないのでハッキリとは言えないのですが(・・;)
図書館でご自身で色々ご覧になってお母様からお聞きになった情報と合わせてみると楽しいと思いますよ(*´ω`*)
私の先祖は百姓ですが、自分で先祖のことを調べて楽しかったですよ。
日置ゆたか様が御先祖様を知るきっかけになったようでよかったです。
- 水上千年
- 2020年 05月25日 21時54分
[良い点]
詳しく調査されてますので、興味深くなります。
[気になる点]
真実を知る上で参考になります。
[一言]
おはようございます。初めまして
たまたまある方のFace bookで三重県の北畠神社の投稿がありましたので…ふと思い出し『日置大膳』について検索しておりましたら…このサイトに辿り着きました。
私の故母方(実家)が日置大膳の系統で過去にNHKが取材(伯父宅)へお越し頂いた事があります。私も詳しくは理解しておりませんが…若い頃から故母から話を聞いていましたので…嵐のメンバーの大野君の映画を拝見してから興味深くなっております。祖父の兄弟の名前には『膳』との文字が入っています。宜しく御願い致します(このサイトへのカキコミ方法が詳しく分からないので失礼しております)貴方様へ御連絡したいのですが…こちらへ実名とメールアドレス等を公開したくないので…宜しく御願い致します。
詳しく調査されてますので、興味深くなります。
[気になる点]
真実を知る上で参考になります。
[一言]
おはようございます。初めまして
たまたまある方のFace bookで三重県の北畠神社の投稿がありましたので…ふと思い出し『日置大膳』について検索しておりましたら…このサイトに辿り着きました。
私の故母方(実家)が日置大膳の系統で過去にNHKが取材(伯父宅)へお越し頂いた事があります。私も詳しくは理解しておりませんが…若い頃から故母から話を聞いていましたので…嵐のメンバーの大野君の映画を拝見してから興味深くなっております。祖父の兄弟の名前には『膳』との文字が入っています。宜しく御願い致します(このサイトへのカキコミ方法が詳しく分からないので失礼しております)貴方様へ御連絡したいのですが…こちらへ実名とメールアドレス等を公開したくないので…宜しく御願い致します。
- 投稿者: 日置ゆたか
- 2020年 05月19日 08時18分
エピソード21
日置ゆたか様
コメントありがとうございます。
日置大膳亮の御子孫でいらっしゃるのですね。かっこいい御先祖でうらやましいです。
私は歴史学のことは素人でして、研究者の先生方が書いたものや整理した史料を見て、素人ながらにアレコレ想像しているだけでして(^^;)
私が書いた記事が真実かというと、うーん。「あ、こういう意見もあるんだなぁ、面白いなぁ」という感じで読んでいただけるとありがたいです。
私も嵐の大野くんの映画とその原作『忍びの国』で日置大膳亮への興味が深まりました。原作者の和田竜先生はエンターテイメント作品としてわかりやすくするために数多くいた北畠家臣を日置大膳亮という一人のキャラクターに集約して表現したんじゃないかな、と思っています。
このサイトで私が書いた記事の内容(日置一族の出自について)ですが……
御子孫の方に素人の私の考察を述べるのは畏れ多いのですが……
日置一族は元は旧一志郡日置村に暮らしていた武士で、紀氏(紀貫之の子孫)を称していたのだと思います。南北朝の頃に北畠の家臣になったのだろうと。
そして、一族の大膳亮があまりにも優秀であったため主家の北畠と同じ「源氏」を称することを認められたのだろうと私は予想しています。史料上から「紀氏」なのか「源氏」なのか判然としないのは、そういう経緯があったからではないかな、と私は想像しています。
日置ゆたか様のお家に伝わっている話と違っていたら申し訳ありません。
勢州軍記によると、大膳亮は徳川家康にヘッドハンティングされて徳川家の家臣になっています。かなり優秀な人であったと思われます。
日置一族については『一志郡史』『一志町史』『美杉秘帖』に詳しく載っています。
とくに『美杉秘帖』は北畠の本拠地があった旧美杉村の歴史が詳しく載っています。地元の有志の方々が協力して書かれた本です。
三重県立図書館にありますのでご参考にどうぞm(__)m
(すでにご存知でしたらすみません)
コメントありがとうございます。
日置大膳亮の御子孫でいらっしゃるのですね。かっこいい御先祖でうらやましいです。
私は歴史学のことは素人でして、研究者の先生方が書いたものや整理した史料を見て、素人ながらにアレコレ想像しているだけでして(^^;)
私が書いた記事が真実かというと、うーん。「あ、こういう意見もあるんだなぁ、面白いなぁ」という感じで読んでいただけるとありがたいです。
私も嵐の大野くんの映画とその原作『忍びの国』で日置大膳亮への興味が深まりました。原作者の和田竜先生はエンターテイメント作品としてわかりやすくするために数多くいた北畠家臣を日置大膳亮という一人のキャラクターに集約して表現したんじゃないかな、と思っています。
このサイトで私が書いた記事の内容(日置一族の出自について)ですが……
御子孫の方に素人の私の考察を述べるのは畏れ多いのですが……
日置一族は元は旧一志郡日置村に暮らしていた武士で、紀氏(紀貫之の子孫)を称していたのだと思います。南北朝の頃に北畠の家臣になったのだろうと。
そして、一族の大膳亮があまりにも優秀であったため主家の北畠と同じ「源氏」を称することを認められたのだろうと私は予想しています。史料上から「紀氏」なのか「源氏」なのか判然としないのは、そういう経緯があったからではないかな、と私は想像しています。
日置ゆたか様のお家に伝わっている話と違っていたら申し訳ありません。
勢州軍記によると、大膳亮は徳川家康にヘッドハンティングされて徳川家の家臣になっています。かなり優秀な人であったと思われます。
日置一族については『一志郡史』『一志町史』『美杉秘帖』に詳しく載っています。
とくに『美杉秘帖』は北畠の本拠地があった旧美杉村の歴史が詳しく載っています。地元の有志の方々が協力して書かれた本です。
三重県立図書館にありますのでご参考にどうぞm(__)m
(すでにご存知でしたらすみません)
- 水上千年
- 2020年 05月19日 13時14分
[一言]
とりやおって読んでました、自分は最初。
Wikipediaは便利なんですけど、どこまでも信用していいか難しいですね。
とりやおって読んでました、自分は最初。
Wikipediaは便利なんですけど、どこまでも信用していいか難しいですね。
エピソード23
フェニックス様
「とやのお」なのか「とやお」なのか、私にもよくわからないんです。
資料によって違っていて……。「鳥屋野尾」や「鳥谷尾」という表記になっているものもありました。
今のところ、石見守の苗字の正解は謎ということで(・・;)
ウィキペディアの伊勢北畠関連は十数年くらい前に荒らされていたみたいなんです。その荒らし編集者はbanされたみたいなんですが、誤りや出典不明の記述は一部そのままになっています。
百科事典と銘打ってるウィキペディアと違ってフィクション作品は自由なので、考証とかはあんまり気にしないでいいと思いますよ(*´ω`*)
時代考証ガチガチよりも面白い方が絶対いい。
ウィキペディアの誤りを正すには、遠回りだけど伊勢北畠の知名度と人気をアップさせるのが一番だと思っています。
知名度上がる→ウィキペディアの編集が捗る
という流れを私は願っています。
知名度を上げるためにはフィクション作品で伊勢北畠がどんどん出てくるのがいいのです。
ですから、フェニックス様をはじめ、なろうで北畠を書いている方々を私は応援しています(*´∀`*)
「とやのお」なのか「とやお」なのか、私にもよくわからないんです。
資料によって違っていて……。「鳥屋野尾」や「鳥谷尾」という表記になっているものもありました。
今のところ、石見守の苗字の正解は謎ということで(・・;)
ウィキペディアの伊勢北畠関連は十数年くらい前に荒らされていたみたいなんです。その荒らし編集者はbanされたみたいなんですが、誤りや出典不明の記述は一部そのままになっています。
百科事典と銘打ってるウィキペディアと違ってフィクション作品は自由なので、考証とかはあんまり気にしないでいいと思いますよ(*´ω`*)
時代考証ガチガチよりも面白い方が絶対いい。
ウィキペディアの誤りを正すには、遠回りだけど伊勢北畠の知名度と人気をアップさせるのが一番だと思っています。
知名度上がる→ウィキペディアの編集が捗る
という流れを私は願っています。
知名度を上げるためにはフィクション作品で伊勢北畠がどんどん出てくるのがいいのです。
ですから、フェニックス様をはじめ、なろうで北畠を書いている方々を私は応援しています(*´∀`*)
- 水上千年
- 2020年 01月18日 12時38分
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