感想一覧
▽感想を書く[良い点]
私と同じ日本人で★5評価付ける人はほぼいないでしょうから、敢えて付けさせていただきます。皮肉をこめて。
朝鮮半島の方かな?とも思いましたが、自分の祖国を『代表的』な『謝罪文化圏』と称するあたり、中国の方でしょうか?
謝罪表現が適切なレベルに通訳されなかった為に毛沢東が日本首脳に怒り狂ったエピソードは有名ですし。
日本人や日本的思想を根本的に誤解していますよ。ここまで酷く誤解されると、怒りも悲しみもありません。少なくとも8割方以上誤解しています。
・・・ここまで来ると、もはや喜劇ですね。
[気になる点]
謝罪には、2種類ある。
受動的な謝罪と、能動的な謝罪である。
罰から生まれる謝罪と、罪から生まれる謝罪だと言い換えることもできる。
上記の一文の前半2行には同意します。異論を挟む人は極めて少数だと思います。
しかし、後半二行に同意する人は極めて少数でしょう。故に言い換えとして不適切。極めて政治的思想観に基づく考え方にも感じられます。
我々日本人の感性には合いません。日本人的に言い換えると
受動的謝罪→被害者からの要求に応じて行う謝罪
能動的謝罪→自らの良心に基づく自発的謝罪
というのが正しいと思います。
日本人に読ませたくて書くならせめて導入部くらいは相手国の考え方に合わせましょう。
[一言]
金星人の私
↑意味不明です(^_^;)。
女神Venusのように自分は美しく愛に溢れていると自己陶酔されているのでしょうか?
それとも、(あなたを中国人として仮定して)
金星人
→金(=お金)の星の人→
→お金の国の人→
→拝金主義者の国の人
の論法で近年の中国人を評した自虐的皮肉でしょうか?
私と同じ日本人で★5評価付ける人はほぼいないでしょうから、敢えて付けさせていただきます。皮肉をこめて。
朝鮮半島の方かな?とも思いましたが、自分の祖国を『代表的』な『謝罪文化圏』と称するあたり、中国の方でしょうか?
謝罪表現が適切なレベルに通訳されなかった為に毛沢東が日本首脳に怒り狂ったエピソードは有名ですし。
日本人や日本的思想を根本的に誤解していますよ。ここまで酷く誤解されると、怒りも悲しみもありません。少なくとも8割方以上誤解しています。
・・・ここまで来ると、もはや喜劇ですね。
[気になる点]
謝罪には、2種類ある。
受動的な謝罪と、能動的な謝罪である。
罰から生まれる謝罪と、罪から生まれる謝罪だと言い換えることもできる。
上記の一文の前半2行には同意します。異論を挟む人は極めて少数だと思います。
しかし、後半二行に同意する人は極めて少数でしょう。故に言い換えとして不適切。極めて政治的思想観に基づく考え方にも感じられます。
我々日本人の感性には合いません。日本人的に言い換えると
受動的謝罪→被害者からの要求に応じて行う謝罪
能動的謝罪→自らの良心に基づく自発的謝罪
というのが正しいと思います。
日本人に読ませたくて書くならせめて導入部くらいは相手国の考え方に合わせましょう。
[一言]
金星人の私
↑意味不明です(^_^;)。
女神Venusのように自分は美しく愛に溢れていると自己陶酔されているのでしょうか?
それとも、(あなたを中国人として仮定して)
金星人
→金(=お金)の星の人→
→お金の国の人→
→拝金主義者の国の人
の論法で近年の中国人を評した自虐的皮肉でしょうか?
喰道家様、ご感想ありがとうございます。
> 敢えて付けさせていただきます。皮肉をこめて。
ありがとうございます。
> 適切なレベルに通訳されなかった為に
知りませんでした。Wikipediaの「添了麻煩」に記載のある話題ですかね。聞いたことはある。
「書を日没する処の天子に致す」と同じで、かの国には激怒されてなんぼでしょう。
> 日本人的に言い換えると
> 受動的謝罪→被害者からの要求に応じて行う謝罪
> 能動的謝罪→自らの良心に基づく自発的謝罪
> というのが正しいと思います。
そう解釈するのが自然ですよね、普通ならば。
しかし普通の話をしているのではありません、言葉遣いを独自に定義しつつ議論を進めています。
外部から迫られる罰としての謝罪ではない、内部から認知する罪としての謝罪としての能動的な謝罪については、次の部分で定義しています。
『例えば、罪のない子供が、大きなケガをしたり、病気をしたり、学校でいじめに合ったりして、大きな苦しみを味わっている姿を想像してみてほしい。
すると、母親は、その子のことを、懐にぎゅっと抱きしめることだろう。
そして、涙を流しながら、「ごめんなさい」と繰り返しつぶやくのではないだろうか。
それは、自分が悪くなくても、謝るはずだ。自分の不正や怠慢が苦しみの原因でないとしても、その謝罪は行われるはずだ。
否、悪くないのに謝ることにこそ、謝罪の価値の源泉があるのである。
これを、能動的な謝罪という。能動的な謝罪こそが、謝罪だ。』
例えば、会社やチームで、自分のスケベ心や怠慢や能力不足などで失敗を招き、多くの人の努力を無にするような足を引っ張る立場になってしまったら、日本人は自覚する良心に従って自発的に謝罪するでしょう。しかしそんなものは、受動的であれ能動的であれ、パワハラ文化の文脈で起こりうることです。能動的だからといって肯定すべきものかどうかは極めて疑わしい。能動的な体を演出することこそ、むしろブラックな洗脳行為だとも疑われます。だからそれを、本文では受動的な謝罪に数えました。
『日本人は、受動的な謝罪が謝罪だと思っているが、受動的な謝罪は謝罪ではない。
受動的な謝罪を謝罪だと勘違いしていると、能動的な謝罪は永久にできない。』
愛よりも崇高な、真の謝罪を知覚せよと言うのです。
『私達は、死者に対して、土下座をして、「申し訳ありませんでした」と言う。』
『私達は、食前と食後に、土下座をして、「申し訳ありませんでした」と言う。』
苦しむ他者が存在したとして、それはそもそも、自らの罪だとは思われない。
他者の痛みについて責任を自らのものにするところに、モラルの前進が存在します。
他者を愛する者は、相手が苦しんでいても必ずしも罪まで感じることはない。
しかし、真に倫理的な次元に精神文化が進んだならば、義は愛でなく謝罪に至るのです。
戦争で屈服させられ日本人はそんなことも忘れてしまった。
『私達の社会では、謝罪を繰り返した回数の分だけ、人間の地位は上昇するものと見なされている。』
あなた達の国はどうですか? 謝罪した回数の分だけ人間の地位が下降するのが実情でしょう。
だから、日本人は謝罪せよと私は言った。真の謝罪を知るべきだと。
『歴史的に文化のるつぼである米国や中国では、謝ったら負けだと本当に信じられていて、そんな社会では人々は他者の痛みにまで繊細にはなれない。』
とまで侮辱している私が、中国人である可能性は低いでしょう。そして、『日本人は謝罪せよ』として、悪しき謝罪概念の対照例と見なすほどコケにするなら、朝鮮人たる可能性も低い。まあ、中国人が書いたにせよ朝鮮人が書いたにせよ、本文のように内容が妥当なら妥当とは思いますが。
> 金星人の私
> ↑意味不明です(^_^;)。
日本は歴史的に、地上で最も社会性が発達した文化圏の一つです。その文化は、今は世界を覆ってしまったかに見える、西洋キリスト教を中心とした資本の論理、個人主義の論理から、最も遠いものの一つだと言えます。利己的な物質的存在としての個人らが(本来性を逸脱しての)愛によって協調するモラル(のモデル)とは異なる倫理のモデルが日本などにはありました。ですから、個人を超越した、忘我のモラルに価値を見ることを先鋭化させたならば、その価値尺度は愛よりも謝罪にあって、その価値の頂点には本文でいう『普遍的な謝罪』が存在する。愛の神ではなく謝罪の神が統べる社会を仮想することができます。
地上に存在しないものを語ることは難しい。ですから、地球の外に仮想的に『代表的な謝罪文化圏』を置きました。
簡単な話でしょう。
> 敢えて付けさせていただきます。皮肉をこめて。
ありがとうございます。
> 適切なレベルに通訳されなかった為に
知りませんでした。Wikipediaの「添了麻煩」に記載のある話題ですかね。聞いたことはある。
「書を日没する処の天子に致す」と同じで、かの国には激怒されてなんぼでしょう。
> 日本人的に言い換えると
> 受動的謝罪→被害者からの要求に応じて行う謝罪
> 能動的謝罪→自らの良心に基づく自発的謝罪
> というのが正しいと思います。
そう解釈するのが自然ですよね、普通ならば。
しかし普通の話をしているのではありません、言葉遣いを独自に定義しつつ議論を進めています。
外部から迫られる罰としての謝罪ではない、内部から認知する罪としての謝罪としての能動的な謝罪については、次の部分で定義しています。
『例えば、罪のない子供が、大きなケガをしたり、病気をしたり、学校でいじめに合ったりして、大きな苦しみを味わっている姿を想像してみてほしい。
すると、母親は、その子のことを、懐にぎゅっと抱きしめることだろう。
そして、涙を流しながら、「ごめんなさい」と繰り返しつぶやくのではないだろうか。
それは、自分が悪くなくても、謝るはずだ。自分の不正や怠慢が苦しみの原因でないとしても、その謝罪は行われるはずだ。
否、悪くないのに謝ることにこそ、謝罪の価値の源泉があるのである。
これを、能動的な謝罪という。能動的な謝罪こそが、謝罪だ。』
例えば、会社やチームで、自分のスケベ心や怠慢や能力不足などで失敗を招き、多くの人の努力を無にするような足を引っ張る立場になってしまったら、日本人は自覚する良心に従って自発的に謝罪するでしょう。しかしそんなものは、受動的であれ能動的であれ、パワハラ文化の文脈で起こりうることです。能動的だからといって肯定すべきものかどうかは極めて疑わしい。能動的な体を演出することこそ、むしろブラックな洗脳行為だとも疑われます。だからそれを、本文では受動的な謝罪に数えました。
『日本人は、受動的な謝罪が謝罪だと思っているが、受動的な謝罪は謝罪ではない。
受動的な謝罪を謝罪だと勘違いしていると、能動的な謝罪は永久にできない。』
愛よりも崇高な、真の謝罪を知覚せよと言うのです。
『私達は、死者に対して、土下座をして、「申し訳ありませんでした」と言う。』
『私達は、食前と食後に、土下座をして、「申し訳ありませんでした」と言う。』
苦しむ他者が存在したとして、それはそもそも、自らの罪だとは思われない。
他者の痛みについて責任を自らのものにするところに、モラルの前進が存在します。
他者を愛する者は、相手が苦しんでいても必ずしも罪まで感じることはない。
しかし、真に倫理的な次元に精神文化が進んだならば、義は愛でなく謝罪に至るのです。
戦争で屈服させられ日本人はそんなことも忘れてしまった。
『私達の社会では、謝罪を繰り返した回数の分だけ、人間の地位は上昇するものと見なされている。』
あなた達の国はどうですか? 謝罪した回数の分だけ人間の地位が下降するのが実情でしょう。
だから、日本人は謝罪せよと私は言った。真の謝罪を知るべきだと。
『歴史的に文化のるつぼである米国や中国では、謝ったら負けだと本当に信じられていて、そんな社会では人々は他者の痛みにまで繊細にはなれない。』
とまで侮辱している私が、中国人である可能性は低いでしょう。そして、『日本人は謝罪せよ』として、悪しき謝罪概念の対照例と見なすほどコケにするなら、朝鮮人たる可能性も低い。まあ、中国人が書いたにせよ朝鮮人が書いたにせよ、本文のように内容が妥当なら妥当とは思いますが。
> 金星人の私
> ↑意味不明です(^_^;)。
日本は歴史的に、地上で最も社会性が発達した文化圏の一つです。その文化は、今は世界を覆ってしまったかに見える、西洋キリスト教を中心とした資本の論理、個人主義の論理から、最も遠いものの一つだと言えます。利己的な物質的存在としての個人らが(本来性を逸脱しての)愛によって協調するモラル(のモデル)とは異なる倫理のモデルが日本などにはありました。ですから、個人を超越した、忘我のモラルに価値を見ることを先鋭化させたならば、その価値尺度は愛よりも謝罪にあって、その価値の頂点には本文でいう『普遍的な謝罪』が存在する。愛の神ではなく謝罪の神が統べる社会を仮想することができます。
地上に存在しないものを語ることは難しい。ですから、地球の外に仮想的に『代表的な謝罪文化圏』を置きました。
簡単な話でしょう。
- 鈴木美脳
- 2020年 03月12日 19時12分
[良い点]
はじめまして、こんにちは<(_ _)>
さいしょは原罪の話かと思ったのですが、ちがうようですね。
ぼくは新陳代謝の代謝ということばが気になっています。『代わりに謝る』って書きますからね。この世に幼い自我が限りある命を生き続けるために、細胞が代わりに生死を繰り返し、何者かに対して謝っている。それによって幼い自我はまだ命を保つことができる。それが『代謝』なのかもしれないと思っています。
まあ、ほんとはどういう意味でこの用語がつくられたのかは知らないのですが(;^_^A
はじめまして、こんにちは<(_ _)>
さいしょは原罪の話かと思ったのですが、ちがうようですね。
ぼくは新陳代謝の代謝ということばが気になっています。『代わりに謝る』って書きますからね。この世に幼い自我が限りある命を生き続けるために、細胞が代わりに生死を繰り返し、何者かに対して謝っている。それによって幼い自我はまだ命を保つことができる。それが『代謝』なのかもしれないと思っています。
まあ、ほんとはどういう意味でこの用語がつくられたのかは知らないのですが(;^_^A
- 投稿者: 退会済み
- 2020年 02月09日 14時26分
管理
空想家様、ご感想ありがとうございます。
なるほど。『代謝』という言葉は、そういう意味だったのですね。
本来謝るべき者のために、代わって謝ってくれていたのですね。
なんだか健気でかわいいです。教えてくれてありがとうございます。
ですが、『代わりに謝る』って書くのですから、本来は、威張り散らしてもいいのかもしれませんね。
滅びゆくものが謝り、生き残るもの達が威張っているこの世界。でも本来は、生き残るもの達のために滅んでいったもの達にこそ、威張るに値する尊さがあるのだと、この用語はそんな意味も込めてつくられたのではないでしょうか?
代わりに謝ってくれている存在への、感謝の気持ちも込められた言葉だったのですね。笑
なるほど。『代謝』という言葉は、そういう意味だったのですね。
本来謝るべき者のために、代わって謝ってくれていたのですね。
なんだか健気でかわいいです。教えてくれてありがとうございます。
ですが、『代わりに謝る』って書くのですから、本来は、威張り散らしてもいいのかもしれませんね。
滅びゆくものが謝り、生き残るもの達が威張っているこの世界。でも本来は、生き残るもの達のために滅んでいったもの達にこそ、威張るに値する尊さがあるのだと、この用語はそんな意味も込めてつくられたのではないでしょうか?
代わりに謝ってくれている存在への、感謝の気持ちも込められた言葉だったのですね。笑
- 鈴木美脳
- 2020年 02月09日 16時18分
[良い点]
そうですよねぇ
”受動” であやまる のは たしかに そうですね
そうですよねぇ
”受動” であやまる のは たしかに そうですね
リハビリ時計様、ご感想ありがとうございます。
本当に苦しむものを本当に愛したとき、心に湧き上がる本当の気持ちは、謝罪なのではないだろうかと思いました。
そして、その罪滅ぼしを願うときに、人の心には、最も大きな正義感が備わる気がいたしました。
愛という美徳は、実は男性が支配していた時代の、自我と理性にもとづくものにすぎず、他者の苦しみを自らの罪として受け止めるような、本当の謝罪の美徳へと、世界は進歩しなければならないだろうと考えました。
そのために大切なのは、それを偽りの謝罪、つまり受動的な謝罪と区別すること。そして、受動的な謝罪を知らず知らず強いてきた既存社会の原理を、否定して、邪悪として定義することだと思いました。
本当に苦しむものを本当に愛したとき、心に湧き上がる本当の気持ちは、謝罪なのではないだろうかと思いました。
そして、その罪滅ぼしを願うときに、人の心には、最も大きな正義感が備わる気がいたしました。
愛という美徳は、実は男性が支配していた時代の、自我と理性にもとづくものにすぎず、他者の苦しみを自らの罪として受け止めるような、本当の謝罪の美徳へと、世界は進歩しなければならないだろうと考えました。
そのために大切なのは、それを偽りの謝罪、つまり受動的な謝罪と区別すること。そして、受動的な謝罪を知らず知らず強いてきた既存社会の原理を、否定して、邪悪として定義することだと思いました。
- 鈴木美脳
- 2020年 02月09日 16時06分
感想を書く場合はログインしてください。