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[一言]
私が通った中高は、校則もほとんどなく自由な学校という事になっていました。
けれども、やはり中にはいる少し社に構えた人々は、「そんな自由なんて鳥かごの中の自由だ」と反発していたりもしました。

人を縛る鎖、というと基本的には愛と責任がもとになっているのかな、と思います。頭の中で、憑依型転生をするお話、って言うのを考えていたりするのですが、もしそういう事になると既存の絆は全て断ち切られます。そしてもし、新しい絆を結ぼうとしなかったら、そのとき人は本当に自由を感じられるのじゃないか、と思ったりもします。
こんにちは。追記です。
実は、感想の中にありました「憑依型転生」というものを実は知りませんでした。のでネットで調べました。このサイトのファンタジーのジャンルには定義が多すぎて、ついていけていませんので、以下、間違いかもしれませんが、その際はご容赦ください。

例えば、歴史上有名な戦国武将などのからだに意識としての主人公が入り込んで支配してしまう場合などではなかろうかと考えます。
当初、混乱しますよね。その段階では、自身が過ごしてきた社会と繋がっています。行動基準や判断基準が、そこにしかありませんので。ですから、自由ではありません。

次に、自身がおかれている状況を知る段階が来ますよね。どうやら、ここは何時代のようだとか、自分は誰それのようだとかです。その場合は、自分の歴史の知識という先入観にすでに支配されていますよね。
同時に、「これは夢だとか」、「夢じゃなければ、現代に帰りたい」というような意識と、そのために、当面、この時代とキャラに適応して生き残っていかなければという意識が生まれますよね。
そうなると、「どちらにも所属していない」状態ではなく、「二つの時代の社会に、またがっている」状態になるような気がします。
結局、どちらの時代にも縛られ、いっそう自由がなくなる気がします。

例えば、直後に戦が始まろうとする。家臣が裁可を求める。現代の常識で言えば、「みすみす、人が死ぬとわかっていて戦をするか」となるでしょうが、そうやって、戦を避けて領土を奪われたり、不利な状況が生じるようなことが、数回続けば、今度は部下からの謀反が生じるかもしれません。
何とか生きて現代に帰りたい。そのために、とりあえず生き残りたいと思ったとすると、どう考えても、お気軽な対応はできなくて、それこそ、一つ一つの選択が、想像もできないような重さをもって迫ってくることになります。


では「本当の自由」は、結局何なのだとなりますが、よくわかりません。
私なりに突き詰めていきますと、「究極の自由」は、「究極の孤独」であり、「究極の孤独」は「自由など、何の価値も意味もない状態」のように、いまは思います。

最後に、ひとりだけ生き残る。映画にもあったような気がします。ひとりになったとき、多分、最初は、ひとりじゃないことを確かめるために、誰かに出会うために行動するような気がします。歩き回る。探し回ると言ったことです。
それを諦めたとき、生きていることに価値があるようには思えません。残りのいのちを、ひとりであることを噛みしめながら生きていくことを選ぶのは、死ぬこと以上に辛いことかもしれません。

というような理屈で、「本当の意味で自由になることは、自由の価値や意味を失ってしまうことなのだ。制約の中でこそ、自由は輝く宝石となる」と定義してみたくなりました。

こんにちは。いつも、感想をいただきありがとうございます。考えるきっかけにさせていただいています。

最近いろいろ考えることがありまして、それを詩のようなものにしてしまいました。以下は、あくまでも個人的な思考の内向の帰結です。

人を縛るものは、社会活動すべてだと思います。国レベルでは法律であり、道徳などでもあります。地域の慣習やコミュニティの決め事もあります。家族についても、愛情以外に、倫理観や義務、結婚という契約で縛られていたりします。

人と人との繋がりにおいても、愛に縛られるのと同じように、憎しみに縛られたりします。復讐やストーカー行為には、なんの生産性もありませんが、当事者を強く縛り付け、時には殺人になるまでそれをやめることができません。
誰かに覚える感情は細い糸か、重い鎖かは別にして、すべてが自分を縛るものだと、いまは思っています。ただ、それが、邪魔ものだとは考えてはいません。

もちろん、書いていますように、縛られることで、ある程度の範囲のバランスが良く、心地よい自由を確保し、安心して暮らすこともできますし、実際、不自由を覚えることは、あまりないとも思います。
でも、縛られていることも事実です。自由に嘘も本当もないと思いますが、究極の自由は究極の孤独や人への無関心の裏返しです。

例えば、他人のいのちに無関心であれば、その人を傷つけることにさえ理由がいらなくなります。お腹が減ったから、手に食べ物を持っている人を襲う。それだけのために殺してしまう。そういった犯罪が起こる理由の一つは加害者の被害者への無関心です。
社会に許容されない、こういった行為の多くは、社会から自由であるからこそできることです。そこには自由の負の側面があります。

もちろん、こういった極論を詩にしたいわけではありません。むしろ、ホラーのほうのテーマかなと思います。

私のような人間には、せいぜい頑張ってもいくつかの鎖を断ち切るくらいが関の山ですが、孤独を覚悟してでも、捨ててしまいたい不自由もあります。
あとは、相応の孤独とお友達になる覚悟だけです。もちろん、それが難しいことも知っているつもりです。

いつも、こういうグダグダが頭の片隅にあって、すっきりしません。私にとっても孤独は恐怖ですけど、精神の安寧でもあって、美しく魅力的にも映ります。
そう言えば、好きな歌があります。会津弥一氏が法隆寺夢殿の救世観音像を詠んだ歌です。

あめつちに われひとりいてたつごとき このさびしさをきみはほほえむ
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