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面白い考察でした。
自分なんかはむしろ義信旗頭にして駿河乗っ取れんかなとか考えてました。  
義信の次男が生まれれば当然今川名のればいいし…とか思ったんですけど、生まれたのが娘だったからなあ。
側室の子は女でもいいけど、正室はやっぱり男早めに生まれないと計算がつかないんだろうなあ戦国
  • 投稿者: 水城
  • 2025年 03月22日 11時05分
 ご感想をありがとうございます。

 この辺りの息子云々は、本当に時の運というか、そういったモノが絡むものです。
 
 そういった辺りまで考えると、駿甲相三国同盟は奇跡的に出来たことで、その後のことまで考える程に悩ましい、と私は考えます
  • 山家
  • 2025年 03月22日 18時52分
 織田家と停戦協定に反対する理由なんて、そんなに疑問に思う必要はないと思いますよ。
 織田と停戦すれば美濃方面はとりあえず落ち着くが、その代わり今川との関係が不安定化してしまうからです。
 実際、作者さんも盛んに指摘している通り、その後今川家は対武田強硬路線をとるようになりました。「どう見ても今川家から武田家との対立路線を歩んで」行くようになります。
 織田との停戦の後、実際に対今川外交は不安定化してしまったのです。

 結局、今川にとって仇敵である織田と停戦協定を結ぶという事は、織田と今川を両てんびんにかけるという事であり、どちらとも中途半端な関係になってしまうことを意味します。
 要するに、南も西も全幅の信頼はおけない状況になってしまうわけです。
 その状況を好ましくないと思うのは普通にあり得る感覚です。

 これに加えて、義信にとって信長は義父のか敵である事。そして、少なくとも10年前は、信玄が「義信は親子の関係よりも今川との関係を重視している」と書状に書くほどの親今川派であったという事実を考えあわせれば、義信が織田との和議を嫌って謀反を起こす事はそれほどおかしな事とは思えません。

 私はむしろ、仮に義信が家督相続出来ない事に不満を持っていたとしても、その結果謀反まで起こすだろうか? という点の方がよほど疑問です。なぜなら、当時武田家には、実質的に義信以外の跡目候補はいなかったからです。
 つまり、義信は待ってさえいれば必ず家督は継げたのです。この事は、作者さんも既に指摘している通りです。なぜ、そんな状況で謀反まで起こす必要があったのでしょうか?

 要するに、義信が家督相続出来ない事に不満を持っており、その為に謀反を起こしたと考えるためには、まず、史料的な裏付けは全く存在しないが、義信は不満を持っていたのだろう。と仮定し、しかもその不満は、いずれは確実に家督を継げる立場だったのに、いてもたってもいられず謀反まで起こしてしまうほど強かった。としなければ成立しません。

 私としては、そこまで強烈な不満を持っていたという事を、何の史料もないのに想定する事は到底できません。
 ですので、私としてはやはり、織田と和議を結ぶという外交方針への不満から謀反を起こしたという従来の通説を支持します。
 ただし、最初に言った通り、従来の通説を否定せず、外交方針への不満に加えて家督相続できない事への不満もあったのかも知れない。と推測する事は出来ると思いますが。

 結局のところ、外交方針への不満+家督相続への不満、と二つの不満が重なって謀反に至ったのではないか。と、そう推測しておくのが、最も妥当性が強いのではないでしょうか。
 ご感想をありがとうございます。

 この辺りは永遠の論争になりそうです。
 織田と和議を結ぶのが、義信にとって不満を抱くのが当然、というのも状況証拠です。
 10年前に不満を持っていた以上、当然に今でも不満を持っていて当然とか。
 歳月の流れを考える程、当然視される事なのか、と私は考えてしまいます。
  • 山家
  • 2025年 03月22日 18時56分
「1555年の書状しか、義信が親今川派だったという具体的な一次史料が無いことから、却って義信が親今川派だったのを疑問視する立場です。」
 との事ですが、それを言うなら「義信が家督を相続できない事に不満を持っていた事を示す史料」は、全く存在しませんよね? 具体的どころか推測される資料も、一次資料どころか二次資料でも存在しない。

 私としては、根拠となる史料が全く存在しないことから、義信が家督を相続できない事に不満を持っていた事を疑問視するしかありません。
 まあ、少なくとも、どちらがより信ぴょう性があるかと言えば、普通に考えて多少なりとも史料がある方でしょう。

 そもそも、義信が親今川派ではなかったなら、義信の失脚を切っ掛けとして今川の方から武田との対立路線を歩み始める事の説明が付きません。
 親今川派の義信が、親今川よりの行動をとろうとした結果失脚した。だから、それを契機に対立路線が始まった。と考えた方が整合性が取れます。

 それに、従来の通説に従って考えても、義信事件の発生が織田家との和議成立よりも前なのは当然です。織田家との和議に反対だったならば、和議成立前に行動を起こすのが当然だからです。
 むしろ和議成立の直前という事件勃発のタイミングは、和議の阻止を目的としていたと考えた方が整合性が取れます。

 また、
「今川家の現状からして、東美濃と信濃の国境関係について、1565年当時に大きな影響を与えることが出来たでしょうか。
 この当時の武田家(及び北条家)にしてみれば、対上杉家対策が最重要で、そうしたことからすれば、織田家との停戦協定締結は止むを得ない事態です。
 確かに今川家中に不満が起きても仕方ないですが、それこそ現実が見える面々ならば、止むを得ないことだ、と苦汁を飲むしかない話です」

 という指摘も、むしろ従来の通説と整合性が取れています。
 そのような状況だからこそ、信玄は織田を和議を結んでもいきなり義信が謀反を起こすとも思っていなかった。
 ところが、実際には義信は謀反という苛烈な行動をとった。これは信玄にとって予想外だった。だからこそ、「義信との仲は問題ない」という主旨の、事実を隠す書状を書く必要もあった。と考えられます。

 そもそも、従来の通説でも、信玄がいきなり今川を攻めようと考えたから義信が謀反を起こしたとまでは言われていなかったと思います。実際、当時はおっしゃる通り対上杉戦線の方が大事で、今川を攻めるなどあり得ない情勢だったからです。
 義信事件の切っ掛けは、あくまでも織田との和議を結ぶという外交方針への不満があったから。という解釈が従来の通説だったのではないでしょうか。

 まとめると時系列は以下の通りかと思います。

 まず、信玄は対上杉の戦いに集中するために織田と和議を結ぼうと考えた。
 信玄としては、将来的には今川攻めも考えていたかもしれないが、少なくともその時点でいきなり今川を攻めるつもりはなかったし、義信が謀反を起こすとも思っていなかった。
→ところが、実際には義信は和議成立を阻むために謀反を起こした。
→結果、義信は失脚し、信玄は嫡男の謀反という想定外の事態による動揺を治める為に家中で工作を行う必要も生じた。
→今川家としては、織田と武田の和議成立だけでも十分に不満だったのに、それを阻止するために行動した親今川派の義信も失脚して武田家中の親今川派は激減してしまった。
→これを切っ掛けに、今川は対武田強硬路線をとるようになった。
→これに前後して信玄もまた今川攻めを本気で考えるようになった。

 以上のような流れで、特に整合性が取れない部分はないと思います。
 少なくとも、義信が親子の関係よりも今川の事を優先していると書いた信玄の書状とも、義信の失脚を契機として、今川が対武田強硬路線をとるようになった事とも整合性は取れます。

 逆に、義信は親今川派ではなかったとするならば、「10年の間に気持ちが変わった」という、これまた史料的な裏付けのない仮定を導入する必要がある上に、なぜ親今川派ではない義信の失脚を切っ掛けに今川が対武田強硬路線をとるようになったかについても、何らかの解釈を入れる必要が生じます。

 そこまでして従来説に疑問を呈して、史料的な根拠が完全にゼロである「義信は家督を相続できない事に不満を持っていたから謀反を起こした」という説に飛びつかなければならない理由が私には分かりません。

 義信が謀反を起こした理由には、信玄の外交方針への不満だけではなく、家督を継げない事に関する不満も同時に存在していたのかもしれない。と、その程度に想定するだけで十分なのではないでしょうか。
 ご感想をありがとうございます。

 実際、武田家の家督相続問題について、状況証拠しかないのは事実です。

 でも、その一方で、義信が何故に織田家と停戦協定に反対する必要があったのか、というのが私には疑問でなりません。
 それこそ、織田家と停戦協定を結ばないと、上杉家との二正面作戦を武田家は強いられる羽目になるのです。
 正面を絞る為に、織田家と停戦協定を結ぼうとする信玄の外交は真っ当ですし、義信がそれに反対して、武田家は今川家の犠牲になって、織田家と上杉家、双方と戦うべきだ、という方が、私には理解しかねます。

 いや、今川家の為だ、武田家は二正面作戦を強いられてでも、上杉家、織田家と戦うべきなのだ、と言われるのでしょうが。
 そこまで、武田家は今川家に奉仕すべきなのでしょうか。
 武田家が、自分の家の利益を追及するのは、おかしなことなのですか。

 多分、これ以上のやり取りをしても、話が噛み合わないので、これで終わりにしますが。
 私はそう考えます。
  • 山家
  • 2025年 03月10日 20時47分
 ありゃ!補足の11話があるーーー!\(゜д゜)/と活報へ完結祝福コメントした後に気がつくトンチキ読者!そして以前から思っていた『信玄さんはなんで後継の勝頼さんに官位なんかの箔づけしないで死んじゃったんだろーなー、そーゆー最低限の根回ししないとか智将らしく無いよね』な呑気な武田信玄アンチ思考が「やれるだけやってたけど時系列の流れが悪い方に作用してる」の指摘に(´□` )あ!嫡男義信さん存命中にそんな動きを武田がやるワケ無い上に義信さん病没の1567年って京都に将軍不在、1568年に15代将軍が信長さんに擁立されるけど急ごしらえの新生足利幕府の奉行衆では近畿周辺の混乱を収めるのが先で地方から回ってくる官位発給の申請なんて手をつけられるワケも無く、1569年は信玄さんも官位の申請より重大な駿河侵攻におおわらわ、ほどなくして遠江国境で織田シンパの徳川と今川領の切り取りでバチバチに反目する、(・Д・)こりゃー手紙の往来が下手したら半年とかの情報伝達の世界で「官位を貰えると思う?」と問われたら「お釈迦様でもムリっすな」と答えざるを得ない流れですワ。死を目前にして後継者に何かを残したくてもその時には官位発給の権限を持つ者と完全に敵対してるんだから信玄さんも諦めの心境だったんでしょうね(ˊ̱ωˋ̱)とそこまで思い至り『信玄さんをディスるのはちょっと控えめにしとこうかなぁ』と読者の蒙が啓けた気持ちになっちゃいました(単純脳)( ᐛ )وもしも勝頼さんが官位を貰える流れがあるとしたら1568年の信長上洛に友軍として随行し足利義昭の将軍宣下の祝時の中で補任されるとかならワンチャンあったのかなぁ?と妄想しちゃいました(´・ω・`)ただその場合は武田の兵数が削減されるから次の年に予定されてる駿河侵攻が難しくなるから信玄さんが『今川との戦は数年遅らせるか』と大戦略を変更出来るかどうかなんだけど信玄さんは『遅れれば徳川に先んじられる』なんて考えてただろうからやっぱり無理かなぁ?んー頼山陽じゃないけど過去の英傑達の事をあれこれ考えるのってホント面白い☆(^◇^;)
 ご感想をありがとうございます。

 この辺り、本当に年月単位で、細かに歴史を眺めていると見えてくる話です。
 
 普通に考えれば、信玄が何故に勝頼に官位の授与等を求めなかったのだ、と考えられて当然なのですが。
 でも、年月単位で、細かに歴史を眺めてみると、勝頼に官位が与えられるチャンスは極めて乏しかった史実があるのです。

 その一方で、本当に何で1570年に官位が勝頼に与えられなかったのか。
 私としては、どうにも謎だとしか、言いようがありません。
  • 山家
  • 2025年 03月09日 18時18分
 通読させていただいて思ったのですが、なぜ『旧通説』と『新説』を対立的に捉える必要があるのかが良くわかりません。
 私としては、別に対立させる必要はないと思うのですが?

 まず、信玄の書状を参考にするなら、義信は1555年の段階で既に親今川派だった。
 そして、義信事件が起こった時期に、武田信玄は織田信長との関係を改善させようとしていた。これは明白な事実であり、今川家にとっては当然不快な事態だった。
 親今川派だった義信としても、当然面白くない。
 そこに加えて、家督を相続させてくれない不満もあったし、飢饉が発生して代替わりの機運も高まりそうだった。
 だから、謀反に走った。という事ではいけないのでしょうか?

 要するに、外交政策に対する意見の相違、家督相続に関する不満、飢饉の発生。という複数の要因があっての謀反だった、と。

 ちなみに、義信事件勃発から、駿河侵攻までに2年経っている事は、今更疑問とするようなことではないと思います。
 義信事件の発生が、信玄にとって想定の事態であり、その発生後に家中の動揺を治めようとしていたのは従前から明らかになっていたのですから。

 実際、信玄は義信事件の後「飯富虎昌が謀反を起こしたが、義信と自分の関係は問題ない」という主旨の書状を書いています。義信と自分の対立を隠そうとしているわけです。
 これは、とても義信事件の発生を予期していたとは言えない対応です。

 要するに信玄は、信長と関係を改善するという行為は外交方針の転換ではあるが、だからと言って義信が謀反を起こすとまでは思っていなかった。
 恐らく、今川との完全な手切れとも思っていなかったし、ましてその時点で即座に今川領に攻め込むつもりもなかった。
 ところが、案に相違して義信は謀反という苛烈な反応を示し、信玄はその後始末に追われることになる。その後の過程の中で、今川家との関係は段階的に悪化し、ついに駿河侵攻に至った。
 私としては、今までの通説はこのようなものだったと思っていました。

 ここに、義信の家督相続されない事への不満、という要素が加わっても何ら問題はないのではないでしょうか?
 
 個人的には、「従来の通説を覆す新説」というよりは、従来の通説に別の視点からの要素を加えた。という考え方で良いように感じました。
 ご感想をありがとうございます。

 私としては、別に対立的に考えている訳ではありませんが。
 そもそも論になりますが、何で10年前から義信の心は変わらず、義信は明らかにずっと親今川派だったと言えるのでしょう。
 時が流れるにつれて、人の心、想いが変わるのはよくあることでは。 

 更に言えば、今川家の現状からして、東美濃と信濃の国境関係について、1565年当時に大きな影響を与えることが出来たでしょうか。
 この当時の武田家(及び北条家)にしてみれば、対上杉家対策が最重要で、そうしたことからすれば、織田家との停戦協定締結は止むを得ない事態です。

 確かに今川家中に不満が起きても仕方ないですが、それこそ現実が見える面々ならば、止むを得ないことだ、と苦汁を飲むしかない話です。

 更に言えば、順序が完全に逆です。
「義信事件」の後に、勝頼の婚姻、織田家と停戦協定を結ぶ事態が起きています。
 勿論、交渉に掛かる時間を考える必要がありますが。

 そして、「義信事件」後、義信の正妻にして氏真の妹を駿河に呼び戻したり、この辺りは議論がありますが、「塩留め」を発動したり、更には上杉謙信の誘いに乗って、対武田同盟を上杉家と締結したりする等、どう見ても今川家から武田家との対立路線を歩んでいます。

 そんなことからすれば、武田信玄の方から対今川家戦争を行おうとしていた、という旧通説に対して疑問を私は覚えてなりません。
  • 山家
  • 2025年 03月09日 18時15分
「義信が明確な親今川派で、その為に父との対立も辞さない程だったという史料が皆無」
 とおっしゃいますが、確か1555年に書かれたと推測されている信玄の書状に「義信が今川殿の為に親子の関係を忘れている」と書かれていたはずです。

 確かにこれだけで、義信の主観として「父との対立も辞さない程だった」とまでは言い切れませんが、史料が皆無は言い過ぎだと思います。
 少なくとも、信玄から見ると「義信は俺との関係よりも今川を優先した」と思った時期があったという事は証明されていると言えるでしょう。
 これをみれば、義信が親今川派だったというのは、史料的な根拠がある推測だと言えます。

 これに比べると、義信が家督を相続させてくれない事に不満を持っていた。という推論の方こそ、史料的根拠が皆無のものだと思えます。
 ご感想をありがとうございます。

 1555年の書状ですよね。
 それこそ駿甲相三国同盟が正式に締結されたのは1554年で、三国同盟締結直後の書状です。
 更に言えば、今川家と武田家の縁は深く、今川氏真は武田信玄の実の甥でもあります。
 そして、「義信事件」が起きたのは1565年です。

 10年前の書状だから、といって無視するのか、と叩かれて当然ですが。
 私としては、1555年の書状しか、義信が親今川派だったという具体的な一次史料が無いことから、却って義信が親今川派だったのを疑問視する立場です。
 それこそ1560年の桶狭間の戦いに武田兵が赴いたのでは、と推定される程、信玄にしても「義信事件」以前は、明らかな親今川派だったのです。
 それこそ年単位で時が流れれば、人の想い、考えが変わるのは当然では。 

 10年前の書状をわざわざ持ち出さねばならない程、義信が親今川派と言える根拠は薄いのが現実なのです。
  • 山家
  • 2025年 03月09日 17時59分
 状況証拠は「そうだとしか思えない」けど確かな一次資料が存在しないのが二の足を踏ませる( ̄∀ ̄)ココで「思考実験めいたエッセイなんだから大胆に断を下そう」って飛躍しちゃうのがトンデモ作家さん達の愉快な所業(邪馬台国論争とか上杉謙信女人説なんて有名だもんね)なんだけど山家先生は自身の大作「戦国に皇軍、来訪す」で書き綴る先生本人も読んでる読者も「作中の真実を理解してなお二人の美子さんに血の繋がりを感じざるを得ない妙にハマった状況証拠が溢れている」事を体験してしまってるから『状況証拠ぐらいでクロと決めるワケにはいかんよなぁ』と矛を収めざるを得ないのにはなんか苦笑いが出てしまいますワ♪(^皿^;)だけど状況証拠しか現状なくても黒田氏が提言してくれた結果これから古文書や各地の資料を黒田仮説に照らし合わせて研究したり読み解いたりする風向きになったとしたら「山本勘助架空の存在説」を平成に切り崩した新資料が見つかったようにいつの日か巨大な傍証となる資料が浮上して新たな定説なんて大化けするまだ見ぬ未来にワクワクしちゃう金具素屯でした(・Д・)近頃多い定説への逆張り仮説と違って「虚心坦懐に駿甲相三国同盟の散りゆく様を眺めれば従来語られるモノはあまりにも物語として出来過ぎでは無いか?」と素朴な疑問からスタートしているのが見てとれるので天邪鬼な読者の胸にストンと黒田仮説は受け入れられた気がします、そして塩止めの件も「各地の領主層の貴重な財源だとしたら果たして寄り親だからと大名の一存でその権利を取り上げられるもんだろうか?」と行間から滲み出る山家先生の反証もなかなか胸を撃ちました(^ ^)やっぱりエンタメな歴史観に知らず囚われてしまってんだなぁと我が身を振り返る思いですwww
 ご感想をありがとうございます。

 それこそ現実と小説を混同するな、と叩かれて当然ですが。
 状況証拠からすれば、どう見ても真実だろう、という小説を描いた後に、こんな現実を見せられては。
 状況証拠からして間違いない等と、口が裂けても私は言えません。

 本当にこの辺りを明らかにする傍証が、何れは出てきてほしいモノです。
 それこそ山本勘助の実在が証明され、武田義信の病死説が確定したように、そういった傍証が出て来ることを、私は期待してなりません。

 後、塩留めの一件ですが、それこそ各地の国人衆にしてみれば、交易によって得られる運上金等は、自らの資金源として極めて重要なのです。
 更に、その塩留めの実効性に疑念があっては。
 本当に何処までの真実があるのか、私としては疑問を覚えてなりません。
  • 山家
  • 2025年 03月08日 20時41分
 (・Д・)あー、ついに破断してしまった、だけど信玄さんも氏真さんもそれぞれ微妙な態度にメッセージを含めながらも受け取り方を誤ったボタンの掛け違いって感じですよねぇ、義信さんが存命か信玄さんと氏真さんが腹を割って語り合えれば全然違ったんだろうけどホント“報・連・相”を怠ると大ごとですわな。
 しかし武田まわりと三国同盟の話なのに補助線として当時の同盟の履行に関してキッチリと手順を踏んでる織徳同盟時の信康事件が語られてますけど同盟が破断せぬようドライに役場の手続きのような手際で粛々と織田に了解を取った流れ(徳川が主導で織田は合意した)が後世の権現さま美化史観では「信康の器量に嫉妬した信長に詰め腹を強要され同盟維持の為に泣く泣く息子を斬らざるを得なかった悲劇の家康公」みたいなお涙頂戴の物語に換骨奪胎出来てるのって忖度の結果とは言え家康さんはそーゆー形に見えなくもない立ち回りになってるのが読者には「やはり戦国最強のラッキーマンは東照大権現か」といまさら再確認して頷いちゃってたりします(^皿^;)後、チラリと書かれた越後と駿河の対信玄同盟から──今川と手を結んでおきながら海無し国の甲斐には有効な戦略である駿河の塩止めに同調せず越後の塩を武田に売ってたのが事実なら謙信さんのやり方は「敵に塩を送る」美談ではなくパーフェクトな利敵行為なんじゃなかろーか?──などとトンチキな事を思う読者でございました(^艸^)謙信公は熱烈なファンが多いからおおやけの場ではこんな事を放言は出来ませんけどねwww。
 ご感想をありがとうございます。

 実際、黒田基樹氏等の新説に則って、この三国同盟締結から義信事件、更に駿河侵攻までの時系列を追っていくと、本当に様々なボタンの掛け違えの結果、武田家と今川家の関係が破断するまでの事態に至ったのだ、という想いが私はしてなりません。

 それから塩留めについてですが、私としては様々に疑問を覚えるので、最新話で少し描きました。
  • 山家
  • 2025年 03月08日 08時08分
 婚姻同盟は円満におさまっていれば皆んな幸せなんだけど何処かに歪みが生じると途端に機能不全に陥るのは戦国時代に関わらず洋の東西を問わぬ古今普遍の原則ですわな(・Д・)永禄の変の影響が京都近郊より遠く離れた甲斐と駿河に激震を呼ぶとかバタフライエフェクトとはこの事か?しかし黒田仮説の順序で読み解くと武田側が親今川派の義信に詰め腹切らせ手切れをしたのでは無く──病没した義信の菩提を弔っていた未亡人になる妹を今川側が呼び戻し武田側へと手切れの意味を含めたメッセージとした、って事ですわな──まあ実父の仇となる織田に接近するなんて氏真さんには認められないからこその処断だったんだろうけど信玄さん的には「武を持って織田を討つ事の出来ぬ若造が小癪な」といよいよ同盟破棄•今川領侵攻を本腰いれて考えるきっかけになったんだろうなぁと地獄のピタゴラスイッチが発動したようで氏真さんの行動には読者は「ウカツすぎますがな」と呟いてしまいますよ(´ཀ` )これも本エッセイで指摘してるように今川は義元全盛期に武田を一段下に見てた為に氏真さん含めて信玄さんに甘えた(受け取り方によっては舐めた)態度を自然と取ってしまったからなんでしょうね、それが無かったらもしかしたらその後の歴史は大きく変わり、後の織田包囲網で武田は今川と手を取り合って史実以上に信長と家康を苦しめたのかなぁ?と思うとなかなか面白い歴史の転換点に思えちゃう今日この頃(´ω`)
 ご感想をありがとうございます。

 本当に駿甲相三国同盟崩壊の経緯を、私なりに見る限り、桶狭間の戦い以降、今川家と武田家の関係は悪い方から悪い方へと、ひたすら転がっていく一方だった、と考えます。
 そして、今川家、武田家、北条家の序列が、結果的に悪い方向に流れた結果、最新話で描きましたが、北条家と上杉家による対武田大同盟を一時的ではありますが、締結させたのではないか、と私は考えます。
  • 山家
  • 2025年 03月07日 21時55分
 本エッセイの主題は武田さん家の話なんだけどクローズアップされてる1560年代の時期の今川家の「運の無さ」はホントなんなんでしょうね(・Д・)逆に三河一向一揆の頃の他国で一向衆が立ち上がった時の惨状を考えると(朝倉氏は一向衆と百年戦争状態で天下に最も近かった織田が最も苦戦させられたのも一向衆)氏真さんが「これは好機」と背後が安全なうちに北条援護に動くのは外野視点でも「悪い手では無い」と感じられるのに、何故か予想は大外れで離反した家臣もほとんど戦死せず1年で決着するスピード展開「まだ関東から足抜け出来ないのに終わってる!?」と驚愕してたら遠州忩劇のおおわらわ!鎮圧に成功したのは良いけれど三河の内乱と違い血が流れすぎた為に遠州武士達の多くが今川への憎しみと反意の思いを植え付けられそれを三河から眺める家康さんには『遠江駿河で相争い今川の兵備が先細って脅威は薄れ、いずれ獲るべき場所まで平されたワありがたや』と自分の幸運に神の加護や天意まで感じるトンデモ展開(´⊙ω⊙`)やっぱり読者には「徳川家康は政治や戦争の才だけじゃなく戦国最高の幸運児」だったと思えちゃうんですよね、今川•武田•北条の三家は天下の幸運児家康さんに運気を根こそぎ奪われたから没落しちゃったように感じるのはオカルトに引っ張られすぎかなぁ?(しかし領土を接していたら滅びるって意味じゃ織田と豊臣も同じ餌食に会ってるのよね、コワい)
 ご感想をありがとうございます。

 本当に1560年代前半から半ばに限るならば、松平元康には幸運の女神が憑いていたとしか思えないような状況だ、と完全な後知恵からは考えられるような状況です。

 そして、その後のことまで考える程に何とも言えません、
  • 山家
  • 2025年 03月06日 22時04分
1 2 Next >> 
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