感想一覧
▽感想を書く ものは言い様というやつですよね。正に善悪は詭弁によって反転するということで。
結局のところその七つの大罪も、その概念の用い方が重要。原罪を以て人を裁くならばイエスといえども重犯。聖書を見れば彼も相当やらかしてますしね。(笑)
というわけで、案外『偶像崇拝の禁止』というのも善悪の概念の濫用を禁止するものなのかも? 『神をかたるべからず』などとも言いますしね。(笑)
なお、私の解釈では原罪は人間を裁き争うためのものではなく、その不完全さを赦し合うためのものであったのではないかと考えていたりします。教義の本質は『愛』にあるのでしょうから。
結局のところその七つの大罪も、その概念の用い方が重要。原罪を以て人を裁くならばイエスといえども重犯。聖書を見れば彼も相当やらかしてますしね。(笑)
というわけで、案外『偶像崇拝の禁止』というのも善悪の概念の濫用を禁止するものなのかも? 『神をかたるべからず』などとも言いますしね。(笑)
なお、私の解釈では原罪は人間を裁き争うためのものではなく、その不完全さを赦し合うためのものであったのではないかと考えていたりします。教義の本質は『愛』にあるのでしょうから。
ご感想ありがとうございます。
おっしゃる通り、善悪の概念も、その使い方次第で人を省みさせるものにも、他者を裁くための詭弁にもなり得るのだと思います。七つの大罪も、概念そのものより、それを誰が何のために用いるのかが重要なのでしょう。
原罪については、私自身は「人間の不完全さを理由に、ただ赦し合うための概念」というより、人から罪が生まれる構造そのものは完全にはなくならない、という認識に近いものだと考えています。
だからこそ、罪を防ぐ規範だけではなく、罪が起きた後に反省を受け入れ、再び歩める道を用意する必要がある。
償いは反省する心から生まれ、赦しはその心を認め、救済は被害者と加害者がそれぞれ先へ進めるように道を整える。その全体を支えるものが、愛や慈悲なのかもしれません。
ただし、愛や赦しという言葉も、反省や責任を免れるために使われれば、それ自体が虚飾になってしまいます。善を掲げる言葉ほど、その実態と使われ方を確かめる必要があるのでしょうね。
おっしゃる通り、善悪の概念も、その使い方次第で人を省みさせるものにも、他者を裁くための詭弁にもなり得るのだと思います。七つの大罪も、概念そのものより、それを誰が何のために用いるのかが重要なのでしょう。
原罪については、私自身は「人間の不完全さを理由に、ただ赦し合うための概念」というより、人から罪が生まれる構造そのものは完全にはなくならない、という認識に近いものだと考えています。
だからこそ、罪を防ぐ規範だけではなく、罪が起きた後に反省を受け入れ、再び歩める道を用意する必要がある。
償いは反省する心から生まれ、赦しはその心を認め、救済は被害者と加害者がそれぞれ先へ進めるように道を整える。その全体を支えるものが、愛や慈悲なのかもしれません。
ただし、愛や赦しという言葉も、反省や責任を免れるために使われれば、それ自体が虚飾になってしまいます。善を掲げる言葉ほど、その実態と使われ方を確かめる必要があるのでしょうね。
- 天秤座
- 2026年 07月27日 16時13分
七つの大罪と虚飾のメタ悪徳という考え方、とても興味深く読ませていただきました。
私自身、日常生活ではアリストテレスのいう「中庸」を信条にしています。過大でも過小でもなく、極端に偏らないことを心がけています。
ただ、その一方で、何かを創り出す原動力になるのは、ときに七つの大罪にも通じるような強い感情や欲求なのだとも感じています。
だからこそ、その感情に振り回されるのではなく、「これは今の自分の欲求だ」と自覚しながら向き合うことが大切なのかもしれません。
その意味でも、悪そのものより、それを善だと思い込ませ、自覚を奪ってしまう「虚飾」が最も厄介だという結論には、とても納得しました。
私自身、日常生活ではアリストテレスのいう「中庸」を信条にしています。過大でも過小でもなく、極端に偏らないことを心がけています。
ただ、その一方で、何かを創り出す原動力になるのは、ときに七つの大罪にも通じるような強い感情や欲求なのだとも感じています。
だからこそ、その感情に振り回されるのではなく、「これは今の自分の欲求だ」と自覚しながら向き合うことが大切なのかもしれません。
その意味でも、悪そのものより、それを善だと思い込ませ、自覚を奪ってしまう「虚飾」が最も厄介だという結論には、とても納得しました。
ご感想ありがとうございます。
私も、中庸を意識するという考えにはとても共感します。理由を簡潔に表すなら、「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉が近いでしょうか。
たとえば、欲望が弱すぎれば行動する意欲や創造の原動力を失いますが、強すぎれば際限なく利益や成果を求め、自分や周囲を傷つけかねません。自信が弱すぎれば萎縮して能力を発揮できず、強すぎれば傲慢になって自分の誤りを認められなくなる。怒りも、弱すぎれば理不尽や不正を黙認しやすくなりますが、強すぎれば正義を口実にした攻撃へ変わります。
つまり、足りなければ本来得られるはずの力や成果を失い、過剰なら別の損失や危険を招く。そのため私は、中庸を意識しながら感情や欲望を扱う能力を高めることで、リスクをできるだけ抑えつつ、自分に必要なだけのリターンを得ることが大切だと考えています。
もっとも、これは欲望を受け止められる器や、それを制御する能力によって適切な位置が変わるため、万人に同じ形で当てはまるとは思いません。あくまで私自身には、極端へ寄るよりも、中庸を基準として調整していく立場が合っているということです。
そして、その調整を妨げるのが虚飾なのだと思います。自分の欲望や感情が過剰になっているにもかかわらず、それを正義や信念だと思い込めば、適切な位置へ戻すことすらできなくなります。
私も、中庸を意識するという考えにはとても共感します。理由を簡潔に表すなら、「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉が近いでしょうか。
たとえば、欲望が弱すぎれば行動する意欲や創造の原動力を失いますが、強すぎれば際限なく利益や成果を求め、自分や周囲を傷つけかねません。自信が弱すぎれば萎縮して能力を発揮できず、強すぎれば傲慢になって自分の誤りを認められなくなる。怒りも、弱すぎれば理不尽や不正を黙認しやすくなりますが、強すぎれば正義を口実にした攻撃へ変わります。
つまり、足りなければ本来得られるはずの力や成果を失い、過剰なら別の損失や危険を招く。そのため私は、中庸を意識しながら感情や欲望を扱う能力を高めることで、リスクをできるだけ抑えつつ、自分に必要なだけのリターンを得ることが大切だと考えています。
もっとも、これは欲望を受け止められる器や、それを制御する能力によって適切な位置が変わるため、万人に同じ形で当てはまるとは思いません。あくまで私自身には、極端へ寄るよりも、中庸を基準として調整していく立場が合っているということです。
そして、その調整を妨げるのが虚飾なのだと思います。自分の欲望や感情が過剰になっているにもかかわらず、それを正義や信念だと思い込めば、適切な位置へ戻すことすらできなくなります。
- 天秤座
- 2026年 07月27日 13時00分
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